08. マティス・ルフェーヴル
結局あの晩、ルレイヤは帰ってこなかった。
王太子の侍従からは体調を悪くされたので医師が呼ばれている、侯爵家まで移動させると負担になるので今日は王太子妃の手配した客室で休み、改めて明朝に連絡を入れることを休憩室で説明される。
妻に付き添えるよう願い出たが、王太子妃の部屋が近い場所に既婚者とはいえ男性を泊まらせることはできないと却下された。
無意識でした舌打ちに驚いたのは、侍従ではなくマティス自身だ。表面上は好人物に見えるようにと心掛けていたのに、とんだ失態だ。
今夜の夜会には叔父も参加している。王太子達との会話はほどなく両親に伝わり、怒り心頭で領地から王都へとやってくるだろう。
ただでさえ両親は元婚約者の姉であるルレイヤとの結婚は反対していたのだ。
これ幸いと離婚を言ってくるかもしれない。
そうならないようにルレイヤと間違いなく夫婦なのだという既成事実を作らなければならないのに。
明日に改めて礼状を送り、妻を返すように伝えよう。
彼女をルルと呼んだ時の表情を思い出す。
結婚式の夜に寝室を訪れず、朝まで友人と遊んでいたと伝えた時の泣きそうな顔も。家令に小言を言われたときに肩を震わせた姿を。
全てが愛おしい、可哀そうなルレイヤ。
早く家に連れて帰ってあげなければ。
ルレイヤはマティスの大切な妻なのだから。
「結果だけ伝えよう。
マティス・ルフェーヴル侯爵令息とルレイヤ嬢の婚姻は無効とされる。
こちらに署名を」
何度手紙を出しても返事は来ず、ルレイヤは臥せったままだと押し通されてから一週間。
そんな折に王城から召喚令状が届き、嫌な予感を覚えて急いで参じてみれば、正面に座る王太子は無表情でマティスを迎えてくれた。
「どうして、そんな」
マティスが唇をわななかせながら言えば、素っ気ない返答が応接室に響く。
「どうして?その理由は夫であった貴方が一番知っているはずだが」
王太子の言葉は表情と同じく感情が消え失せたものだ。
先日休憩室でルレイヤが帰らないことを説明した侍従が、主と同じく無表情のままに、テーブルに置かれた書面の横にインク瓶とペンを用意する。
「納得できません。何か行き違いがあるのでしたら話し合いたいと思いますので、妻に会わせてください」
会いさえすれば何とかなる。
今まで全てを諦めながら受け入れてきたのだ。
押しに弱いルレイヤならば、ルーシェリアの名前を使って諭してやれば帰ってくるだろう。何だったら拒むと家族に良からぬことが起きると脅してもいい。
けれど王太子から返されたのは拒否の言葉だ。
「ルフェーヴル侯爵令息を彼女に会わせることはない。
貴方の悍ましい趣味嗜好については把握しているからな。会わせたら脅して連れ帰ることぐらい簡単に想像がつく」
「いくら王太子殿下とございましても、些か暴言が過ぎませんか。
片方の話だけを聞いて一方的に決めつけるなど、公平さに欠けるのでは」
ここで事を荒立てると心証が悪い。怒りを隠して眉尻を下げて笑って見せる。
大体の人間が「人が良さそう」だと思ってくれる表情だ。
けれど王太子は表情を崩すことなく、視線だけが更に鋭くなるだけ。
「暴言とは?私は事実を言っているだけにすぎない」
王太子は深く息を吐いてから、近くに控えていた侍女にお茶のお代わりを指示する。
香り高いお茶を注ぎ入れる侍女は、気の強そうな顔に嫌悪の表情を浮かべてマティスを見てきた。
太陽を浴びて自分で生きることのできる、マティスの嫌いなタイプの女。
ふと、侍女の顔に既視感を覚えて凝視する。
どこかで見たことがある気がするのだ。
だがマティスが記憶を掘り返しても思い出せない。
夜会の会場で控えていたのを見かけたのだろうか。それとも休憩室でお茶の準備をしていた女か。
いや、今はそれどころではない。ルレイヤを取り返さないと。
「ルレイヤは私の妻です。愛しているし侯爵家で虐げているわけでもない。
どこで誤解が生じたのかわかりませんが、王城に一人で留め置かれ、顔すら合わせることができないなど横暴ではありませんか」
王太子が何を知って判断したのかは知らないが、ルレイヤの言葉だけならば何の根拠もないことだと侯爵家として抗議できるだろう。
優秀だと聞いていたが、王太子妃にでも唆されたのだとしたら存外大したことがない。
「白い結婚だというのに?」
一瞬、マティスの息が止まった。
何故知っているのだ。ぎりぎり声に出すことなく王太子を凝視すれば、「体調が悪いと説明しただろう」と言葉が吐き捨てられる。
