女の知識は罪ですか? 魔女と呼ばれた令嬢の選んだ未来
──女が本を読むと、魔女になるらしい。
そう言ったのは、使用人のマリアだった。まだ私が十歳のころ、屋敷の書庫に忍び込んでいた私を見つけて、彼女は本気で青ざめていた。
「お嬢様、だめです! 本なんて……とくに、ラテン語の書物なんて読んじゃいけません!」
泣きそうな顔で手を引かれながら、私は不思議でならなかった。なぜ男たちが読む本を、女が読むと『いけない』のだろう?
その答えは、六年後にはっきりと示された。
「……リリア・イエンローゼ。お前は、魔女の疑いがある」
重々しい声が、私の名を呼ぶ。
父――リヒャルト・イエンローゼ伯爵は、冬の朝のように冷たい目で私を見下ろしていた。
場所は書斎。壁一面の本棚と、燻った暖炉の炎。そしてその中央に、私が並べていた勉強道具が無残に広げられている。
筆写した古文書。統計論の書簡。フェルゼン王国の言論誌の切り抜き。……それらを手に、父はまるで汚物でもつかんだかのように眉をひそめた。
「ラテン語、フェルゼン語、算術、政治論……ふざけているのか。どれもこれも、男が学ぶべきものだ」
「いいえ。人が学ぶべきものです」
私は俯かずに、父の目を見て答えた。
父の顔が、静かに歪んだ。
「……貴様、それでもイエンローゼの娘か」
「イエンローゼの娘だからこそ、です。父上はいつも言っていました。『無知な者に権力は持たせるな』と。ならば、私も知るべきです」
書斎に、ぱち、という薪のはぜる音が響いた。
長い沈黙ののち、父は椅子から立ち上がる。背筋をぴんと伸ばしたその姿は、かつて軍を率いた誇り高き将軍そのものだった。
「リリア。お前は今日から、一切の学びを禁じられる」
ああ、来たな――と思った。
「貴様は、明日からノルディン伯爵家の嫡男、アルベルト殿と婚約し、そのまま嫁ぐこととなった」
静かに言い渡されたその言葉に、私は目を見開いた。
「婚約……? 私は、まだ──」
「十六だ。充分だ」
父の声は冷たい。決定事項を告げる、それ以上でも以下でもない。
「そしてこれは“赦し”だ。貴様のように女の身で学問に溺れた者が、魔女として火刑に処されずに済む。イエンローゼ家の威光あってこそだと知れ」
「……そんな」
「その代償として、学問は捨てろ。以後、本に触れることすら許さん」
喉の奥が焼けつくようだった。
知りたい。学びたい。ただそれだけだった。なのに、私の欲したものは、罪とされた。
「……私は……私は、間違っていたのですか」
「間違ってなどいない。女で生まれたことが、お前の罪だ」
その言葉が、心の奥深くに突き刺さった。
私は、逃げられないのだ。この国では。
この姓では。
ならば、私は従おう。すべてを受け入れるふりをして、沈黙の中に生き延びてやる。
──必ず、この命に意味を与えてみせる。
ーーーーーーー
──翌朝。
馬車の揺れが、思ったよりも穏やかだったのは、雪解けの舗装路を進んでいるからだろう。けれど、私の心は落ち着くどころか、波打っていた。
これから私は、他人の家に嫁ぐ。
政略の道具として、姓を捨て、名前だけの自分になる。
それは何よりも、私が自分であることをやめるということだった。
「まもなくノルディン伯爵邸です、お嬢様」
御者の声に頷き、私は膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめた。
窓の外に見える街並みは、父の領地よりも整っている。けれど、それが新しく発展しているせいだとわかったのは、私が地誌学を学んでいたからだ。
──ああ、これも、本当なら誰にも言ってはならない知識。
馬車が止まった。扉が開く。
冬の空気が、淡く冷たく、私の頬を撫でた。
そして彼が、いた。
ノルディン家の当主、その嫡男。
私の、夫となる人物。
アルベルト・ノルディン。
「ようこそ、リリア・イエンローゼ嬢」
