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失くしたもの

「っ!」

 目をみはって、ぜえぜえと荒い息を吐く。

「マール! 気が付いたんだね」

 マールが首を巡らせると、すぐ側に秋良(あきら)がいた。

「……秋良?」

「お医者さんを呼んでくるよ。待ってて」

 秋良がばたばたと駆け出していく足音が遠くなる。マールは自分の両手を顔の前にかざしてみた。

 指を一本一本折ってみる。どの指もきちんと動く。両手を組み、目を閉じる。

「フキル神よ」

 祈りの気持ちが全身を駆け巡り、体内に光が溢れた。

「闇に負けない力をありがとうございます」

 光の力が急に、ふっと消えた。

「え?」

 がばっと身を起こす。ぺたぺたと頭からお腹まで触ってみるが、どこにもフキル神の恵みを感じることができない。産まれてすぐに洗礼を受けてから司祭になるまで、大きく育ってきた信仰の力が、どこかへ消えてしまった。

「なにが、起きたの?」

 呆然と向かいの壁を見つめる。部屋は真っ白で、先ほど見た夢のような空間に近い。だが、光を失ったマールには、白はあまりにも目に痛かった。

「マール! どうしたの!」

 両手で目を覆っているマールに、秋良が駆け寄る。

「秋良、目が痛い」

「先生!」

 秋良が伴ってきた医師は秋良を下がらせて、マールの右手に手を重ねた。

「右目はどうだね。少しは痛みが治まったかな」

「……はい、少し」

 左手にも手を重ねて同じことを尋ねると、マールは今度も頷いた。

「君、カーテンを閉めてくれ」

 秋良は言われた通り、大きな窓にかかる、分厚いカーテンを閉めた。室内が夜のように暗くなる。

「どうだろう、痛みは」

「あ……、楽になりました」

「ふむ。両手を外して、目は瞑ったままでいいからね。手首を触るよ」

 廊下から差し込むわずかな光のもとだけでも、医師が眉を顰めたのが秋良には、はっきりと見えた。

「なにか問題があるんですか?」

「うむ。フキル信者に特有の徐脈ではなくなっている」

「徐脈?」

「脈が極端に遅くなることだ。一般の人なら病気だが、フキル教の洗礼を受けると皆、脈が遅くなる。同時に、長命にもなる」

「その徐脈がないと、どうなるんですか?」

「いや、どうということもないだろう。今の脈拍が一般的なのだから」

 医師の言葉を受けても、秋良の心配は消えない。

「マール、どこか痛いところはない? 体に違和感があるとか」

「……祈りが」

「祈り?」

「祈りの言葉が思い出せません。祈る気持ちがどんなものだったか、わからない。フキル神の御心を感じられない……!」

 マールは頭を抱え、激しく左右に振る。

「落ち着いて、マール」

 秋良がマールの腕を握ろうとしたが、振り払われた。

「どうして!? フキル神は私をお見捨てになったの!?」

「マール、大丈夫だから」

「祈りを忘れて、私はどうしたらいいの! 祈ることが私の使命……、それを忘れて、私はどうすれば!」

 秋良がぎゅっとマールを抱きしめる。

「マール、大丈夫だよ。フキル神はマールを見捨てたりしない。一時的なものだよ、いろんなことがあって、疲れて、混乱しているんだ。すぐにもとに戻るよ」

「本当に? 本当に? 秋良」

「自然に戻らなくても、何をしてでも俺がもとに戻してあげる」

 マールの目からぼろぼろと涙がこぼれる。秋良はマールの髪を優しく撫でた。


「マール。気が付いたのか」

 秋良に連れられたマールが研究棟に行くと、勇也(ゆうや)は半裸の胸にさまざまなコードを取りつけられて、複雑そうな機械に繋がれていた。

「勇也、元気そうですね」

「ああ。マールは元気がなさそうだ」

「はい。少し、疲れています」

「街を歩いてみるといい。マッサージ屋だとか、精神注入道場だとか、元気になれそうな店がいっぱいあったぞ」

「ギッサエにもお店があるんですね」

 秋良が微笑み、説明する。

「寺院があるところに寺院街ができるように、人が集まるところには街ができるものなんだよ。ギッサエは学術都市だから、学生と研究者ばかりでしょ。飲食店とかクリーニング店がたくさんあるそうだよ」

 マールはぼんやりと秋良を見上げる。

「秋良は街に出ていないんですか」

「うん、あんまりね。まだ全部は見てないよ」

「私に付き添っていたせいですか。私が邪魔をしましたか」

「違うよ。マールと一緒に見に行こうと思って、目を覚ますのを待ってたんだ。今から一緒に行かない? もう三日も寝ていたし、お腹が空いてるでしょ」

 マールは小さな子供のようにこっくりと頷いた。

「勇也、なにか買ってくるものはある?」

「いや、大丈夫だ。楽しんでくるといい」

「そうするよ。じゃあ、マール、行こう」

 ぼんやり床を見つめたまま動かないマールの手を取って、秋良はゆっくり歩いていった。

 学術都市、ギッサエは複数の学院と研究所が集まり、切磋琢磨している場所だ。

 研究は多岐にわたる。医学、宗教学、数学、音楽、天文学、魔物学、神学、歴史学、地理学、文学。考え得る学問はすべてここにあった。

 研究者は数千人、学生は数万人いると言われているが、実際に人数を数えている者はいない。学資を必要とする塾とは違い、ギッサエは徒弟制度のように、研究者が学生の生活の面倒を見、その見返りに研究の助手や事務的な作業を学生に任せている。その分、才能のない者は早々に街を追われ、才能さえあれば名の知れた研究者になることができる。研究結果は様々な運用をされ、大企業の目に留まれば一獲千金もあり得る。夢と知識と金の街とも言えた。

