行き先変更。
街道に出て一時間。勇也は変わらぬ速さで歩き続け、秋良はマラソンのペースで走り続け、マールは肩に担がれる振動でダウンしていた。
「もう……ムリです……下ろして」
ぴたりと足を止めてマールを下ろし、そっと地面に座らせてやると、勇也はマールの顔を覗きこんだ。
「もう少し、がんばろう! 勇者の仲間が簡単にへこたれるわけにはいかない」
「だれが勇者ですか、だれが仲間ですか! 私は異世界からの転移者のお世話係、あなたは転移者! 黙って私のお世話になっていればいいんです!」
かすれ声なのに、それでも声を張ろうとしてがんばっているマールの両肩に、勇也が手を置いた。
「俺たちにはあなたが必要だ。勇者の俺、マッパーの秋良、二人だけではとてもバランスが悪い。僧侶のあなたがいてくれるだけでも助かるんだ」
マールはよろよろと手を伸ばして勇也の手を払いのけようとしたが、びくともしない。
「そんなことを言う転移者はたくさんいますよ。僧侶がいるなら魔王もいて、自分は勇者だって……。だけど! それは勘違いなんです! 大人しくサワヌーに戻ってください!」
「テグ帝国の転移者を見捨てるんですか、マール司祭」
秋良が問うと、マールは荒い息を吐きながら顔を上げた。
「見捨てたりしません。王国が必ず救い出します。だからあなたたちは、安全なところで……」
「ただ待てと言うのか? あと十日で失われる命を、俺は座して見捨てたりはしない!」
「無謀だと言ってるんです。テグ帝国は軍事国家。忍び込むことが出来たとしましょう。捕らわれた人を見つけられたとしましょう。万が一、助け出せたとしましょう。しかし、そこからどうするのですか。帝国中の兵士が追ってくるのですよ。いくらあなたが……」
「勇也だ」
言葉を挟む勇也を軽く睨み、マールは続ける。
「勇也が魔物を倒せるほど強くても、帝国兵に囲まれてはどうにもなりません。多勢に無勢という言葉を知りませんか」
勇也は初めてためらいの色を見せた。
「それは、俺も懸念している点ではある。だから仲間を求めにヒズム王国まで向かったのだが……。王国兵団では門前払い、サワヌーでは真面目に話も聞いてもらえないというありさまだった。俺たち三人で行くしか……」
「なんで、そこに私が含まれるんですか!」
「二人とも、ちょっと待って」
秋良はそう言うと、カバンから地図を取り出し、ページをめくる。荒野の先を見通し、山の稜線と地図を見比べ、来た方角を振り返る。はるか遠くに、ぽつりとヒズム王城が見える。
「勇也、この世界の国がいくつあるか知ってる?」
「いや、知らない」
秋良は地図の初めのページを開いて勇也に差し出した。
「この世界は完全な円形なんだ。中央に六芒星、ヘキサグラム型の泉が湧いている。そこから六本の川が流れだし円の外へ下っていく。その流れの途中に六つの国があるんだ。ヒズム王国から右回りに、ナニル共和国、テグ帝国、学園都市ギッサエ、商業連合体ムッテモ、そして、スー公国。俺たちは今、ヒズムとナニルの国境近くにいる」
真円の中央に正三角形を二つ重ねた六芒星が描かれているそのページは、一見すると地図には見えない。円は二重で、六芒星のそれぞれの角から円の外側に向けて真っ直ぐな線が引かれている。
「普通、旅をするなら、まず街道を通って山に向かう」
秋良は二重の縁の内側を指差す。
「この、山の稜線沿いに歩いて隣国へ行く。山には魔物がいないからね。あるいは、川をさかのぼって泉に出て、そこから別の川に入る。川にも魔物は入ってこない」
「それは知っている。テグ帝国を流れる『土の川』以外、川のほとりは平穏だと、帝国に転移してすぐに聞いた」
マールが驚きの声を上げる。
「帝国に転移していたのですか。おかわいそうに。大変な思いをなさったでしょう」
「俺はまだマシな方だ。テグ帝国で親切な樵にかくまってもらえた。魔物と戦う術も教えてもらえた」
「森で鍛えてたのか。俺は街で武術の講義を受けたんだけど」
勇也が秋良の肩を叩く。
