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弱くて厳しい人  作者: スタンドライト
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 水沼さんが入社してきたのは九月の始まりだった。年齢は三十歳で、二人の子供がいるお母さんと言う、そんな認識が僕を含め周囲には存在した。

仕事に入る時間も日勤帯のみと限られているし、なにより非常勤職員、パートタイマーだった。だから誰も彼女の存在に気を使う事はしなかった。入れ替わりの激しい業界だからこそ、新人の流入、退職者の続出は既に慣れっこになっていたのだ。だからこそなのか、こう言っては悪い言い方なのかもしれないけど、ノーマークだったんだと思う。日々の業務に忙殺されてただ終わらせる事だけに念頭を置いて介護をしていたからこそ、それは起きたんだと思う。

「私、それおかしいと思います」

昼の十ニ時。利用者全員に食事が配られている最中の出来事だった。

水沼さんは食事介助に入っている正社員のベテラン職員に対して突っかかっていた。

「おかしいって、何がですか?」

当然思わぬところから放たれた攻撃の矢にその職員は面を食らっていたが、それと同時に直後、押し寄せて来たのはプライドを守る為に存在する自己防衛本能と、曲がりなりにもこの施設で培ってきた経験からによる自分流の正解だった。

「まだ入って間もないばかりの水沼さんには分からないと思いますけど」

そこから始まったベテラン職員と水沼さんの舌戦は壮絶とまでは行かないまでも、ウチに隠した炎をチラチラと燃やすかのような、そんな戦いとなった。

僕自身は何が起きたのか、どうしてそんな事になってしまったのか、二人が一体何について言い争っているのか、そんな事を気にしている暇は無かった。何故なら二人が手と足を止め口ばかりを動かしている時でも時間は流れているのだ。

身体を動かす事を辞めてしまったら後のちの流れに支障を来たす。ただそれだけを考え、僕を含めた以下数名の職員達は言い争いをしている二人を尻目にせっせと働いた。

水沼さんが一体何に間違いを唱えたのかも知らないまま、その時間な流れ去り、一日の勤務が終了した。

利用者の訴えに追われるのではなく、ただ時間の流れに追われているかのような一日を終えて帰ろうとした時の事だった。久々に自分の仕事に手をつけず、疲れから来る投げやりな気持ちに身を任せ定時でそのまま自宅へと直行しようとしていた時の事だった。不意に、同じ日勤だった水沼さんが目を腫らしたままトイレから出て来るのを視界に止めた僕は何故かいたたまれない気持ちになっていた。

言い争いの後、水沼さんはひたすら黙って仕事をしていた。まるでその場にいる職員全てに対して疑問や怒り、不満を抱いているかのような鋭い視線をぶつけながら。それが僕の背中に痛いほど突き刺さっている事は分かっていたけど、それでも足を止める事が出来なかったのはそれが今の職場の現状だからとしか言いようが無いのだろう。

しかしそんな、水沼さんからしてみたら言い訳にしか聞こえないような考え方に意味なんかは無かったんだと思う。

「ちょっと、星野君」

水沼さんはまだ入社して一ヶ月くらいだ。いくら彼女の方が年上とは言え何のためらいもなく君付けされる辺りに僕自身のキャラクターが現れているのだろう。

「ちょっと今日、これから付き合ってくれない?」

いつのまにか敬語すら置き去りにしてしまった水沼さんは僕の事をロックオンするとこう言うのだった。

「相談したい事があるんだけど」

水沼さんの目には一体何が写っているんだろう?

僕はこの時素直にそう疑問に思いながら、久々の定時上がりだと言うのに直帰する事が出来ない事実にため息を突くのだった。



           ●

 「お子さん、大丈夫なんですか?」

開口一番嫌味を言ってやるつもりだった。何よりもまず時間と、自分が置かれている状況、勇み足で現れたその先にある現実を教えてやるつもりだった。それで少しでも帰宅が早くなるのなら御の字だと思った。

しかしそんな僕の思惑はどこ吹く風でしか無かった。

「大丈夫。旦那が見てるし」

正直、よくその瞬間自分があからさまに肩を落とさなかったと本気で感心した。それ位僕の気持ちはまっさかさまに下降していた。

「なに? もしかして何か予定あった?」

「特にそんなのは無いですけど……」

言葉を濁す事しか出来ない自分の気の弱さにイライラした。だからこんな所でうだっているのだと言う事は充分分かっていたけど、そうだったとしても簡単に割り切れる物じゃなかった。

