07. マティス・ルフェーヴル
変態参上。
ルレイヤ・ノクターナ・ロアンは運命だった。
初めて見かけた時も、今だってマティスは自信を持って言えるだろう。
彼女の、不幸せな影を背負った儚さをこよなく愛していると。
一体いつからだっただろう。
儚げな雰囲気で佇む人を美しいと思うようになったのは。
気がつけばマティスは可哀そうなものが美しいと思うようになっていた。
けれど幼少期に若い女中が家令に怒られているのを物陰から見ることはあったものの、後で慰めてあげようと思ったぐらいで自覚はなかった。
少し大きくなって捕まえた虫を見せたら怖がる女中に喜んでも、よくある男の子の悪戯ぐらいでしかなく、両親からは小言を食らいながらも自身の中に芽吹く何かには気がつかずに過ごした。
初めて自身の嗜好を自覚したのは学園に通い始めた時だ。
切っ掛けは曲がり角で一人の令嬢とぶつかったこと。
最初、彼女は申し訳なさそうに謝ったものの、マティスが侯爵令息だと知った途端に真っ青になった。
怯えた瞳、逃げることもできずに震える体。
「お許しください」と、か細く伝えられる小さな声。
──可哀そうで、すごく可愛い。
全身を巡る血液が沸騰したかのような興奮と、同時にもっと見たいと思う加虐的な気持ちが湧き出てくる。
この瞬間、マティスは理解したのだ。
自分は『可哀そうなもの』が好きなのだと。
もっと彼女の怯える様を見てみたい。けれど、思うままに彼女を追い詰めたら侯爵令息としての立場が危うい。
突き上げる快楽にも似た衝動と、それを抑え込もうとする理性。どうにか理性が打ち勝ったマティスは彼女の名前を聞き出して、気にしていないことだけ伝えて解放してあげた。
別に逃がしたわけではない。
名前は聞き出せたからクラスも調べがつく。これから暫くは視界に偶然入るようにして怯えさせよう。
こうして自身の性癖を自覚したマティスに、蓋をして見なかったことにするという選択肢はなかった。
一応人間以外で解消できないか試そうと、使用人が捕まえた鼠をこっそり石で始末してみても可哀そうという気持ちにはならなかった。
動物は駄目だ。本能のままに生き抗おうとする。
マティスが好むのは、足掻くこともできずに標本箱にピンで留められた蝶のような、とびっきり不幸せな女性だった。
勿論大っぴらに行動するようなことはしない。なお、喩えたまでで、死んだ蝶は美しくても生きていないから好きになることなどなかった。
だからといってあからさまな行動に出ることもしない。
厳しい両親によって叩き込まれた常識が、理解してもらえる性癖ではないと教えてくれるのだから。
誰かに手酷い仕打ちを与えたことが白日に晒されてしまえば、誰もがマティスに侮蔑の視線を送るだろう。
それは望んでいない。ほしいのは怯えか絶望か、はたまた悲しみを含んだ目だけだ。
誰からも疑われないように良い人を擬態して生きていく必要がある。
だが、そんな制約がなんだというのだ。
思春期に目覚めた性癖はしっかりマティスに根付いてしまった。ならば上手に付き合うしかない。
誰かの不幸せな姿を見ると喜びに満たされる。悲しみに暮れた顔に心臓が早鐘を打つ。
そして相応にこだわりもある。
可哀そうでも楽天的な人間は駄目だ。あのとき殺した鼠のように抗おうとする姿は実に醜い。
マティスが学生だった頃に、魔術師としての才能が貴族以上だとして編入された平民は、貧乏で虐げられているという癖にそれを餌にして貴族令息を捕まえていた。
どんなに可哀そうで可愛い私をアピールされたところで、虚構の不幸せなど欠片も魅力を感じない。
最終的に婚約破棄騒動にまで発展させた彼女は退学処分となったが、それでも生きる力に漲る姿に非常に萎えたものだ。
少しの救いもなく不幸せであるほどいい。
けれど輝かしい青春時代に、マティスを惑わす歪んだファム・ファタルは現れなかった。
