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出発!

「あ、秋良(あきら)、今日も居たんだね。勉強熱心だな、このやろ、このやろ」

 ヒズム国立図書館の司書であるススラ婆さんにコメカミを突っつかれ、秋良は迷惑そうにその手を振り払った。

「放っておいてよ。本を読みに来てるだけなのに、なんで毎回毎回、からむんだよ」

「だってねえぇ」

 丸々と太って背の低いススラ婆さんは秋良の額を突っつく。

「サワヌーの人が外に出てくるの、珍しいんだもんね」

 秋良は迷惑そうに顔を背ける。

「ジョギングとか散歩だとかで、みんな出てきてるじゃないか」

「そんなん、サワヌーの人の十分の一もいないよお。みんな一日中お酒飲んでばっかじゃないかね」

 秋良はなにか言い返そうとしたのか、視線を宙にさまよわせたが、なにも思いつかなかったようで、小さなため息を吐いた。

「だな。あの人たちはだめだ」

 ススラ婆さんは大きな目を寄せて不思議そうに尋ねる。

「だめって、なにがかい?」

「突然、異世界に飛ばされたっていうのに、危機感がなさすぎるんだよ」

 秋良がイライラした口調で言うのを、ススラ婆さんが苦笑で受け流す。

「それは仕方ないよ。異世界からの転移者なんて、ここでは珍しくもないんだからねえ。私たちが受け入れ慣れてるから、受け入れられる方も、安心できるんじゃないかい?」

 ガタンとイスを鳴らして秋良が立ち上がり、茶色のローブ姿の小柄なススラ婆さんを見下ろした。

「安心とかじゃないよ。彼らは甘えてるんだ。与えられる温かい住まい、美味しい食事、適度な自由。サワヌーの生活は転移前より数倍、生きやすいからね」

 普段は温厚な秋良のメガネの奥に潜む迫力のある目つきに、ススラ婆さんはたじたじと後ずさる。立ち上がった長身に(まと)った黒い詰襟の制服がさらに威圧感を与える。

「だけど、皆、生きる意味を見失ってる」

「いいじゃないのさ。突然の異世界転移だなんて、暮らしにも困るのが当たり前だよ。国が救いの手を差しのべるって、良いことだと思うよ」

「タダ酒を飲ませるのが良いことだとは思えないけど」

 机に山と積んでいる本を棚に戻そうと抱えていると、ススラ婆さんが手伝おうと手を伸ばした。秋良はやんわりとその手を押し戻し、十数冊の本を片腕でひょいと抱え上げた。

「すごいよねえ。勉強だけじゃなくて、武術も鍛錬してるんでしょ。なんでそんなに鍛えてるのさね?」

「とくに鍛えてるわけじゃないよ。この世界のことを知るためにいろいろ見て、経験してるだけ」

 さらりと言って棚に本を戻していく秋良の後ろ姿を、ススラ婆さんはニコニコと見つめる。

「その知識欲! 司書として、この世界の人間として、すごおく嬉しいねえ!」

 秋良は小さく微笑む。

「そう言ってもらえたら俺も嬉しいよ。転移者ももっとサワヌーから出て、この国の人と交流すべきなんだ」

 秋良は数冊の本を借りて高校指定の重く硬いカバンに入れた。そのカバンを肩にかけて、入館証をススラ婆さんに返した。

「じゃあ、また明日」

「はいよ! おススメの本、用意しておくからね」

 ぶんぶんと両手を振って見送ってくれるススラ婆さんに軽く手を振り返して、秋良は図書館を後にした。


 ここ、ヒズム王国はこの世界のなかでも平和なことで知られる。水が豊富で観光にも力を入れている。他の国に比べると格段に栄えていて、財政も豊かだ。

 王都のウツビアの最奥に位置する王城に近い図書館から、町はずれのサワヌーと呼ばれる異世界転移者の居住区まで歩くコースは三通りある。王城に向かって『右』にある住宅街の外側をぐるりと遠回りするコース。王城から真っ直ぐ『下』に伸びる市場通りを突き抜けるコース。一旦、王城の側まで行って乗り合いのビスユという乗り物を使い、都市を一周するコースだ。

 ビスユは観光用で、値が張る。古都として知られるウツビアのレンガ造りの屋敷や石畳の道路に合わせて作られた、クラシカルな乗り物だ。飲食店で皿洗いのバイトをしている秋良の一日分の賃金が吹っ飛ぶ値段なので、おいそれとは使えない。

 市場通りも観光名所で、五百年以上前の姿を再現している。ここを抜ければ早いのだが、秋良はできるだけ通らない。

 濃い茶の髪と黒い目。そのうえ、この世界には存在しない眼鏡をかけた秋良は、一見して異世界転移者だとわかり、観光客から好奇の目を向けられるのだ。

 この世界で黒は恐れの象徴、邪悪なものが持つ色だ。森に生息する魔物は大抵のものが黒い表皮を持っている。この世界の人たちの鮮やかな青、黄色、緑、赤などの髪や目の色は闇に生きる魔物たちとは対極にある。

