第22章:エロティシズム
宮下先生と秘密の恋愛を楽しむ主人公が、車で夜の工業地帯の海へドライブデートに出かけた一幕です。特別な場所でタバコをくゆらせ、親密な時間を過ごしながら音楽の予定について話しています。
私の指示に従い、宮下先生は静まり返った夜道を車で走らせた。車内を包むのは、カーステレオから流れる音の低いジャズと、二人だけの狭い空間が作り出す濃密な気配。私はその密室のなかに満ちる幸福感にめまいを覚えながら、シフトノブに置かれたままの先生の左手に、そっと自分の右手を重ねるように添えた。
今日のバイトで起きたこと、学校でどうでもいい友達と交わした会話、今季の新作の服のこと、これから二人で行きたい遠くの街、そして、先生と一緒にやりたい無数のこと。私の口からは言葉が途切れることなく溢れ出し、助手席の特等席で私はただ、自分が世界で一番愛されているという確信に酔いしれていた。
三十分ほど走り、車は目的地でふと停止した。
「せんせ、着いたよ! ここ!」
窓の外に広がるのは、ひっそりとした工業団地の向こうに横たわる海だった。夜の闇を吸い込んだ水面はどす黒く沈んでいるけれど、その対岸で脈打つ工場の鉄骨や、遠くで妖しく光るテーマパークのネオンサインを鏡のように映し出し、まるで黒いベルベットの上に安っぽい宝石を無造作に散りばめたような、どこか退廃的で妖艶な美しさを纏っている。
「へえ……こんなところがあるのか。すげえな、いいところだね」
「でしょー? 私の、特別な場所。私さ、何か嫌なことがあったり、逆にすごく機嫌がいい日だったりすると、無性にこの海が見たくなるんだよね。せんせーは?」
「俺は、あんまり海って来ないかな。小さい頃から家族旅行っていったらキャンプばっかりでさ、海よりも山とか川に行くことのほうが圧倒的に多かったんだ。だから、こうして夜の海に来るの、すごく新鮮で面白いよ」
先生は心底楽しそうに目を細め、その場所を気に入ってくれた。子供みたいに無邪気にきらめくその表情を見ているだけで、私の胸のなかは甘い炭酸水が弾けるように満たされていった。
すると先生は、ポケットから例のパインウッドの箱から取り出したばかりの、あの銀色のオイルライターを取り出し、慣れた手つきでタバコに火をつけた。
「私も吸う! ねえ、そのライター貸して?」
昨日の今日でもう自分のもののように使いこなしているその姿が、愛おしくてたまらない。私がプレゼントしたばかりの金属の塊を、あの人がこんなふうに自分の日常に馴染ませている。その事実だけで、胸の奥がキュンと激しく締め付けられ、私は喉のあたりが熱くなるのを必死で隠した。
私たちは言葉を忘れ、それぞれが細いタバコに火を灯した。オレンジ色の小さな先端が暗闇の中で赤く瞬き、吐き出された煙が夜の海風に溶けていく。無言のまま流れるその空間の濃さに、私たちはすっかり酔いしれていた。
「ねえねえ、せんせ。その呼び方って、なんか良くない?」
「ん? せんせ? どうなんだろな、それ。俺、普段からあちこちで『先生』って呼ばれすぎてるからさ、今さら特別な感じもしないけどな」
「そこが違うの! 普通の『先生』じゃなくて、ひらがなの『せんせ』! ねえ、自分の彼女から『せんせ』って呼ばれるって、めちゃくちゃエロくない?」
「……どこにそんなエロさがあるんだよ」
「あるよ! だいたい、世間一般のカップルで、男のほうを『せんせ』って呼ぶ女なんてそうそういないでしょ。しかもそれが、ただの生徒じゃなくて、こうして夜の海でキスした関係の彼女なんだよ? 絶対エロいっしょ!」
「……まあ、確かに、あんまりないシチュエーションではあるか」
やれやれ、と呆れたように笑いながらも、先生の耳たぶがわずかに赤らんでいるのを、私は暗がりの中で見逃さなかった。
こんな他愛もない、中身のない言葉のキャッチボールを重ねるたび、時計の針の音すらどこかへ消えていく。
夜の暗闇に時間がゆっくりと溶けていくその感覚を、私たちはまるで上質なワインでも味わうみたいに、贅沢に、すこし気怠く楽しんでいた。
「ねえ、せんせ? 近いうちに、ライブとか演奏の予定ってないの?」
潮風に煙草の煙が溶けていくのをぼんやり眺めながら、私はふと気になっていたことを切り出した。あの人がステージの上で楽器を構え、照明を浴びている姿を、私はどうしても生で見たかった。学校の講義室で見せる退屈そうな横顔とは違う、本物の「音楽家」としての顔を独り占めしたかった。
「あー、あるよ。ええっと、次は……なんだったっけかな」
先生はめんどくさそうにポケットからスマホを取り出し、青白い光を顔に浴びながらスケジュールアプリをスクロールさせた。
「あ、えっとね……来週、女性シンガーのバックでのサポートの仕事だな」




