2、前変 『眼鏡の腹話術師』
真夏の最高気温が、ここ最近毎日のように記録更新している。そんな暑いニュースを差し置いて、日本列島を騒がせているとある事件が連日過熱報道され、世間を震撼させていた。
その事件が原因で発生した死者・行方不明者の数は確認できただけで三十四人。しかし恐らくそれ以上の被害者がいると思われる。そして、誰ともなしにその事件はある特徴からこう呼ばれるようになっていた。
『紫鳥事件』と。
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『ピピピピ、ピピピピ』
スマホから発せられる何の面白味もないシンプルな着信音が、六畳のワンルームの中に響く。しかし、誰かが電話に出る様子はない。何故ならこの部屋には誰もいない。いや、一人だけかつていた。
その人物はこのスマホの持ち主であり、この部屋の主でもある三十代の男である。
しかし、その男はすでにこの部屋の片隅で死んでいた。その死に顔は決して安らかとは言えない。見る者に恐怖を植え付けるほどの憤怒と苦悶の表情を浮かべていた。さらに特筆すべき事がある。
それは、右腕に付けた、薄汚れ、片目は取れ、羽毛は所々抜けて禿げた、紫色した鳥の腹話術人形のくちばしで自分の心臓を貫いていたのだ。
―――――――
キャパ五十席程度の小さな劇場にまばらな拍手が響く。
「ありがとうございました。」
その眼鏡をかけた腹話術師の男と右腕の紫色した鳥の腹話術人形は客席に向かい頭を下げる。そして、舞台下手(しもて、客席から見て左)の袖へとはける。
男は汗だくだった。舞台の上は季節関係なく常に暑い。照明が集中しているからだ。
その男は狭い楽屋内へと戻ると、まずは右腕から『ゲコ』と名付けた鳥の腹話術人形を外す。外した後の右腕には白い薄手の手袋がはめられているが、汗だくで腕が透けて見える。男は手袋を外し鞄からタオルを取り出し腕の汗を拭い、さらに眼鏡を外し、顔や首筋を拭う。そして、腹話術人形を布で包みキャリーケースに収める。するとその時、
『ガチャ』
ノック無しに突然楽屋のドアが開いた。
「お疲れさん。」
仕立ての良いスーツを着て、金色の重厚なネックレスを付けた背の低い四十代位の男が腹話術師に声を掛けた。
「お疲れ様です。」
腹話術師は突然の男の訪問にも動じず、何事も無かったかのように挨拶を返す。その男はこの劇場の元オーナーの息子で現在のオーナーだった。
「相変わらず、面白味がないな、お前は。」
「すみません。」
腹話術師は視線を薄汚れた床に向けて言った。そんな腹話術師を一瞥し、軽く鼻を鳴らした後、オーナーは近くにあったテーブルへと無造作に手にしていた茶封筒を放り投げた。
「ほらよ、今日の分だ。」
「ありがとうございます。」
腹話術師は頭を下げる。
「じゃあ、明日もよろしくな。」
そう言ってオーナーは、腹話術師に分からぬように、ニヤリと狂気じみた笑顔を浮かべると、楽屋から軽い足取りで立ち去っていった。一方、腹話術師は無言のまま、オーナーに向かい頭を下げる。しかし、その顔は苦虫を噛み潰したような何とも言えないような表情をしていた。
その時。
『ゴトリ』
楽屋の端に置いてある腹話術人形『ゲコ』が入っているキャリーバックから、何かが動くような音がした。
―――――――
「僕は地下カルト教団の仕業だと思うんですよね。」
煌々と照明が照らされたスタジオ内のテレビカメラの前で、アナウンサーやコメンテーター、知性派タレント達が意見を交わしている。
「何故ですか?」
「数年前にアメリカでカルト教団が終末論を信じて、全員が同じ場所で、一斉に鋭利に尖らせた十字架を使って、自分の胸を突き刺して集団自殺した事件があったじゃないですか。」
「ありましたね、確か三百人以上が死亡したという。」
「似ている気がしませんか。ただ今回のは場所がバラバラだし、一斉にっていう訳じゃないけれども。」
「私は違うと思いますね。」
「違うとは?」
「昨今のインターネット事情を鑑みて下さい。様々な問題が起こっても未解決だったり、お粗末だったり、後手後手の対策だったりしますよね。私は未だににまともな対策がなされていない自殺サイト関連の事件だと思うんですよ。ほら、自殺したい人が集って方法や場所、挙げ句の果てには一人だと思うところがあるから集団でとか、そういった書き込みがなされているっていう。紫色の鳥人形の意味は解りかねますし、死亡に至る原因となった凶器や遺体の状況など不明な点はかなりありますが、紫色の鳥人形にはそういった人達の何らかのメッセージが込められているのは間違いないと思います。」
「成る程」
―――――――
「何が成る程だ。」
