04. マティス・ルフェーヴル
季節は目まぐるしく変わり、そして今のルレイヤにとっては憂鬱でしかない社交シーズンを迎えた。
形ばかりとはいえ侯爵夫人であるルレイヤも参加しなければならないからだ。
3年前のデビュタントによって、誰もがマティスの婚約者はルーシェリアであったことを知っている。
婚姻してから初めての夜会は、さぞや人々から浴びせられる視線が好奇心に満ちていることだろう。
せめて形ばかりでも良好な仲であることをアピールできればマシだろうけれど、夜会用のドレスに合わせるようにと贈られたネックレスとイヤリングはルレイヤの瞳の色で、ドレス同様にマティスの色は一切入っていない。
侯爵家の使用人たちはそれが当たり前のように何も言わないまま着付けてくれ、仰々しい態度の家令と共に見送ってくれた。
今夜は王家主催の夜会である。
参加は必須な上に貴族たちの数も多い。この一晩で愛されていない身代わり妻だと噂は駆け巡るに違いない。
考えるだけで気が滅入りそうになる。
馬車の中で向かい合って座るマティスは微笑みを浮かべてルレイヤを見てくるが、話しかけてくる素振りも見せないので何を考えているのかわからない。
なぜルレイヤに婚約を申し込んだのか、なぜルーシェリアの愛称で呼ぶのかなど何も聞けていない。
婚姻前提だったことから婚約を申し込まれてから侯爵家へ嫁ぐまでの期間は半年と短く、その間マティスとは一切会うことが無かった。
既に為人は知っているのだし、今までルーシェリアの見舞いに時間を使ったから仕事に皺寄せがきているのだと言われたらお茶会にすら誘うこともできない。
結婚式では口づけすらせず、夜通し友人達と騒いでしまったことから寝室に行けなかったと明朝に告げられ、以降も仕事を理由に一緒に眠ることはないまま。
一体どういうつもりなのかちゃんと聞きたい。けれど聞いてしまえば、妹の身代わりなのだと返されて心が壊れてしまいそうだ。
彼の友人達は結婚式の夜のことを面白おかしく話すのだろうか。朝まで遊び惚けた新郎は新婦と一夜を過ごすことなどなかったと。
このまま帰りたいと祈ったところで願いは叶うことなく、無情にも馬車は城の門を潜って逃げ場もない。
馬車から降りる時にはエスコートしてくれたマティスは、どこか嬉しそうに笑ってルレイヤを伴うと会場へと足を進めた。
入場の通知とともに視線を一身に浴びて足が竦む思いだが、俯くことなど許されない。
幼い頃から叩き込まれた行儀作法が、感情とは真逆に姿勢を正して真っ直ぐに前を向かせてくれる。
家庭教師をしてくれたデュバリー子爵夫人には感謝している。あの環境で唯一、ルーシェリアではなくルレイヤを褒めてくれた人。
ルーシェリアが行儀作法はもう大丈夫だと言ったら家庭教師が終了したため、お礼や挨拶すらできずにいた。
もし今夜会えて無作法を許してもらえるのならば、あの時のお礼を伝えたい。
不躾にならない程度に視線を周囲へと向ける。
誰もが取り澄ました顔をしているが、視線が合えば少しだけ表情を変える。
そのどれもが好意的ではないのだから、今日はなるべく面識のない人には話しかけない方がいいだろう。
周辺を確認していたら、見覚えある顔の三人が目に入った。
「ルフェーヴル侯爵令息、結婚式振りですな」
久しぶりである父親の声が耳に届く頃には、家族は近くにまで来ていた。
「ロアン伯爵、お久しぶりです」
マティスが愛想よく返事をする。
「あの子に比べて出来の悪い娘で心配していますが、恙無く過ごせていますか?」
また、だ。
心配してくれているのだ。そんなことわかっている。
それなのにどうして言葉が刺さるのか。
出来の悪い、という言葉はわざわざ言う必要があったのか。誰かと比べる必要があるのか。
「伯爵、まだ三ヵ月しか経っておりませんよ。
