第2話
ベンチに座るシドの視界隅で、小さなランプが点いた。
監督からのコールサインだ。
ゆっくりと立ち上がり、ピッチサイドで戦況を見つめる老将のもとへ歩み寄る。
監督はフィールドから目を離さず、低く、ざらついた声を放った。
「サミュエルの代わりだ。残りは15分」
シドの視界に戦況データが重なる。
スコアは0-0。
タクティカルAIが推奨する確信度72%の戦術は、このまま試合を終わらせることだった。守備を固め、勝ち点1を確保する。合理的で、リスクのない答えだ。
そのとき、監督がゆっくりと振り向いた。
その瞳の奥には、AIでは解析できないであろう光が宿っていた。
「AIは言っているな。このまま試合を塩漬けにしろ、と」
短い沈黙。
「だが、俺の考えは違う。お前に期待しているのは、調和じゃない。あの巨大な知性が導き出すのは、確かに最適解なのだろう」
ざらついた声に、わずかに熱が籠る。
「…だが、お前はその更に先を行け。常識を打ち破れ。均衡を破壊しろ。それができるのは、このチームで…いや、このリーグで、お前だけだ」
シドは言葉を返さず、深く頷いた。
第四審判のボードに、緑の光で背番号【7】が灯る。
テクニカルエリアに立つと、巨大なLED照明が、まるで舞台のスポットライトのように降り注いだ。
ピッチへ足を踏み入れた瞬間、
膨大な情報が奔流となり、シドの視界に溢れた。
敵味方21人全員の現在位置、
数値化された身体能力とスキルレベル、
予測移動ベクトル、
各選手の疲労度、
さらには心理的安定度を示す微細なグラフまでが。
半透明の情報レイヤーとして、シドの視界を埋め尽くした。
鼓膜には、合成音声によるタクティカルAIからの指令が絶え間なく流れ込む。『中央のスペースを圧縮、即時プレスを準備せよ』。
それは俯瞰の視点であり。全知の感覚だった。
しかし、シドが意識を向けたのは別のものだった。
――スパイクが芝を踏み締める感触。
――ロンドンの夜の湿った空気。
――ガラス越しに届く観客席の微かな光。
――肺が酸素を求める音。心臓が叩くリズム。
シドは、AIが提示する最適解に従いながら、ゲームの表面を滑るように動いた。パスを受け、AIの推奨ルートへ正確にボールを流す。
だがその瞳は、常に獲物を探す獣のように、盤面の「歪み」を探していた。AIの描く美しい幾何学模様。その、ほんの一瞬の乱れを。
敵陣右サイドでボールを受け、サイドバックと対峙する。ガンナーズのタクティカルAIは、瞬時にシドへ推奨アクションを提案する。それは、シドの身体能力を数万項目に分解して検証した結果の、最適解。
――右サイド外側へのドリブル突破:ゴール期待値+34%、成功率81%
――中央ペナルティエリアへの侵入:ゴール期待値+45%、成功率29%
シドはAIの提案通りに行動する。期待値×成功率が最も高い、右サイドへのドリブル突破。サイドバックを難なくかわし、クロスを供給しようと中央を見る。
しかし、その突破を既に予測しているセンターバックが瞬時にカバーリング、ボールを奪った。
相手のディフェンスラインは、一枚の岩だった。個人の意思ではなく、AIによって制御されたそれは、突破不可能な壁に見えた。
だが、シドは知っている。AIが操っているのは、生身の人間だ。
残り三分、敵陣中盤でボールを受ける。
最も成功確率の高いパスコースが三本、青い光の矢印で示される。AIも、チームメイトも、敵のディフェンダーも、そのどれかを選択すると予測していた。
――そのとき、シドの目は捕えた。
対峙するセンターバックの瞳が一瞬だけ、AIが示す予測地点に泳ぎ、重心を崩していた。コンマ一秒の無意識。
――そこだ。
AIの判断より先に、身体が動く。
パスを切り捨て、一直線にドリブル開始。
『警告:戦術的非協調行動。リスクレベル上昇』
AIからのアラートが、けたたましく鳴る。
味方の動きが止まり、敵のAIは再計算に入る。
滑らかな連携に、ざらついたノイズが走った。
ディフェンダーが硬直する。
シドはボールを右に運び、対峙するディフェンダーの重心が流れた刹那、内側へ切り返す。AIの演算速度が、人間の衝動に追いつかない。
単独でディフェンスラインを突破。壁が、崩れたのだ。
キーパーとの一対一。
キーパーはAIの予測に従い、最大公約数のような合理性でシュートコースを塞ぐ。だが、シドの狙いはそこではない。
AIが確率論で切り捨てたコース――ニアサイド上、わずかな隙間。
右足が振り抜かれ、ボールはゴールへと吸い込まれる。
――ぱさっ。
ボールとネットが擦れ合う、乾いた音が響いた。
その瞬間、シドの世界から、あらゆる情報と音が消えた。
聞こえるのは、自分の荒い呼吸と、血が血管を駆ける音だけ。
原始的な歓喜が腹の底から湧き上がる。
それは全身へと駆け巡り、理性を真っ白に焼き尽くそうとする。
ーーシドは両腕を広げ、夜空に咆哮しようとした。
しかし、彼の延髄にある"Nerv Link"は、大脳に働きかけてその歓喜を抑制した。激しい情動によるスタミナの浪費と判断したのだ。
湧き上がっていたはずの歓喜は薄れ、淡々とチームメイトの祝福を受けた。
少し遅れて、録音された拍手が流れる。美しく、空虚な音色。
そして、試合終了のシグナル。
スコアボードに【1-0】が灯る。
それが、決勝点だった。
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