~哀悼と過去と~ phase12
ビルとビルの狭い空から、月が耀いていた。満月より少しだけ欠けた、紅く耀く紅月。
「綺麗だな…」
まだこんなことを思う余裕があったのかと少し驚く。痛みはもう感じなくなっていて、寒気が強くなっていた。
両足は明後日の方向を向いていて、左腕は千切れかかって、右腕は折れて骨が飛び出していた。左目も見えず、出血もかなり多い。内臓もかなり破裂しているはずだ。そんな意識も途切れかかった状態で降り積もった雪に埋もれていた。
余命1年。医者からはそう言われた。胚細胞腫という癌の一種で、延命しても助かる見込みはないと。それでも抗癌剤を3種類、何クールかやって、癒着の酷い左肺上葉とそれと同じくらいの大きさに育った腫瘍を摘出した。
思ったほどの副作用は無かった。ただ髪が抜け落ちて、ひたすら気持ち悪く、強い匂いで吐きに行くくらい。食事はもちろん出来ない。眠れば次は目を覚まさないかもしれない。それが毎日毎晩。両親からは見限られてここ何ヵ月かは見舞いにも来ていない。
どうせ死ぬならとっとと死のうと思った。生きていても惨めなだけ。
国立の癌専門の病院に入院してからは外ばかり眺めていた。病室は14階。階段に設けられた窓はもちろんはめ殺しで風を感じることもできなかったけど、ここからの景色は好きだった。
目の前に広がるのは世界最大の市場で、22時前後からは大型トラックが増え始める。築地と言えば世界で通じるくらいだ。海側へ視線を移せばライトアップされた大きな橋とテレビ局、観覧車、有名な展示場。
自分がとても小さくて、そしてこの景色が好きだった。
その日は朝から雪が降っていて、都内は混乱していた。積雪10センチで電車は止まり、高速道路は通行止め。夕方には止んだけれど、明日も大変だろう。都内では雪が積もることは1年に1回あるかないか。そんなことに金を掛けられない。
もっとも、自分にはもう関係ないのだけれど。
屋上の扉はもちろん鍵が掛かっていた。シリンダーのカバーを外して、ベッドを壊して取ってきた鉄の棒を隙間へ差し込む。力任せにガチャガチャと動かしていると折れてしまった。もう一回。
しばらくやっているとメキッという音がした。テコの原理を利用してシリンダーを抉り出すようにする。バキンッ、と音がしてシリンダーが落ちた。
扉を押してみる。音もなく開いて、冷たい風が流れてきた。
屋上は一面の銀世界で、当たり前だけれど、足跡などなく綺麗なままだった。誰もいない世界、のはずだった。
視界の隅に何かがあった。真っ黒な何か。
人、だった。奇妙な軍服のような服を着ていて、黒というより闇色と表現した方がしっくりくる。そんな色の服を着ていた。
その人は足を組んで屋上の縁に座って煙草を吸っていた。手には煙草の箱。見たことのない、青い箱だ。
と、はたと気付く。その人の周りに乱れはなかった。雪面が綺麗なままなのだ。あり得ない。今はもう22時近い。夕方に雪は止んでいたのだから足跡がなければおかしい。雪が降っている時からここにいるか、空を飛んで降り立ちでもしない限り足跡は絶対に残る。
「いい観察力をお持ちのようですね」
男の人が言った。考えていたことが見抜かれていたようだ。
「天使には見えないですよね。軍服を着た悪魔ってのも聞いたことがないけど」
今度はクスッと笑う。
「いや、失礼しました。本当に良い観察力をお持ちです。そして度胸も良いですね。ここで命を絶つのが惜しいくらいに」
驚きはしなかった。こんな時間に扉の鍵を壊してまで屋上に来るのは自殺志願者くらいだ。
「なら止める?放っておいてもどうせ死ぬけど」
聞いてみる。嫌味ではなく、純粋になんて答えるか聞いてみたかったのだ。死ぬ前の最期にする会話なのだから。
「ご心配要りませんよ。そんな無粋な真似はしません。それとも貴女は、他人に言われて止めるくらいの覚悟でここへ来たのですか?」
もっともだ。それにしても不思議な人だと思う。普通は飛び降り自殺をしようとする人が目の前にいれば止めようとする。
この人に少し興味が湧いた。消えるまでの時間が、ほんのちょっと延びるだけだ。最期の会話くらいは楽しもう。
「それ、煙草?見たことないけど」
「フランスの煙草です。ジタンという銘柄なのですが、なかなか扱っていませんので苦労していますよ。人気もありませんし」
ちょうど吸い終えて、もう1本取り出して火を着けようとする。
「1本くれない?」
彼は驚くこともなく、どう見たって未成年の私に1本差し出してくれた。
「立ったままではなんですから、座ってはいかがですか?」
そう言って彼は隣の雪を払って、ハンカチまで敷いてくれた。なんだか悪い気もするけど、せっかくだから座る。
「本当に美味しくないですからね?」
「なら何で吸ってるの?」
彼は少し困ったような顔をする。
「そう言われると美味しいからとしか答えられませんね」
それはそうだろう。不味いのにわざわざお金を払うなんて馬鹿げてる。
「何を好むかは人それぞれだしね。体験してから選り好みすればいいでしょ」
もっとも煙草すら初めて吸うんだけどね。
彼がZIPPOに火を着けて差し出してくれた。貰った煙草をくわえて火を着ける。
…なにこれ。煙草ってこんなもんなの?格好付けるために吸ってる餓鬼どもの気が知れない。明らかに体に悪い。
「美味しいけど、確実に体に悪いよね。餓鬼どもの気が知れないわ」
続けて吸う。
「これを美味しいと言いますか。変わっていますよ」
人のことは言えませんけどね。そう言って苦笑いする。
「噂でね、東京都知事直属の特殊部隊があるんだってさ。完全な攻性組織で、自衛隊並の兵器と規模なんだって。まあどこまで真実があるかわからないけど」
彼は表情ひとつ変えずに聞いている。
「あなた、そこの人だよね。見たとこかなり偉いんじゃない?」
「…貴女はかなり聡明なようですね。それなのに噂を鵜呑みになさるのですか?」
質問で返されたか。まあ素直に教えてくれるわけないよね。
「鵜呑みにはしてないよ。ただ、火のないところに煙は立たない。服の下に何か持っているみたいだし、それに」
「そんなに血の匂いをさせてたら、いくらなんでも煙草の匂いじゃ誤魔化せないよ」
さて、どういう反応をするかな?
彼は…微笑んだ。殺されることも含めた複数の予想の中にはない反応だ。
「誤魔化している訳ではないのですけどね。さすがに聡明な方です」
ピピッと音がした。彼が端末を操作する。
「すいません、仕事の時間のようです。もう少しゆっくり話していたかったのですが」
大型のヘリが遠くに見えた。武装していて、どうやら味方というわけではないらしい。少し寂しいけど仕方ない。
「ねえ?」
私は屋上の縁に立つ。彼はしっかりと私を見ていた。
「一目惚れって本当にあるんだね」
彼は何も言わず、少し寂しそうな、悲しそうな、そんなふうに微笑んだように見えた。
私は、空中へと身を投げ出した




