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ナベユテと飛ぶ

「それで秋良(あきら)はそんなものを身につけているのか」

 勇也(ゆうや)が腕を組んで「ふむ」と言う。

「そんなものって言わないの。フキルの信者にとって大切なものだよ」

 秋良は右手に指先のない手袋のようなクロスと呼ばれる白い布を付けていた。

「しかし、マールは付けていなかったが」

「フキル神の教えに近づくほど、神装具は少なくなっていくんだって。入信したてだと、身につけるものが多い」

「ということは、秋良はほかにも何か身につけているのか」

「あとは、手首と足首に細いリボンみたいなものを結んでるよ。この五つでフキル神の息吹を身体に取り込んでるみたい。世界がきらきら輝いてるみたいに、美しく見えるんだ」

 勇也は優しい笑みを見せる。

「それはいいな。世界を好きになれそうだ」

「それより、勇也はどうなの。魔物疑惑は解けた?」

 勇也は検査のためのコードがついたままの腕を曲げてみせた。

「いや、まだだ。魔物の反応が服から出たのは間違いないそうだ。だが、俺自身の体がどうなっているのかは研究途中だ」

「じゃあ、外出許可はまだ出ないの」

「しばらくはだめかもしれない。今はなにやら運動能力に関することを測定されているだけなんだが、それでも研究者は魔物を見るような目で俺を見ているようだからな」

「勇也の強さは人間離れしてるから。マールの光を取り戻すために移動するのは、外出許可を待ってからだね。少しゆっくりしたらいいよ。いろいろ疲れたでしょ、勇也も」

 勇也はきりっと表情を引き締める。

「そうも言ってはいられない。この世界でなにかが起きている。今まで感じたことがない、ざわついた空気が空に満ちている」

「空に?」

「秋良は感じないか。光がなにかに阻害されてまっすぐに下りてきていないような感じだ」

 問われて窓辺に立つ。空はいつも通り明るく、どこまでも広がっている。

「っ!?」

 突然、秋良の四肢が熱くなった。右手に付けたクロスにも力が集まるようで、体中がエネルギーの塊になったような高揚感を覚える。

「なんだ、これ」

「空が、暗い」

 勇也の呟きを追って空を見上げても、秋良には暗さは目に見えない。だが、精神的ななにかが闇の到来を感じている。

「勇也には何が見えてるの?」

「黒い靄のようなものが空を覆っている。ごく小さな生き物が集まっているようにも見える。揺らめいているのか……、蠢いているのか」

「そんなもの全然見えないんだけど」

「魔物かもしれない。行ってみよう」

 そう言うと、勇也は体に付いているコードをぶちぶちと引き抜いた。

「それって、そんな扱いでいいの?」

「いいさ。研究ならまた一からやり直せばいい」

「勇也が実験してる当人みたいな言い方。どうなのそれ」

 角を曲がると人とぶつかりそうになり、勇也はぴたりと立ち止まった。

「マール。元気か」

「勇也、なんでこんなところに? 研究は?」

「休憩だ。マールはどこへ?」

「勇也のところへ行くつもりでした。空を見ましたか?」

「ああ。屋上に行くところだ」

「私も行きます」

 マールは先頭を切って走り出した。

 屋上には数十人の科学者や宗教関係者が集まっていた。

「勇也、どうして君が」

 研究者の印の紫色のローブを着た女性が近づいて来た。

「ズラウ教授、空のあれは魔物ですか」

 勇也の視線を追ってズラウも空を見上げる。

「まだわからない。ただ、天文学者は光をまったく受け付けていない物質だと言って……」

「魔物です」

 マールが空を睨みながら、きっぱりと言う。

「街の人を屋内に避難させてください。あれは呼吸とともに体内に侵入するつもりです」

 ズラウが厳しい視線をマールに向ける。

「なぜ、そんなことがわかるの?」

「いいから、早く……!」

 マールの言葉が終わらないうちに、空の黒い靄は錐状に集まって、屋上に向かってきた。

「伏せろー!」

 勇也の叫びに反射的に動けた者は少なかった。大多数の者が黒い靄の侵攻を受けた。

「秋良! 祈りを!」

 マールが秋良の腕を引く。

「フキル神よ、その光であまねく世界を包みたまえ!」

 しん、と静寂が訪れた。黒い靄は動かなくなり、人々はそっと目を上げた。

 突如、爆発的な光が空に広がった。秋良の手の甲のクロスが暴風を受けたかのようにはためいている。靄状の魔物は霧散し、煙のように消えた。

「秋良……」

 あまりの光量に驚き、呆然と呟くマールは、秋良の腕から手を放すことが出来ない。秋良は自分の右手をぎゅっと抱きしめ、見下ろす。両手がぶるぶると振るえている。

 その場にいた人たちは皆、秋良に視線を向けて当惑した表情を隠せなかった。


  ***


「で、私に内緒で出発しようとした理由を聞きましょうか」

 カザミの口許は微笑みを湛えたかのように弓型に引き上げられているが、その目は少しも笑ってはいなかった。

