第3話
「……信じられない」
VIPボックスで、テツオが呟いた。視界の片隅に浮かんでいた確率グラフは、赤い警告色のまま凍りついている。
「あの状況からの単独突破……。ゴール期待値は、8%もなかったはずだ。一体、どうやって……」
モトコはテツオと別れ、シドと暮らすアパートメントへと帰路についた。帰りのエアカーの中、モトコは窓の外を流れる夜景を見ていた。メガロポリスの光が、地上から天へと幾何学模様を描く。
美しい。
静かだ。
でも、どこか寂しい。
視界に、友人たちからの祝福メッセージが次々と届く。
「すごかったね!」「さすがだよ」「誇りに思う」――。
彼女はAIが生成した最適な返信文を、機械的にタップして送る。
……けれど、胸の奥に、小さな棘が刺さっている気がした。
今日のシドは、いつもと違った。
最後のプレーは、計算された動きではなかった。
――檻を内側から破壊するような、荒々しい何か。
エアカーは、二人が暮らす高層アパートメントへ到着した。がらんとしたリビング。そこには、人の営みの匂いがなかった。
モトコは壁一面のガラス窓の前に立ち、眼下の光の海を見下ろす。
恋人の、輝かしいゴール。勝利を心から喜んでいるはずなのに、胸の奥の小さな棘が、ちくりと痛む。
得体の知れない不安が、静かに胸に広がっていく。
英雄の帰りを待つアパートメントは、調和の取れた、しかし息苦しい静寂で満たされていた。
***
試合後のメディアゾーンは、白夜のように明るかった。
無数のドローンが飛び交い、選手たちを照らす。
決勝点を決めたシドと、キャプテンのヴィクターがインタビューブースへ向かう。
カメラドローンが彼らを捉える。
映像右上に"Quantum Signature"の緑の認証マークが灯る。
それは、生体データによるブロックチェーンと、耐量子暗号技術の組み合わせ。いかなる計算資源を用いても改ざんは不可能と保証する、絶対的な本人確認だった。
これから発せられる言葉は「本人の真実」であることが、保証された。しかし、真実であるはずのその言葉は、あまりにも空虚だった。
最初に、ヴィクターにマイクが向けられた。
「キャプテン、見事な勝利でした。特に終盤のカウンター。チームの戦術的成熟を感じました」
ヴィクターは、穏やかで、完璧な微笑みを浮かべて答えた。彼の表情筋の動きは、まるで教科書に載っている「喜び」のサンプル画像のようだ。
「ありがとうございます。しかし、最後までフェアに戦った相手チーム、スプリングズへの敬意を忘れてはいけません。そして何より、常に支えてくれるサポーターにこの勝利を捧げます。我々の揺るぎない意志が、今日の勝利をもたらしました」
その言葉は、あまりにも模範的で、一点の曇りもなかった。声のトーンは常に一定に保たれ、感情の揺らぎは一切感じられない。
次に、マイクがシドに向けられる。
「決勝ゴール、お見事でした。二年連続の得点王も現実味を帯びてきましたが?」
あの瞬間の熱――
ゴールネットを揺らした時、腹の底から突き上げた歓喜。
それが脳裏をかすめたが、"NervLink"が微弱な抑制信号を送り、興奮は冷水に沈められる。
視界に、対話補助AIが推奨する三つの回答が浮かぶ。シドは、その中から最も無難なものを選び、滑らかに口にした。
「光栄です。ただ、個人記録より大切なのはチームの勝利です。あのゴールも仲間の完璧な守備があってこそ。この勝利は、チーム全員のものです」
非の打ち所のない謙遜と賛辞だった。
インタビュアーは満足げに頷き、インタビューは終わった。
ドローンの光が消え、メディアゾーンを離れる。
シドは隣を歩くキャプテンに声をかけた。
「ヴィー、お疲れ。タフな試合だったけど……最後は、気持ち良かったな」
ヴィクターは、シドの方を振り向いた。しかし、その瞳には何の感情も映っていなかった。まるでガラス玉のようだ。
「ああ。AIの試合後評価も極めて高い。今シーズンを通じての戦略的目標は達成された。君のゴール期待値は8.7%だったが、結果的に逸脱がポジティブに作用した、稀有なケースだ」
「ヴィー…」
その無機質な返答に、シドは言葉を失った。
子供の頃、アカデミーで初めて会った頃のヴィクターは、チームで一番のやんちゃ坊主だった。監督に怒鳴られてはニヤリと笑い、理不尽な判定には審判に食ってかかるような、情熱の塊みたいな男だった。
それが、キャプテンという重責を担い、AIの補助に依存し続けた結果、今では自我そのものがすり減り切って、失われていた。
フラットライン・シンドローム。
感情の起伏が、心電図のフラットラインのように消失してしまう病。ヴィクターは、その精神疾患を発症していた。
アカデミーで会ってから20年弱、ヴィクターとはチームメイトであり続けた。他の多くのチームメイト達は、夢破れてチームを去り、新天地を求めて他チームへ移籍していった。気がつけば、アカデミーからずっと一緒なのはヴィクターだけになっていた。
ヴィクターとは、「親友」と呼んで差し支えないくらいの、深い絆を感じていた。しかし、今の彼は、本当にヴィクターなのだろうか。
この完璧なキャプテンは、かつてのヴィクターの抜け殻に、AIが宿っただけの人形ではないのか。
シドの背筋を、冷たいものが走った。
ーー俺も、いつかこうなるのだろうか。
AIの助けを借りてゴールを量産し、名声を得て、キャリアを積み重ねたその果てに待っているのが、この「感情の死」だとしたら。
勝利の熱狂も、これから手にするであろう栄光も。
すべてが急に色褪せて、空虚なものに思えた。
自動運転のエアカーが、静かに上昇し、都心の光の川の上を滑るように進んでいく。シドはシートに深く身を沈め、窓の外を眺めていた。
ヴィクターの、あの光のない瞳が脳裏に焼き付いて離れない。勝利の高揚感は、もうどこにもなかった。ただ、深く、静かな虚無感が、胸の内を満たしていく。
アパートのドアが開くと、モトコが笑顔で迎える。
「おかえり、シド。……今日のゴール、すごかったわ!」
彼女の言葉にも、喜びや安らぎは感じられなかった。
――この、滑らかな幸福。この、満たされた日常。
その先にあるのは、あの冷たい虚無なのだろうか。
シドは息苦しさを覚えながら、無理に微笑んでみせた。
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