魔王
皆が乗り込むとすぐに、ナベユテは上昇した。
「助かったよー、ザエさん。ありがとう」
肩で息をしながらカザミが言う。ザエスンエは笑顔で何度も頷く。
「良かったです、良かったです、皆さんご無事で」
マールが両手を組んで言う。
「本当にありがとうございます。ずっと待っていてくださったんですか?」
「いえ、申しわけないです。一度、駐機場に戻りました。そこへスー公国から緊急の要請を受けましてね」
「スー公国から? いったい、どんな」
「大穴から闇の力の上昇が計測されたと。近隣住民の避難と大穴の現況報告を頼まれましてね。住民はすでにこのナベユテに搭乗済みです。大穴の状況は、外から見てもなにも変わらないように思いましたが、なにか背筋がぞわぞわするような恐ろしいものを感じて、ライトを向けていたんですよ」
「おかげで助かったわ」
カザミが大きなため息をついた。ザエスンエがカザミの手を軽く握る。
「これからスー公国に入ります。住民は保護を受けられるはずです」
「スー公国か。フキル教の総本山ね。そこなら、もしかして無事でいられるかもしれない」
カザミの言葉に、ザエスンエが戸惑いを見せる。
「いったい、何が起きたのですか。無事でいられるとは、どういう意味でしょう」
その問いにカザミはうまく答えることが出来ず、ザエスンエはマールに視線を移した。
「闇が大穴から出てきます」
「闇が? それは魔物が出てくるということですか?」
マールは首を横に振る。
「大穴の中に、魔物はすでにいません。残っているのは、ユムのみ」
「ユムとは……、ユム教の神!?」
「そうです。フキル神に敵対する者。世界にあまねく災厄をもたらすもの」
ザエスンエは額に手を置いて、よろりとよろめいた。
「そんな、まさか。神が実在すると?」
マールはじっとザエスンエを見つめる。ザエスンエはなにも言えず、カザミを見る。
「いたわ、闇、ユムというのね。光もいるそうよ」
「いるそう、とは。誰かがそのように言っていたのですか?」
秋良が力尽きたという様子でイスに座り込みながら言う。
「泉です。女性の姿をしていたけれど、中央の泉であると言っていました」
ザエスンエが目を丸くする。
「まさか、泉の精霊まで実在するとは!」
勇也が尋ねる。
「泉の精霊というのは、どういうものなんだ」
「この世界の真ん中に泉があります」
「先ほど聞いたな」
勇也の言葉に、ザエスンエは深く頷く。
「その泉にまつわるおとぎ話です。この世界の子供は、おそらくほとんどが聞いたことがあるでしょう」
カザミが床に座り込む。
「聞かせて、ザエさん。たぶん、今私たちに必要な話よ」
ザエスンエは頷き、語り始めた。
「この世の始まりに、光と闇があった。光と闇は互いを憎み争い合った」
言葉を切ると、ザエスンエは丸い機械のボタンを押した。室内に映像が投射され、草地に湧き出る泉を映しだす。
「光と闇は絶えることない憎しみに疲れ、争いを納めるためにゲームを始めることにした。光が空を作り、闇が地を作った。二つの力が混ざり合うと、そこに泉が湧いた」
黙って話を聞くことに堪えきれなくなったマールが震えながら叫ぶ。
「それはただのおとぎ話です! フキルの教えには、この世界は光の祝福で出来たとあるのです。闇の力などが世界に関わっているはずがありません!」
秋良が立ち上がり、マールの手を取る。
「話を最後まで聞いてみたいんだ。俺たちには情報が足りない。おとぎ話でも、大切な何かが伝わっていることもあるよ」
マールが唇を噛んで俯き、ザエスンエが再び話を始めた。
「泉には意思があった。その意思には決して逆らわないと光と闇は固く誓った。その誓いによって、光のために光の精が、闇のために闇の精がそれぞれ生まれ、公平であることを監視している。朝があり、夜があるのは泉の精がいるおかげである」
ザエスンエは丸い機械のボタンをもう一つ押した。ナベユテの壁が透明になり外の景色が見える。
「前方の高い塔がフキル教の大聖堂です。屋上にポートがあります、そこに降りますよ」
きょろきょろと景色を見ていたカザミが、ガバッと立ち上がる。
「闇がもう出てきてる!」