「ここからは足手まといになると判断したからだ」

 勇也の言葉を聞いたカザミは一瞬にして鬼神のような恐ろしい表情になる。

「私の強さは知ってるでしょう。なにが足手まといよ。最後まで一緒に行くわよ」

「待て。もう一つ、カザミには役目を担ってほしいんだ」

「なんの役目?」

「俺たちは研究対象としてギッサエに留まるよう要請されている。つまり、俺たちは今ここから逃げ出そうとしているんだ」

「それで?」

「カザミが残ってくれれば、目くらましになる」

「ならないわよ! 私が一人で残ったら、必死にみんなを探して追いつくに決まってるでしょ」

「やはり、そうか」

 カザミの表情がますます厳しくなる。秋良がそんなカザミに聞こえないように小声で言う。

「勇也、やっぱりカザミにも一緒に来てもらった方がいいよ」

「なぜだ」

「マールを守ってもらうため。俺は魔物を見ることが出来なくなってしまった。魔物が近づいたときに、咄嗟に反応できなければマールに怪我をさせる」

 勇也は腕を組んで「ふむ」と考え込む。その間にカザミは秋良の顔をぺたぺた触りだした。

「やめてよ、カザミ」

 秋良に手を払いのけられても、カザミはなんとかして触り続けようと腕を伸ばす。

「この目が赤くなってる感じ、見たことがある。道場にもこういう子がいたわ。突然、魔物が見えなくなったの」

 マールがカザミに縋りつく。

「本当ですか!? その子はどうなりました? ずっと魔物が見えないままですか?」

「いえ。数日で見えるようになったわ。見えなくなった原因は、フキル教に入信したときの洗礼だったそうよ。光に耐性がないと目が眩むんですって」

「じゃあ、秋良の目も」

「すぐに見えるようになるでしょ」

 マールが泣きそうに顔をクシャッと歪めた。

「良かった、良かったあ」

 そう言うと堰を切ったように涙がぽろぽろ零れだした。秋良が笑顔を見せる。

「マール、やっぱりあなたのせいじゃなかったでしょう。もう泣かなくていいんだってば」

「な、泣いてません」

 カザミが合の手を入れる。

「そうね、目から鼻水が出てるだけよね」

「鼻水じゃありません!」

 秋良がハンカチでマールの涙を拭いてやっていると、勇也が宣言した。

「一緒に行こう」

「当然でしょ。まったく、なにをとち狂ったかと思ったわよ」

「ただ、問題が一つある」

「なに?」

「俺たちはナベユテに密航するつもりだ」

「は? 密航? なんで?」

「金がないからだ。乗船料がバカ高い。ナベユテの船倉に酒樽に入って忍び込むのだが、三つしか準備出来なかった」

 カザミはぽかんと口を開けて聞いている。

「なので、カザミには出発を告げなかったんだ」

「おバカさんね。それこそ一番に私に話しなさいよ」

「なぜだ」

「大人だからよ。ギッサエには銀行もあるの。お金が借りられるわよ」

「そんな信用がカザミにあるとは思えないのだが」

「失礼ね! ススラエ道場のカザミさんって名前だけで、どっかんと貸してくれるわよ。見てなさいよ」

 大股に歩き出したカザミの後ろ姿を見て戸惑う勇也と秋良の背を、マールが押す。

「行きましょう。なんだか心配です」

 そのマールの心配通り、カザミは銀行の門前で止められてしまった。白亜の宮殿かと見まがうばかりの豪奢な建物には、やはり豪奢な門があり、簡単には入れないのが一目でわかる。そこに豪奢な制服を着た門番が立っていた。

「なんで入れないのよ!」

「規則だからね。一般人はダメだよ」

 カザミは背伸びして、いかつい体格の門番に噛みつかんばかりの勢いだ。

「じゃあ、誰なら入れるの」

「各国の首脳、ムッテモの豪商、あとは子供でも知ってる有名人かな」

「なるほど。子供程度の知識しか持たないあなたが知ってる人間だけ通すってわけね」

 門番はむっとしたが、態度は微塵も変わらず「ダメだよ」とだけ言う。挑発に乗ってこない門番に、カザミは「イー!っだ」と子供のように歯をむき出しにした。

 呆れた表情のマールがカザミの腕を引っ張る。

「もう諦めて、他の方法を探しましょう」

「マール、悔しいよう」

 泣き言を呟き抱きついてくるカザミの背中を撫でてやっているマールを見た門番が近づいて来た。

「あなた、フキル神教の方じゃないの。神職かね」

「はい。司祭をしております」

「身分を証明するものをお持ちかな」

 マールがローブの下から銀色の銘板を取り出して掲げた。

「はい、確認したよ。銀行にご用かい?」

「マールなら入れるの?」

「もちろん。フキル教の司祭なら大歓迎さ」

「私、お金を借りたいのですが」

「うんうん。大丈夫だよ。司祭様なら無制限の低金利で貸し付け出来るはずだ。教会が返済を助けてくれるからね。ほら、入りな」

「私も行く!」

「まあ、付き添いがいても大丈夫なんじゃないかな。入ってすぐの受付で聞いてみな。おっと、あんたたちはここで待ちなよ。黒い服のやつが銀行に入ったらお客様が驚くだろう」

