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―Code World―  作者: 夕白颯汰
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第一話

こんにちは、こんばんは。夕白颯汰と申します。

―Code World― 第一話、どうぞ。

 ミィーンミィーンと、やかましくセミが鳴いている。

 うだるような暑さと日差しの下、縁側に座った私は無造作に足をブラブラさせる。


 

 不意に、一筋の風が吹いた。透明な風鈴が、涼しげな音をたてて揺れる。

 広大な空を縦横に占領する入道雲を、ぼんやり見つめる。 


 屋根の上から、バササッ、と鳩が一匹飛び去った。

 そいつは白い光を受けながら、どこかに目的地があるかのように進んでいく。


 やがて見えなくなり、私は再び遠方を眺めた。



 遠くから、小刻みな太鼓の音が聞こえる。夏祭りか何かの準備なのだろうか、小学生くらいの子供の声もときどき響く。


  ――こんな暑さのなか、よくもまあ元気なことで。


 一体彼らは、何のために汗を流すのだろう。或いは飛んでいったあの鳩は、何を目指して進むのだろう。

 やがて辿り着く先に、どんな景色があるというのだろう。

 

 私には検討もつかない。微塵も、これっぽっちも。


 人間なんて生き物は、たやすく他人を裏切る。運命もまた、いとも簡単に人間を――私を裏切る。 

 それらは往々にして、人生を狂わせる出来事となる。


 他人と自分との間に線を引き、硬い殻の中に閉じこもり、何も信じなくなる。


 周りにいる人間もまた、距離を置き、言葉を交わさぬようになり、やがて存在ごと抹消する。



 私がそう言い切れるのは、決して逃げているからではない。いやむしろ、一度追いかけようとしたから言えるのだ。

 そうなってしまえば最早、以前の自分に、道を踏み外す前の自分に戻ることはできないということも、私はよく知っている。



 ……あぁ、私、どこで間違えたんだろう? 今までの十四年の人生で、何がいけなかったんだろう? もう、笑うことなんてできないのかな……。



 つうっ、と頬を流れたのは汗なのか、それとも違うものなのか。


 荒々しく腕で拭うと同時に、キシキシと床を鳴らす音が耳に届いた。

 木張りの廊下を、八十を超えた祖母がお盆を持って歩いてくる。


「もう、どうしたの、レイちゃん。なにか嫌なことでもあったのかいねぇ?」

「……いや、別に」


 コトン、と麦茶の入ったグラスが置かれる。

 ありがと、と呟きながら口に含む。


 乾ききった喉が潤い、麦の香りが鼻を駆け抜けた。


 ぷは、と口から離したとき、皺が集まった祖母の手と、赤い物体が私の視界を塞いだ。


「今日はスイカもあるわよぉ、レンちゃん好きだったでしょ? 小学生のとき、よく一人で全部食べてたものねぇ」


 スイカ、か。

 昔ここに来たとき以来で、もう何年も食べていなかった。


 大人しく受け取り、てっぺんから齧りつく。

 塩がかかったスイカは、シャキシャキと瑞々しく、昔食べたときのようにほんのりと甘かった。


「ねぇ、レンちゃん」


 隣で私の名を呼んだ祖母の声は、ひどく穏やかで、どこか語りかけているようだった。


「……その、レンちゃんは、皆とおしゃべりしたいとか、思ったりしない?」


 また、か。


「レンちゃんもほら、中学生なんだし、おしゃれしたいとか、お出かけしたいなとか思わない?」


 その言葉を聞いて、私は意識せず俯いた。

 私が着ているのは、無地の黒いTシャツと母が昔使っていた半ズボン。

 お洒落っ気などは一切なく、よもや現役中学生女子が着る服じゃないな、と自分でも思う。


 だからといって、どうこうしようとは思わないけど。


「そうだ、ほら、今からお祖母ちゃんとお買い物行かない? きっと、レンちゃんが好きなもの、いっぱいあるわよ」

「行かない」


 そう応えたのはほぼ反射的だった。

 祖母は一瞬傷ついたような表情をしたが、すぐ笑顔に戻って話し始めた。


「なら、ちょっと外出てみるだけでもどう?」


 行かないよ。そう言ってんじゃん。


「いつまでもお家の中にいるようじゃ、つまらないじゃない」


「いつまでも」? まるで私が悪いかのような言い方をする。


「散歩しただけでも、気分が変わるわよ、きっと」


 ああ、もう、うるさい。

 さっきから何も答えない私に、祖母は諦めず話しかける。


「ねぇ、何がそんなに嫌なの? レンちゃんが嫌なことがあるなら、お祖母ちゃんに話してみなさい、ささ」


 ――話したって、誰にも分かるものか。私がどんな思いをしてきたか、どんな傷を抱えているのか。


 再び立ち上がる気力が、私にはない。それを伝えたところで、祖母はあの手この手で私を励まそうとするだろう。だがそれすらも、今の私には鬱陶しいだけだ。


「お祖母ちゃんはいつでもレンちゃんの味方、なのよ?」


 うるさい、うるさい。何が味方だ、私のことを何も知らないくせに。


「ずっと立ち止まったままじゃだめなのよ、レンちゃん」


 うるさい、うるさいうるさい……!