 残りのコース、住宅街の方に足を向けると、とたんに景色が変わる。レンガの壁も石畳の道もない。道路には吸水性の高い合成土壌を敷き詰めてあり、建物は堅牢な金属質の建材でできている。もとあった古建築の邸宅を切り売りしたり路地を作ったりと、無秩序に増えた建物のせいでごみごみしていた。

 その狭い道を軽快に走れる小型の一人乗りの車やバイクと何台もすれちがう。こちらの世界の言葉で、ヤーチキー、ヌルアと呼ばれる乗り物だが、かなり安価だ。毎日、ビスユに乗ることを考えると、比べ物にならない。

 体を鍛えるために、移動は急ぎ足かジョギングと決めているが、バイトに遅れそうになって全力疾走している時など、ヌルアを買おうかと真剣に悩む。今のところ、走りでなんとか間に合っているので販売店に足を運んだことはまだないが。

 

 転移者の居住区、サワヌーに近づくと、なぜか大勢の街の人が門からサワヌーの中を覗いていた。

 近づいて色とりどりの頭越しに中の様子を見る。誰かがヤーチキーの屋根に上って演説をぶちかましているところだった。

「俺たちは、なんのためにこの世界に飛ばされたんだ!? そう! 戦うためだ!」

 ヤーチキーの周囲にサワヌーの人はまばらで、そこにいる人たちもつまらなそうにしている。

「俺たちは、なすべきことをなすために呼ばれた! 戦うんだ!」

 酒焼けで赤い鼻をした金髪の中年男性がにやにやしながら尋ねた。

「なにと戦うんだ?」

「魔王だ!」

 こぶしを突き上げる痩せた黒衣の人物を、周囲の人たちが指さして笑う。

「魔王と鍬で戦うのかよ!」

「だいたい、魔王なんてこの世界にいないわよ」

 嘲笑う若い黒髪の女性の言葉を聞き、秋良は人垣を掻き分けてサワヌーに足を踏み入れた。

「魔王がいないって、なんであなたは知ってるんだ」

 秋良に睨まれて、女性は怯んで黙り込んだ。

「この世界にあるものは証明できる。それを見つければいいんだからな。だが、この世に『ない』ことを証明することはできない。まだ発見されていないだけなのかもしれないんだから」

「良いことを言ったな、別所(べっしょ)

 ヤーチキーの上の人物が秋良の名字を呼んだ。驚いて振り仰ぐと、(くわ)を肩に担ぎ、秋良と同じ制服を着こんだ青年は見知った人物だった。

「会長!? なんでこんなところに」

「魔王を倒すための仲間を募りに来たんだ」

 ひょいとヤーチキーから飛び降りた青年は秋良の肩を軽く叩く。

「まさか別所もこの世界に来ていたとは。驚いたな」

「それはこちらのセリフです、会長」

 勇也は生真面目な秋良の言葉を笑い飛ばした。

「水臭いぞ、別所。ここは高校じゃないんだ。生徒会長なんて肩書は気にしないで、俺のことは勇也(ゆうや)と呼んでくれ」

「……はあ」

 生徒会書記として生徒会会長の城築勇也(きづきゆうや)と関わっていた秋良は、居心地悪そうにみじろぎした。

「ここで出会ったのは運命だと思う!」

「は?」

「別所、いや秋良。俺と一緒に来てくれ! ともに戦い、魔王を倒そう!」

 がしっと秋良の手を握って、勇也は目を輝かせて王国から外へと向かう城門の方向に指を突きだす。

「いざ、行かん! 魔王城へ!」

 その時、人垣の中から柔らかな女性の声が聞こえた。

「この世界に魔王はいませんよ」

 その一声で、人垣が割れた。街人、転移者、皆の視線を受けて立っているのは、まだ十代も前半だろうと思われる小柄な少女だ。真っ白なローブにさらりとかかる長い緑の髪、まっ白な肌、金色の丸い目には慈愛溢れる輝きがある。

「転移者の方には魔王を探すとおっしゃる方が多くいらっしゃるのです。皆さんに申し上げるのですが、数百年前から世界の探査は続けられています。そして、魔王がいないことは証明されています」

