第1話
西暦2077年、ロンドン北部、エミレーツ・スタジアム。
シーズン最初の、ノースロンドン・ダービーが始まろうとしている。
VIPボックスの空気は、静寂で満たされていた。ボックス内と外界を隔てるガラス窓が、七万人の観客を、音のない風景画に変えている。観客席には、穏やかな笑顔が整然と並んでいるようだ。そして、そこに歓声はない。
モトコ・グリーンフィールドは、指先をガラス窓に置いた。冷たくも熱くもない。ただ、現実との間に一枚、膜があるとだけ感じた。
隣のシートに、兄のテツオが深く腰を沈めている。
「ねえ、兄さん。シドは今日、出場すると思う?」
モトコの声に、延髄に埋め込まれた基幹システムNerv Linkが応じる。脳波を解析し、クラウド上から必要なデータを収集。AR(拡張現実)として整形し、視覚野へ直接に情報を送り込む。
モトコとテツオの間に、淡い光を帯びた情報レイヤーが立ち上がった。
そこには、ノースロンドン・ガンナーズのフォワード、シド・マクリーの直近数試合の軌跡が、美しいインフォグラフィックとして描かれていた。
ピッチ俯瞰図を、一条の青い光が駆け回り、活動領域は赤く染まっている。ゴールシーンが小窓で次々とループ再生され、ボールがネットに突き刺さる瞬間、【90分あたりのゴール期待値:0.86】という青色の数字が、グラフの跳ね上がりと同期した。
テツオが指先をスワイプすると、データが静かに切り替わる。
「直近3試合の総走行距離、41.9キロ。スプリント回数、チーム平均の134%。心拍数ピークは危険域寸前。……消耗が激しすぎる。監督が今日、出場を許可するとは思えないよ」
その声は穏やかで、合成音声が知らせる天気予報のようだ。彼の脳に接続された対話補助AIが、妹が恋人を思う感情すらも、無機質なデータに変換している。
「疲労を考えれば、ベンチ温存が妥当だ。ガンナーズを率いるタクティカルAIも、監督も、同じ判断を下すはずさ。……2年連続のバロンドール受賞、って偉業の一歩手前なんだ。無理をして怪我でもしたら、つまらないだろ?」
バロンドール。その栄誉は、20世紀から脈々と受け継がれていた。そのシーズンに最も活躍した、世界最高のフットボール選手に送られる称号。シド・マクリーはそれを咋シーズンに受賞し、今シーズンもまた最有力候補に挙げられていた。
モトコは、空間に浮かぶシドの映像を見つめ続けた。ループする彼の動きはあまりに精密で、機械式時計の歯車を連想させた。寸分の狂いもなくディフェンダーを抜き去り、キーパーの指先が届かない一点へボールを送り込む。滑らかで、迷いも淀みも無い。
「シドは言ってたわ」
モトコの声に、かすかな熱が滲む。
「『今日は、出番が来る気がする』って」
その言葉とともに、昨夜のシドの顔が脳裏によみがえる。瞳の奥に、デジタル・データでは決して表現できない光があった。AIであれば「観測不能」と判定するだろう、不可解な何か。
モトコは再び、ガラスの向こうの緑の海へ目を戻した。虫ひとつ飛ばない、蛍光めいた芝の上に、シドの背番号は見えない。それでも、彼の予感を、信じようとしていた。
スタジアムに、幾重にも重なる合成音声のファンファーレが響く。録音された拍手が、静かに広がる。
キックオフの笛は鳴らない。
主審の脳から送信された開始シグナルが、22人の視界に同時に灯る。
その瞬間、選手たちは動き出した。
ボールは止まらない。常に数歩先の未来へ、最適な速度で送り込まれる。
選手たちは声を出さない。ただ芝の擦れる音だけが、規則正しく続く。
衝突は起きない。コンマ数秒前にAIが互いの進路を補正し、接触を回避する。
両チームのタクティカルAIはフォーメーションの綻びを探し、選手を動かし、均衡を崩そうと試みる。対するAIは即座に修正する。その応酬は秒単位、数センチ単位で、幾千回と繰り返される。
ピッチを駆ける22人は、絶えず書き換わる巨大な電子回路基板のようだった。
モトコの視界の片隅で、AIアナリストの文字が控えめに流れる。『両チームの戦術統合率98.7%。極めて均衡した、質の高い戦術的応酬です』。
観客席もまた息を殺し、その「芸術」を鑑賞していた。それは、2020年代から加速し始めた、フットボールにおける戦術的進化の終着点だった。選手一人ひとりの「個」を必要とせず、11人が一個の生命体として蠢いているような、統合され尽くした連携。
2077年のフットボールは、まるで去勢されたサラブレッドのようだった。隅々まで洗練され、美しく、穏やかで。
そして、かつて持っていた猛々しさを失っていた。
***
しかし、均衡は唐突に、そして音もなく崩れた。
後半35分。
ノースロンドン・ガンナーズの若きフォワード、サミュエル・アデバヨが、相手ペナルティエリア手前で加速する。
その動きが、タクティカルAIの描く最適ルートからわずか0.2秒ずれた。
方向転換を強いられた膝が、悲鳴を上げる。負荷を支えきれなくなった右膝は、不自然な角度で折れ曲がった。声も出ず、彼はピッチに崩れ落ちる。
ゲームは即座に停止。
全選手の視界に赤いアラートが一斉に走る。
『選手負傷:プレー中断』
医療ドローンが、音も立てず舞い降りた。
無機質なスキャナーが膝を照射し、診断結果を吐き出す。
『右膝前十字靭帯、断裂』
VIPボックスのテツオは、ソファに沈んだままサミュエル・アデバヨのデータを周囲に投影し、淡々と呟いた。
「このご時世に、まさか生身のままプレイしているなんて。プロ選手なら、膝関節は人工強化繊維に置き換えるのが常識だろ?・・・ああ、信仰上の理由があったのか。皮肉なものだ」
一呼吸置き、彼はモトコに視線を送る。
「……でも、君の恋人の『出番が来る』って予感、当たるかもな」
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