「レンちゃんはこのままでいるつもりなの? 自分の部屋にひきこもって――」


 その言葉が耳に届いた瞬間、私は立ち上がり叫んでいた。


「あぁ、うるさい!!」


 突然のことに、祖母は目を見開いていた。その目は、私を怖がっているようでもあった。

 ずいぶん大きな声が出たな、と思ったが、とめどなく溢れる言葉は私の理性に従わなかった。


「お祖母ちゃんは、なんにも苦しくないからそんなことが言えるんだよ! 私以外の誰も、私の心なんて知らないの! 自分のことは、私が一番よく知ってる! 他人がとやかく言っても、傷つけるだけなんだって、なんで分からないの!?」


 祖母は何も言わない。


 それをいいことに、私は叫び続ける。


「いいよね、学校のみんなは! 私なんか忘れたかのように遊んで、はしゃいで、友達つくって、おしゃれして! でも私にはそんなことできない、もういっかい立ち上がることもできない! なんでなの? 私は何を間違えたの? 誰かを傷つけたの、誰かを怒らせたの? どうして私はみんなに嫌われるの? どうすれば元に戻れるの!?」


 祖母は私から目を逸らした。申し訳無さそうに――憐れむように?


「答えて、答えてよお祖母ちゃん!! 話してみなさいって言ったよね!? なら教えてよ!! 私がひきこもるようになった原因を! 嫌われずに生きる方法を! それが答えられないなら、お祖母ちゃんは――」


 もう、やめてよ。


 こんなこと、私だって言いたくないのに。

 でも、一度溢れ出してしまった激情を、もう止めることはできない。


「――ただの嘘つきだよっ!!」


 その言葉は、蛙鳴蝉噪すら裂いてはっきりと響いた。


 ハァハァと肩で息をする。


 

 いつの間にか、かなり汗をかいていた。


 目元から流れた水滴が頬を濡らす。きっと私は、ぐちゃぐちゃのひどい顔をしているだろう。


 祖母は黙って俯いている。

 これ以上何かを言ってしまう前に、私は翻って小走りに自室へ向かった。


 


 祖母と、食べかけのスイカを置き去りにして。




 ◆ ◆ ◆




 ガチャッッ、と強くドアを開けたものの、勢いよく閉めることはできなかった。


 自室に入り、汗を拭くことなく真っ先に黒いゲーミングチェアに腰を下ろす。


 机の上には、何も映していない大きなモニターと、ずっと前から使っているキーボードがある。


 タタタタタターン、と六桁のパスワードを最速で入力。エンターキーを押し、PCを起動させる。


 モニターが白い色に染まり、次いで青い背景の画面を映す。


 そこに慣れ親しんだアイコンを見つけ、コンマ五秒でクリック。


 


 すると再び画面が変わり、今度は近代的な抽象模様が現れる。同時に、上部に取り付けられた球体のカメラがウィーンと音を立てて動き出す。


 そして、女声アナウンスが響く。




『〈ザ・テイル・オブ・マジック〉を起動。生体認証を行います。正面のカメラを見てください』




 カシャッ。




『認証完了。プレイヤー名〈レン〉が識別されました。アバターを表示します』




 アナウンスの通り、くるくる回っている私のアバターが画面に映された。


 顔のつくりは現実の私とほとんど変わらずに再現されているが、髪や目の色、服装は自由に設定できる。


 私のアバターは、白銀の長い髪と青い瞳をもつ少女の姿に設定されている。




『このアバターでプレイしますか?』




 "YES"をクリック。




『アバターが選択されました。ゲームにログインします』




 ロードを示す青線が画面中央で回る。




『……ログインしました。スタート地点を指定してください』




 日本を描いた地図が表示される。


 ズームを繰り返して、私はお気に入りの場所――横浜のみなとみらいを指定した。




『スタート地点、〈みなとみらい〉を確認。決定しました』




 認証とアバターの選択、そしてスタート地点の指定という三つが達成され、これでゲーム開始となる。




『プレイヤー〈レン〉は、十秒後に〈みなとみらい〉へテレポートします。それでは、TTMの世界をお楽しみください』




 そこでアナウンスは終わり、画面は徐々に白い光で満たされていく。


 そういえばヘッドフォンを忘れてたなと思い出し、壁にかかっているのを外して装着する。


 耳元で響くキィィィィィンという音とともに、私のアバター〈レン〉がテレポートを始めた。


 それと同時に、私の意識もPCの中へと吸い込まれていった。




 ◆ ◆ ◆




 私、双波怜は、「運命」というものをひどく憎んでいる。




「運命」は、産まれたときから決まっている各々が歩む道。ときに何かとぶつかり交わる曲がりくねった道。自身の行動すら取り込んだ、絶対的な不変の道。


 つまり「運命」は、自分の力ではどうしようもないのだ。




 運命と人生は、全く同じものではない。


「人生」は、人の生きざまを意味する。


 だから、運命は人間が辿る道の言い換えで、人生はその道の進み方の言い換えだ。




 そして、人生で起こるあらゆる出来事は、初めから何者かによって定められている。


 その「何者」が誰なのか知るすべなどないし、知ったところで行動を起こす気力もないから、私にできるのはただ憎むことだけ。


 もはや諦めている節がある、とも言えるかもしれない。




 それにしたって、その何者かは、なんで私の運命を無茶苦茶なものにしたんだろう。


 それは、長い間胸の中で繰り返されてきたけれど、いっこうに答えが出ない疑問だった。


 


 あぁ、私の運命は最悪なんだ、と気づいたのはまだ幼い頃、小学四年生の時期だったと思う。


 私は別に、多くを望む強欲な人間ではなかった。自慢しておごる傲慢な人間でも、他人に疎まれるほどの才能をもつ人間でもなかった。


 ――それなのに私は、他人から見捨てられるようになってしまった。そして私も、他人から離れていった。それが中学校に入った頃のことだ。


 


 だから私は、こうして学校に行かず、稀に訪ねてくるクラスメイトにも顔を見せず、外出すらせず引きこもっている。


 


 道を踏み外した、とは感じている。だが踏み外して転がり落ちた先は、「運命」という道だった。


 