「焚火があったおかげで魔物にもやられず、ギッサエのナベユテに拾ってもらえたんだ。僕たちは運が良かったよ」

「ええ」

「転移者も全員無事。ヒズム行きのナベユテでサワヌーに向かった」

「ええ」

「カザミは武術研究家に武道の指導をしていて忙しそうだよ」

 マールが目覚めるまでに起きたことを話している秋良の声が届いているのかいないのか。マールはぼんやりと数歩先の地面を見るばかり。顔を上げることはない。

「マール、チサユクという料理が美味しいよ。病棟の売店で買ったんだけど、ほら、あそこにお店がある」

「ええ」

 秋良は立ち止まって、マールの顔を覗きこんだ。

「肉体の元気がないせいで力が湧かないのかもしれない。食べて寝て回復すれば、またフキル神の心も聞こえるよ」

「ええ、そうね」

 マールは弱々しい笑顔を浮かべた。

 食欲がまったくないというマールをなだめすかしてなんとか食事をさせると、まだ疲れが取れていなかったようで、マールは食堂の席でことりと寝てしまった。背負って病室に連れて帰り、秋良は医師のところへ向かった。

 医師はマールの身体症状を記録した用紙と、フキル神の信仰者から徐脈が消えたという過去の症例について秋良に話をした。

「体はどこも悪くない。徐脈がなくなったぶん、健康になったと言いたいくらいだよ」

「でも、本人はふさぎ込んでます」

「まあね。フキル教の司祭が信仰の証をなくしたら、そりゃ落ち込むだろうさ。だが、それはそんなに珍しい話でもない」

 医師は大量の書類をばさばさと掻き分けて、三枚の紙を秋良の鼻先に突き付けた。秋良は受け取り、ちらりと目を落とす。

「近年の症例だ。この三人は、いずれもフキル教の信者だった。だが、皆、信仰の証である徐脈を失い、そのうち二人は光を恐れ、わずかな光も差さない闇のなかでしか目を開けられなかった」

「なんで、そんなことに?」

「二人は犯罪者だった。たくさんの人を殺した。神罰が下ったのかもしれんね」

「もう一人も犯罪者ですか?」

「いいや、一人は魔物に噛み殺されそうになって、瀕死の状態で病棟に運ばれてきた女性だ」

 医師は三枚の紙のうちの一枚を指差した。

「怪我はフキル神の司祭の祈りと手術で治したよ。だが、本人はフキル神の加護がなくなって狂乱した。自分が汚れたと言って皮膚が赤くなるまで洗い続けた」

「それで、信仰の証は戻ったんですか?」

 医師は首を横に振った。

「フキル神の加護は何もかも忘れてしまって、一生を神を失くした恐怖と共に過ごした」

 秋良は茫然と、手にした紙を見下ろした。


 病室に戻ると、マールはベッドの上で起き上がっていた。目を伏せたまま、秋良に話しかける。

「秋良、洗礼を受けて」

「突然どうしたの?」

「フキル神のご加護を受けて」

 秋良はマールに歩み寄り、ベッドの端に腰かけて、その手を取った。

「ゆっくり話して。マール」

 マールはそっと目を上げた。

「私は、この旅で知ったのです。フキル神こそ世界の理。私が教会で教わり、人々に伝えてきたことは、真理だったと」

 秋良は静かに耳を傾ける。

「魔物はフキル神の敵。フキル神のご加護さえあれば、打ち勝てる相手なのです。ですが、世界には魔物を信奉する人や、フキル神にも闇の力にも無関心な遊牧民達のような人もいました。なんでだと思いますか?」

 秋良は静かに首を横に振り、わからないと伝えた。

「私たちの力不足です、私の力不足なんです。フキル神のお力を正しく伝えることさえできれば、皆さん、光の世界を歓迎できるはずなんです。秋良、フキル神のお力を見たでしょう。フキル神のお力がどれだけ尊いか、知っているでしょう。だから、お願い。フキル神の洗礼を受けて」

 秋良は当惑して、そっと応える。

「たしかに、フキル神のことを俺は信じたし、何度も救ってもらった。感謝してる。でも、それだけのことで信仰しているとはいえないんじゃ……」

「光とともに生きるのは嫌ですか」

「俺も、できるなら光の許で生きたいよ。でも、人間は光だけだと生きられないでしょ」

「人は肉を持ちます。それは影を持ちます。だからこそ、光を信じ、光と共にあるよう生きる、それが大切なのです。そうしなければ、人は自分の影に引きずられ、闇へと近づいてしまいます」

 マールは秋良の両腕を握って、必死な瞳で見上げる。

「私が、私が今、フキル神のために出来ることは、それだけなんです。私はもう一生、フキル神に祈りを捧げることも出来ないかもしれない。だから、秋良」

 マールの瞳から涙がぼろぼろと零れ落ちる。秋良はそっとマールの涙を拭った。

「わかったよ、マール。俺があなたのためにフキル神に祈るよ」

 マールはいつまでも涙を流し続けた。


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