時刻は二十二時二十分。勤務が終わり帰宅したばかりの一人寂しく暮らすマンションで、風呂も入らず食事もせず薄暗い部屋のソファーに座り、新たな情報を少しでも手に入れようと食い入るようにテレビを観ていた五十代半ばの刑事は、胡散臭いコメンテーターや知性派ぶったタレントが適当にそれらしいことを言っているのを観て呟いた。
彼はこの事件を担当する刑事の一人。勿論、何度もこの事件の現場に足を運び、そして目にしてきた。
この事件は彼らが言うような、カルトや闇サイトとは全く違う側面を持っている。それにもっと歪で歪んだ何がある。常識では考えられないような、計り知れない何かが。刑事は今まで捜査してきた結果、そう考えていた。
もちろん刑事の勘もあるが、この勘のおかげで様々な事件の解決が速まったり、糸口を掴めたりしてきたのだ。
しかし、まるで泥で埋まった深く狭い井戸の底にあるような事件であり、真相が見えない。
「まだまだ解らないことが多すぎる。」
刑事はそう呟き立ち上がると、夕飯の支度をするためにキッチンへ向かった。
翌日、この刑事は出勤しなかった。昼頃に心配した同僚が刑事の部屋を訪問すると、変わり果てた姿の刑事を発見する。
その顔は苦痛で歪み、右腕にはボロボロの紫色した鳥人形を付け、その鳥人形のくちばしが刑事の左胸を貫いていた。 この刑事は三十五番目の『紫鳥事件』被害者となった。
『イヒイひヒひひヒ!次ハハハダ誰れレレにしヨーかナぁぁ』
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時は遡り、刑事が三十五番目の『紫鳥事件』被害者になる四日前。刑事はある人物と会っていた。その人物とは『紫鳥事件』の一人目の被害者で商社勤めの二十代のサラリーマンだった中本進の高校からの友人。その彼が勤めている会社近くにある西新宿の喫茶店で、刑事は彼から話を聞いていた。
「いやぁ、良い奴だったんですけどねぇ。」
「心中、お察しします。」
「まぁ、でもスッキリしたって思ってる奴も居るんじゃないかな。」
「と、言いますと?」
「中本は誰彼構わず結構失礼な物言いをする事があったんですよね。根に持つ奴も多かれ少なかれ居たんじゃないかと思いますよ。何も考えていないって言うのもあったんでしょうけどねぇ。彼と長く付き合えばそういうのはちゃんとわかるはずなんですが、いかんせんやっぱり失礼な物言いが原因なのか友達になろうとか長く付き合おうとか思う奴はよっぽどの物好きとか変人だったんじゃないかな。僕みたいに。」
「いえいえ、そんな。ところで最後に彼と会ったのはいつ頃ですか?」
「えっと、確か中本が亡くなる一週間前位かな。」
「その時、何か変わった様子はありませんでしたか?」
「変わった様子ねぇ。あいつはさっき言ったように普段から変わってるからなぁ。」
「では、その普段とは違った様子はしてませんでしたか?」
「してなかったなぁ。いつものようにズバズバと好きな事を言いたい放題でしたよ。」
「人形の話とかはしてませんでしたか?」
「あぁ、例の『紫鳥事件』ね。う~ん、人形の話はしてなかったなぁ。あっ、『紫鳥事件』の人形って手を入れて動かすパペットじゃないですか。」
「そうですね。」
「そういえば、中本と話していた時に深喜町の劇場の話をしましてね。」
深喜町!もしかして…
「深喜町っていうとあの門前町で昔ながらの劇場や映画館が残ってるところですよね。」
「そうです。」
「もしかして、その劇場って『深喜小芸亭』っていう劇場じゃないですか?」
「そうです!よくご存じで。中本はそこで観た腹話術の話をしてましたよ。」
「腹話術、ですか。」
実は刑事は既に深喜町に行っていた。
事件現場に残されている腹話術人形は、海外のメーカーで造られているソフトタイプのパペットの腹話術人形。ちなみに、この事件の腹話術人形は、ソフトタイプだが、くちばしだけは木とプラスチックを使用した堅い素材で出来ている。
このメーカーの腹話術人形を使用している日本の腹話術師は多数いた。深喜町のいくつかの劇場でも、このメーカーの腹話術人形を使って芸をしている腹話術師が何人かいるのだ。しかし、同じメーカーの別の鳥人形を使っている腹話術師はいたが、今も昔も紫色の鳥人形を使っている腹話術師はいないとのことだった。さらに言えば、記録では紫色の鳥人形は日本へは正式に輸入されていない。このメーカーの他の人形のように個人輸入や旅行などの土産物の線は捨てきれないが、調べた限りでは今のところそれもない。そして、奇妙な事に事件現場の紫色の鳥人形はコピー商品や類似品などではなく、確かにこのメーカーのものなのに、製作された数よりも現存する数の方が多いのだ。ちなみに、このメーカーの腹話術人形はカタログを見たお客様から注文を受け取ってから造る、オーダーメイドメイド制を取っている。ゆえに単純に考えれば有り得ないことが起きているのだ。
「中本の奴、深喜町の飲兵衛横町で呑んでから観に行ったんで、よく覚えてなかったみたいなんですが、その腹話術師に対して物凄いヤジを飛ばしたみたいです。」