「体調が悪いので妊娠しているのではないかとエレオノーラが心配してな、こちらとしても心配ゆえに侍医に診せたのだ」
医者に診断されたのなら嘘だと返すことができるはずもなく。
何か言い訳をと必死に言葉を探す。
「それは、忙しかったからで。
そう、ルレイヤの妹であるルーシェリアとの婚約時に見舞いで時間を使い、今が一番忙しいのです。
だから落ち着いたら妻との時間を取ろうと思っていました」
ルーシェリアの見舞いで大半の休暇を消化したことも、忙しくしているのも事実である。
だが、とってつけた言い訳は王太子には通じなかった。
「婚姻式の際に三日休みを貰ったことは知っている」
一週間の間に調べたか。
マティスの出仕先は王城内の一画だ。調べることなど容易い。
「けれど、」
「くどい。
まさか私が何も確認せずに、こういった判断を下したと思っているのか?」
言い方が引っ掛かる。
調べたのは休みだけではないのか。
一体どこまで、何を調べたのだ。
「ルフェーヴル侯爵令息には一つ忠告を差し上げよう。
もう少し注意深く、そして他人に興味を持つといい。そうすれば侯爵家で解雇したルレイヤ嬢付き侍女のことだって簡単に思い出せるのだから」
まさか。
思わず騒々しい音を立ててカップを置き、部屋の隅に控える侍女を見る。
見覚えがあるはずだ。
あの女はルレイヤに対して親切な素振りを見せるので、紹介状も出さずに解雇してやったのだから。
王太子は知っているのだろう。
ルレイヤに対して話しかけてはならないと指示をしたことも。婚姻式の後は友人達と娼館で乱痴気騒ぎをして遊び惚けて、わざと寝室に訪れなかったことも。ルーシェリアの愛称で呼んでいたことも。
もしかしたら他にも。
「貴方がどれだけ言い立てたところで時間の無駄でしかない。
それに書類をよく見るといい。既に彼女はサイン済だ」
いくつかの検閲が事前に必要であるのにも関わらず、いつの間に用意したのか公式な書類であるそれは王太子が言う通り、既にルレイヤのサインは記入されていた。
それは美しい彼女が変容する兆しのようで、マティスの眉間に皺が寄る。
ああ、と思い出したかのように言葉が付け足された。
「もし感情的になって紙を破り捨てても予備がある。
当主の署名で代行も可能だ。貴方が署名を拒否した場合はルフェーヴル侯爵家に回して、当主が署名することに同意を得ている。
本日呼び出したのは、侯爵令息が事実を受け入れられるようにという、せめてもの配慮だということを理解してもらいたい」
ここまで準備をしていたか。
ノロノロとペンを手にする。侍従が手慣れた様子でインク瓶の蓋を開けてくれた。
これにサインしてしまったら、ルレイヤに会うことができない。
──いや、大丈夫だ。
ルレイヤが離婚して帰る先はロアン家しかない。
ほとぼりが冷めるまでは監視を付けるだけにして、王太子夫妻からの干渉が無くなったら街に出たタイミングで攫えばいい。
攫った際に疑われることのないよう、諦めたふりでもしてお飾りの妻でも迎えよう。
金をちらつかせればすり寄ってくる令嬢か、いっそ金で売り飛ばされそうな不幸な妻を貰ってもいい。
前者なら適当に小遣いでも与えて遊ばせ、後者ならばルレイヤと一緒に可愛がれる。
そして二度と出せないように閉じ込めてしまおう。
自分の行く末を悟った彼女がどんな深淵を見せてくれるのか。考えるだけで甘美なまでの痛みが棘となって胸を締め付ける。
マティスの胸先で渦巻く算段は、グルリグルリと回りながらどす黒く変色していった。
どうするか決まれば署名をするのも抵抗はない。
むしろ傷物として家に戻される彼女が、どれだけ痛ましい姿になるのかが楽しみでしかない。
ルレイヤを失うかもしれないという恐怖は消えてゆき、興奮が体を満たしていく。
マティスの名前が記入され、誤字が無いかを侍従が確認する。
頷いたことから問題無いと判断したのだろう。他の者が大切そうに抱えて部屋を退出した。
「納得したなら何よりだ」
「……私がルレイヤを愛しているのは事実ですが、こうも王太子殿下に言われてしまっては返す言葉がありません。
謹んでお受けした次第です」
悲痛な表情を浮かべてマティスは立ち上がる。
暫くルレイヤと会えないが、それまでは馴染みの娼館にいる不幸せな女でも眺めて欲求不満を解消しよう。
辞する際に唇の端が上がったのは誰にも見られていない。
頭の中でルレイヤを取り返したときのことを想像しながら、マティスは退室した。