 それに気づいたときには愕然としたなぁ、と今更な思いを巡らせていると――


 


ピロン。


 


メッセージの受信を知らせる音が鳴った。画面左下で、吹き出しのマークが明滅している。




「誰だろ、こんな昼間に……」




 その呟きの意味は、私以外にも学校に行かずゲームしている人がいるのか、というものだ。


 だが特に深く考えず、クリックしてメッセージを開く。


 そこには短い文章がひとつ、




『〈レン〉さん、うまいですね!』




 とあった。


 それを読んだのと同時に、私は体が火照るのをはっきりと感じた。


 いつの間にか口元が緩んでいることには気づかなかった。




「うまい、って……私……」




 見知らぬプレーヤーがメッセージで話しかけてくるのは珍しくない。


 普通の人間なら称賛のメッセージの一つや二つぐらい貰っても、ただ「ありがとう」と返すだけで、現実世界でするように声を上げて喜ぶことはないだろう。


 でも、私には大きな意味がある。


 ――私がTTMをやるのは、〈双波怜〉を突き落とした運命、或いは現実世界から逃げるため。


 だからPCの中に広がる世界は、私にとって逃げ場であり居場所なのだ。


 現実世界の人間から嫌われて逃げ、その末に辿り着いた場所がTTM。


 そこでは、己の存在価値を認めてもらえて、自分も他人と同じように扱われる。


 始めてすぐそれに気づいた私は、貪るようにTTMをプレイした。


 レベルとか武器とかは一切考えず、現実世界を忘れるために、他人に認められるために一日何時間もPCと向き合った。


 今の私はTTMの世界を生きている、と言っても過言ではない。




『〈ランド〉さんこそ。さっきの射撃、見事でしたよ』




 こちらもメッセージを打つ。送信ボタンを押すと、数秒で返信が来た。




『よければ、この後一緒にMob狩りでもどうですか?』




 予想外のことで一瞬手が止まったが、ここは現実世界じゃないんだから大丈夫だよね、と思いその申し出を受け入れた。




『いいですね。どこにしましょう?』


『お、そうですか! じゃあ、そうだな……ここから北に行って、東京の方でやるのはどうです? いま目黒あたりでMob大量湧出イベントやってるので、そことか』


『分かりました、東京の目黒ですね。では、五分後にもう一度メッセージを送って、向こうで落ち合いましょう』


『オッケーです。頑張りましょー』


『はい。全力で』




 そこでメッセージは一旦途切れた。


 椅子にもたれかかってギギッと音が鳴り、それにふうっというため息が重なる。


 


 どこであっても、人と話すのは疲れる。


 


 だけど……私にもちゃんとできるんだ。


 


 TTMの世界で私がひとりの人間として存在できるのだと、今の会話が証明している。


 その事実が、私の生きるよすがになりつつあることには薄々気づいていた。


 ゲームに救いを求める一方で、私が生きる世界を夙に諦めているのだと。


 


 だが、私はそれでいい。


 


 ネット世界なんて、現実を忘れるためにつくられた道具のようなものだろう。


 こっちの世界ではダメでもあっちでうまくやれば、この先も生きていけるはずだ……。


 それが逃げであると知ることはできなかった。現実の私には、それを教えてくれる人間がいないから。


 無言でPCを見つめていると、下から祖母の声が届いた。




「レンちゃーん、ご飯できたわよぉ」




 時計を見ると、もう七時を迎えていた。


 部屋に戻ってきたのが二時ぐらいだから、実に五時間も続けていた計算になる。


 固まった体をもう一度グウゥゥと伸ばし、聞こえるか聞こえないかの大きさと低さで、




「……はぁい」




 と返した。


 こんな時間になってしまったので、もうこれ以上はプレイできないだろうと思い、約束の五分が経つ前に、




『私、ちょっとこれ以上は無理そうです。勝手にごめんなさい』




 と先程の〈ランド〉にメッセージを送る。


 今度は一分ほど待ってから返信が来た。




『分かりました。もう夜ですもんね。残念ですけど、またいつかやりましょう』




 カタタタタ、ターン。




『はい、いつか必ず。では』




 それが送信されたのを見届けてから、ゲームを終了し、PCの電源を落とした。


 画面の明かりと、カメラのライトが消える。


 


 電気を点けていなかった部屋は、完全な闇に包まれた。。


 


 ふと思い立って窓まで歩き、チラリとカーテンをよける。


 窓の外はまだ黒くなっておらず、沈みゆく太陽と迫りくる夜の帳が重なり合って、茜の光が映えていた。


 その光景をしばし眺めていると、世界の終わりを目の当たりにしているかのように感じられた。


 郷愁あふれる幻想的な絵画は、ついぞ見えなかった。


 カーテンを閉じ、ドアへと向かう。




「ご飯冷めちゃうから、早くしてねぇ」




 ドアが開くと同時に、再び祖母が私を呼んだ。


 それに返事はせず、廊下に出る。


 私だけの空間を離れ、階下の食卓に向かった。




 ◆ ◆ ◆




 階段を降りると、祖母が二人分のお皿を並べていた。


 すでに料理は出されており、机の中央でモワモワと湯気と香りを上げている。




「今日はレンちゃんの好きなオムレツよぉ」




 うん、と小さく返しながら席につく。


 眼の前の皿には、卵をふんだんに使ったであろう巨大なオムレツがあり、ケチャップの芳醇な香りが私の腹をくぅ、と鳴かせた。


 