その声は、私が想像していたよりもずっと静かだった。重さはあるが、感情の起伏はまったくない。完璧に整えられた声。
──まるで、答えの決まった式を読み上げるかのような話し方。
「はじめまして。リリア・イエンローゼと申します。以後、よろしくお願いいたします」
私は礼儀に則って頭を下げた。スカートの裾を美しく広げ、視線は床へ。
その間、彼は一歩も動かない。沈黙が、数拍続く。
やがて、「こちらへ」と言って、彼は背を向けた。
私の目に映ったのは、剣のようにまっすぐな背筋。感情を切り落とした歩み。完璧な貴族の所作。
──この人は、人前では絶対に心を見せないよう訓練されている。
それは、知識で得た感覚ではなく、私の観察による直感だった。
彼の歩く速度、振り返らないこと、足音の抑え方。すべてが「見せない」ためのものだ。
ノルディン家の屋敷は、予想よりもずっと簡素だった。
広く、無駄のない廊下。装飾は少なく、床も絨毯より磨かれた石材の方が多い。
「父の趣味です」
突然、彼が口を開いた。
「あまり華美なものは好まない。私も同様ですが」
……どうやら、私が周囲を見渡していたのに気づいていたらしい。
「いえ、とても整っていて美しいと感じました。建築様式も、新王国派でしょうか。支柱の比率が──」
「……建築にお詳しいのですか?」
彼が振り返った。
その一瞬、目が合った。
薄い灰色の瞳。
鏡のように冷たく、それでいて一瞬だけ、波紋のように揺れた気がした。
いけない。うっかり知識を口にした。
「……いえ。以前、ほんの少しだけ、図書館で目にしたことがありまして」
彼は何も言わず、視線をそらす。そして再び歩き始めた。
──危うい。
知識を持っていると気づかれれば、彼の態度が変わる可能性もある。
だから、今のような失言はしてはならない。
「部屋はこちらです。必要なものがあれば、侍女を通じて」
「ありがとうございます」
案内された部屋は、日当たりがよく、整った空間だった。
上質なベッドと机、鏡台、衣装棚。そして、壁際に古びた小さな本棚がある。
「……この本棚は」
「以前、母が使っていた部屋です。気になるようでしたら片付けを命じましょう」
「いえ。とても、温かみのあるお部屋です」
彼は一瞬だけうなずいた。そしてまた、言葉少なに立ち去っていった。
残された部屋の静けさが、今になって私の胸をざわつかせる。
──この屋敷は、誰も私を見ていない。
けれどそれは、私にとって“好都合”でもあった。
夜。
トランクの底から、私は一冊の手帳を取り出した。
それは、あの屋敷から密かに持ち出した、小さな宝物だった。
「女性の理性と国家」──マルティナ先生から贈られた最後の本。
私は、部屋の鍵をそっと閉め、机に腰掛ける。
ランプの光が、文字を照らす。
ページをめくる指が、わずかに震えていた。
罪だと言われた。魔女だと罵られた。
けれど、私は学ぶことをやめない。
──この国で、わたしは生き延びる。
学びを捨てず、心を殺さず、いつか、自由を手にするために。
その日を夢見て、私は静かにページをめくった。
ーーーーーーーー
ノルディン伯爵家での生活は、驚くほど静かだった。
私はてっきり、結婚初日から形式ばった挨拶や、厳格な姑との対面や、あるいは冷淡な夫からの冷たい叱責を覚悟していた。
けれど、待っていたのは「放置」と呼んでも差し支えのない、無風の時間だった。
朝食は使用人を通じて運ばれ、昼には夫はいない。夕食はそれぞれ別の部屋で取るよう言い渡されている。必要最低限の会話。必要最低限の接触。
──だが、それはある意味で、好都合だった。
屋敷の中を歩く時間が与えられた。誰にも詮索されない。
私は毎日、ゆっくりと屋敷を観察しながら歩いた。
玄関から続く長い廊下。応接室。小さな温室。
そのどれもが、清潔で整っていて、感情の匂いがしない。
まるで、誰かの内心そのもののようだ──たとえば、アルベルト様の。
⸻
