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宇喜高から自宅まで自転車で十分ほどの距離にあった。
あたしの自宅は、自慢になるかもしれないけれど倉先の高級住宅街にある。
大きな洋風の庭があって、プールもあって、さらにドデカい屋敷。あたしの部屋もかなり広い。
自慢じゃないけど、あたしの部屋一つで櫻子の家が丸々入るぐらいの広さがあった。
大きなテーブルに、ベッド、本棚も四つぐらいあって、大型スクリーン。
さらには冷蔵庫と水槽も置いてあったあたしの部屋。
おまけに部屋備え付けのトイレとシャワー室もついていて、そばにはカーテンで仕切られた衣装部屋もあった。
スーツ姿のあたしは、カーテンを隔てた衣装室にいた。隣にメイドのお供もいて。
「私もお選びしましょうか?」
「うん、大丈夫。あたしが決めたいの」
「かしこまりました」
衣裳部屋で、あたしは数十着の衣装を一つ一つチェックしていた。
分かりやすい白黒のメイド服を着ていたメイドは、しおらしい顔であたしのそばにいた。
久しぶりに父に会うことができる、変な格好はできない。
親しき仲にも礼儀ありというが、あたしは父とそもそも親しくはない。
ただ、数少ない出会いで父はあたしに教えてくれたことがあった。
それが今のあたしの礎になっていた。
十五分ほど悩んであたしはようやく着替えを選んだ。
選んだのが、白のブラウスと茶色のロングスカート。そのまま服を脱いで着替えを始めた。
「お嬢様、大丈夫でしょうか?」
「ええ、大丈夫。あたしが決めたいから」
メイドが言うと、かしこましたと衣装室をカーテンの外に出て行った。
今は普通の関係であるメイドや執事とあたしの関係。だけど昔はある問題を抱えていた。
これは、この屋敷で学んだ大事なお話。
――幼いころから、あたしの家は金持ちだった。
あたしの父は、学校の理事長であり一族皆経営者。なぜなら父も叔父も学校経営者で、母は元校長。
いわば『宇喜学園』グループ企業のファミリー運営で、祖父が事実上一番偉い。
学校法人の中でも祖父に逆らえる人はいない。
学校一家に生まれたあたしは、幼いころから好奇心旺盛な子だった。だけどそれが仇となった。
学校経営者の両親はいつも家にいない。
いつもあたし以外の家族が家にはいない、それがあたしの中にあった常識。
屋敷にいるのが住み込みのメイドと執事だけ。
小学二年生の小さなあたしは、この屋敷の主人の娘でありながら雑巾で床を拭いていた。
「なによ、ここビチョビチョでしょ。ヤル気あるの?」
あたしのそばに立つのが、メイド服を着た若い女。
短髪で若いメイドが、険しい顔であたしを怒鳴りつけた。
綺麗なドレスを着ていたあたしは、スカートを脱がされて、腕をまくって、汚れた床を拭いていた。
威圧感を放って攻撃的なメイドは、あたしの頭を踏みつけた。
「全く、何を考えているのかしら?あんたは?できの悪い子ね」
小さなあたしに向かってお盆で脅しをかける若いメイド。
怒った顔のメイドにあたしは怯えていた、震えていた。
そばには他のメイドが、箒を持ってあたしを見下ろしていた。
周りにいるほかのメイドがあたしに冷たい視線。あたしはいじめられていた。
「やめた方がいいですよ咲耶、さすがにご主人様に見つかったらまずいです」
「大丈夫よ。このクソガキ、あたしの言うことには絶対だから。そうでしょ?」
「はい」抑揚のない声であたしは返すしかない。
怖かったから、従わないとどうなるかわからないから怯えて従っていた。
「あんた、罰としてそこのテーブルクロスを洗濯しなさいよ。分かったわね」
お盆を持ったメイドが、そばにかかっていたテーブルクロスを指さした。
大きなテーブルに、白いテーブルクロスがかかっていた。
体が小さい小学生の女の子が両手を広げてやっと持てるかどうかの大きさ。
「えと……」
「いい、分かった?」
「はい」でも、否定は言えなかった。
お盆を持ったメイドが、あたしにお盆を振りかざして命令してきたから。
「よろしいわ、返事は?」
メイドが脅しでバーンとお盆を手でたたいて大きな音を出した。
大きな音に、怯えるしかないあたしは顔が青ざめていた。小さなあたしは、怖くて逆らえなかったから。
