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後日談06:シーエ

幸せも不幸せも自分で決めるの。


夕日に染まる校舎。

人影の見当たらない渡り廊下。

無呼吸を内包した教室。

そして階段の踊り場。


言い争う女生徒の片方が相手を突き飛ばす。

階段へと体が傾いでいく中で、突き飛ばされた方は手を伸ばした。

掴まれる手。

いやにスローモーションな風景に、一緒に落ちていくことだけがわかるだけ。

呆然とした表情に変わった気に食わない相手に、唇だけを動かして「ざまぁみろ」と言ってやれば、すぐに時間は速度を増した。




「エレオノーラ」

かけられた言葉に意識が浮上する。

視界に広がるのは、贅を凝らした夕食だ。

幼い頃から叩き込まれた行儀作法は、急に声を掛けらたからといって崩れることなどない。

エレオノーラが顔だけを声の主に向ける。

視線の先に見慣れた顔が、不機嫌を隠すことなく見返していた。

「お父様、何か?」

「何か、とは随分と傲慢な物言いだな。

家族と食事すらも楽しめないのならば、お前はもう部屋に下がっていろ」

硬質な色を帯びた言葉に、周囲の兄妹が隠すことなく笑い声をあげる。

食事中にみっともない笑い声を上げる方が、無作法だと思うのだけど。

思ったことは口にすることなく、音も無くナイフとフォークを置き、ナフキンをテーブルに乗せて立ち上がった。

「言いつけの通り、私は失礼致します」

慌てて椅子を引こうとした使用人が慌てた様子でエレオノーラを見るが、気にすることなくダイニングを出るために歩き出す。

「あれが私達の姉だなんて、公爵家の属する者としての品格が足りなくて嘆かわしい限りですわ」

「そうですわ、お姉さまの行儀作法では王太子妃なんて務まらないのですから、私かエリーズが代わってあげたほうが恥をかかなくて済みますのに。

ヴィクトル様でしたら容姿も私達の伴侶として相応しいもの」

エレオノーラに聞かせるためか、甲高い声を張り上げている姿もみっともない。

「王太子妃など王家の奴隷でしかなく、エヴリンとエリーズが苦労をするのが目に見えている。

何より王太子妃となったら、お前たちに会えなくなるのだよ。

外見だけならばヴィクトル殿下よりも、お前たちに相応しい者だって沢山いるが、どれもお前たちには必要ない。

お前たちは公爵家の娘として、自由に暮らしていけばよい」

今度は王家を軽んじるような発言だが、既に何度も耳にしていれば聞き流すことも簡単だ。

廊下に出たダイニングの扉を閉めるとき、真正面からエレオノーラを見る使用人に頷いて見せた。


エレオノーラは大陸の少し北に位置する、ラヴェルディエール王国で三家ある公爵家の長女だ。

十代前に遡れば王女殿下が降嫁された際に公爵へと陞爵し、六代前には王子殿下の婿入り先となり、三代前には他国の大公息女を嫁に迎えている歴史ある名門である。

そんな中でエレオノーラも確かに祝福されて産まれた。

そのはずだった。

そんなエレオノーラの中に、コマキ・シエという誰かが居ると気がついたのは、物心がつくよりも前のことだ。

彼女の存在を自覚した幼い頃に、混乱しながら拙い言葉で親に訴えたが、イマジナリーフレンドだと思ったのか真面目に取り合うこともなく、成長するにつれて自然と消えていくものだと諭された。

実際には成長しても消えることはなかったが。

しえ、という名は音が詰まって呼びにくいことから、エレオノーラは彼女のことをシーエと呼んでいる。

成長していくエレオノーラの様子を見ながら、シーエは大事なことを教えてくれた。

エレオノーラが王太子殿下の婚約者に選ばれること。

そうすると何故か他の兄妹達が大事にされ始めること。家族から虐待と呼べるほどの差別を受けること。


最初は何かの間違いだろうと思った。

エレオノーラの両親は完璧な紳士と淑女であり、誰に対しても公明正大な人だと思っているから。

昨年の冬の寒さが厳しいと、領民の為に他国から薪を多く仕入れて自領内で安い価格で販売させたり、夫婦で北にある国へと寒さへの対策を視察しに行ったりと民のための領主である彼らはエレオノーラの尊敬の対象だ。