ある日の午後、私は見慣れぬ扉の前で足を止めた。
廊下の奥、あまり人の通らぬ場所に、鉄製の重々しい扉があった。
鍵がかかっている……そう思い、そっと取っ手を押すと、カチャリと乾いた音がして、扉が開いた。
「……開いている?」
薄暗い部屋の中は、ひんやりとした空気が満ちていた。
本の匂いがした。
古い紙と革の匂い。インクと埃と、時の重みが混ざった香り。
それは、私が長い間、禁じられ、恋焦がれ、封じられていた空間の匂いだった。
――書庫だ。
そこには、本があった。
整然と、だが使い込まれた気配を残して、棚に並ぶ数百冊の書物。
法律書、軍事記録、政務報告、統計学、歴史書、経済学、そして――哲学。
私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
まるで、肺が覚えていたかのように。
学ぶという行為を、体が欲していたかのように。
「ここが……」
思わず、小さく声に出す。
誰もいない。誰も咎めない。
けれど私は、なぜか扉を閉め、鍵がないか確かめた。
扉の裏側には、鍵穴と、引っかかっていた一本の鍵。
──まさか。わざと……?
リリアとしての私が、「気づく」ことを想定していたかのように。
私は、その場にしゃがみ込み、一冊の本を取り出す。
表紙に刻まれた題名は、『学問における普遍性の基礎』。
ページをめくる指先が震えた。
ここに、ある。
私が失ったはずのものが。
今も、この手の届く場所に。
――リリア様。
「っ……」
声に振り返ると、そこにいたのは、小柄な少女だった。
使用人の制服。年は私より三つほど下に見える。
「申し訳ありません! 奥様が書庫に入られるとは思わず、わたくし、掃除の手順で……!」
「……大丈夫です。誰にも言わないでくれる?」
私が静かに尋ねると、彼女は目を丸くしたまま、こくこくと頷いた。
「……セシル、と申します。これから、奥様付きの侍女としてお仕えすることになっております」
「そう。よろしくね、セシル」
彼女の瞳が、不思議そうに私を見ていた。
“奥様”と呼ばれるような態度ではなかったのかもしれない。
でも、この瞬間から、彼女は私の“小さな味方”になる予感がした。
ーーーーーーーー
「リリア様……やはり、わたしには難しいかと……っ」
セシルは、ペンを持ったままぷるぷると肩を震わせていた。
彼女の手元にある紙には、つたない筆致の“a”の文字が並んでいる。形はぐにゃりと歪んでいて、お世辞にも上手とは言えない。だが、私は微笑んだ。
「大丈夫。最初は誰でもそう。筆の持ち方は悪くないわ。もう少し手首を使ってみて」
私は彼女の背後にまわり、手をそっと添えた。
「……こう?」
「ええ、そう。ほら、できた」
セシルが書き上げた“e”の文字は、たしかに少し形になっていた。
「すごいじゃない。これなら、名前もすぐ書けるようになるわ」
私がそう言うと、セシルは恥ずかしそうに頬を染めた。
「……わたし、本を読める人って、皆魔法みたいだと思ってたんです」
「魔法?」
「はい。本の中には、知らない世界が詰まってて……読める人は、みんな頭が良くて、格好良くて」
「……私も、そう思ってた。だから、どうしても知りたかったの」
私の指が、机の上の羊皮紙に触れる。
幼いころ、初めて“文字”というものを見た日。意味はわからなかったけれど、それはまるで別の世界への扉のようだった。
ただ書かれた記号のようなものに、人の想いが宿っていると気づいたとき。
私の心は、誰にも止められないほどに、知識に惹かれていった。
──そして、それを罰せられた。
「セシル。覚えておいて。知ることは、誰にも奪えない宝物よ。誰に笑われても、恥じる必要はないわ」
そう言うと、彼女は目を見開いて、真っ直ぐに私を見た。
「……はい。わたし、頑張ります」
セシルのその瞳は、初めて会ったときよりもずっと、まっすぐで、力があった。
それを見て、私はふと気づいた。