 勇也が力強い足取りで女性の前に歩み寄る。

「君は?」

「異世界より転移された皆さまのお世話係を務めております。フキル教会の司祭、マールと申します」

「マール。質問だ。魔王は誰かが倒した後なのか?」

「いいえ」

「ならばきっといる。なぜなら、この世界には魔物がいるからだ」

 マールは困った様子で眉を下げてしまったが、それでも優しく微笑んだ。

「魔物は勝手に生まれるものです。魔王が作り出すといったおとぎ話のようなことは……」

「君は」

 勇也が肩から鍬を下ろし、ひたりとマールを見据える。

「魔物を見たことがあるか」

「いいえ、それは」

 マールから笑顔が消える。

「ありません。魔物が出没するようなところに出向くことを、私たちフキル教の司祭は禁じられております」

「俺は魔物を見て、戦った。魔物には人間を襲うという明確な意思がある。それはなぜか? 魔王が操っているからだ」

 マールはまっすぐに勇也を見つめているだけで、肯定も否定もしない。秋良が勇也と並び、マールに語り掛けた。

「マール司祭。先ほども言いましたが、『ない』ということは証明できないはずです」

 マールは秋良に純真な微笑を向ける。

「秋良、あなたならよく知っているでしょう。この世界は隅々まで精査されていること。すべてが書物に収められていること」

 勇也がずいっと前に出る。間合いを詰められたマールは眉を顰め鼻を手で覆って、そっと後ずさった。勇也の制服は泥まみれでいかにも臭そうだ。

「では、魔物がどこからやってくるのか、それもこの世界では知られているのか」

「いえ、それは……」

「俺は見た」

 勇也の言葉に目を丸くした秋良の声が大きくなる。

「本当に!? いったいどこから? 文献をいくら探しても、魔物がどこからやって来るのかは全く書かれてないんだ」

 勇也は背筋を伸ばして力強く言い切った。

「魔物は、地面から湧く」

 周囲が、しん、と静まった。マールは驚きで目を見開き、秋良はあっけにとられたように口をぽかんと開けた。

「プッ」

 人垣の誰かが噴きだしたと思うと、それが伝播して、集まっている人が次々に笑い出した。勇也は平然と笑いの渦の真ん中に立っている。

「地面から湧くって、それじゃ草かなにかみたいじゃないか」

 勇也を指差して笑いながら言った男に、勇也は向き直る。

「そうだ。植物のように生まれ出る。だが、植物は光で育つが、魔物は闇を吸って生きる」

 笑いはますます大きくなった。もう誰も勇也の言葉を真面目に聞いていない。

 ただ一人、勇也の言葉を秋良だけが真剣に検討していた。

「それは、あり得る」

 マールがまた眉を顰めた。

「秋良、そんなことはあり得ません」

「なぜですか。人間は魔物のことを知らなすぎる」

「そんなことは、ありませんよ。世界のことはすべて研究され、必要なことは書物に収められています。魔物のことが書かれていないと言うことは、不必要だからです」

 反論しようとしたのか口を開きかけた秋良は、マールから視線を反らして勇也に向き直った。

「先輩、魔物と遭遇したのはどこ……」

「勇也と呼んでくれ」

 勢いよく人差し指を鼻先に突き付けられて秋良は不快気に眉を顰めた。

「……勇也先輩」

「先輩はいらん。遠慮するな」

 深いため息を吐き眼鏡を押し上げて、秋良は気持ちを切り替えたらしい。

「勇也、魔物はどこにいるの? どこに行ったら見ることが出来る?」

「どこでも、だ。魔物はこの世界のどの国にでもいる」

 サワヌーの人もぞろぞろと集まって来ていたが、ヒズム国民よりは魔物の話に興味があるようだ。真面目な表情で耳を傾けている。その人たちの表情とよく似た困惑を秋良は浮かべた。

「俺はこの世界に来てから一度も魔物を見ていないんだけど」

「ヒズムは特別なんだ。フキル教の僧兵が国境線で魔物を退治している」

 秋良が驚いて見ると、マールは穏やかに口を開く。

「フキルの僧兵は警備のためにおりますが、魔物と戦うなどということは……」

「よし。見に行こう」

 そう言うと勇也は片手でマールを肩に担いだ。

「きゃあ! なにをするんですか!」

「魔物見物だ。僧兵が目を配っているから、強い魔物は出ない。安全に観察できるぞ」

 マールとは反対の肩に鍬を担いで、勇也はずんずんと城門目指して歩いていく。

「行きません! 私は行きませんから、下ろしてください」

「遠慮しなくても大丈夫だ。君一人くらい軽いものだ」

「そういう意味ではなく……!」

 騒ぎを聞きつけたらしく、城の方角から衛兵が近づいてきていることに気付いた秋良が、慌てて勇也の後を追う。

「秋良、この人を止めてください。フキル教の司祭は許可なく街を離れることを禁じられています」

 マールの話を聞かず秋良は後ろを振り返った。すぐそこに衛兵が追い付いてきているが、フキル教の司祭であることを示すローブを身にまとっているマールが担がれているという状況に戸惑っている。声をかけていいかどうかと迷っているらしい。秋良はマールに小声で話しかけた。

「司祭、僧兵は毎日目覚めると、どこへ向かいますか?」

「はい?」

 マールが問い返すと、秋良はさらに小声で同じ質問をする。

「僧兵はどこへ向かいますか?」

「城門へ向かいます」

「城門へ向かうのですね?」

 突然大声になった秋良につられてマールの声も大きくなる。

「はい、城門へ向かいます」

 その言葉を聞いた衛兵は不可解だと言いたげな顔をして秋良を見つめた。

「司祭、僧兵は城門から外へ出る許可を得ているのですか?」

 また小声で尋ねる秋良にマールは不思議そうにしながらも素直に答える。

「はい、許可は得ていますよ」

 衛兵がマールの声を聞いたことを後押しするように、秋良はきっぱりと言う。

「これから司祭は城門へ向かいます。許可を得て」

 秋良が言うと、衛兵は「はあ」と呟いて、三人を見送った。


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