絵の題名に、彼女の名を付けた
俺は目に見えない世界を描きたかった。別に世間一般に認められたいわけではない。ただ、俺の絵でだれかの心に届けばそれで十分だった。むしろ、それが願いだった。
狭い部屋の片隅にある山積みのキャンパス。辺りには、乱雑に散乱する画材。小さな家にはそれしかなかった。だけど、俺にはそれだけでよかった。これだけあれば絵は描けた。
時を忘れ、夜通し没頭した。寝る間を惜しんで筆を進めている間は、胸の奥の冷めない夢を追えているような気分になれた。
「よし、これは傑作だ」
百年後には俺はこの世にいないだろう。だが、どの時代にも滅びない傑作を残し、その魂を託したい。
「……ふん、こんな絵は見たことない」
流行も風潮も気にせずに空想し、夢中で描き続けた俺の傑作は、そう鼻で笑われた。
俺は、絵描きとは別に仕事をしていた。俺の本職は絵描きではない。それでも、朝から晩まで働いても収入はささやかだ。
そんな俺の心と連動するように、空からポツリ、ポツリと雨が降り出した。不幸にも傘はなかった。
「すいません。雨が降ってきたもので」
花屋の店先で雨宿りをさせてもらった。お礼に花でも買おうと思ったが、あいにく俺には金がない。
俺はとても申し訳ない気持ちになった。善意で動こうとしてもそこにはいつも金が要る。
「降ってきましたね。これ、もしよろしければ使ってください」
何かの間違いだろうか。俺は、気高い百合のように雰囲気は優美で、なぜか懐かしいような甘い香りがした女性に傘をさし出された。
「あっ……すいません」
どうやら花屋の店員のようだ。よく花が似合う。こんな人が店にいたのか、知らなかったな。いや、知らない方がよかったのかもしれないな。一目惚れをしてしまった。
「これ、ありがとうございました」
翌日、仕事帰りに花屋に立ち寄った。よければと思い、傘のお礼に彼女をイメージして描いた花の絵を渡した。彼女は、俺の絵を無言で眺めながら「こんな絵は見たことない。きれいですね」と笑った。こんなところで俺の願いが叶うとは思わなかった。
俺たちは、手をつなぎ合い、ともに暮らし出した。狭い部屋の片隅にあったキャンパスはきれいに片付けられ、画材も堅苦しいくらいに整頓された。窓辺には日替わりで花が飾られた。ささやかだが鮮やかで、心が和らいだ。
だが、絵を描くことは止めなかった。部屋はきれいになっても、願いは叶っても、キャンパスは俺を呼んでいる気がしたから。彼女も、そんな俺の描く絵を眺めるのが好きなようだ。
「金さえあれば……」
互いが働いているといっても、貧しさは変わらない。その代わりに、金では買えない愛を育てた。だけど、どれだけ別の物に目を向けてみようとも……目の前には金が要る。
「どうしよう。これだけじゃ、何も買えない」
来年に控える彼女の誕生日。去年の誕生日は、彼女に何もしてやれなかった。今年こそはと、彼女を喜ばせる段取りを何通りも考えた。
だけど、金がないことで選択肢はグッと狭くなる。この時ばかりは青臭い世界から抜け出せない自分を恨んだ……
そうだ、絵だ。俺には絵がある。
俺は、流行りや風潮に合わせた絵を描いた。それを街に売りに行くと飛ぶように売れた。これまでの貧しさがうそのように評判となり称賛を浴びた。
「個展を開いてみないかね?」
俺が一生会えそうになかった偉い人から個展を開かないかという相談まであった。以前の俺なら開かなかっただろうが、金のために俺は受け入れた。
いや、本心を言うとうそになる。俺は浮かれていた。俺の絵は世間一般に認められた。その事実は、案外うれしいものだった。
「時間が足りない」
俺は、無遅刻無欠勤だった本職を辞めた。一心不乱に絵に打ち込んだ。世間一般に認められるための絵を、寝る間も惜しんで描き続けた。
「これ……本当にあなたの絵?」
「そう、世間に認められた立派な絵だ。俺の傑作たちだよ」
だが、意見の相違で俺と彼女に溝が生まれた。寂しさを胸に抱く彼女は声を殺し、むせび泣いた。
だけど、俺は絵を描くのを止めなかった。これは、彼女を楽にするためでもある。それで泣くのは彼女のわがままだ。
不運にも、彼女の誕生日と俺の個展が重なった。
「こんな絵は見たことないよ! すごい、傑作だ!!」
俺の個展を観に来る人たちは、「これから先も期待している」と俺をもてはやした。俺はそれにいい気になり、個展を優先した。当然、彼女のことをないがしろにするつもりはない。これでもプランは立てているんだ。
「まさか、これほど盛況するとはな。これできっと、彼女との溝も埋まるだろう」
個展の帰り道、俺は高価な宝石を買った。彼女は喜んで俺に抱きついてくれると思った。
だが、部屋のドアを開けると彼女はいなかった。彼女の代わりに、置き手紙が一枚置いてあった。
『こんな絵は見たくない』
現実は非情だった。彼女は……俺にどうしてほしかったのだろうか。
「ありがとうございました」
どれくらいの時間が経っただろう。この時間は、過ちに気付くのには十分な時間だった。
流行は去り風潮は変わり、「こんな絵には飽きた」と、称えていた人々も離れていき廃れた。散らかった部屋、閉めきった窓。彼女が窓辺に飾った鮮やかな花は、とっくの昔に枯れた。
無意味な月日を過ごした。今さら失意を覚えても遅い。何もかも失って、また振り出しだ。だが、振り出しに戻っても、筆とキャンパスと画材は、俺を迎えているようだった。
「傘を貸してくれた雨の日を覚えていますか? くだらない、ささいな溝を覚えていますか?」
孤独な筆を取り、彼女のことを思いながら夢中に描き続けた。そうだ。別に俺は、世間一般に認められたくて絵を描いていたんじゃなかったんだ。ただ、俺の絵がだれかの心に届けば、それで十分だったんだ。むしろ、それが願いだったんだ。
ほしいのは金じゃない。金になんてならなくていい。貧しくても楽しかった。彼女の笑顔だけで俺は生きていけるような気がした。だから届いて欲しい。もう一度、俺の目の前で笑って欲しい。
「……傑作だ。これだよな、あなたが眺めていたかった絵」
絵の題名に、彼女の名を付けた。
数年後、俺は小さな個展を開いた。今日もだれも来なかった。
裕福でも窮屈でもなかったが、こんな雨の日はいつも憂鬱だ。
「十分さ、これでいい」
自らに言い聞かし、片付けをしていると、急にドアが開いたような音がした。
「こんな絵は見たことない。とてもあなたらしい絵」
なぜか懐かしいような甘い香りがした。
流行り、売れた物が素晴らしいのか。それとも、本質的に面白い物が素晴らしいのか。結論を出すのは難しい。最後は、「俺はこれが好きだから素晴らしいのだよ」に収まる。俺は、それでいいのだと思う。