「なんだ、秋良。戦えるのか! 武器はなにを持っているんだ?」
「教わったのはダガーだけど、家に置いたままだよ。街中で持ち歩くことなんかないんだから」
「そうか……。どこかで手に入れたいな」
「ヒズムとナニルの国境に、両国の精鋭を集めた練兵場があるんだ。そこに俺が教わった武術の師範がいる。そこで話せば、きっと一緒に来てくれる人がいるはずだ」
「おお、すごいじゃないか、そんな伝手があるなんて。さっそく行こう!」
「練兵場は山の上にあるから、回り道になるよ。タイムロスがあることは考えに入れておいて」
「わかった。街道は通らず森を抜けよう。その方が早いだろう。では、行こう」
勇也がマールに背を向けて跪く。
「え、なんですか?」
「背負っていく。その方が疲れにくいだろう」
「いえ、私のことは置いて行ってください。私は僧侶なのですよ。魔物のいるところにいくことを禁じられているのです。森を抜けるなんて……」
ごにょごにょと言い続けるマールの背中を秋良が軽く押す。
「きゃ!」
マールは体勢を崩して勇也の背中に抱き着く形になり、勇也はすかさずマールを背負いあげた。
「あなたをここに残して行くわけにはいかないだろう。だいたい、ここからウツビアの街まで歩けるのか?」
「う……、それは……」
「置いてはいけない。共に進もう」
「……仕方ないです。行きます」
マールの答えを聞き終わるまでもなく、勇也は歩き出していた。秋良も「オス!」と気合を入れて、また走り出した。
森までの行程は順調だった。勇也の健脚っぷりは見事で、人を一人背負っているとはとても思えない速度で進む。秋良も日々の鍛錬が功を奏し、二時間走り続けても呼吸は一定で、まだまだ走り続けられそうだった。
大きな落葉樹林に足を踏み入れると、突然、ぴたりと勇也が立ち止まった。
「来るぞ」
マールを背から下ろし、秋良の方へ押しやる。鍬を両手で八相に構えると軽く腰を下とし、前方に飛び出した。
木の陰から黒いものが飛び出す。と思った時にはすでに勇也の鍬がそれを両断していた。塵と消える寸前に見えた限りでは、ウサギのように長い耳があるもののようだ。やはり体表は黒い。
勇也が走っていく木の間から魔物が次々と飛び出してきて、見えたと思うと、すぐに塵にされていく。
「すごい」
マールがぽつりと呟く。秋良は肩にかけていたカバンを下ろし、ショルダーベルトを両手で握り、マールを背にかばっていた。
「司祭、下がって!」
秋良が叫んで一歩踏み出す。マールは声に驚いて立ち尽くしてしまった。近くの木の陰から勇也が蹴散らしていくのと同じ魔物が躍り出た。
バレーボールほどの大きさの不定形なもの。闇のように黒く、二本の長い耳のような、いや、蠢く様子から、それは触角のようだと思えるものが突き出している。どろりとした血の塊のようにも感じられる粘りのある動き。下水溝のような悪臭を放ちながら、魔物はじりじりと近づいてくる。
突如、粘っていた体表面が硬さを持ち、魔物が秋良に向かって飛びかかる。秋良はカバンを振り子のように揺らし、魔物を横合いから殴りつけた。魔物は木に叩きつけられ、地面に落ちた。しかし動きは止まらず、再び襲いかかってくる。秋良は魔物を殴り飛ばしながらも、少しずつ少しずつ後退させられていた。
勇也との距離がどんどん広がる。焦っていると、地面に叩きつけた魔物が二つに分裂した。
「うそだろ!?」
二つが同時に飛びかからんと硬化した時、背後からマールの声が聞こえた。
「フキルの光に包まれ、夢のない眠りを」
空中に金色の光が現れ、細かくきらきらと輝きながら二体の魔物に降りかかる。魔物の体がビクリビクリと震え、硬化していたものが元の粘度の高い泥状に戻った。
驚きで一瞬動きが止まった秋良だが、すぐに立ち直り、重くて硬いカバンを大上段から叩きつけ、魔物を撃破した。
「大丈夫ですか、秋良」
呼ばれて振りかえると、マールが真っ青な顔で震えている。
「司祭、ありがとうございました。お祈りのおかげで助かりました」