勿論周囲にいる全ての女性が前向きで楽天家で積極的だったわけではない。
借金を背負った両親のせいで後妻にされるためと退学した女性もいたし、人と触れ合うことを怖がる少女もいた。
でも、家族の為だと笑う姿には家族から愛されているのだと理解できたし、人を拒む少女は相反して人の温もりを求めていて与えられる環境下にあった。
つまりは全部中途半端だったのだ。
幸せになる可能性を持っている人間など、それは苦労の通過点にいるだけで不幸せではない。
この時点で大分拗らせている性癖。だが譲れない。
程なく卒業してからは城へと出仕し、社交として侍女や職業婦人達と言葉を交わすけれど、誰もが生気に満ちてきらきらとしているのを遠くから確認しては溜息をつくだけ。
このまま働き続けて適当な妻を娶り、子どもができて父に代わって侯爵となるのだろう。
ありがたくも平凡で退屈な人生。
そんな中でルレイヤ・ノクターナ・ロアンを見かけたのは偶然だった。
いや、マティスには運命でしかなかった。
たまたま手続きで卒業証明書が必要となり、平日に休みを取って卒業した学園へと訪れたのだ。
懐かしさに視線をあちらこちらと向けながら歩いていた時、中庭を俯きがちに歩く一人の少女が目に留まって、思わず息を飲んだ。
暗い影を落とす黒の髪が頬にかかり、部屋にでも籠っているのか、日に焼けていない肌は病的とまではいかないものの健康的にも思えない。
伏せがちな顔は緊張を浮かべ、そのくせどこか無気力にも投げやりにも見えた。
なにより纏う空気が周囲の生徒達と違った。
誰にも見つかりたくないといわんばかりに荷物を抱えて端を歩いている姿は、どことなく陰鬱な空気を漂わせ、まるで人が亡くなった夜のような少女。
マティスの胸でファンファーレが鳴り響く。
彼女こそがマティスに生きる喜びを与える女神だと。
卒業証明書を受け取るのももどかしく、急いで帰宅したマティスはすぐに人を使ってルレイヤを調べ上げた。
名前、年齢、家族構成。学園では親しい友人がいないことも、婚約者はまだ決まっていないことも。
家同士で考えるとさして益となる相手ではないが、特に問題のある家でもなければ面倒な派閥に属しているわけでもない。
ルレイヤは他国の精霊の名で、厳冬の夜を司っているのも彼女らしくて大変好ましい。
彼女を手に入れたい。
手元に置いて、一切触れることもなく眺めていたい。
そこで、はたと動きを止めた。
そんな状況の彼女に婚約を申し込んだら、幸せにならないだろうかと。
侯爵令息から見初められるのだ。
家族は褒めたたえて彼女の存在を認め、同級生たちだって彼女の幸運を羨ましがるに違いない。
駄目だ、彼女の仄暗い美しさが消えてしまう。
彼女が幸せになってしまったら、そこら辺にいる女と何ら変わりない。単に大人しくて綺麗なだけの少女だ。
妻にしてから不幸へと追い詰めることも考えたが、マティスはルレイヤを今のまま、純粋な不幸せの影として手に入れたいのだ。
考えること少し。ならば似た女が姉妹でいるのだから、先ず妹の方を手に入れてから近くで眺めればいいのだと思い至る。
妹の方と婚約を結べば、ある程度ロアン家にも干渉しやすくなる。
先に妹の婚約者が決まるとなれば不安になるだろう。
これは勘だがルレイヤの不幸そうな空気は家族によるものだと思っている。ならば少し手続きを急かしてやれば、親はルレイヤのことなど構わず妹にかかりきりになるに違いない。
一人ぼっちのルレイヤ。
彼女に新しい不幸せを与え、それを近くで見ていられるのだ。
ぶるりと身震いをして、いつの間にか握りしめていた報告書を丁寧に引き出しへとしまう。
まるで今にも消え失せる雪にでも触れるように。
それからのマティスの行動は早く、ルーシェリアの光属性っぷりに疲れ果てて病気と見せかけて殺してしまうという多少の紆余曲折を経たものの、不幸なままにルレイヤを手に入れて冒頭に至るのだった。