これは、始まりなのだと。
失われたはずの学び。隠さなければならなかった知識。
けれど今、私の教えた言葉が、誰かの“未来”を変えた。
──もし、もっと多くの人に教えることができたら。
心の奥に、小さな火がともるのを感じた。
それは、誰にも気づかれない、小さな革命のはじまりだった。
ーーーーーーーー
夜、書庫の隅。小さな蝋燭の火が、羊皮紙の文字を揺らめかせていた。
私は、封を切った手紙をゆっくりと読み進める。
──宛先は、マルティナ・ゼルヴァ。
かつての家庭教師であり、私の“学び”の原点にいた女性。
彼女が“魔女”として裁かれ、国外逃亡したのは、もう四年前になる。
以来、連絡は断ち切られていた。私が許される道を選ぶには、彼女の存在を切り離すしかなかったからだ。
けれど、数日前。屋敷の古い引き出しの中から、偶然に見つけた一枚の名刺。
それが、私と彼女をつなぎなおした。
──手紙は、隣国フェルゼン王国の小都市、フィンデルから届いていた。
「あなたがまだ学びたいと願っているのなら、それは喜ばしいことです。
リリア、あなたは学ぶべき人です。学ぶことを恐れてはいけません」
滲んだインクの向こうに、あのやわらかな声が浮かぶ気がした。
最後の一文。
「――そして、あなたが誰かに知識を与えることができたなら、それは私たちが夢見た未来への一歩です」
私は手紙をそっと畳んで胸に当てる。
セシルのことを思った。彼女の瞳。震える文字。覚えたての名前。
“与える側になる”ということが、こんなにも暖かく、誇らしいものだとは。
火を消そうと手を伸ばしたその時、扉の向こうで、床板が軋む音がした。
「……どなた?」
私は立ち上がり、扉に近づいた。
しかし、返事はない。気配は、すぐに遠ざかる。
──誰かが見ていた?
あるいは、気のせい。
けれど、もしそれが彼だったとしたら。
私は廊下を歩く足音を、静かに追った。誰もいない廊下。けれど、ついさっきまでそこに立っていた誰かの残り香。
その先に、見慣れた背中が見えた。
アルベルト・ノルディン。
彼は何も言わず、振り返らずに廊下を曲がって消えた。
──彼は、知っているのだろうか。
私が今夜、手紙を読んでいたことを。
私がまだ“学び”から離れていないことを。
そして、なぜ彼は、それを止めようとしないのか。
ーーーーーーーー
「リリア様、ドレスはこちらでよろしいでしょうか?」
鏡台の前でセシルが差し出したのは、淡い青のシルクドレスだった。
ノルディン家の色。決して派手ではないが、慎ましさの中に格式を感じさせる。
「ええ。ありがとう、セシル」
私は静かに立ち上がり、鏡に映る自分の姿を見た。
青いドレスの裾が揺れる。けれど、心は少しも落ち着いていなかった。
──今日は、王都の社交会。
ノルディン家の新婦として、初めて人前に出る日だ。
正直、乗り気ではなかった。
いや、むしろ「行きたくない」とさえ思っていた。
この国で、私がどんな目で見られてきたか。
あの事件のことを、貴族社会がどれだけ噂話の種にしていたか。
私は知っている。
けれど、逃げることはできなかった。
それが「伯爵夫人」としての務めならば。
⸻
会場は王都の中心にある、老舗貴族が所有する大広間だった。
シャンデリアが光を散らし、足元には絹の裾が流れ、人々の笑い声がワインのように渦巻いている。
けれど、その中に足を踏み入れた瞬間、私は空気の変化を感じた。
小さなざわめき。視線。ひそひそ声。
「──あれが、あの“魔女”か」
「書物に溺れた伯爵令嬢、だとか。まあ、恥ずかしい話」
「それを娶ったのがノルディン家の坊ちゃまだなんて。ご愁傷様ね」
聞こえないふりをするには、あまりに鮮明な声だった。
私は微笑みを保ったまま、目を伏せる。
その瞬間、自分の爪が掌に食い込んでいるのに気づいた。
痛みよりも、悔しさが勝った。
私は何も奪っていない。何も悪いことはしていない。ただ、知りたかっただけ。