けれど10歳の時に王太子殿下の婚約者と内定された時、当たり前の生活が歪なものへと形を変えていった。

それは緩やかな変化だった。

11歳の誕生日は妹達の誕生日と近いからと一緒にされ、当日は妹達の誕生日なのだからともう一人の主役としての装いは禁止された。

兄の誕生日を迎えた時には予定を教え忘れたとして、王太子妃教育を受けている間に家族で祝ったのだと聞かされた。

さらに王太子妃になれるのだと浮ついた姿が恥ずかしいと言われ、罰として王太子殿下とのお茶会で着るドレスを買うことを許してくれなくなった。

そうやって増えていく格差を認められなくて泣いたのは幼さなかったゆえか。

今はもう泣かないが、それでも心に傷はつくのに。


早い内に知っておいた方が心づもりができるだろうからと、シーエが教えてくれたエレオノーラの人生の結末は、散々なものだった。

結婚した王太子殿下がとある侯爵夫人に心を奪われて、邪魔になったエレオノーラを離宮へと追いやり、最終的には多くの男性の心を惑わした侯爵夫人によって隣国との戦争が引き起こされるというのだ。

更には負けたラヴェルディエールは属国となり、夫を諫めることもできなかったエレオノーラは広場で斬首後に首を晒されるという。

毒杯でなく斬首。

シーエから知らされた未来は救いようがないほどに残酷で、聞いた話だけが事実ならばエレオノーラに非のないものだ。

自分が一体何をしたというのか。

王族の一員として夫を諫められないことは確かに問題であり、何もしていないことは非難されても仕方がないのかもしれない。

けれど家族の変化を見てきたエレオノーラには、王家も自身に対する態度を公爵家内のように不当な扱いへと変えていくのだと確信めいた気持ちを抱いている。

離宮に追いやられたエレオノーラに何ができるというのか。


冗談ではない。どうにか救われる方法がないかと二人で考えるも、どれだけ地位があろうと公爵令嬢にできることは限られているし、既に家族からの態度が冷めきっていることからエレオノーラの頼み事など聞いてくれないだろう。

それにシーエが持つ、エレオノーラに対する知識はそこまで詳しいものではない。

どうやらシーエの持つ情報は他の誰かの会話が耳に入っただけのことらしいので、いつ何が起こるかという詳細な情報まではさっぱりだ。

これでは策を講じようにも難しい。

シーエとエレオノーラだけではどうにもならないと、公爵家のことは王家に助けを求めることにした。

少なくとも王太子殿下は侯爵夫人とまだ会っていない。ならば婚約者であるエレオノーラを保護してくれるのではないかという、シーエの言葉に乗ることにしたのだ。

エレオノーラの訴えを聞いた、この時はまだ第一王子であったヴィクトルは半信半疑で話を聞きつつも陛下に相談してくれたらしく、結果として理想的な形で願いが実現されることになった。

次の顔合わせでは王妃殿下がご一緒されたかと思えば、王家と公爵家問わず全ての侍女と護衛騎士すらも遠ざけられ、ここにいる王妃殿下とヴィクトル殿下以外に他言してはならないことを条件に王家の影が公爵家に入り込むことを教えてくれる。