 思えば五時間連続でTTMをプレイしていたので、かなりお腹が減っていた。


 オムレツに見入っている私に、早く食べましょ、と祖母が言う。


 手を合わせて二人で、




「「いただきます」」




 スプーンで大きくすくい口に運ぶと、卵の柔らかい食感と挽き肉の旨味が口内を満たした。


 祖母の作るオムレツは、いつも具がたくさん入っている。


 にんじんと玉ねぎ、じゃがいも、そして挽き肉が中いっぱいに詰まっており、小学生の頃は私の胃袋を掴んで離さなかった。


 どういうわけか口当たりも滑らかで、食べる手が止まらない。


 一体どうやって作ってるんだこのオムレツ……、いやもしかしてこれが、いわゆる「おふくろの味」というものなのか……と考えながら口を動かしていると、祖母が微笑ましげな目で私を見ていることに気づいた。


 


 すっかり忘れていたのだが、昼に祖母と喧嘩のようなものをしてから、一度も会話をしていなかった。


 それ故に祖母は、私が元気にご飯を食べている姿を見られてホッとしているのだろう。


 まるで自分が、ご飯一つで機嫌が直る子どものように見られている感じがして、そして一抹の気まずさを感じて、私はオムレツを咀嚼する口を速めた。


 タイミングを見計らっていたかのように、祖母が指を絡めて口を開いた。




「あのねぇ、レンちゃん」




 オムレツが美味しかったからなのか、機嫌が良かったからなのか、単なる気まぐれなのかは分からないが、私はそれを無視することができなかった。




「……なに?」




 祖母の目はいつになく真剣で、私はオムレツを運んでいたスプーンをカチャリと置いた。




「お祖母ちゃんはねぇ、それはそれは昔、子どものころ、冒険がだーいすきだったのよ」




 何を言い出すかと思えば、祖母は突然昔話を始めた。


 ふうーん、と適当に話を終わらせてもよかったのだが、祖母の双眸と言葉は何かを強く訴えているようで、それはできなかった。




「夏になると、毎日友だちを連れて冒険に出たの。虫捕りに行ったり、蛍狩りに行ったり、小さな川を辿ったり……あとは、レンちゃんも分かると思うけど、この辺りは星が綺麗だから、裏山で星座を見たり。いろんな場所に行って、いろんなことを体験したの」




 俯き気味になりながら、うん、と頷く。




「それに、たくさんの友達とも遊んだわ。クラスの子ほとんどに声をかけてね。冒険に行こうって誘ったら、ほとんどの子が喜んでうん、って言うんだけど、ひとりだけ行かないって言う子がいたの」




 祖母はその目に、幼き日の自分を映しているようだった。




「その子はいつも本を読んでいるような子でね、冒険なんて好きじゃなさそうとは思ってたんだけど、仲良くなりたくって誘ったの。もちろん断られたけど、毎日まいにち誘ったわ」




 なんていうか……その子も大変だな、お転婆だったという祖母に絡まれて。




「ある日わたしが木の実探しに出掛けたら、学校の近くでたまたまその子を見かけたの。袋を抱えていたから、街に買い物でも行っていたのでしょうね。話しかけはしなかったんだけど、ちょっと考えてその子の後ろをこっそり付いていったの。家まで行って、一緒に遊ぼうって誘うためにね」




 それ、一緒に遊ぶどころか逆に嫌われるよね。




「家に押しかけてきた私の顔を見て、それはそれは驚いてたわよ。なんで、って顔もしてたけど、嫌がってるわけじゃないんだと思って、冒険に行こうって言ってその子の腕を引っ張っていったわ。そしたらその子、いきなりおっきな声で『やめて!!』って叫んだの」




 それは……まあ、そうだろう。祖母とは対照的な性格のその子にとって、無理やり外に連れていかれるのは不快だし怖いだろう。


 ――私はそうやって他人ごとのように考えただけで、祖母に腕を掴まれたその子の気持ちが、引きこもっている今の私のものと同じだということに、まだこのときは気づかなかった。


 私の呆れた表情を見て、祖母はうん、と頷いてから言った。




「静かなのが好きなのに冒険なんてものに狩り出されちゃ、そりゃ嫌ってものよね。自分の時間を他人に奪われるってことなんだから。でもその頃のわたしは、そんな当たり前のことを一度も考えたことなかったわ。ただみんなを振り回すだけで、心のなかに隠したほんとうの気持ちなんて見てなかったの」




 何故だろう――もう祖母の言葉には、懐かしさや笑いなどが一切含まれていなかった。




「わたしが何も言えず立ち尽くしていると、その子がモジモジしながら小さい声でわたしに言ったのよ」


「なんて?」


「『ぼうけんはいやだけど、いっしょにお花をつむのはいいよ』」




 その瞬間、私の心とその子の心が完全に重なり合った。


 もしかしたらその子は、祖母と仲良くなりたくても臆病になって諦めてしまっていたのかもしれない。


 こんな自分を受け入れてくれるのだろうか、ふてぶてしいやつだと思われないだろうか、永遠に嫌われてしまわないだろうか……と、すっかり自分を信じられなくなってしまって、ひとりで悩み続けていたのかもしれない。


 


 ――その気持ちは、よく分かる。よく知っている。


 


 自分を信じられなくなった人間は、甘んじて孤独を受け入れるようになる。何もできず閉じこもっていると、やがて不甲斐ない自分すら受け入れて、生きることをも諦めてしまう……。


 そうなってしまうのを防ぐには、自分を変える必要がある。自分の何が悪くてどこが弱いのかをはっきりと捉え、絶えず他人と関わろうとしなくてはならない。


 そう考えると、彼女が祖母の誘いを断り自分の意見を言えたのは、自分を変えて仲良くなりたい、と強く願っていたからなのだろう。


 


 でも、それだけじゃない、と私は思う。


 もし彼女がクラスの人気者と体を入れ替えたら、誰にでも話しかけられるようになっていただろうか。


 


 答えはきっと、否。


 


 そんなことが起きようとも、弱い人間は弱いままなのだ。


 立場や外見が変わろうとも、人間の根底にある心までは変えられない。


 


 なら、何が理由?