「いえ、まさかフキル神のご加護が魔物にも及ぶなどと、想像も、していなかっ……た……んですが」
言葉はきれぎれで震えはまったく止まる様子がない。
「二人とも、無事か」
森の奥から勇也が駆け戻って来た。
「俺は大丈夫。けど、マール司祭が、ショックを受けたみたいで」
勇也は鍬を下ろすとマールに歩み寄り、ぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫だ。もう怖くないぞ」
マールの震えはぴたりと止まった。しかし今度は体が石にでもなったかのように動かなくなる。
「勇也、ちょっと離れてあげて」
「なんだ?」
秋良の言う通りマールから体を離した勇也は不可解と言いたげな表情を浮かべた。
「マール、どうした。なぜ動かない」
話しかけても反応はない。秋良がそっと勇也に耳打ちする。
「フキル教の僧侶は異性と性的な行為をしてはいけないんだよ」
「あれはハグだ。性的な意味はない」
「この世界は、少し戒律が厳しいんだ」
秋良は同情をたっぷり含んだ目でマールを見やる。マールの顔は赤いようにも青いようにも見える不思議な状態だ。
「それは申し訳なかった。だが、マールにはもう少し寛大な対応をしてもらわなければ困る」
そう言うと勇也は鍬を背中に回してベルトに挟んで固定すると、マールを抱き上げた。マールは手足をぎゅっとちぢ込めて固まってしまった。
「え、なんでお姫様抱っこ?」
秋良の疑問に勇也が「ここからはこの方がいい」と早口に言って、森の奥へと進んでいった。
そこからは魔物の大安売りだった。一本の木の陰から魔物が出る、勇也が蹴り倒す、秋良がカバンでとどめを刺す。次の木の陰から魔物が出る、秋良がカバンで叩きのめし、勇也が踏みつぶす。木の陰から魔物が出る、勇也が蹴り倒す、秋良がカバンでとどめを刺す。
とどまるところを知らない魔物の侵攻に秋良の息はすぐに上がった。だが立ち止まるわけにはいかない。
魔物を蹴散らし、踏みつぶしながら、三人は真っ直ぐに森を抜けていった。
「よし、休憩しよう」
勇也が足を止めたのは、一時間駆け続けて森を突っ切り、さらに三十分進んでからだった。辺りはすでに暗く、空には仄かな明かりを落としているほんの小さな月が浮かんでいた。三つ目の月、ムッテの明かりでは十メートル先も見通せない。
秋良は地面にへたりこみ、荒い息を繰り返す。マールは勇也の腕から解放されると、がくがくと震えだした。
「気をたしかに持つんだ、マール」
両肩を勇也に捕まれ、マールはビクゥッと竦み上る。
「は、放してくださいー、放してくださいー」
えぐえぐとしゃくりあげながら泣き出したマールの扱いに困って、勇也はおろおろとマールの周りを歩き回った。
「悪かった。俺が悪かったから泣き止んでくれ」
「もう教会に帰れませんー。不純異性交遊をしてしまいましたあ」
「不純じゃないし、交遊でもない。あれは、そう、看護だ!」
ひっくひっくと言いつつ、マールは目を上げた。
「看護……?」
「そうだ。マールは大変なショックを受けて救護が必要だった。だから、応急処置を施した。わかるな?」
「じゃ、じゃあ、花嫁を抱くみたいにして走っていたのは?」
えぐえぐ言うマールの目を勇也は力強く見つめた。
「救急搬送だ!」
秋良は感心したような呆れたような声でぼそりと呟く。
「物は言いようだね」
その声は二人には聞こえておらず、マールはローブの袖でぐいっと涙を拭いてぐっと空を見上げた。
「私はいけないことをされたわけではないのですね」
「そうだ。君は立派な司祭なのだから」
なんとか納得できたらしく、マールは深く頷いた。
「フキル神が私を導いてくださっているのですね。魔物に負けなかったのはフキル神のご加護のおかげ。お祈りを捧げます」
両手を組んだマールは目をつぶり、祈りの言葉を口にした。
「フキルの神よ、光のめぐみに感謝いたします」