知られると公爵家との信頼関係が崩れることになると重ねて言われ、エレオノーラは重々しく首を縦に振る。

時間にして数分。それでも未来の娘となるエレオノーラに多忙な公務の時間を調整してくれたのだろう。

ヴィクトル殿下に礼を言えば、完璧な令嬢だと思っていたエレオノーラから思いがけない弱音を聞いて、一人の人間なのだと思い知らされたのだと逆に謝られた。

「ヴィクトル殿下こそ完璧だと思いますのに」

「そんなことはないし、エレオノーラはいつでも完璧だった。

けれど、そんな君にも悩みがあるのだと知れて、本当に良かった。

これからは私のことをもっと話したいと思うし、エレオノーラのことも話して欲しい」

どうか私のことは殿下をつけずにヴィクトルと、と照れたように笑うヴィクトル殿下を見ると、知らず頬が熱くなり、こっちは問題なさそうねというシーエの声が頭の片隅で響いた。




公爵家内の問題が解決したならば、次は侯爵夫人になるだろう令嬢のことだ。

ラヴェルディエールに存在する侯爵の数は五家。

その中で将来的にエレオノーラと年の近い令嬢と婚姻しそうな家は二家に絞られる。

ルフェーヴルか、それともデュランか。

家令に頼んで書斎から借りてきたもらった貴族年鑑で絞り込めば、ルフェーヴルという名に憶えがあると言われた。

今年社交界にデビューしたばかりなのか、年鑑のページをめくれども令息の名前があるだけだ。

マティス・ルフェーヴルという名を指でなぞり、とりあえず心に留めおくだけにしておく。

12歳のエレオノーラのデビュタントはまだ先だ。

この国では貴族令息は18歳、令嬢は16歳あたりで社交界へのデビューを果たす。

婚約者であるヴィクトル殿下も社交界デビューは果たしておらず、彼が参加するときがエレオノーラのデビュタントにもなる。

誰よりも美しいドレスを贈るよと言ってくれたヴィクトル殿下に、楽しみにしていますと返した。


「侯爵夫人になるのはルレイヤっていう子なの。多分、伯爵の娘だったはず。

珍しい名前のはずだから他にいないと思うけど、わかる?」

シーエが聞いてきた名前はラヴェルディエールのものではなく、北の国スレイプニルスで使われる名前のようにも思える。

それならば探しやすいだろう。

ヴィクトル殿下の婚約者として恥ずかしくないよう、デビュタント前の令息や令嬢達の情報は入学となる前に知っておいた方がいいだろうと、今年の入学予定者も含めた学園生徒の資料を父親に頼む。

この頃の父親はエレオノーラと会うのすらも厭い、エレオノーラは自分の部屋で食事をとるようになっていた。

母親も口を利くのすら億劫らしく、廊下で会っても顔を背けて妹達だけ連れて街へと買い物に行く。

昔の優しかった面影などなく、懐古する気持ちすら失せる程にいっそ清々しいまでの態度。

そんな久しぶりの顔が不機嫌を隠さずに、エレオノーラを睨んでくる。

入学するだけなのに何故そんなものが必要なのかと渋面する父親に、何も知らないようではの公爵家の、ひいては兄の恥となると返せば、渋々とした様子で用意してくれた。

入学直前に手に入れた資料を手に部屋へと戻り、リストへと目を通す。


ルレイヤ・ノクターナ・ロアン。


調べればガルニエ公爵家の寄り子である伯爵家だった。

双子の姉の方らしい。

ガルニエ公爵とは特に対立もしてないが、同じ派閥というわけでもない。

エレオノーラの生まれたデュランベール公爵家は第一王子派であるが、彼の家は二代前の王弟殿下が新しく叙爵したばかりのため政治への口出しを控えている中立派だ。

可もなく不可もない新しい公爵家。

そこの寄り子ということは、スレイプニルスから公爵に嫁いだという夫人に伴われていた侍女あたりが嫁いだことで縁ができたと考えられる。

デュランベール公爵と縁が無いのであれば、誰かの伝手を頼ってお茶会で出会うのも難しい。

学園に入って相手を確認してから、どう動くか考えた方がいいかもしれない。

とはいえ、手に入るのならば情報は得ておくに限る。

その辺りも後で家令にでも聞いておこうと思いながら、もし家令では調べることが難しくて父親にでも聞かなければいけないことになった時の為、納得してもらえるような言い訳を考えなければいけないのだと溜息をついた。