それなのに、“罪”のように扱われる。
もう、慣れたつもりだった。
けれどやはり、心は少しずつすり減っていた。
「……お困りのようですね、伯爵夫人」
目の前に立ったのは、年配の男爵夫人だった。品のある微笑みの裏に、毒が見え隠れしている。
「ご学友の皆様にお会いになれず、さぞ寂しいでしょう?」
「……ご配慮ありがとうございます。けれど私は、学びよりも社交を楽しむことに致しました」
皮肉には皮肉で返すのが礼儀。それでも、胸の奥が軋む。
──そのときだった。
「……妻に対する戯言は、その辺でおやめいただきたい」
低く、はっきりとした声が会場に響いた。
その声に、誰もが振り返った。
そこにいたのは、アルベルト。
灰色の瞳が、まっすぐに男爵夫人を見据えていた。
「ノルディン家の名は、決して冗談のための話題ではありません」
沈黙が落ちる。
男爵夫人はわずかに顔を引きつらせ、「……ご無礼を」と一礼して退いた。
私は、息ができなかった。
アルベルトが、私を……かばった?
何も言わず、関わろうとしなかった彼が。
あの、いつも背中しか見せなかった彼が。
今、この場で、私の味方として言葉を放った。
「……ありがとうございました」
私が小さく言うと、彼はほんの少しだけ、視線を寄越した。
「無礼を受けたときは、遠慮なく言ってください。……貴女は、ノルディン家の人間なのですから」
それだけを言って、彼はワイングラスを取って立ち去った。
──けれど、私の胸の奥には、ひとつの“盾”が生まれたような気がした。
沈黙で守られた、無口な盾。
たった一言が、こんなにも強いとは、知らなかった。
ーーーーーーーー
(アルベルト視点)
リリアを、初めて見たのは十三の春だった。
社交のための集まり。父の代理で参加した、王都の旧家イエンローゼ家の催しだった。
広間には、年頃の子どもたちが集められていた。皆が舞踏の練習だとか、将来の縁談を睨んでの交流だとか、そんなことばかり口にしていた。
僕は、そういう場が苦手だった。
周囲が笑っても、どう返していいかわからない。
興味のない話題に相槌を打つのも、どこか空虚だった。
その時だった。
部屋の隅で、壁際の花瓶に目を留めた少女がいた。
柔らかな金髪。淡いピンクのドレス。白い指先で、花の形をそっとなぞるように見つめていた。
彼女の横顔がとても美しくて、心臓がドキドキして彼女に聞こえてしまってたらどうしよう、って思った。
「……これは、サフランですね」
彼女は誰に言うでもなく、静かにそう呟いた。
フェルゼン語だったが、その発音はとても正確だった。
本でしか見たことのないような花の名を、しかも外国語であの年齢の少女が知っていることに、妙な衝撃を受けたのを覚えている。
その瞬間から、目が離せなかった。
リリア・イエンローゼ。
あの夜、帰ってすぐに父に名前を尋ねた。
「ん? ああ、イエンローゼの一人娘だよ。とても美しいご令嬢と有名だな。いずれ政略結婚するだろうね。」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が少し痛んだ。
……自分と、縁があるはずがない。
それが僕の結論だった。
当主として、剣術、政務、法律、すべてを叩き込まれていた僕には、恋など夢のまた夢だった。
それでも、彼女のことはずっと覚えていた。
そして数年後。
「イエンローゼ家の令嬢と縁談がある」
父のその一言に、思わず言葉を失った。
「……まさか、本当ですか」
「本当だ。あちらから持ちかけてきた」
信じられなかった。
嬉しかった。
けれど、同時に怖かった。
あの時見た少女が、あまりにも立派で、まぶしかったから。
そんな彼女が、自分と結婚して幸せになれるのか、自信がなかった。
だが、正式に婚姻が決まったとき、僕は心に誓った。
もし彼女が、この屋敷で不自由なく暮らせるなら。
もし彼女が、何かを守りたいと願うなら。