ご心配なのはわかりますが、長い目で見守られることも大事かと」
マティスがとりなすように答え、ルレイヤに微笑みかける。
「だろう、ルル」
マティスの言葉に全員が固まった。
当たり前だ。ルルは家族がルーシェリアを呼ぶときの愛称なのだから。
父はどう出るだろう。ルレイヤの愛称はルルではないと言うのだろうか。
それとも。
父親はルレイヤとマティスに視線を行き来させ、最終的に浮かべたのは否定をしない曖昧な笑みだった。
「なるほど。なるほど。承知しました。
少し心配が過ぎましたな」
ああ、この人たちは否定しないのだ。
マティスがルーシェリアに使っていた愛称でルレイヤを呼ぶことを。ルレイヤが身代わりでしかないことを。
心と体が冷えていく。
どこにもルレイヤの逃げ場などないのだ。
夜会は社交の場。次の相手から相手へとダンスのパートナーを替えるように、話し相手も替わっていく。
暫し歓談を交わして次の相手へ。
未だ周囲から向けられる視線にあるものは変わりない。
できれば夫が一緒にいてくれると安心できるのにと思っていたら、まるで人の心を読んだかのように、友人の話の輪の中に加わってくるのだと言って離れていこうとする。
ルレイヤを誰にも紹介する気が無いのだという態度に、さすがのルレイヤも呆然として離れていく背を凝視した。
男性ばかりの輪の中であればルレイヤだって遠慮する。
けれどマティスの向かう先にいる友人達は、誰もが妻や婚約者を伴っている。
これではマティスがルレイヤを妻として扱っていないと、誰にも紹介したくないのだと言っているようなものではないか。
マティスの背中の向こう側、友人達の輪の中で、彼らの妻の一人がこちらに気づいて笑みを浮かべた。
他の妻に声をかけたのか輪の中の女性たちがルレイヤを見、そして同じような笑みを浮かべて何か話している。
きっと話題は夫に放置された哀れな新妻のことだ。
もういい。
ルレイヤの心は既に根元から折れてボロボロだ。
こんな思いをこれから何十年もしていくことになる。
たった一人で。誰にも相手にされないまま。
もう帰ろう。
勝手に帰ったらルフェーヴル家の家令の嫌味か小言を聞く羽目になるだろう。
明朝にだってマティスに叱られるかもしれない。それを見た使用人の視線も態度も更に冷たくなる可能性は高い。
けれど、そんなこと今に始まった話ではない。
誰もがルレイヤに期待などせず、誰もが腫れ物を扱うように触れてくるのは今更だ。
一歩、後ろへと下がる。
意識してゆっくりと。そうでないと身を翻して逃げたくなるから。
目の前で友人に囲まれて笑うマティスを視界に入れながら、もう一歩。
次で後ろへと振り返る。そして扉に向かって歩き出すのだ。
「ルレイヤ」
思わず肩が跳ねた。
唐突にかけられた声の主を、ルレイヤはよく知っている。
そして周囲がざわついた理由も。
ゆっくりと振り返れば会場の注目を浴びながら、懐かしい人物が夫を伴ってルレイヤの前に姿を見せた。
卒業以来会えずにいて、婚姻式も家族だけと聞いていたから何かあったのではないかと心配していた大切な友人。
国民へのお披露目についても喪に服していた頃だから、遠目に見ることさえ叶わなかったのだ。
「我らが春、王太子殿下とその最愛へ、ルレイヤ・ノクターナ・ルフェーヴルがご挨拶申し上げます」
咄嗟に披露したカーテシーは彼女に及ばないものの、それでも学生時代は一緒に練習して目の前の友人に褒めてもらったものだ。
「やだわ、私達の間柄じゃないの。
顔を上げて頂戴」
許されるままに顔を上げ、ルレイヤは口を開いた。
「お久しぶりですエレオノーラ王太子妃殿下」
物語もそろそろ起承転結の「転」に差し掛かりました。やっとだよ。
ここからは、ざまぁが少しずつ始まっていきます。