この二年間で家族が見せる態度はどんどんと酷くなっていく。

妹を褒めるためにエレオノーラの粗を探し、時には心無い言葉を執拗に投げかけてくるので仕方なく反応を返せば、常に微笑みを絶やしてはならないのに令嬢としての自覚が足りないと叱りつける。

かと思えば、妹が感情豊かに笑うと天使のようだと褒め、エレオノーラの微笑みは貼り付けただけで気持ち悪いという始末。

大声で笑い、兄が婚約者と過ごすはずのお茶会に乱入しては、まるで娼婦のように身をくねらせて兄の腕にすがりつく妹達を部屋の窓から見たことがある。

公爵令嬢どころか下位の貴族令嬢ですら眉を顰める態度だろう。

お茶会が始まって早々に婚約者が席を辞した後は、まるで自分達が婚約者であるかのように、向かいに座ると話に興じていたのを見てゾッとする。

公爵邸内の侍女達は行儀よく口を噤んでいるが、洗濯女中などの口を塞ぐことは難しい。

小金を握らせれば、兄が婚約者に使うべき予算を妹達に使っているのが噂になっていた。

それを父が咎めることすらしていないことも。

兄の婚約者は分家などではなく、新しい事業の提携先である伯爵家の令嬢だ。

両家の利益を求めた政略結婚だが、それゆえ蔑ろにしてはいけない筈の相手である。

王宮で時間があれば謝罪の手紙を認めた方がいい。それで許されることはないのだろうけど。


ドレスや靴も王家から贈られるものが増え、入れ替わるように両親からもらった物は姿を消していく。

さすがに王家から贈られた物と学園で使う物に手を出すのはよろしくないという頭はあるようだが、それ以外のものは不要であろうと勝手な判断を下し、侍女に命じて部屋から持ち去らせているのは知っている。

先日も王妃殿下からエレオノーラ名指しで贈り物が届き、「王妃殿下に強請るとは我が娘ながら浅ましい」と嫌味を言われたところだ。

後一年もすればエレオノーラの部屋には、公爵夫妻から貰った物など一つも無くなるだろう。

今では家族と顔を合わせるのも億劫で私室に籠ることが多く、そうすると薪が勿体無い、領民のことを考えているのかと叱る始末。

兄と妹の部屋は彼女達が風邪をひかぬようにと、使用人達には不在の間も部屋を暖め続けるよう命じているというのに。

ここまでくれば、さすがのエレオノーラも家族への愛情は薄れていく。

一体両親に何があったのだろうと思い返せども、これという切っ掛けがわからない。

それほどまでに公爵家の跡継ぎを重要視していたのかと思ったが、まだヴィクトル殿下の婚約者に決まる前にはそんな素振りは少しも見せなかった。

妹が生まれた瞬間から冷たくなったわけでもなければ、エレオノーラも妹も母に似ているので、容姿が劣るというわけでもない。

更に言えば、両親はどちらも血が繋がっており、今いる母親が後妻だということでもないのだ。


シーエに愚痴を溢せば、寒い国で起きている風土病のことを教えてくれた。

曰く、精神疾患の一種で生活圏内にいる一人を対象に定めて攻撃的な行動を行い、鬱屈した気分を解消させるものだという。

それは必ずしも直接的な手段、手を上げたり鞭打ちにするとかだけではなく、精神的に追い詰めることも症状の一つになるのだとか。

そんな症状があるのかと驚く一方で、少しだけ納得もする。

元々そこまで暖かな気温というわけではないが、両親も近年冷え込みが増していると言っていた。

今年の春に始まる社交シーズン開催は夜会ではなく、春の日差しを楽しめるようにと花明祭と呼ばれる国一番の祭りを迎えてからとなっている。

既に家族への愛情など残滓すらなかったが、原因を知るために、この国で同じような思いをする人が出ないように研究していきたいとヴィクトル殿下に言えば、かなり先の発表となるが王太子として既に選ばれている彼は賛成してくれた。