マールの組んだ手の中から光が溢れ出す。手が開かれると、光は月よりも強くあたりを照らした。あまりにも荘厳なきらめきに、勇也は言葉も出ない。光は徐々に空に向かって伸びていく。まるで空にフキル神がいるか探しているように、ゆらゆらと揺れながら。三人は敬虔な思いで、じっと光を見つめ続けた。
二分ほども経っただろうか、勇也が行く手の山に顔を向けて目をすがめた。
「どうした、勇也」
「誰か、来る」
秋良も同じ方角に目をやったが、弱々しい月明かりで見えるのは数メートル先まで。見える範囲に人がいれば、それより先に足音が聞こえるだろう。だが、秋良の耳にはなにも伝わってこない。
「なにも聞こえないよ」
「山の麓から、そうだな。二キロくらいか。こちらに向かって走っている」
「まさか、そんなに遠くが見えるの!?」
「礫地で遠くばかり見ていたから、目が慣れたようだ」
そんなわけないだろうと思いながらも秋良が山の方を見ていると、勇也はマールに手を差し出した。マールはびくりと体を揺らして飛びすさる。
「な、ななななな、なんですか!」
「これから向かってくる人物と対峙するために移動する。足跡を残さないように、マールは俺が背に負う」
「え? 俺はどうすればいいの? 足跡を残さずに歩いたりできないんだけど」
「秋良が歩いた跡を俺が消しながら歩く。心配するな」
「はあ……」
固まってしまったマールを勝手に背負った勇也の指示で少し離れたところにある立ち枯れた広葉樹の根本まで歩いていく。秋良が歩きながら振り返り振り返り見ていると、勇也はマールを背負ったまま後ろ向きに歩き、足跡の上に靴先で、わずかに砂をかけている。砂を移動させているのに、地面に線が描き出されることがない。どんな動きをすればそんなことが出来るのか、秋良の知識の範疇を越えていた。
もといた場所から十メートルほど移動して、勇也は秋良の方に顔を向けた。
「ここで待とう」
ごく低い囁き声に、秋良は頷き、勇也にあわせて体を低く沈めた。マールはぺたりと地面に座り込んでしまう。
「いったい、なにが起きているんですかあ」
なさけない声に勇也は「しー」とだけ返して、前方に注意を向けた。秋良は黙って時を数える。約一分ほどで、人が走っているらしい足音が聞こえた。足音はふたつ。
「おーい、だれかいないか」
ひそやかな呼び声も聞こえてきた。なにかを警戒しながら勇也たちを探している。
「おかしいな。確かにフキルの光が見えたのに」
「まさか、魔物の罠じゃ……」
「山側に魔物は出ないはずだ。それに光を嫌うやつらだぞ。どう考えても人間がいたはずだ。もう移動しちまったのかな。俺たちも逃げないと、テグの兵士だって、さっきの光は見てただろう。すぐに追いつかれ……」
「テグ帝国の兵がいるのか?」
勇也が立ち上がって、声がした方に歩きながら問う。
「だ、だれだ?」
「俺は勇者だ」
「は?」
「魔王を倒すために旅をしている」
どうにも話が進みそうもない三人の側に、さくさくと足音を立ててマールが歩み寄る。山から走り降りて来たのは二人の男性だった。水色の柔道着のような服を着ている。
「私はフキル教の司祭で、マールと申します。転移者の男性二人と同道しております」
「司祭様!? 助けてください! 帝国兵に追われています!」
「いったい、なにがあったのですか」
「ススラエ道場に帝国兵が攻めて来たんです。人質を取られて師父も師範代も捕らえられました。俺たちはなんとか逃げたけど、追手が……」
「来たな」
勇也が山の方に目を向けて言う。
「五人か。秋良はマールを連れて下がっていてくれ。あなたたちは武術を会得しているのか」
二人の男性は小さく頷く。
「あんたは戦えるのか?」
恐る恐るの質問に勇也は力強く返す。
「もちろん。勇者が弱くてどうする。行くぞ!」
まだ姿は見えないが、遠くから鎧のものらしい金属音がかすかに聞こえて来た。
勇也は鍬を両手で握り、低くかまえたまま走り出す。二人の道場生が拳を握って後を追う。秋良はマールをかばいながら巨木の陰に身を潜めた。