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その日、私は一人の男を呼んでいた。
私が運営する大きな学校の最上階にある理事長室。
理事長である私は、真ん中の椅子に座って彼を迎えた。
そんな私は、胸に大きな違和感があった。
前にある大きなドアが開いた。
中に入っていたのが、スーツを着た口髭の男。
「来たか。忙しい中、すまない」
茶色のスーツを着た私は、前にいる口髭の男と向き合った。
口髭の男は心配そうな顔で私を見ていた。
「どうしたのですか、理事長?急に私に……」
「これを渡そうと思って……な」
「なんですか?」
「非常マニュアルだ」
私が差し出したのが一枚の封筒。右手で差し出す薄茶の封筒は、心なしか手が震えていた。
「非常……マニュアル?」
「ああ、そうだ。私に何かあったら頼むぞ、彼女は力になってくれるはずだ」
「彼女?ウチの学校は?」
「大丈夫だ」
その時の私は努めて笑顔を見せた。
封筒を手にした口髭の男は、顔を凛とさせてその封筒を大事そうに懐にしまった。
私は分かっていた。
この体に間もなく異常が起きることを。
町は今日もにぎやかだ。
駅から続く大通りは、週末ということもあって人の流れが絶えない。
いつも通りの茶褐色のブレザーを着たあたしは、街中をぶらぶら歩いていた。
黒くて長い髪を、大きなリボンで縛ったあたしは通学かばんを持っていた。
背の低いあたしは、背の高い友人と一緒に歩いていた。
あたしの名は『宇喜永 桃香』。隣を歩く友人は『金久保 櫻子』。
二人とも同じ学校で、同じブレザーを着ていた。
あたしと櫻子とは中学からの知り合いね。
だけど櫻子の方が顔立ちも背もスタイルもいい。
すれ違う男性の視線は、自然と彼女に向いていた。
「桃香、むっとしているの?」
「櫻子は、相変わらずいいわね。スタイルいいし、顔も美人だし」
「そう、ありがと」
モデルらしくポーズをとってみた櫻子。
通学かばんを持っているけど、モデルっぽく見えなくもない。
そんな櫻子の背後には、クレープ屋の屋台があった。
「じゃあ、おごって」
「ええっ、櫻子はなんでいつもそうなるの?」
「いいじゃん、桃香はもう受験戦争を早々と戦線離脱したんでしょ」
「それだったら、普通に櫻子がおごるんでしょ。あたしは、合格したんだから」
「バナナクリーム一つ、桃香は?」
関係ないところで注文する櫻子に、あたしはあきれ顔で財布を広げた。
あたしも櫻子も現在、女子高の三年生。
同じ部活のよしみで、一緒によく遊ぶ中。
結局あたしがおごって、あたしたちの手にはまもなくしてクレープが握られた。
「もう、これで最後だからね」
「分かっているって、出世払いだから」
「ちゃっかりしているんだから」
「お嬢様がそんなこと言わないの。下々の心をつかむには、まずは賄賂からっていうでしょ」
悪戯っぽく笑う櫻子。あたしは呆れてキャラメルバナナのクレープを口に運んだ。
「ゴチになります、部長」直立不動であいさつする櫻子。
「もう部長じゃないわ、部活は九月の文化祭で引退したでしょ。
それから、櫻子。今日はなんで呼び出したの?」
「それは、もちろん桃香の合格祝い」
クレープを持っている手をビシッと前に突き出だしてあたしに言ってきた。
それ、あたしがおごったんだけどな。つっこむのは……やめよう。
高三のあたしは、先日大阪の私立大学を受けた。
推薦入試で大学に合格。十一月半ばにして、すでに受験生という受験戦争をクリアしていた。
内申点も悪くなかったし、映画部の部長もやっていたから。
「で、桃香はこれからどうするの?暇でしょ。学校も、ほとんど受験対策で授業もないし」
「そうねぇ、何も考えていないわ」
「バイトとかは?ないか、お嬢様だし」
「バイトでも……いいかなって思うけどね。まあ暇だし」
あたしの家はお金持ちだ。そんな街の中で、ふと見えたのがスポーツ用品店のウィンドウ。
そこにはスパイクやら、サッカーボールやらが立ち並ぶ。
ウィンドウの奥には、『祝、宇喜高野球部中国地方選手権優勝』と書かれていた。
「宇喜高優勝だって、すごいじゃない!」
「あたし……関係ないから」
「またまた、理事長でしょ。桃香のお父さん」
そう、あたしがお嬢様と言われる理由は、『宇喜高』という私立高校を運営している父がいた。
だけど、あたしはその呼ばれ方が好きじゃない。むしろその運命を昔は嫌っていたほどだ。
「それより、櫻子は受験どうなの?」
「う~ん、まだやりたいことも決まっていないし、とりあえずセンター試験は受けるけど、志望もあいまいよね」
「桃香、あんたならできるわ。いろいろとたくましそうだし」
あたしの言葉に満面の笑みの櫻子がいた。そしてクレープをおいしそうに一口。
「だけどあたしたちに比べて、スポーツで一芸持っている人は違うわね。
やりたいことが決まっていて、なんかかっこいいじゃん。お金もありそうだし」
「そうね、やりたいこと……大学行った後、あたしはどうしたいんだろう?」
あたしは、大学に受かってから迷っていた。それは単純にやりたいことがなかったから。
ただ家から通うのが嫌で、岡山から離れて一人暮らしがしたかっただけ。
そんな不純な理由で受けた大阪の大学。
「なに、気落ちしているのよ。私なんかまだ合格すらしていないんだから。
少しぐらい大学に受かって嬉しいとか言ってくれないと、モチベーション上がんないわよ」
「ご、ごめん……」
「まあ、いろいろ慎重に考えるのが桃香らしいわね。それより、カラオケ行かない?打ち上げよ」
櫻子の誘いと同時に、あたしの携帯が鳴った。
「あれ、携帯?」
いつもセーラー服の胸ポケットに入れていた、赤いデコレーションした携帯を取り出した。
あたしは、携帯を耳に当てたときに衝撃が走った。
「もしもし、宇喜永さん?大変です、あなたの父が……倒れた。病院に来てほしいんです!」
それは、あたしが知らない男の声だった。