「それもそうか。マール、外で待っている」

「はい、では行ってきます」

 マールとカザミが銀行に入ると、門番は暇なようで、勇也と秋良相手にお喋りを始めた。

「あんたたち、金はなにに使うんだ?」

「ムッテモ行きのナベユテに乗りたいんだが」

「ああ、なるほど。ナベユテはバカ高いからなあ。ムッテモにはなにをしに?」

「穴掘りだ」

 勇也が担いでいる(くわ)に目を留めた門番は「なるほど」と頷く。

「あの大穴かね。ムッテモとスー公国の国境線にある」

「そうだ」

「ロマンだよなあ、太古の遺跡なんだろ? 深いところには宝物がどっさりだって言うじゃないか」

「俺たちは宝物じゃなく、光を取り戻しに行く」

「なんだい、そりゃ」

 勇也と秋良は顔を見合わせた。危機的状況を秘密にすべきか、話して情報を持っているか尋ねるか。目で会話した結果、秋良が一から説明しようと口を開く。

「さっきの司祭がフキル神の加護を失くしてしまったんだ。けど、失くしたその日にお告げらしいものがあって、そこへ行けば光が見つかるかもしれないって」

「へーえ。穴の中は真っ暗闇だっていうけど、光があるかねえ」

 勇也が尋ねる。

「あなたは大穴について詳しいが、ムッテモに行ったことがあるのか」

「いいや。ここに立ってるとな、勝手に情報の方からやってくる。穴掘り資金を借りに来る人も多いんだ。ああ、ほら。有名な常連さんが来た」

 門番が顔を向けた方にスーツに似た造りの服を着た、見るからに紳士といった風情の初老の男性と、そのお付きらしい茶色のローブ姿の細身の男性が歩いてきていた。

 紳士は近隣の店から出て来た者たちに、にこやかに挨拶をしていて、なかなか銀行に近づいてこない

「商業連合体、ムッテモ一の豪商、ザエスンエさんだよ。金持ちには人を見下すやつも多いが、ザエさんは人を大切にする温かい心根を持った人だよ」

 そのザエスンエは遠くから門番に向かって大きく手を振った。門番も振り返し笑顔を送る。ザエスンエは街の人全員と知り合いなのかと思うほど、誰もかれもに丁寧に挨拶をしていた。