ナベユテの後方、大穴の方角をカザミが指さす。
夜の空は暗い。それを闇だと皆思っていた。だが今、本物の闇が空を覆い広がっていく様を見て、夜がどれだけ明るかったかを知った。
愕然と闇を見つめていたザエスンエがはっとして、壁に手を突き叫んだ。
「フキル教会に連絡を! 大穴から闇がやってきていると!」
「承知いたしました」という返事があり、ザエスンエは壁から手を放した。
その連絡は必要なかっただろう。大聖堂の屋上には多数の人影が見えている。近づくにつれ、それらが皆、フキル教の神職のローブを着ていることがわかる。
壁からまた声が聞こえた。
「スー公国からの伝達です。大聖堂は封鎖、一般人の立ち入りを拒否し、闇と対抗するため交戦体制に入る。貴ナベユテにおいては隣国、ヒズム王国へ避難されたし」
「わかった。進路変更だ」
真っ直ぐ大聖堂を目指していたナベユテが船首を右に展開する。あっという間に大聖堂から離れ、ヒズムとの国境の川が見えてくる。
後方に目をやると、大聖堂の屋上から何本もの光の柱が空高く登っていくのが見えた。
「闇が光を飲み込んでいるわ」
カザミの呟きに、勇也が頷く。闇は空高くから光に覆いかぶさり、屋上に向かって降りていく。
「大聖堂をズーム」
ザエスンエの声とほぼ同時に大聖堂が大写しになった。神職の者たちが屋内に逃げていく様子が見える。闇は大聖堂の屋上に降りていき、そこにわだかまろうとしているようだ。
「なんだ、なぜ止まった?」
大聖堂の中で神職たちが祈りを捧げているようで、あらゆる窓から光が放たれている。まるで大聖堂が自ら光っているかのようだ。その光が四方に広がり、朝かと見まがう。だだ大聖堂の上空だけが、ぽっかりと暗い。
わだかまっていた闇が、上方に伸びあがっていく。
「月です」
マールがぽつりと呟く。
「月を狙っています」
その声が聞こえたかのように闇は勢いを増し、空で弱い光を放つ、ムッテと呼ばれる三つ目の小さな月を飲み込もうとした。
その時、月がぐんと大きくなり、光が闇に突き刺さった。
「フナテ!」
ザエスンエが一つ目の月フナテのまばゆさに目を細めながら、その名を呼んだ。
「そうか。今日からフナテの巡り。これなら闇も退くのでは」
闇はフナテを恐れたかのように地表に向けてそっと下降を始めた。
大聖堂の窓から漏れ出していた光は、今はほぼ見えず、暗く黒い穴でしかない。闇はその穴の上を通り過ぎ、地表に降りた。そこから大聖堂の影に沿ってナベユテの後を追うように動き出す。
「追ってくるわ!」
カザミの声にマールが応える。
「いいえ、ナベユテを追っているのではありません。闇の中で泉の精が叫んでいます。闇はウツビアを目指していると」
「ウツビアって、ヒズムの首都? 目当てはヒズムの王城?」
マールは首を横に振る。
「目指しているのはサワヌー、転移者のみなさんが住んでいるところです」
「闇はなにを求めているんだ? 闇がゲームをしているのだとしたら、この動きの意味するところは、なんだ?」
勇也の言葉に、秋良が闇を睨みながら答える。
「転移者の集まりを、光が打った一手と勘違いしているとか」
カザミが頭を抱える。
「あー、もう! 考えてもどうにもならないことは、考えない! とにかくサワヌーとやらに行って、闇から転移者を守る! それだけよね?」
マールが力強く頷く。
「はい。転移者の皆さんを必ず助けましょう。それがフキル神からいただいた私のお役目ですから」
ナベユテは全速で航行して闇を振り切り、ウツビアにたどり着いた。ウツビアの街は騒然としていた。人々は道に出て、空を見上げ、指さし、闇に脅えている。
ナベユテが城門に近い場所に降りると、数人の僧兵が駆け寄って来た。マールを先頭に、四人が駆け降りる。
「マール司祭! ご無事でしたか!」
「現状はどうなっているのですか?」
「ムッテモ、スー公国、両国から連絡が入り、闇が動き出したと」
「知っています。それから?」
「サワヌー中央広場の噴水に異変があると」
「異変? いったい、なにが」
「噴水から、魔物が出没していると」
「城壁の中に魔物が!?」
「マール! 来るわ!」