「で、何なんですか? 相談って」

まだ最初の一杯のオーダーもしていないのに質問する事にした。矢継ぎ早に質問して、矢継ぎ早に答えてやろうと決めていたのだ。何となく相談内容は掴んでいるし、それなりに自分も答えを持ち合わせているつもりだった。僕自身、まだ入社して一ヶ月程度しか経っていないパートの新人なんかに論戦で負けるつもりなんかはサラサラ無かった。

だからこそ受けて立つ事が出来たのかもしれない。

「別に相談って程の物じゃないんだけど」

相談という言葉を使ったのはそっちじゃないか。

僕は思わず噴き出しそうになる言葉をその場で呑みこみ嚥下した。するとそこにあったのは思いの外強かった自分の我慢強さだった。

「まだまだ私みたいな新人が言える事じゃないのは分かってるんだけど……」

そう最初に、まるで布石を打つみたいに放ってきた言葉はどれもが新人離れした物だった。なによりもまず凄いのがそう言った事をそのまま口に出してしまう事だった。

この一ヶ月間、一体自分は何を見ていたのだろう?

日々の忙しさから水沼さんの事を一パート職員として、それ以上の存在だとは思っていなかった。だけどそれは今になって気付かされる。この一ヶ月間で培ってきた印象が全てがまやかしでしかなかった事に。

表向き水沼さんは常識人としての顔を持ち合わせている。人の意見を聴き、指導に従い、自分のミスは素直に受け入れ謝る。たったそれだけの事でしかないが、それらが全て滞りなく出来る人間がそれほど多くない事は僕自身、社会に出てから初めて知った。

それに彼女が属している家族と言う者にも普遍的な、常識的という言葉が張り付いていた。

旦那さんがいて、息子と娘がいる。ごく平凡な主婦で、金銭的な理由か自分の生きがいかは分からないが介護の仕事を始めた。

そんなありふれたヴィジョンが僕の中で生まれ形作っていたのだ。しかし実際は違った。

水沼さんは確かに常識は持ち合わせているかもしれない。しかしそれと同時に周囲に自分の言葉を発する事の出来る強さを持った人でもあった。

「まだ食べれるのになんで下げるの?」

今日の昼、水沼さんがベテラン職員に食ってかかった理由はそれだった。

「普通に考えて食事介助っていうのはごはんを美味しく食べさせてあげる事が目的なんじゃないの?」

水沼さん曰く、いや、自分達の施設では食事を介助しなければいけない人に対してその限度時間が決められているのだ。それは当利用者が食事に当たる上で嚥下状態や精神状態、疲労の様子などを加味して割り出される「安全に食事を摂取する事の出来る時間」なのだが、なにも水沼さんはその事に対して文句を言っている訳ではない。その先にある施設の現実に対して文句を言っているのだ。

「あの利用者さん、大橋さんの時間って、確か三十分だったよね?」

僕は頷いた。少し表情が気まずげになっている事は分かっていたけど、それはしょうがなかった。

「じゃあなんで十五分で下げちゃうわけ?」

言わばそれは理想でしかなかった。施設として一つ一つの介助に対して掲げている目標、マニュアルは確かにそれだった。しかしそれら全てのマニュアルが実施出来る訳ではない。現場には現場の、どうにもならない部分がたくさんあった。

「しょうがないんですよ」

僕にはただ反論をする事しか出来なかった。

「今現在現場のフロアを何人で回しているか分かりますか? そしてそれに対しての利用者の数も。そもそも一人に対してそれほど時間をかける事は出来ないんです。水沼さんにはまだ分からないと思いますけど一人の利用者に時間をかければかけた分だけその先にある他の利用者に対して、かける事の出来る時間が減ってしまうんです。確かに個々の利用者のニーズに合わせて手を多くかけなればいけない人はいます。でもだからといってそれが全てじゃあない。それらの行動がすべて正しくて必ずしも真っ当に貫き通さなくちゃいけない事じゃないんです。現場を回す為に一人の利用者に対してかける時間を減らすって言う事は職員本位に見えるかもしれないけど、でもその先にある全体の利用者を待たせないっていう事にもなるんです」

正論を重ね合わせる事はいくらだって出来た。今ある現実と状況を照らし合わせて何が全体にとって一番唯意義なのかを考える事は出来た。そしてそれを口に出す事だって出来た。

