紅帝
「ねえ、レドリック。聞いてる?」
エイラの声に、考え事をしていた陸玖は我に返った。
「ああ。ごめん、ごめん。ちょっと考え事をしてた」
そこは自由都市バーナバムにある冒険者の酒場だ。
酒場の主人からは、都市にある騎士団や商人組合などの各団体の友好度を上げるクエストがもらえたり、酒場の掲示板がプレイヤー同士の取引や情報交換に使われていたりするため、ゲームの中ではおなじみの場所である。
その酒場の一角に置かれたテーブルのひとつに、ふたりは顔を突き合わせていた。
「で、何の話だっけ?」
陸玖が尋ねると、エイラは顔を思いっきりしかめると、
「馬小屋! 馬小屋の話よ!」
『ミュステーリオン・オンライン』には、『ストレス』というシステムがある。『ストレス』は、ゲームにログインしているだけで何もしなくても少しずつはたまっていくが、モンスターと戦ったり、プレイヤー同士で殺し合いをしたりすると、より多くの『ストレス』がたまり、これが一定の数値を超えるとキャラクターの能力が低下するというシステムだ。
ようは不正なプログラムによって自動でモンスターを長時間にわたって狩り続けるBOT行為を制限するためのものである。
この『ストレス』を解消させるのに一番効果が大きい手段は、街にある遊興施設で大金を払って『ストレス』を発散する方法だ。しかし、よほど長時間狩り続ける廃人プレイヤーでもなければ、キャラクターを宿泊施設に移動させてログオフさせれば自然と『ストレス』が低下するので、それで事足りる。
エイラが言っている馬小屋とは、そうした宿泊施設のひとつで、ログオフしている時間に対して解消される『ストレス』の数値は低いが、無料で利用できる施設だ。
「まったく、信じられない! 馬小屋が動物臭いのも、藁がチクチクするのも、仕方ないと思うよ。だ、け、どっ!」
その時のことを思い出したのか、エイラは自分の身体を抱いて、ぶるっと震えた。
「朝起きたら、隣に脂ぎったオヤジが寝てたのには我慢できないっ! 思わず、大口開けて寝ている顔にパンチを食らわせそうになったんだからっ!!」
悪いと思ったが、その時の光景を想像して陸玖は笑ってしまった。
「そんなこと言うなら、宿屋に泊るか、自分で家を買ったら、どう?」
宿屋は利用するにはお金がかかるが、馬小屋より『ストレス』の解消が大きいことが利点だ。
また、『ミュステーリオン・オンライン』ではキャラクターがゲーム内で家を購入することもできる。家は単に宿泊施設としての機能だけではなく、様々な『家具』という形のアイテムを設置することで、『ストレス』がためるのを抑制したり、『ストレス』の上限を増やしたりすることができるのだ。
「宿屋と言っても、そこそこ払わないと衝立で仕切った程度の大部屋で雑魚寝でしょ? 家はアホみたいに高すぎて買う気にすらならない。こんなことなら、ギルドハウスを強化して宿泊施設でも作っておけばよかった」
いかにもエイラらしい台詞に、陸玖は苦笑した。そして、顎に手を当てて少し考えると、
「じゃあ、俺の家で寝る?」
陸玖は一軒家を購入していた。フレンドに登録しているキャラクターに限ってだが、家に置かれているベッドを利用して、『ストレス』解消効果を得られるようになっている。
エイラは驚いたように目を見開くが、すぐに半目になって陸玖を見つめた。
「……変なことをする気じゃないでしょうね?」
陸玖はとんでもないという風に苦笑しながら胸の前で手を振った。
しばらく陸玖を睨みつけていたエイラだったが、ふっと肩の力を抜く。
「まあ、いいけど。もし変なことをしたら、『決闘』じゃなくてPK(Player Kill)で叩き斬るからね」
「残念だけど、叩き斬られたくないのでやめておくよ」
そう冗談で返すと、陸玖は自分の所持品の中から鍵の形をしたアイテムを取り出す。
「ホーム・ゲート、オープン!」
そう叫ぶと、陸玖が手にした鍵を中心にして空間が渦を巻くようにゆがんだ。しばらくして渦が安定すると、その向こうには小さな一軒家が蜃気楼に映し出された光景のように揺らめいて見えた。
この鍵は家の所有者が持つ、自宅に帰還するワープホールを形成するアイテムだ。
「それじゃあ、悪いけど、ちょっとだけベッドを借りるね」
エイラは渦の中に腕を差し入れると、その姿は空気に溶けるように転移して行った。残されたワープホールもしばらくすると、形を失って消え去った。
一人残された陸玖は、酒場から出ると目的もないまま街の中を散策することにした。
彼の心には、あるひとつの疑念が渦巻いていた。
――本当に、これは夢なのか?