 


 私には、何故彼女が弱い自分に勝てたのか、数秒考え込んでも明確な答えに至ることはできなかった。


 だがその答えは、続く祖母の言葉によってもたらされた。




「その子が自分の意見を言ってくれるなんて初めてだったから驚いたわ。わたしがうん、いいねって返すと、その子はみるみる笑い顔になって、学校での静かさが嘘のようにおしゃべりし始めたねぇ。お花のことなんて全然知らなかったけど、その子が探しながらあれこれ教えてくれたから、とっても楽しかった」


「うん」


「気づいたときにはもう、その子が家から持ってきたカゴはいろんなお花でいっぱいになって、時間も夕方になってたのよ。そろそろ帰らなくちゃ、って言ったら、その子はしゃがんで何かを作り始めて、完成したらはいどうぞ、って渡してきてね、それはピンクの花飾りだったわ。こんなの作れるんだ、すごいねってわたしが褒めると、その子は恥ずかしそうに、またいつでも誘ってね、きれいなの作ってあげるから、って呟いてた。思えばそのときのお祖母ちゃん、その子のことなんにも知らなかったのね。お花が好きだってことも、花飾りを作るのが上手ってことも」




 そう言う祖母の声は、優しさに満ちていた。




「人間には誰にでも、好きなこと嫌いなこと、上手なこと苦手なことがあるの。わたしはその子と話して一緒に遊んだことで、それをよく知ることができたわ。だからこそ、花飾りを貰った日以来、その子はお花のことで話しかけてくれるようになった。あの日のことは今でも思い出せるし、これからもわたしの胸に残り続けると思うの。大切なことを知った日として、ね」




 ――あぁ。


 分かった。


 いま……ようやく分かった。


 


 祖母は、私を支えようとしているんだ。


 いつまでも部屋で縮こまっている私が、もう一度歩き出せるように……。




「レンちゃん、だからね、お祖母ちゃんは――」


「まって」




 気づけば、そう口にしていた。


 今までで一番はっきりとした、意志のこもった声だった。




「私、分かるよ、分かるから……お祖母ちゃんが何を言おうとしてるのか……だから、何も言わないで」




 祖母は少し驚いた顔をしていたが、フッと笑い顔に戻って、




「そうね」




 とだけ零した。


 


 オムレツは、まだ半分以上残っていた。それを、祖母に見せつけるかのようにぱくぱくと、一口ひとくちを噛み締めて食べる。


 祖母もスプーンを動かす手を速めた。


 大きなオムレツを競うように減らしていき、ほとんど同時にごちそうさまをした。


 食器を台所に持っていこうとすると、祖母が大丈夫よ、と言うので、それに甘えて皿を放す。


 部屋の戻るために階段へ向かう途中、ふと振り向いて祖母に向き合った。




「オムレツ、最高に美味しかったよ。また作ってね」




 普段言わないようなことだけど、今は言いたい気分だった。


 祖母は頷いて、誇らしげな顔をした。




「もちろんよ。いつか作り方を教えてあげるわ」




 うん、と返して、台所を離れ階段を登った。


 胸の中でだけ、ありがとう、お祖母ちゃん、と呟いた。




 ◆ ◆ ◆




 〈ザ・テイル・オブ・マジック〉――通称〈TTM〉は、PCと専用のカメラを使用した次世代型オンライン戦闘ゲームだ。


 横浜に本社を構える巨大ゲーム会社、「ブレイン・テック」により開発され、つい一年前に販売を開始した。


 ブレイン・テックは他にも人気ゲームを手掛けているが、その中でもTTMの人気は抜きん出ている。


 


 ――TTM最大の魅力は、〈リアルワールド〉からの解放だ。


 


 TTMには唯一無二の特徴がある。


 


 それは、ゲームの舞台がリアルワールドのコピーである、ということ。


 


 TTM内のあらゆるエリアは、すべて現代日本に準拠してつくられている。


 四十七都道府県、全市区町村が再現され、東京タワーや富士山といった景勝地だけでなく、一般の民家までもが存在している。


 


 TTMは、いわば「二次元の日本」「日本のコピー」なのだ。


 


 TTMで使用するアバターは、専用の認証カメラによって読み込まれた情報を元に自動生成される。


 性別や年齢、顔の形、目の大きさ、髪型などプレイヤーの外見を自動的に読み取り、アバターに反映する。


 つまりプレイヤーが自由に作成できないということだが、これは、TTMは現実のあらゆるしがらみから解放された世界であって異世界ではない、というブレイン・テックのこだわりが残った結果である。


 だが完全に現実の自分そのままというわけではなくて、髪や目の色、肌の色は任意で変更できる仕様となっている。


 私のアバターも、髪型は現実の〈双波怜〉そのままだが、色が黒から白銀に変わっている。


 


 己の分身たるアバターを作ったプレイヤーは、多種多様な武器を用いてHP形式の対戦を行う。


 


 対戦の形式は二種類ある。


 