国でも急激な気温の変化に対しては急ぎの対策とともに、長い目でみた研究も必要と考えていたのだ。

既に研究者を数名集めているが、彼らを動かすのにある程度権力を持って行動させられる人物を探していたという。

まずはエレオノーラの地位を盤石にするためだとして、彼らのまとめ役を補佐付きで行うこととなった。

学園での勉強と王妃教育があることから基本的には補佐役が日々の業務をこなし、エレオノーラは週に一度だけ彼らの取り纏められた報告を聞き、相談の上で予算の采配を行う役割だ。

優秀ゆえに早くに修了すると見込まれる王妃教育の一環とされる代わりに、既に貴族令嬢として身に付けているはずの行儀作法の一部は免除とされた。


そうなると途端に忙しくなり、ルレイヤという令嬢を探す暇が無くなってしまう。

充実した日々に追われながらも、きたる未来への焦燥が心を追い立てるも時間ばかりが過ぎていき、クラスが違うならばと食堂でそれとなく探してみても会うこともない。それらしい令嬢を見かけたかもしれないが、特定にまで至っていない。

気づけば学園に入学して二年も経っているのにルレイヤとは会えないまま。

少しでも言葉を交わせればと思っているのに、目にするのは双子の妹だというルーシェリアばかり。

中庭のお姫様と称される彼女は高位貴族の令嬢に劣ることなく美しく、誰もの目を奪う笑顔で令息達を惹きつけている今や学園で噂の令嬢だ。

彼女の双子の姉なのだ。ルレイヤも大層美しいのだろう。

けれど、噂に聞くのはルーシェリアばかりでルレイヤの名前が出てこない。

さすがに不思議になって周囲の令嬢に聞いてみれば、「あの方は……」と言葉を濁すばかり。

いらぬことに首を突っ込むことになるかもしれないと一瞬思ったが、酷く気になった。

急激な寒さ。スレイプニルスから嫁いだ夫人。姉妹の姉。

もしかしたら、彼女は。




エレオノーラは校舎を注意されない程度の早さで歩く。

学園には目に見える形で護衛がいるが、それとは別に王家の影として育てられている少女が在籍している。

彼女に頼んでルレイヤが何をしているのか確認してもらっている。

姿を見せない彼女がどこにいるのだろうと思っていたら、誰も使わない図書室奥の自習室に入り浸っているのだと報告を受けて驚いた。

あそこは普通の貴族ならば使わない。

学園の授業料を支払えるのは裕福な貴族であるし、そんな令息や令嬢がわざわざ自習室など使わなくても、家で家庭教師に見てもらいながら課題をこなせばいいだけなのだから。

ロアン家も双子を二人入学させるくらいには裕福だ。

だから自習室は名ばかりのものであり、人の目のない自習室に通えばよからぬ噂を立てられる場合もある。

だから自習室があったことをすっかり忘れていた。

その自習室に向かいながら、エレオノーラの胸に宿るのは怒りである。


結局、ルレイヤという令嬢は、エレオノーラと同じだったのだ。

妹であるルーシェリアばかりが大切にされ、彼女は家族に見向きもされていないのだという。

ルレイヤの友人であるという令嬢が漏らした、毎日ルレイヤの髪を結ぶリボンの色が紺であるのに、ルーシェリアのリボンが毎日違うこと。

見た目が似ていて遠くから間違えるとルーシェリアに失礼だからと、同じ髪型は直すように言われること。

誕生日のプレゼントを自慢するルーシェリアと、誕生日会に何をしたのか話さないルレイヤ。

まるで自分を見ているようで、痛くて、悲しい、苦しい。

湧き上がる感情がないまぜになって、泣いてしまいそうだった。

その勢いは行儀作法としてはありえない扉の開け方をさせ、そしてルレイヤの鼻に扉をぶつけてしまったけれど。

友人になれたのだから、何事も結果である。

それ以降は時間のある時に自習室に立ち寄り、ルレイヤと読んだ本の感想を言い合ったり、おやつを分け合ったり、一緒に課題を解いたりと、どこにでもいる友人のような時間を過ごした。