 彼が百メートル向こうから銀行の門前までやってくるのに、優に十分はかかっただろう。

「やあ、メアビア。元気だったかな」

「もちろんだよ、ザエ。俺には元気しかないからね。ザエも元気そうだ」

「もちろん、もちろん。毎日、武術の鍛錬をかかさないからね、健康優良さ。さて、ザエ。こちらの若いお二人は君のご友人かな」

「いやいや、お客さんのお連れの方だよ。待ってる間の暇つぶしに話をしてくれてるだけでね」

 ザエスンエは丁寧にぺこりと頭を下げた。

「私はザエスンエと申します。お見知りおきください」

 勇也と秋良は学生らしい実直さでお辞儀を返す。

「俺は勇也、こっちは秋良といいます」

「勇也くんと秋良くんだね。見たところ異世界からのお客さんのようだが、この世界で不都合はないかね」

 この質問に、また二人は顔を見合わせ、今度はすぐに秋良が答えた。

「おかげさまで、ヒズム王国に保護されたので、問題なく過ごしていました。ただ、今はちょっと……」

 ザエスンエは心配げに眉を落とした。

「なにか困りごとかね」

「いろいろと苦難に会っています」

「なんと。なにがあったのか聞いてもいいだろうか。私でわかることなら解決のために尽力しよう」

「ありがとうございます。実は……」

「あれえ、ザエさん?」

 明るい声が門の中から聞こえたと思うと、すごい勢いでカザミが駆けだして来た。

「やっぱり、ザエさんだ! ひさしぶりー、元気だった?」

「なんと、カザミ師範代。こんなところでお目にかかるとは。いや、相変わらずご壮健のご様子」

「やだなー、もう。ザエさんは、いつも固いんだから」

「大恩ある師範代に無礼があってはなりませんからね」

 秋良が二人の顔を代わる代わる見ながら尋ねる。

「カザミ、知り合い?」

「道場の遠征修行に参加してくれたのよ。このお年なのに上達が早くて、もう拍手喝采だったの、ザエさんは」

「いやいや。師範代のご指導の確かさを見せていただいたおかげですよ」

「この通り、謙虚だし、礼儀正しいし、優しいし、親切だし、色男なのよ」

 ザエスンエは照れてしまって、ぐにゃぐにゃと体を揺らした。

「そんな、師範代。褒めすぎですよ。それより、銀行へはどんなご用でいらしたんですか?」

「それがねー。聞いてよ、ザエさん。お金を借りに来たんだけどさあ。あ、マール、こちらはザエさん。ザエさん、マールはフキル教の司祭なんだよ」

「おお、まだお若いのに、素晴らしい」

 てくてく歩いて来たマールはザエスンエに弱々しい微笑を見せる。

「なにか、不都合でも」

「フキル教の司祭ならお金を貸してもらえるって、門番さんが言ったんだけど、行ってみたら、マールが若すぎて司祭だって信じてくれないの」

「や、それはひどい。ですが銀行で借りられなかったのは、かえって良かった」

 ザエスンエはお付きの男性に手を差し出した。男性はローブの袖で隠れていた布包みを出し、ザエスンエに手渡す。

「これを師範代に」

 そう言って手渡された布包みを、カザミはものすごい勢いで開けた。