 ひとつはバトルロイヤル。


 バトルロイヤルが開催されているエリアにプレイヤーが立ち入ることで参加になり、人数・時間無制限のエリア限定対戦が行われる。


 対戦中は不参加プレイヤーがエリアに入ることはできず、また、対戦は残りプレイヤー数が一になるまで続く。


 開催エリアでは対戦開始と同時に大量の武器が生成され、ランダムに配置される。


 参加プレイヤーは、アイテムを収納する「ストレージ」がロックされ――そのため他プレイヤーを倒してもアイテムは奪えない――武器を探しながら戦う。


 だが、他プレイヤーと戦う手段は武器のみではない。


 TTMの名に冠されるように、「マジック」――「魔法」が使用できる。


 魔法は誰でも使用できる基本的なものから、一撃で敵を屠れる高威力のもの、索敵や隠蔽といった技術的なもの、加速や聴音といった身体的なもの、プレイヤー固有のものまで多数存在する。


 それらの精度や威力はすべて、プレイヤーの練度に依存する。


 その魔法を何度も使ってきたプレイヤーの方が、よりはやく強く正確に放つことができる。


 また、武器と魔法の間に有利不利はない。どちらをどう使おうとも、勝つのは実力があるものだけだ。


 バトルロイヤルで勝利するためには頭脳も要求される。


 開催エリアには大小さまざまな建造物が存在し、高層ビルなら射撃が、公園なら潜伏からのゲリラ攻撃が、木造建築物に至っては爆破ができる。


 ただ火力で押し切るだけでなく、エリアに存在するあらゆるものを活用して戦うのも勝利に近づく重要な手段だ。


 このような、武器と魔法と頭脳の三要素を織り交ぜた戦闘がTTMの醍醐味の一つとなっている。


 


 もうひとつの対戦形式は、チーム戦。


 


 二人から七人までのプレイヤーがチームを組んで敵チームと戦う。


 チーム戦が行われるのは、対戦を許可している二つのチーム同士が、半径一キロの距離に入ったときである。


 そのときにチーム戦開始が両チームに通達される。


 チームが敗北となるのは、全滅か降参のどちらかである。


 こちらは時間制限があり、九十分以内に勝敗が決しない場合は引き分けとなる。




 だがTTMでは、すべてのプレイヤーが武器を握りしめて戦闘しているわけではない。


「日本のコピー」の散策を楽しむプレイヤーも多数存在する。


 個人で行動し、日本各所を巡り、武器を手に入れるといった現実ではできない放浪の旅もまた、プレイヤーを引き付けてやまない。


 TTMのプレイは国内に限られているが、プレイヤー数五万というPCゲーム界でも上々な数字を誇る。


 


 今でこそ知名度のある人気ゲームだが、私がTTMを始めたのは世間一般に広まってからではない。


 


 私は中学一年生の春から、学校に一度も行っていなかった。いわゆる不登校児で、行かなくなった理由もおおかた他人が想像できるものだ。


 人で溢れた教室、私から距離を置き異物とみなすクラスメイト、そして彼女らの心底嫌そうな顔に苛まれていた私は、現実を忘れさせてくれる何かを求めて一日中PCを眺めていた。


 


 だがネットという場所にも現実は存在しており、どんな音楽も動画も、私の嫌な記憶を掘り返すだけだった。


 


 そうやってネットの海を彷徨っていたときに見つけたのが、次世代型オンライン戦闘ゲーム〈ザ・テイル・オブ・マジック〉、TTMだった。


 決してゲーム好きな私ではなかったが、TTMというゲームだけは心を強く引き止めた。


 それはきっと、心の何処かで〈現実〉をぶち壊したい、と思っていたからではないのだろうか。


 現実から逃れるためにネットの渦へと飛び込んだというのに、現実のコピーたるTTMをプレイするのは本末転倒かもしれない。


 


 それでも私は、TTM世界に夢を見られずにはいられなかった。


 


 ――現実世界で勝てなくたっていい。あっちの世界で生きて、戦って、PCに向かっているリアルの人間全員に勝利するんだ。そのときやっと、今までの人生が報われるんだ、と。


 


 だがそんな思いは、いま変わりつつある。


 


 あらゆるものから逃げようとする弱い心も、動かずに震えるだけの足も、それを擁護する私自身も、なにか大切なことを思い出して変わろうとしている。


 そう確かに感じた私は、自分なりの一歩を踏み出そうとできることを探した。


 部屋から出ようとせず他人との交流を拒絶する私は、いったい何をすればいいのだろう。


 学校に行く、なんて保健室だとしてもまだ無理だ。外出であればクラスメイトと顔を合わせなくて済むが、長らく引きこもっていたため他人の視線さえもが怖いのでできそうにない。


 


 それならば、私にできることは――「現実を見る」ことなんじゃないか?


 


 自室に引きこもるようになって以来、私は現実から目を逸らし続けてきた。そしてその穴埋めとでも言うかのように、ネットの世界を見続けてきた。


 そしてTTMに出会い、現実とネットを混同するようになった。


 自分を守る手段だと言い聞かせていたけれど、本当は学校を去ったことでもドアに鍵をかけたことでもなく、あっちの世界に救いを求めたことが最大の過ちだったのかもしれない。


 


 それに気付くのまで、三年というあまりにも長い年月が過ぎ去ってしまった。




「……ずいぶん長くかかっちゃったな」




 PCを開いてTTMを起動し、カメラの認証を経て、私の分身〈レン〉のアバターを選択する。


 テレポート先は……海の見えるところがいい。やっぱりいつも通り横浜にしよう。


〈レン〉が青いエフェクトに包まれて、指定地区へと転移した。


 


 これが、私の最後のプレイ。今日でTTMは終わりなんだ。


 