だけど言葉を重ねれば重ねるほど何故か僕の心は虚しくなっていった。

「なんか、それっておかしくない?」

水沼さんが言いたい事は最もだと思った。何故なら何よりもまず持っていなきゃいけない大切な根っこの部分を、僕は今否定したのだから。

「一人、個人を蔑ろにする介護士が全体をまとめて想うことなんてできる訳ないと思うんだけど」

全体の為に個人を殺す。昔そんな考え方が戦争を推し進め多くの人を殺しただなんてどこかで聞いた事があるけど、僕は今それを懸命に押し殺して投げ捨てた。

それはいわば僕の中にある仮初めの正論だった。

「っていうか想いってなんですか?」

後から出て来たのはただの反論でしか無かった。

「そもそも俺、介護士にそんな想いだなんてのはいらないと思います」

当然水沼さんはその言葉を聞き捨てならないと過敏な反応を見せる。だが僕は何も気にしなかった。いや、というより逆に意気込んで喋った。

「確かに介護って言うのは前提的にその人に対する何かしらの想いって言うのは必要ですよ? 何故ならそもそも介護は家族が家族を見る事から始まっている訳だから、そこに何かしらの感情が絡む事は不可欠なんです。でもそれはあくまで昔の話しで、介護士が介護士として確立する前の話しです。水沼さんだって知ってると思いますけど、今施設で暮らしている利用者には全てケアプランという物が建てられています。それに基ずいて利用者達の生活は送られてるんですよ。俺達現場の介護士はそれを援助の基盤としてサービスを展開するんです。そして日々の様子をまとめて記録する。何か問題点は無いか、現行のケアプランに基ずいて援助を実施し不適切な所は無いか。立てられたプランと実際の利用者を見ながら観察を行っていくんです。利用者が不自由なく暮らせるように、生活の手助けをしてあげるのが俺達の仕事です。そこに必要なのは想いなんかじゃない。冷静な観察力なんです。俺達は利用者の家族じゃないんです。あの人達を糧として給料を貰っているただの他人。サービス提供者なんです。それが想いだなんて言葉を口にしたら、それこそ利用者に対する想いあがりですよ。俺達は利用者を幸せにする為に存在してるんじゃない」

「そんな事は私だって分かってる」

水沼さんは僕の目を真っ直ぐ見据えながら、いつの間にか到着していたビールを片手に一杯啜った後言った。

「でもそれが介護士のジレンマなんじゃないの?」

更にもう一口、ビールを呷ってから言う。

「こんな私だって一年半、在宅でのホームヘルパー経験だってあるの。確かに施設での経験は一切無いけど、でも介護を職業にしてやる人には必ず何かあると思ってる。だからこそ数ある職業の中でそれを選んだんじゃないの? 家族にもなれない、友達になる事も出来ない。けどかといって他人を装う事だって出来ない。その人に対して純粋に何かをしてあげる事は出来ないだろうかっていう気持ちがあるからこそそれがエネルギーにかわるんじゃないの? だからこんな割に合わない仕事を辞めずに続けられているんじゃないの? 確かに冷静でいる為に感情を押し殺す必要は有るのかもしれないけど、でも利用者に対して行う様々な援助に関して、行動の原動力になるのは一つ一つの想いでしょ? それがなかったら介護なんてロボットにでも任せればいいんだから」

結局の所話しはずっと平行線だった。

いつの間にか運ばれてきたお酒とつまみを互いに口の中に放り込みながら喧々諤々の話しを何時間もした。途中介護の話しから互いの身の上話や世間話に何度もウロウロしながらも、それでも久々だった。

誰かとこんなに真剣に話しをしたのは、いつぶりだっただろう?

気が付けば時刻は夜の十一時を回り、水沼さんは顔を真っ赤にして完璧に酔いが回っている状態だった。

「帰りましょう」

素直に、率直に言葉が出て来た。

こんなに長居する予定だっただけじゃないだけに僕はその場ですぐに立ちあがっていた。しかし水沼さんの行動はトロかった。

「なあに、まだ相談は終わって無いんだけどお」

完璧に酔っ払いだった。最悪だ、と心の中で思いながらも僕は彼女の腕を引っ張り肩を貸した。千鳥足になった水沼さんが後ろにカゴのついたママチャリに乗れる訳もなく、仕方なく僕は自転車を店の前に置き去りにして彼女を送る事にした。

こんな所を旦那にでも見られでもしたら殺されるんじゃないかと気が気じゃなかったが、なんとなく、また相談があると称されて誘われたら、また付き合っても良いかな、なんて思っていた。


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