僕はその盾になろう、と。
彼女が初めて屋敷を訪れた日。
僕は、まともに顔を見られなかった。
美しくなっていた。声も、所作も、何もかもが昔より洗練されていて。
それなのに、昔と変わらずどこか慎ましさが残っていた。
そして、書庫の前で立ち止まった彼女に、僕は何も言わなかった。
あの扉の鍵は、わざと開けておいた。
彼女が学びを諦めていないことは知っていた。
誰よりも聡く、強く、優しい。
僕は、そんな彼女の目をもう一度見たかった。
夜の廊下、彼女が読んでいた手紙の内容までは知らない。
けれど、彼女の指が震えていた。心が燃えていた。
彼女が何かに向かって歩き出そうとしていることだけは、わかった。
だから、僕は言葉を飲み込む。
何も知らないふりをする。
干渉はしない。ただし、守ることはやめない。
そう決めたのだ。
彼女が“自由”であること。
それが、僕の一番の願いだ。
もしも彼女が遠くへ行ってしまう日が来たとしても、
その背中を支える存在でありたいと、心から思っている。
ーーーーーーーーーーー
王都の街並みは、少しずつ変わり始めていた。
屋敷の窓から見下ろす通りには、以前よりも多くの読み書き教室が見える。
“男子のための夜間講座”と掲げられた看板に、小さな文字で「家族の見学可」と書かれていた。
「家族」とは、つまり女性も、という意味だろうか。
表立って女性の教育が許されていないこの国にとって、それはごく小さな、けれど確かな“揺らぎ”だった。
「……こちら、読み終えました」
アルベルトが机の上に置いたのは、フェルゼン王国の政務資料だった。
「女性の識字率と税収の関係について、興味深い分析です。ご覧になりますか?」
「……はい、ぜひ」
私は椅子を引き、資料を手に取った。
──これは、数日前。彼が“偶然”私の机の上に置いていったものだ。
読んでほしいが、頼むのは恥ずかしい。
問いかけたいが、会話はぎこちない。
そんな彼の不器用な配慮が、文書の間に丁寧に折り畳まれていた。
資料には、フェルゼンで女性の簡易読み書き教室を導入した地域の税収増加が示されていた。
読み書きができる母親が、子どもの学習を助け、家庭の計画性も向上した結果だという。
「……これが、正式な報告ですか?」
「はい。フェルゼンの議会にて採択されたものを、私の旧友アントンが手配してくれました」
アントン。その名を聞いた瞬間、心の奥がかすかに震えた。
彼もまた、かつての“学びの輪”にいた一人。
今は隣国の外交官となり、進歩的な思想を形にしようとしている人物だ。
「アルベルト様。……もしかして、私に見せたかったのですか?」
彼は一瞬、視線を落とした。
「……私は、何も強制していません」
「ええ。でも、嬉しいです」
彼はそのまま黙ってうなずいた。
この世界は、ゆっくりと、しかし確実に動き始めている。
屋敷の書庫。小さな手紙。侍女の読み書き。
そして、国の政務と、隣国からの報告。
すべてが少しずつ、つながっている。
私はまだ、誰にも公言できない。
でも──もう、恐れてはいなかった。
私の学びが、誰かの未来につながるのだと、ようやく確信できたから。
ーーーーーーー
「……ノルディン伯爵家の奥方が、また“学び”を始めたそうだ」
その声を耳にしたのは、侍女のセシルを連れて買い物に出た日のことだった。
街角の書店前。薄暗い路地に響いた男の声。
「フェルゼンの文書が屋敷に届いているらしい。やっぱり、魔女は治らないんだな」
私はそのまま、何も言わずに踵を返した。
セシルは黙って私の手を握っていた。
屋敷に戻ると、書庫の机に置いた手紙がなかった。
あの夜、マルティナから届いた封書。女性教育のための小さな学校計画の概要。
鍵をかけずにいたのは油断だった。
その日の夕刻、アルベルトは珍しく早く帰ってきた。
「リリア」
「……はい」
「今日、王都の一部貴族から“忠告”が届いた。“イエンローゼの娘は再び禁を破っている”と」