 そう静かに誓いながら、バトルロイヤル開催エリアに足を踏み入れる。




『本地区は日本時間午後七時より始まるバトルロイヤルの開催エリアとなっております。参加しますか?』




 迷わず"Yes"を押すと表示が消え去り、反対に画面右上で緑色のHPゲージが表示される。


 四分割されたそれは、受けた傷や魔法の効果と、自身の耐久力や装備を総合的に計算して残り体力を示す。


 はじめたての頃は倒されてばかりだったが、この一年間ではゲージが半分を下回ったことはないと記憶している。


 不意に、ポーンと機械音が響いた。




『開始まであと五分。現在の参加プレイヤーは七十名です』




 七十。これはバトルロイヤルの参加者数としてはかなり多い。


 だからといって負けるつもりも怯えるつもりも毛頭ない。


 私を除いた六十九名を全員倒して、〈レン〉は一位になるんだ。


 そんな決意を胸に開始を待ち、残り十秒となったときにカウントダウンが始まった。




『開始まで十秒。参加を締め切りました。参加プレイヤーは七十名です。開始まで七秒』




 キッと顔を上げた。眼前には、荒れ果てた横浜の街が広がっている。


 始まったらすぐに、あの朽ち果てたビルの屋上に向かう。戦うのは海を見てからにしよう。




『開始まで五秒。四秒』




 ゴクリ、と現実で唾を飲み込む。




『三、二、一――』




 さぁ、最後の戦いだ……!




『ゼロ。午後七時、対戦を開始します』




 ◆ ◆ ◆




 全速力のダッシュで荒れたコンクリートの地面を走り抜け、目標のビルへと迫っていく。


 近くにアバターの姿はない。銃声や爆発音なども聞こえない。


 街中を隠れずに移動すると、スナイパーに気づかれて狙撃される可能性もないわけではないが、今回だけは堂々と戦う。




 もう逃げはしない、と心に決めたのだから。




 二十分ほど走ると、ビルの入口に辿り着いた。途中誰にも遭遇しなかったが、交戦したような音が何度か響いていたので、一応周りを確認しておく。


 敵がいたとしても武器を持っていないため戦えないのだが、そのときはそのときだ、潔く諦めよう。


 


 ビルの中は暗然としており、人間が使っていた様子はない。


 ロビーの照明も落とされており、玄関のドアと割れた窓ガラスから差し込む太陽光だけが頼りだ。


 左手にある階段を二段飛ばしで駆け上がり、武器が落ちてないか確認しながら屋上を目指す。


 仄暗い空間を満たす空気が私にも伝わったのか、マウスを動かす手に僅かに力がこもる。


 


 海を見たい、と思ったのは今日が初めてではない。


 TTMでは地上だけでなく海も再現されており、アバターが立ち入ることができる。


 ここ横浜は、港に停泊する数多の船や会場を飛び交うカモメ、その周りに並んだ横浜の象徴たる建物までもがリアルに再現されており、アバターとして眺めるだけで潮の香りある海風を感じられる。


 


 私はTTMを始めた頃から、この横浜エリアが特に好きだった。


 街の中でもキラキラと輝く広大な海が、私の望むもののように思えたからだ。


 TTMは日本のコピーなので、他にも観光名所や美しい自然などはたくさん存在しており私もいくつか訪れたことがあるのだが、やはりどれよりも、ここ横浜が最も輝いて見えた。


 


 いつになるかわからないけど、あの海を現実で、私の目で見られたらいいな……。


 


 と願いながら階段を登っていると、いよいよ終わりが見えてきた。


 永遠に続くかと思われた階段の最後の一段を踏んで、屋上のドアが現れる。


 ゲーム上に息切れは存在しないので、間髪を入れずドアを開ける。


 


 隙間から光が入り込む。同時に強い風が吹いた気がした。


 


 数歩前に出ると、視界いっぱいに陽光を受けた海が広がる。




「わぁ……」




 今が対戦中であることを忘れてそう零していた。


 今だけは、この雄大で自由な海に目を奪われていたい。今だけは、この海と向き合っていたい……。




「ううん、そうじゃない」




 意識が飲み込まれてしまう前に、こんなことしている場合ではないと気づく。


 


 これは私との、最初で最後の戦いだ。


 何度も見てきたこの海と、TTMと、今日で決別する。


 


 あちこちで叫び声や武器をぶつけ合う音が響いている。だがここから他のアバターは見えない。


 開始三十分ともなれば、もうプレイヤー同士の衝突も発生しているだろう。


 私も、いつまでもここに引きこもっているわけにはいかない。




『残りプレイヤー数は五十となりました』




 女声アナウンスが知らせる。


 


 そここから〈レン〉の戦いが……〈双波怜〉の戦いが、始まる。


 


 確かな決意を胸に、横浜の海へ背を向けた。


 逡巡を捨て去り歩き出した――そのとき、突然にしてそれは起こった。




 


 


 ゴオオオオォォォォォォン――。




 


 


 耳をつんざく、重々しい音が響いた。




「え……な、なに、これ……」




 どうやら鐘の音のようだが、こんな大きな音を出す鐘は横浜にないし、TTMのシステムにも存在しない。


 対戦が終わった合図なわけが無いし、アップデートされたという話も聞かないので、これはシステム的な異常……?