「お、お金ー! しかもこんなにー!」

 何百枚とある金属製の薄い板のうち一つを目の前にかざして目を輝かすカザミに、ザエスンエは微笑みかける。

「今日は銀行に預けようと持ってきたのですが、師範代に預けた方が良さそうですからね」

 マールが恐る恐る口を開く。

「こんなにたくさんのお金を貸していただいても、教会の担保もなく、返せる宛てがないのです」

 ザエスンエは満面に笑みをたたえてマールに向き直る。

「返していただかなくて大丈夫ですよ。これは師範代への感謝の気持ち、そして若者の問題解決への手助けです」

「問題解決?」

 マールが首をかしげると、ザエスンエはちょこんと頷く。

「詳しいお話を伺いたい。どうぞご一緒に、私のナベユテでお茶を召し上がってください」

 カザミの目がさらに輝きを増す。

「ナベユテ?」

「はい。師範代にお目にかけるのは初めてでしたか?」

「初めてよ! そして、グッドタイミング!」

 ザエスンエは不思議そうな顔をしたが、カザミのはしゃぎっぷりに、すぐに相好を崩した。


 ザエスンエのナベユテは高速艇だという。ギッサエのナベユテと比べると、スリムな流線形の船体は段違いに早そうだ。装甲は金属ではなく、テグ帝国の転移者を捕らえていた牢で見た、セケルーアという透明な膜に似た材質で出来ているらしい。軽くて丈夫で、その分かなり高価だという。

 カザミがムッテモまでの同行を頼み、現在、ナベユテは空に浮かんでいる。

 ナベユテの客室は見たことのないもので溢れていた。なにに使うのかまったく予想もつかないボタンがたくさんついた球形の機械。壷なのか鍋なのかわからない形状の置物かもしれないもの。天井に張ってあるザエスンエの肖像画。この世界の人には見慣れた代物なのかと思いきや、マールでさえも、秋良とカザミと同じように珍しげにキョロキョロしている。

「不思議なお話ですねえ。それで、お告げの内容というのは」

 一人、落ち着いてザエスンエと話をしていた勇也がマールに呼びかけた。

「マール、もう一度、夢の話をしてくれないか」

 こくりと頷くと、マールは宙を見ているような視点の定まらない目をして話し始めた。

「初めは光に包まれていたのです。真っ白な空間で。『深淵へ、地を掘り、眠らせ』『次の手はまだ』『闇を、眠らせ』。そういう声がしました。そこへ闇がやってきて『次の手を』『光の手を』と私に要求したのです。そして私の中から光を奪っていきました」

 ザエスンエは首を捻る。

「それは確かにフキル神のお告げだったのですか?」

「……わかりません。ですが、もう、この夢にすがるしかないのです。私の光が本当に闇に奪われたのなら、深淵が地の底にあり闇のすべてなら。取り戻したいのです」

 力なく言うマールを慰めるように、カザミがそっと腕を撫でる。ザエスンエは「ふーむ」と言って立ち上がった。

 居室中央に配置された謎の金属製の球形の機械に近づき、ボタンを一つ押す。球の上半分が形を変え、この世界の立体模型となる。四人は球に寄って行き、なにが起きるのかと注目した。