「……」
「君の手紙を見た」
それは、責める言い方ではなかった。
ただ、静かで、苦しそうな声だった。
「君が、勉強を続けていることは、気づいていた。……けれど、見逃すことを選んでいた」
私は言葉を探した。
咄嗟に何かを否定するよりも、伝えなければならないことがあった。
「私は……学びたいの。誰かを導けるくらいに、学びたい。知識を、人に渡せるようになりたいの」
「……君が何を願っているか、私は知っているつもりだ」
「なら、なぜ止めるの?」
声が震えた。
「あなたが最初に、私を守ってくれた。社交界で言葉をくれた。書庫の鍵を開けてくれていた。あなたが、私の学びを許してくれたから、私はここまで来られたの」
「だから、止めていない」
彼の声も、わずかに強くなった。
「けれど、現実がある。君が攻撃されれば、ノルディン家が揺らぐ。君の言葉が間違っていなくても、“正しい”とは限らないんだ、今のこの国では」
「……だったら、私はこの国を出る」
その言葉が、私の唇から零れ落ちたとき、アルベルトの瞳が揺れた。
「私は、誰かに従う人生ではなく、誰かの背中を押す人生を生きたい」
「……隣国、か?」
「はい。マルティナ先生がいる。仲間もいる。そして、学びを求めている人たちがいる」
「行けば、戻れなくなるぞ」
「……それでも」
私はまっすぐに彼を見た。
「もし私を少しでも愛していると思ってくれているなら、
どうか、今の私を“正しい”と信じて欲しいの。」
その夜、部屋は静まり返っていた。
扉の向こう、アルベルトの足音が一度だけ、私の前で止まり……やがて遠ざかった。
彼が何を考えているのか、私はもう、聞かなかった。
けれど、心は不思議と穏やかだった。
私がようやく、自分の足で歩き出したのだと、確かに思えたから。
ーーーーーーーーーー
馬車の窓から見える風景は、もう私の知っている“国”ではなかった。
見慣れた街並み。石造りの建物。古い旗印。
それらは次々と遠ざかっていく。
私は、自分の意志で国境を越える。
貴族の娘として生まれ、夫人として生きながら、学びを愛し、それを否定されたこの国を。
いま、自分の足で離れようとしていた。
「……行ってきます、アルベルト様」
誰もいない馬車の中で、私はそっと呟いた。
彼は何も言わなかった。
けれど、その沈黙は私の背を押すようなぬくもりがあった。
私は、信じている。彼の目が、私の未来を否定しなかったことを。
フェルゼン王国、フィンデル自由都市。
ここでは、空が広かった。
人々は貴族の出自を問わず、知識と技術で自分の居場所を築いていた。
女性が書を持ち、語らい、講堂に集まる光景に、私は思わず息を呑んだ。
「リリア! よく来たわね!」
マルティナが、まるで母のような笑顔で私を抱きしめた。
「先生……やっと来られました」
「私たちの夢、ようやく形にしましょう」
彼女の言葉に、私も笑った。
大学設立の道のりは、想像以上に厳しかった。
建物の確保、許可証の取得、教員の選定、資金の調達。
すべてに“時間”と“理解者”が必要だった。
けれど、かつての教え子たち、セシル、アルベルトの旧友のアントン、多くの女性たちが手を差し伸べてくれた。
「この手で、未来を変える」
その一念で、私は毎日を走った。
だが――ある日のことだった。
「リリア、ちょっと来てくれないか。来客だ」
アントンの声に、私は書類を抱えたまま玄関へ向かう。
そして、そこで私は凍りついた。
扉の前に立っていたのは、見間違えようもない人だった。
「……アルベルト様?」
彼は黙って、旅の外套のまま、そこにいた。
「……遅くなって、すまない」
その声を聞いた瞬間、私はもう、言葉を選べなかった。
「……どうして……」
「領地は、弟に任せた。……僕は、君の隣にいたい」
私は気づけば、駆け寄っていた。
彼の胸に飛び込んだその瞬間、過去のすべてが報われた気がした。