「はい」
「それでいいの。あたしはあんたのようなクソガキに仕えているわけじゃないんだから。
それが終わったら、庭の草むしりをさっさとしなさい。日が暮れないうちに」
「あの……」
「返事をしなさい!」
怒鳴りつけたメイドは次の瞬間、お盆であたしの頭をバシンとひっぱたいた。
ステンレス製のお盆で叩かれ、あたしは床に倒れた。頭を抑えたあたしは、怖くて逆らえなかった。
睨みつけるメイドの目が、とても険しい。
「はい」
「それでいいわ、あんたは『はい』以外この屋敷で言っちゃいけない、分かったわね。
当然、あなたはご主人様にもこのことを告げ口してはいけないから……いいわね。
そうよ、あなたは偽物のお嬢様。本物は違う、このあたしなの」
「はい」
「さっさとやる、日が暮れるわよ!咲耶様の言うことは絶対だから!」
お盆を振りかざすとあたしはすぐさま立ち上がって、大きなテーブルクロスを一生懸命広げていた。
「ねえ、いいの?お嬢様にやらせて」と別のメイド。
「いいのよ、いいの。あたしたちはゆっくりテレビでも見ましょ。ご主人様が戻ったら忙しくなるし」
テーブルクロスを引っ張って、小さな体で運ぶあたしを置いて娯楽室へと消えて行ったメイド。
メイドたちの楽しそうな談笑が遠ざかる中、あたしは黙々とテーブルクロスをたたんでいた。
だけど小さなあたしは上手くいくはずもない。
大きなテーブルクロスを運ぶのに、四苦八苦していた。
それでもメイドは手を貸してくれない。
すると、あたしのことを遠くで見ていた青い執事服の男が来ていた。
「おやまあ、お嬢様は相変わらずメイドの仕事の代わりですか」
それは今、屋敷に唯一いる男でもある執事の片桐だ。目が細く、猫のような、狐のような顔をした執事。
この屋敷では、メイド長がいない代わりにメイドを管轄する執事の役割。
あたしは相談しようとしたけれど、すぐにあのメイドの険しい顔が出てきた。
身震いしたあたしは恐怖に耐えながら、黙々とテーブルクロスを運んでいく。
「はい」
「そうですか、頑張ってください。ですが、メイドさんとあまり喧嘩はしないでください。
管理者である僕のクビが、飛んでしまいますから。僕にも家族があるんですから、そこのところお願いしますよ」
こうして片桐は、にこやかな顔であたしから離れていった。
それでも、あたしは一生懸命大きなテーブルクロスを洗濯かごに入れて大きな洗濯機の部屋に向かっていた
とても重く、とてもつらい家の中、それはあたしの受けていたいじめだった――
小学校入学したころから、屋敷でのいじめはエスカレート。
始めは使い走りや、メイドの仕事をやらされていたけど徐々に暴行もひどくなった。
いつも小さなけがだらけのあたしは、誰にも打ち明けられなかった。
けがさえもメイドから隠すように指示されていたから。
メイドからは父さんに言うことを禁止されていたし、メイドを管理する片桐もメイドの横暴に従っていた。
下着姿になったあたしの腕や足にはその時の傷が、うっすらと残っていた。
(あの時から、あたしは臆病だった……)
あたしは腕の跡を抑えて、辛そうな顔を見せていた。
あの時の想いでは、恐怖だけ。
衣装室の外で待っているメイドがいた。今のメイドはあたしをいじめたりしない。
屋敷内でのいじめは二年以上続いた、あの日までは。
――小学校四年の時、顔にあざができたあたしは小学校の体育館にいた。
あたしの一家、いや一族の教育方針であたしは宇喜学園付属に入学することができない。
だから、近所にある公立小学校に通っていた。
一学期の授業参観日、あたしはクラスの中で体育の授業を受けていた。
授業参観といってもあたしには関係ない。仕事が忙しい父が授業参観はおろか、学校行事に参加したことがない。
周りの子供たちは、緊張感でザワザワいつもと違う空気があった。それが羨ましかったりできた。
両親を期待せず、体操服のあたしは跳び箱と向き合っていた。
「次、宇喜永」ジャージ姿の先生が、笛を口にあたしに合図をした。
あたしは「はい」といつもの怯え口調で言い、六段に積まれた跳び箱を見ていた。
助走を取って、踏み切り板をきれいに両足で踏み込んだ。
そのまま両手を跳び箱の上にきれいについて体を上に運んだ。