 円盤状の外周にぐるりと山が連なり、その内側に礫砂漠が、さらに内側に森が三重の輪になっている。

 円の中心に泉があり、外周へ向けて、放射状に六本の川が流れている。その川と川とに挟まれた土地が一国の領土だ。

 ザエスンエは川を挟んで隣り合った商業都市ムッテモとスー公国の国境付近を指差した。

「ここに大穴が開いたのは今から百五十年ほど前と言われています」

 その言葉が聞こえたかのように、指さされた場所にぽっかりと穴が空いた。

「川の水が滝になって大穴に落ちていく。下流に水が行かず、この辺りの森は枯れて魔物は出ません。その代わり、魔物は大穴から這い出てくるのです」

「では、穴の中は魔物だらけなのだろうか」

「わかりません。大穴に入っていく者はいますが、出てきた者は一人もいないのです」

 勇也の目がきらりと光る。

「奥には魔王が潜んでいるんじゃないか?」

「その可能性も否定はできませんね」

 両手で構えた鍬をぶんぶん振りながら、勇也が叫ぶ。

「うおおおおお! 待っていろ、魔王!」

 カザミが厳しい目つきで勇也を睨む。

「ちょっと勇也。大穴に潜る目的を忘れてないでしょうね」

「もちろんだ。マールのために深淵に、地を掘って行くぞ」

 ザエスンエがまた球体のボタンを押す。この世界全体を俯瞰していたが、それがだんだんと小さくなる。カメラが遠くに離れていっているようだ。

 一旦、遠くに引いたカメラが、また世界に近づくが、今度は山の外側、世界の底に向かって動いていく。

「もしかして。これは実際の映像ですか」

 秋良が言うと、ザエスンエはなぜか悲しそうに頷き答えた。

「ナベユテで撮影したものです。設計開発時点からギッサエの知を総動員したのです。超高度からの撮影ができ、崖から吹き上げる風にも負けず外へ飛び出せました」

 マールが険しい表情で言う。

「この世界に外というものはありません。フキル神がお造りになった世界がすべてです」

「フキル教の司祭様の前で失礼は承知で申します。この世はフキル神のみで造ったものではないのです」

 マールはますます厳しい顔つきに、と言うより睨みつけるようにしてザエスンエに視線を送る。

「では、他にだれが?」

「闇です」

 予想できた答えであったが、マールはそれでも衝撃を受けた。

「そんなわけないでしょう! フキル神こそが創造主。闇はフキル神にあだなす存在。人間を堕落させるものです」

 ザエスンエは静かに、もう一つのボタンを押した。「ナベユテが最後に捉えた映像です」

 映像は世界の果て、崖の端から徐々に下降していくものだった。高度が下がり、崖が見切れたと思うと、そこには一面に闇が広がっているだけだ。

 その闇が、蠢いた。光が一切差さないというのに、その動きはありありと感知できる。

 闇は触手を伸ばす。それはゆったり揺らめき、ひらりと優雅に踊るように近づいて来た。なぜかどこか懐かしい。皆が思う。いつかこれを見たことがある、産まれてくるよりも前に―――。