「来てくれた……来てくれたのね……」
「……遅くなって、本当にすまない」
腕が、私を包む。
何も言わなくていい。ただ、伝わっていた。
顔を上げる。目が合う。
そして、そっと――唇が重なった。
初めての、キス。
けれどそこには、何度も交わした想いが詰まっていた。
夜、ふたりきりの書斎で、彼がぽつりと言った。
「君が、あの時言ってくれた言葉……“少しでも愛していると思ってくれているなら、信じて”って。あれが、ずっと胸に残っていた」
「……信じてくれたの?」
「ああ。……ようやく、伝えられる。君が、僕のすべてだと」
私はただ、うなずいた。
この瞬間のために、私は歩いてきたのだと、心から思えた。
ーーーーーーーーーーー
季節は春。
フィンデルの空は、どこまでも澄んでいた。
その朝、私は大学の正門に立っていた。
白く塗られた鉄の門扉。入り口に掲げられた看板には、整った文字でこう書かれている。
《リリア女子大学》
思わず、目を細める。
この名前を付けようと言ったのは、マルティナだった。
「これは、あなたが命がけで開いた“門”なのよ。誇っていいわ」
私はまだ、少しだけ照れくさい気持ちを隠しきれない。
朝の光の中、門の前に生徒たちが並びはじめる。
皆、少し緊張した面持ちで、けれどその瞳には、たしかな輝きがあった。
その中には、見知った顔もある。
セシル。
かつて文字すら読めなかった彼女が、今は教壇に立つ側として控えていた。
「緊張してます……でも、楽しみです」
そう微笑む彼女の姿は、もう昔の侍女ではなかった。
開校式は、質素で温かい雰囲気だった。
祝辞を述べるアントンの声の奥に、何度も手を貸してくれた人々の姿が重なる。
そして、最後に登壇したのは私だった。
「この門は、皆さんのために開かれています」
言葉を紡ぐ声は震えていたけれど、不安ではなかった。
「知ることは、自由です。
学ぶことは、誇りです。
そして、共に歩むことは、力になります」
静かに拍手が起きたとき、私は人知れず、胸の奥で涙をこらえた。
式が終わったあと、校舎の廊下を歩く。
並んだ教室の扉。その先に、未来がある。
私は外に出て、芝生の広場でひとつ深呼吸した。
「……やり遂げたな」
背後から聞こえたその声に、私は振り返った。
そこにいたのは、アルベルト。
変わらず寡黙で、けれど今ではその沈黙に、あたたかい意味が宿っていた。
「ええ。あなたがいてくれたから」
「君がいたから、僕も変われた」
ふたり、並んで空を見上げる。
春の風が吹く。
未来は、まだ始まったばかりだ。
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数年後――
リリア女子大学は、生徒数を倍に増やし、各地から若い女性たちが集まるようになった。
王都でも“女子教育”の声が高まり始めた頃、
一冊の書籍が出版される。
『知るという革命』――著:リリア・イエンローゼ
その本の最後はこう締めくくられていた。
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あなたがもし、
誰かに未来を決められたくないと願うのなら。
“妻として”“娘として”ではなく、“ひとりの人間”として生きていきたいと願うのなら。
そのために必要なのは、剣でも、血筋でもない。
――知識です。
自分の考えを持つこと。
自分の選択で生きること。
そして、自分の人生を、誰かの言葉ではなく“自分の言葉”で語れるようになること。
その第一歩として、学びなさい。
それは、あなた自身を守る力になります。
誰にも奪われない、未来の鍵となるでしょう。
あなたが、あなた自身の人生を選べますように。
あなたの学びが、あなたの明日を照らしますように。
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【完】