「ヤジ?」
「『下手くそ』とか、『引っ込め』とか、『つまらない』とか、他にも色々、挙げ句の果てには『バク転しろ』とか、意味分からないですよね。」
「確かに。ちなみにその時ヤジを飛ばされた腹話術師の様子は聞いてますか?」
「聞いてますよ。そういうヤジにも慣れていたみたいで上手く返してたみたいですよ。中本は酔ってて細かくは覚えてなかったけど、飛ばしたヤジに対しての返しが面白かったのは覚えてるって言ってましたから。」
「では、別に大きなトラブルになったという訳ではないんですね。」
「寧ろ、中本も腹話術師も他のお客さんも楽しんいでたみたいだと聞いてますよ。真偽の程はわかりませんが。」
「ちなみに、その腹話術師はどんな人形を使っていたか聞いていますか?」
「聞きましたよ。えっと…、うん、あれ?確かに聞いたはずだし、覚えてるはずなんだけどなぁ。えっと、ダメだ、思い出せないや。おかしいな、なんでだろ。」
やはり。なんとなく予感はしていたが覚えていないか。
「そうですか。すいません。お時間を取らせてしまって。もし思い出せたら、先程お渡しした名刺の携帯の方に連絡下さい。今日はありがとうございました。」
そう言うと刑事は席を立った。
実は今の彼に限らず、この事件に関する多分重要な要素を持つ出来事や人物、物品などの情報がなぜかごっそりと全ての記憶や記録から削り取られているようなのだ。
深喜町で訪ねた劇場の内の一つ『深喜小芸亭』のまだ若い劇場関係者から話を聞いていた時にも、以前何人かこの劇場に出演していた腹話術師がどんな人形を使っていたか訪ねたのだが、一人の腹話術師に関してだけ、どんな腹話術人形を使っていたかどうしても思い出せなかったのだ。その時、彼はこういった。
「ちゃんと覚えているんですよ。ど忘れでもないんです。ハッキリとわかっているはずなんです。でも、なぜか思い出せないんです。おかしいな。もう、ボケたかな。ハハハ。」
その後、その腹話術師が出演したと思われる、ある日のその劇場の過去の香盤表(出演者の名前や出演の順番が書いてある紙)を何枚も見せてもらったのだが、なぜか全て一カ所だけ不自然な空白になっている箇所があり、しかも不思議な事にその空白には消しゴムや修正液等で消された後も無いし、元々何も書いていなかったような状態だったのだ。多分、ここには腹話術師の名前が書いてあったのだろう。
一応この香盤表は何枚か劇場から借り受けて、個人的に親しい鑑識や科捜研の友人に渡して調べるようにお願いしてある。 ちなみに彼はこの腹話術師の名前も覚えていなかった。本名ではなく、芸名を使っていたということは覚えてはいたが、この名前を覚えていない件に関しても不思議がっていた。だが、すぐに彼は思い出す事となる。それは刑事が劇場内を何の気無しに見回していた時に気が付いた。
「そういえば、あれは何ですかね。」
「あぁ、あれは千社札ですね。この劇場に出演した芸人さんの名前を印刷して、芸人さん本人に劇場内の好きな場所に貼り付けてもらっているんですよ。深喜町の雰囲気を出すために。」
「もしかして、例の腹話術師の方も?」
「この劇場に出演した芸人さんには必ずどこかに貼ってもらっているから、多分、あるんじゃないかなぁ。」
「ちょっと、探してみても良いですか?」
「良いですよ。僕も気になりますし、一緒に探しますよ。」
彼からこの劇場に出演した全ての芸人の名前が書いてあるリストを借り受けて、名前の書いてある千社札と一つ一つ照合していく。そして、三十分が経とうとした時のことだった。
「あった!」
思わず、叫んでしまった。
「ありましたか!」
一応、彼に確認してみる。
「この名前はリストにも載っていないし、間違いないですよね?」
「はい!そうそう、この人ですよ。この名前だ。」
その縦十センチ程の千社札に印刷されていた名前は『ゲッシーク』
そして、そこには紫色のサインペンで小さな鳥のイラストが手書きされていた。
―――――――
例の腹話術師の芸名が『ゲッシーク』と分かった後は、とんとん拍子に話が進むかに見えた。
劇場関係者の彼が腹話術師の本名を思い出し、住所もある程度は掴めた。
腹話術師の本名は『藤谷影満』。住所は東京都西国等市の私鉄の駅「畑有駅」の近くだということだ。
記録が消えているせいで詳しくは分からないが、近隣で聞き込みをすれば判明するはずだ。 しかし、その考えは甘かった。
翌日、畑有駅周辺の不動産屋や地主に聞き込みをしたり、商店街や、芸人がよく練習に公園を使うと聞いて駅近くの公園周辺でも聞き込みをしたが、一切情報が出てこなかったのだ。
「駄目か。」
刑事が後日出直そうと思い、署に戻ろうとした時、
「鳥のお兄ちゃんを探してるの?」
一人の小学校低学年位の女の子が声を掛けてきた。