 突然、映像は終わった。その最後の瞬間、確かに、闇は笑った。

 皆、呆然と、映像が消えた球体を見つめた。見つめることしか出来なかった。

「これが、闇です」

 マールが、がくがくと震えだす。秋良がマールの肩を抱き寄せる。言葉もないマールが秋良に縋りつく。カザミが呆然と呟く。

「そんなまさか。あれが、本当に闇……?」

 誰もなにも言葉に出来ない。カザミは焦れたように尋ねる。

「ねえ、なんなの、あれ。闇って生き物みたいに動いてたわよ」

 その質問に答えられずにいる秋良の代わりに、勇也が応えた。

「光に似ていた」

「ど、どこがですか! なにも……なにも、どこも、似ているところなんて一欠けらもありません」

 言葉ではそう言うのに、マールはがくがくと震え、立っているのがやっとという状態だった。秋良がマールをイスに座らせる。

「光に似ていたよ」

 秋良が言うと、マールは両手で顔を覆った。秋良は球形の機械に顔を向ける。

「光も同じなんだ。今の映像はフキル神の洗礼を受けた時みたいだった。ゆらめき、たゆたうように近づいてくる。身を委ねれば安寧が訪れると思えるのに、恐ろしさも感じる」

「それは! 恐ろしいと感じるのは、フキル神が偉大だから。そうです、フキル神が闇を降してくださるから、闇が真似をし始めたんです」

 秋良は慰めようとするかのようにマールの手を取った。だが、秋良が口にしたその言葉は、マールにとって決定的な宣告になる。

「闇は、光と同じように存在する。光が与えるように、闇も俺たちに与えるんだよ」

 小刻みに震えるマールが尋ねる。

「なにを、与えるのですか」

 勇也が力強く言う。

「死と、眠りと、安寧だ」

「嘘です! 闇が安寧を与えるなんて、ありえません! 闇は魔物の元、魔物を生むもの。魔物の要素になっても、人とは関係しません」

「人は影を持つ。それは光があるからだ。そうフキル教は教えるよね。でも、影は闇の領分のものだ」

 秋良が言葉を切り、マールはぶるぶると肩を振るわせる。勇也が言う。

「人は闇の中で眠る」

 マールが弱々しく返す。

「眠る時にもフキル神は恵みをくださいます。月が光るではありませんか」

「月の光では魔物を押さえられない。朝の光のもとでも、魔物は生きる。人間が生きれば自ずとして闇が生まれる。それが、影だ」

 マールの目にじわりと涙が浮かぶ。

「でも……、それは肉体的なことでしょう。精神は、光のもとフキル神のもとに……」

 カザミがマールの肩を優しく抱く。もう誰も言葉を発することが出来なかった。


 ザエスンエのナベユテがムッテモに入り、大穴に近づいた頃には夜が始まろうとしていた。ナベユテは静かに大穴の側に着陸した。

 ザエスンエが先頭に立ってナベユテを降りる。誰もが無言で後に続く。

 大穴という呼称で思い描いていたもの、ナベユテ内で見た映像と、実物の大穴はかけ離れていた。

 川がほんの十五キロほど上流の泉から至り、大穴に吸い込まれるように落ちていく。その先には、なにもなかった。地面はえぐり取られたかのように消え、森も、礫地帯も、山もなにもない。大穴の幅は一つの街を飲み尽くすだろうほどに広い。

「これ、大穴っていうより、崖じゃない。掘る必要なんかないんじゃない?」

 カザミの言葉に、ザエスンエが頷く。

「大穴は日々削れていきます。あっという間にここまで広がりました」

 一旦、言葉を切ったザエスンエが遠くの山を指差す。

「あの山の向こう、崖の下は深淵と呼ばれることがあるのをご存知でしょうか」

 マールがびくりと体を震わせる。

「この世界を知ろうと思うのなら山を越える必要があると思っていたのですが。そんなことはなかったのです。ただ、地面を掘れば良かった。私たちは闇のすぐ側で生きていたのですから」

 なにか反論が来るものだろうと皆がマールを見たが、マールは俯き唇を噛んで地面を見つめていた。なにかを耐えようと力を尽くしている様子に、皆が心を痛めた。

「とにかく、側まで行ってみよう」

 マールをいたわる速度で、勇也がゆっくりと歩き出す。

 ふっと夜がやって来た。真っ暗な空に弱々しい三つ目の月が光る。

「これをどうぞ」

 ザエスンエに付いて歩いていた使用人が携帯ランプを一人に一つ差しだした。片手に持って邪魔にならないほんの小さな筒だ。マールがランプを両手でかざし持つ。

「これは……何の光ですか」

 ザエスンエが同じランプで道を照らす。

「ナベユテを飛ばすための可燃性の液体を光源にしています。深淵に向かうなら、灯りが必要でしょう」

 崖にたどり着き、覗きこむ。穴の奥には月の光も届かず、どこまで深いのか想像もつかない。

「崖はなだらかだ。歩けるな」

 勇也が振り返る。

「マール、行けるか?」

 問いかけに、マールは穴を睨むようにしながら頷いた。

「ザエスンエ、俺たちは行く」

「はい。どうか、お気を付けて」

 カザミがぽんと手を打った。

「あ、そうだ。ザエさん、これ、返しておくね」

 道着のふところから金が入った包みを取り出し差し出すと、ザエスンエは首を横に振った。

「いえ、それは差し上げたものですから」

「じゃあ、預けておくわ。戻ってきたら、ザエさんを訪ねるね」

 ザエスンエは明るい笑顔を見せる。

「わかりました。お待ちしておりますよ」

 勇也が深く息を吸いこむ。

「行こう」

 先頭に立ち、崖に足をかけた。


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