カザミの声に空を見上げると、月の光が消えていた。地上に降りたナベユテのライトに照らし出されたのは地上付近だけだ。空は闇で覆われていた。
「サワヌーに護衛を送ってください! 魔物を闇に近づけてはダメ、闇が力を増してしまいます!」
マールの差配に僧兵の一人が駆けだし、城門へ向かう。かなりの俊足だが、闇は刻々と近づいてくる。
勇也もカザミもマールも見ていることしか出来ない。街の方を見やれば、どこに逃げることも出来ない人々が泣き叫んでいる。
秋良はぎゅっと拳を握った。右手のクロスが熱を発している。闇に反応して光を呼びたがっている。
「フキル神よ!」
両手を天に突き付け叫ぶ。
「秋良、だめ!」
マールの制止も聞かず、秋良は祈りの言葉を続けた。
「フナテの光を、今、ここに!」
辺りに痛いほどの静寂が広がった。すべての人の体を圧する爆発的な力。耐えられず地面に膝をつく者もいる。あまりにも重く、途方もなく突き刺さる力。
祈りに呼応した一つ目の月の光が、闇を切り裂いて秋良を射た。
「秋良!」
強すぎる光に身を焼かれ、秋良はもんどりうって倒れた。その光を追って来た闇が、恐ろしい速さで躍りかかる。秋良の姿は闇に飲まれ消えた。
***
「馬鹿なやつ」
声が直接、頭の中に響く。
「自ら闇を呼び寄せ、囚われるとは」
なにもない。ここには、なにも。
「人が闇に抗うことなど出来はしない。人の半分は闇。闇はお前らの親のようなものだ」
体も、心も、消え失せた。
「人は光の領分に住んでいると思い込んでいる。光の住人だとな。だがそれは妄想だ」
一面に広がる空虚。
「魔物が光を恐れながらも光のもとでも生きられるように、人も闇と融和する」
一面の空虚は、しかし、一面の全てでもある。
「もう、人の意識もなくしたか。もろい生き物だ。哀れだな」
ここには、知識のすべてがある。
「闇は欲していたのか」
秋良の声が闇の中で響く。
「……お前。まだ己を保っていたか」
「闇は光を求めていたんだ。何千年、いや、何万年? 闇にとっては塵のように小さな時間。だけど、狂おしいほどに焦がれ続けた永遠なんだ」
泉がフッと鼻で笑う。
「詩人気取りか。この状況で暢気なことだ」
「やっとその時が来た。そう思ったのに、それが間違いだと気付いたら闇はどうするだろう」
「さて。すぐにわかるのではないか? もうサワヌーにたどり着く」
闇は、転移者の集落に触手を伸ばす。
***
「魔物が来ます!」
マールの叫びに空の闇を見上げていた僧兵たちがサワヌーの入り口に目を向ける。だが、街も城門も静かだ。
「きゃー!」
叫び声はサワヌーの中心部から聞こえた。皆が駆けだすと、街へ向かって逃げていく大勢の転移者と向かい合う形になった。
「待ちなさい! 街へ行ってはだめ!」
両手をいっぱいに伸ばして逃亡者を止めようとしたカザミを、転移者の男が付き飛ばそうとした。
「うるせえ! 俺たちを囮にして自分たちだけ助かる気だな!」
「外に出た方が危険なの。魔物なんかより、もっと恐ろしいものが……」
「動くな!」
辺りに轟く大音声に、あるものは耳を塞ぎ、あるものはしゃがみこみ、あるものは、その声の正体に目を向けた。
「来い」
その者の声に惹かれて、魔物が駆け出し、集う。
「……ま、魔王だ」
転移者の一人が呟く。
「この世界に魔王など、いな……」
言い含めようとしていた僧兵は、その者の姿を見上げ、言葉を失くした。
屋根の上に立つ黒い髪の男。闇から降り立ったかのような黒い衣。闇を背に堂々と胸を張る姿。
「魔王だ」
「本当にこの世界には魔王がいたんだ」
ざわざわと転移者が口にする「魔王」という言葉に、僧兵たちの顔色が青ざめていく。
魔物を従え、闇を纏い、光を受けぬ影。
その影が叫ぶ。
「死にたくなければ、その場に伏せろ」
黒い影は得物を高々と掲げる。転移者も僧兵も、地に顔を伏せ、恐怖に震えた。
「今だ!」
「消えろ」
冷え冷えとした少女の声に、魔物達が固まった。魔物は一瞬で塵と消え、闇の動きが止まった。靄のように薄まり、宙に広がっていく。
月の光が戻り、男の姿を照らし出す。
人々は魔王の降臨を見た。