あまり飛べなかった六段が、この時はなぜかきれいに飛べた。
「よし、よく飛べたな」
「ありがとうございま……」
先生の言葉の後、あたしに見ていた子供たちから拍手があった。
ちょっと照れてあたしは子供たちの方に歩み寄ると、そこにはスーツ姿の青年がいた。
髪を整えて、青いスーツにネクタイの父が拍手していた。それを見てあたしは驚いていた。
その日の放課後、父と一緒に帰ることになった。
授業を終えて、緑のワンピースに着替えたあたしは父と一緒に歩く夕暮れ。
普段は車で帰るこの道も、父と一緒に歩くと違った風景に見えた。
ランドセルを背負ったあたしは、久しぶりに会う父を前に恥ずかしかった。
「桃香、よくやったな」
「うん」あたしが父と一緒に帰ってとてもうれしかった。
そんな若い好青年の父は、あたしの頭を撫でてくれた。撫でられた手がとても温かい。
「褒めてくれるの?」
「そりゃあそうだよ、教育は怒る時は怒る、褒めるときは褒めるこれが大事なんだから」
「ありがと」あたしは褒められてすごくうれしかったのに、それを子供っぽく表現が上手くできなかった。
そんな父は、撫でた後に手を見て驚いた。
「あれ、これは……」
「どうしたの?」
「桃香、大丈夫か?」
心配そうな顔の父は、自分の手のひらを見て驚いた顔を見せた。
あたしもちょっとだけ見えた、手のひらには血がついていた。赤かったから間違いない。
「これは……ちょっと医者を呼ぼう。頭に大きなこぶもあるな」
「えっ、待って!」
あたしは、すぐに思い当った。いつもメイドはあたしのことを、お盆で叩いていた。
よく、頭をすって切れていることがあった。脳には異常がないが、頭のこぶは腫れ上がったりしていた。
おそらくいつもお盆で頭を叩かれて撫でられたから、切れたんだろう。
当然のことながら、父は持っていた携帯で『119』にかけていた。
それと同時に、あたしは体を震わせてあることを思い出していた。
「あなた、このことをご主人様に言ったらただじゃすまないわよ」
メイドの顔と、その言葉が思い出した。
「ダメ」と叫ぼうとしたけど、父は既に連絡を取って話が進んでいた。
電話を切った父は、小二より大きくなったあたしの体をおんぶした。
「すぐ病院に行こう、今日学校でけがをしたのか?いや、違うな」
「えっ、それは……」
あたしは、メイドのことを思いだして黙ってしまう。仕返しが怖かったから。
おんぶしながら、道路の大通りを目指して歩いていた。
「なんで何も言わないんだ、いくらなんでも怒るぞ!」
その時の父には、オーラがあった。
鋭い目は、力があった。
発する声には、迫力があった。
何より、父の背中が大きく見えた。
そして、あたしはそれを見て白状するしかなかった。
「も、桃香……」
「ごめんなさい、あたし……メイドに……いつもいじめ……」
泣きじゃくったあたしは、全てを話した。
父のスーツを濡らして、声と体を震わせて告白した。
正直怖かった、メイドの復讐よりも誰にも喋れなかったことが。
体を震わせて、弱い自分に対する涙の後には恐怖がやってきた。
「いじめ?」
「うん、メイドに……ヒック、いじめ……」
「そうか。偉いぞ、よくやった桃香」
その時の父は、あたしの頭を撫でてくれた。
それを見て、不思議とあたしの涙が収まっていった。心が安定して父の顔がはっきり見えた。
「あたしが……偉い?」
「そうだとも、いじめられたことを告白することはとても偉いんだ」
「でも……仕返し……」
「大丈夫、守ってあげるから。桃香の告白を無駄にしないから、絶対にね」
そして、父ははにかんでいた。その笑顔が眩しかったから――
戻って、広い部屋の一角にある衣装カーテンの中。
着替えが終わったあたしは、無言で待っていたメイドさんに笑顔を見せた。
あの時あたしをいじめたメイドさんも、メイドの管理者の執事の片桐もクビにしてくれた。
だから今、この屋敷にあたしをいじめるメイドはいない。
「終わったわ、ありがとう」
白いブラウスに、ロングスカートをはいたあたしはメイドに笑顔を見せた。
かしこまった顔でそのメイドは、規則正しくお辞儀をしていた。
「では、お嬢様行ってらっしゃいませ」
「行ってくるわね、留守を頼むわ」
そして、あたしは父の待つ病院へと向かうことにした。