すでにこの夢を見始めるようになってから5日が経つ。あれから毎晩、寝るたびにゲームに酷似したこの夢の世界にくるようになってしまっていた。
インターネットで調べたら、夢とは睡眠中に脳から浮かび上がった記憶映像にストーリーを後付してつくられるものらしい。
確かに、よく見る夢は自宅や学校や近くの公園など日常の光景を舞台にし、後付けであるため支離滅裂なストーリーが展開されるものが多い。
ところが、この夢は不思議なほど話に筋が通っている。昨夜の夢の中での話題が、そのまま今日の夢の中でも通じるのだ。
そればかりではない。最初はいかにもゲームを夢見ている感じだった世界が、次第に現実的になっているのだ。
初めて見たときは、どこか無機質な感じがしたNPCたちも、今では本物の人間のような反応を示す。こちらが冗談を言えば笑い、逆に向うから冗談を言ってくることすらある。
また、夢の世界だというのに、まるで現実のように時間が経過し、空腹や渇きを感じるばかりか、夜になれば睡魔が訪れるのだ。最近では、ベッドの中で目を覚ましたときに自分が夢の世界で目を覚ましたのか、現実の世界で目を覚ましたのか、混乱することさえある。
学校の授業で、胡蝶の夢というのを習った。
古代中国の偉い人が、蝶となって舞い飛ぶ夢を見ていたところで目が覚め、自分は蝶になった夢を見ていたのか、それとも今の自分が蝶の見ている夢なのかわからなくなってしまったという故事だ。
まさにこれでは胡蝶の夢ではなくゲームキャラクターの夢である。
また、こうして街を歩くと、プレイヤーと思う人間の姿が増えてきているようだ。実際に、日を重ねるごとに、夢に出てくるギルドのメンバーが増えてきている。これは何かの関連があるのだろうか?
そんなことを漠然と考えながら道を歩いていた陸玖の目の前に、いきなり赤い文字が飛び出すとともに、脳裏に声が響く。
『みんな聞いてくれ! 重大な発表がある。広場に集まってくれ!』
それはチャットのひとつで『シャウト』と呼ばれるものだ。
ゲームでは、激しい戦闘中のように、他のことに意識を集中していてなかなかチャットに気づきいてもらえないような状況でも確実に指示を伝えたい時などに使うのが、この『シャウト』だ。届く範囲は狭いながら、キャラクターの視界に『シャウト』したものと同じ内容の言葉が文字となって出るようになっている。
突然の『シャウト』に驚いた陸玖が周囲を見回すと、叫んでいたのは町中を騎乗用ドラゴンで駆るファイター系の人間だった。マントの背には特撮ヒーローの赤いフルフェイスのヘルメットの横顔と銀河を意匠化したエンブレムが入っていた。
「あれは、〈銀河戦隊〉の人か?」
〈銀河戦隊〉はゲーム中では有名なギルドだ。重度のMMOプレイヤー――いわゆる廃人と呼ばれる人たちが多く所属し、そのレベルと装備では他のギルドを圧倒する、最強と呼ばれるギルドのひとつである。
『エイラからのささやき:レドリック、聞いてる?』
不意に、陸玖の脳裏にエイラの声が響いた。特定の個人に対してのみチャットする「ささやき」だ。
「聞いているよ。どうしたの? 寝てたんじゃなかった?」
『エイラからのささやき:寝てたんだけどね。今、〈銀河戦隊〉の連中がうるさく叫んでいて起こされた』
エイラの声は寝起きなのか、やや呂律な回らない感じで、不機嫌さを隠す気もない口調だった。
「そっちでも〈銀河戦隊〉が騒いでいるの? 俺は今、自由都市にいるんだけど、こっちでも重大な発表があるって叫んでいるよ」
『エイラからのささやき:全体チャットでも、すごいことになってるよ』
全体チャットは、キャラクターがいる地域を問わず、ログインしているすべてのプレイヤーに対して同時に発言できるチャットだ。ゲームでは不特定多数の人に対してパーティー募集やアイテム取引やフレンド募集するなど幅広く使われるが、チャットを開くと声となって聞こえる夢の中では、四六時中人の叫びを聞かされるためあまり使っていない。
久しぶりに開いてみると、確かに〈銀河戦隊〉の人が繰り返し、自由都市広場に集まるように叫んでいた。
『エイラからのささやき:気になるね。あたしもそっちに行くので合流しよ。もし、これでくだらないことだったら、ボコボコに叩いてやるから』
自由都市に転移してきたエイラと合流して、ふたりで広場へと向かった。
すでに広場には多種多様な装備をつけたプレイヤーたちが数え切れないほど集まっていた。彼らが遠巻きにしているのは、広場の中央にいるキャラクター名の下に〈銀河戦隊〉というギルド名をつけた一団だ。
〈銀河戦隊〉は集まってきたプレイヤーたちに向かって「落ち着いてくれ」「もうちょっと待ってくれ」と声をはりあげている。
それからしばらくの間、次々とプレイヤーたちが広場に姿を現した。新たにやってくるプレイヤーの姿がおさまったのを見計らうと、〈銀河戦隊〉の集団の中から全身を赤い鎧で固めた騎士風のプレイヤーが前に出てきた。
「あの人が、閣下みたいよ」
エイラの言葉に、陸玖はうなずいて見せた。
閣下とは、〈銀河戦隊〉のギルドマスターである紅帝のことである。
廃人と呼ばれるほどのMMOプレイヤーで、磨きぬいたプレイヤースキルと装備のすごさに支えられた強さのみならず、これまで多くのユーザーイベントを企画実行していることから多くのプレイヤーからも慕われ、『閣下』の愛称で呼ばれる『ミュステーリオン・オンライン』でもっとも有名な人だ。
「みんな、良く集まってくれた!」
そう声を張り上げる紅帝は、外見は20代前半ぐらいの青年だ。意志が強そうな目に、鼻筋の通った面立ちのなかなかの美男子である。
「閣下、かっこいいー!」
「マジでニート大学生だったんだな、閣下!」
「閣下、意外とかっこいいぞ!」
声援とも野次ともつかない声が周囲からあがる。
それに紅帝は、にこりともせず、逆に険しい顔で言った。
「いいか! これから俺が言うことは、とても信じられないことだ。だが、これは決して嘘じゃない」
いつもはチャットで調子よく受け答えする紅帝らしからぬ態度に、周囲のプレイヤーたちはざわめいた。
そのざわめきが収まるのを待ってから紅帝の口から衝撃的な言葉が飛び出した。