 と立ち止まって思考を巡らせていたが、PCに映るTTM世界で起きた変化はそれだけではなかった。




「……空が、赤い……?」




 その呟きの通り、画面に映る仮想の空は、一瞬にして血のような赤色へと変色していた。


 振り返ると、海までもが青さを失って赤い光を放っている。


 空気すら赤くなって霞んでいる。


 


 その光景は、まるで世界の終わりのようだった。


 


 それでいて、あの日見た夕焼けとは違って幻想的で、ひとつの絵画にも見えた。


 いったい何が起きているのか、私にはさっぱり分からない。


〈レン〉がうろうろと屋上を歩き回るが何も変わらず、視界は真っ赤のままだ。


 システム故障なら、このバトルロイヤルを一旦止めてほしい。


 辺りが赤色に染まっていると遠くまで見通すことができないので、プレイヤーは相当に戦いづらい。


 それに、おそらく遠距離攻撃武器のアバターは為す術もないだろう。一部のアバターがシステムの影響で一方的な不利になることはないので、やはりこれは故障か。


 私の決意を蔑ろにされるようで気が進まないが、この状態が続くようであればまた明日に持ち越すしかなさそうだ。




「ぬぅぅぅ〜〜〜〜……」




 恨めしさ七割と諦められなさ三割のうめき声を上げ、〈降参〉をクリックしようと渋々マウスを動かす。


 カーソルが重なり、人差し指を押し込む――





 ウィイイイィィィン。





 そのとき突然、カメラが動き出した。




「えっ」




 PC上部のTTM専用認証カメラが、上下左右に動き続けている。




 私はなにも操作していないのに、なんで!?




 もしかしてゲーム内システムだけじゃなくてPCまで故障!?




 わたわたと焦る私。カメラはなおも動きを止めない。


 なんで立て続けにこんなことが起きるのだろう。


 というかこれどうなってるんだ……とカメラに顔を近づけたとき、私はあることに気づいた。


 丸い認証カメラの上部で、緑のランプが点灯している。




「これって、カメラが点いてるってこと、だよね……?」




 そう呟いたのと同時に、PCからポーンと音が鳴った。


 見ると、屋上で待機している〈レン〉と赤い世界を映した画面中央に、黒い文字で大きく"Code1"《コードファースト》と表示されている。




「コードファースト? こんなもの、TTMに……」


『――Code化が開始されました。認証カメラでプレイヤー情報を読み取ります』




 私の言葉を遮って、アナウンスがそんな言葉を告げた。


 Code化ってなに、ていうかなんでPCまで勝手に動いてるの? と様々な疑問が言語化されぬまま脳内を駆け巡る。


 そんな私を差し置いて、アナウンスは話し続ける。




『プレイヤー情報を三十パーセント取得。一分後に完了します』




 プレイヤー情報って、私の? ということは、認証カメラは勝手に私を読み取っているのだろうか。


 そう思ってPC画面から顔を上げると、カメラと目が合った。




  ――いや、そうではない。機械の黒々した目が、私を見つめているのだ。


  左右に揺れてみると、カメラもその動きを追随するかのように揺れた。


  これは本当に、なんなんだろう……。




『メインサーバーより〈レン〉のテレポート先が〈横浜〉に指定されました。プレイヤー情報は現在五十パーセント取得中。三十秒後に完了します』


「メインサーバー? テレポート先を指定……?」




 今まで一度も聞いたことのないアナウンスだった。


 私は新しいテレポート先エリアを指定していない。なによりまだバトルロイヤルは継続中なので、このエリアを離れるのは降参してからでないと不可能だ。


 これから何が起こるんだ……と思いながら何もできずにいたところ、再びアナウンスによって告げられた言葉が、私の脳をフリーズさせてから振動させた。




『取得に完了しました。――プレイヤーを"Code"に変換しゲーム内へ転送します。Code化は一分後に完了します』




 は……、は……!?


 


 プレイヤーをゲーム内へ転送――!?


 


 それはつまり、いま椅子に座っている〈双波怜〉が消え去ってPC内に取り込まれるということ。


 そんなこと技術的にできるはずない、と言い聞かせて混乱を収めようとするが、その事実を受け入れ納得する自分もいた。


 


 この認証カメラは、TTM専用でプレイヤー情報を取得しアバターを生成するためにある。


 TTMシステムはその過程で私のあらゆる情報を入手している。果たしてそれがどうやって行われているのか、それはブレイン・テック以外誰にも明かされていない。


 もしかしたら、このカメラにはプレイヤーにすら隠されている機能、目的があるのではないか――。




『"Code"への変換を始めます』




 えっ、ちょっとまってこれどうすれば……!


 そんなことを言っても待ってくれるはずもなく、カメラは私をしっかりと捉えたまま、まばゆく青い光を四方に放った。




「なっ……」




 その光はすぐに私を飲み込み視界を奪った。だがその現象を知覚してもなお、私は動くことができなかった。


 


 次の瞬間、私は両足が消えていくのを確かに感じた。しかし痛みはなく、まるで体が果てることなき深淵に吸い込まれているようだった。


 


 脚が消え、腰が消え、胴体も間もなく消える。私の体はただ青い光を放射するだけで、崩壊に抗わずに固まっている。


 首までが完全に消えたが、そこで現象が収まる気配はない。


 私はかろうじて残っている口を動かし、切れ切れに漏らした。




「いや……だ、ど、どう、なって…………」




 口を閉じたのと同時に、顔が崩壊を始めた。


 少しずつ消えていく感覚は、道を踏み外したときの無力感に近かった。


 青い光は私の口を消し、鼻を消し、目を消し――


 ついにすべてを消し去り、〈双波怜〉という人間を消失させた。


 


 


 ポーン。





『Code化が完了しました。〈レン〉はゲーム内へ転送されました』




 視界が黒に染まり、もはや自分がどこにいるか分からなくなった。


 


 虚無に包まれながら、一瞬の浮遊感を覚えた。


 


 そして、世界から音が消え去り、意識が霞んでいき、


 


 すべての感覚が無くなり、思考すら失って、己が何であるかを忘れる。


 


 


 


 やがて意識が消える寸前、男の低い声が脳内に響いた。




『プレイヤー諸君。ようこそ、TTMの世界へ』




 それはどこまでも昏い、狂気を孕んだ声だった。




『そしてようこそ――"Code World"へ』

「絶望に抗う者たちよ」

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