途中からはさらにアミールも増えて、隣国の言葉の勉強をしたり王太子にコッソリ紹介したりと、周囲が賑やかになる。


そして学園に通い出して四年目にルーシェリアに婚約者ができたと聞き、それがマティス・ルフェーヴル侯爵令息だと聞いたときにはエレオノーラもシーエも心中で喝采を上げた。

きっとルレイヤが自習室にいるから出会えなかったのだろうと安堵し、自分は婚約者を探してもらえないのだと寂しげに語るルレイヤには申し訳ないが、彼女が侯爵令息と婚姻すると国が亡ぶしエレオノーラも晒し首だ。

友人として腹立たしいけれど、ルレイヤには程よい誰かを紹介しよう。あまり他者の権威に頼りきりにはなりたくないが、今ではいないもの扱いする公爵家では頼みにくい。

ルーシェリアの婚約が落ち着く頃に、王太子となったヴィクトルに頼んでみると声をかければ、アミールが隣国に留学しなよと言い出すのを見て少しだけ心配になった。

隣国との戦争になるというのならば、切掛けは王子である彼のような気がするからだ。

窺うようにアミールを見るが、今の彼にあるのは純粋な同情のように見える。

ともあれ、これでエレオノーラの首は繋がった。


それが間違いだと気づかずに。




最終学年に進級する少し前、流行り病に侵されたルーシェリアが学園に通わなくなり、そうして最後の学園生活を謳歌するはずの初夏あたりからルレイヤが自習室に現れなくなったのだ。

ルレイヤから頼まれたのだと、司書から渡された鍵の感触が酷く冷たい。

せめて手紙だけでもと、近くにあった紙に心配していることだけ書き付けて、それを司書に預けた。

ルレイヤの家とは派閥的に問題ないが、今や王太子妃としての未来が確定しているエレオノーラと親しくしているということは良くも悪くも影響を与えてしまう。

ロアン家の面々の為人がわからないならば、なおさら。

ただでさえデュランベール公爵家は今、ある日突然に王宮から戻らなくなったエレオノーラと、次期王太子妃である彼女の扱いについて書状が王家より送り付けられて決裂寸前の状態である。

謹慎しているわけではないが、王家からは出来るだけ関係ない人間との接触は避けるように言われている。

落ち着くまでは何もできないままだ。

ルフェーヴル侯爵令息は婚約を解消することなく、熱心にルーシェリアを見舞っているという。

無事に治っても婚姻に至るかは難しいところだが、それだけ愛情を注いでいるのならばルレイヤと何かあるとも思えない。

エレオノーラにできることは何事もないよう祈りつつ、時間が過ぎるのは待つだけだ。


そして学園を卒業する頃には公爵家とのやりとりは修復不可能なものとなり、とうとう公爵本人がエレオノーラを引き渡すように乗り込んできたことから、最悪な結末で終わりを迎えることとなった。

当日の先触れという時点で王家に対して無作法だと言えるのに、時間を取って当たり前だと言わんばかりに返事を待たずに姿を見せる。

間もなく婚姻をするエレオノーラは王族に限りなく近い。

いくら家族であろうとも、王太子妃となる彼女の方が立場が上なのだ。許可なく訪れることは認められていない。

これが周囲に知れれば公爵家がエレオノーラを蔑視しているか、もしくは王家に敬意をもっていないと周囲に思われてもおかしくないだろう。

口さがない他貴族に見られることがないよう、急ぎ王太子妃の応接間に通して王家の面々は今日の予定は返上して同席してくれた。


エレオノーラから見た父親は、もはや過去の面影を全て無くした偽者のようだった。

可愛い娘が王家に軟禁されていると言った口が、すぐに出来の悪い役立たずな娘だという罵倒に変わり、公爵となる兄のために王太子妃は辞退して領地経営を代わるべきだと宣う。

公爵の申し出を受け入れる気はないが、王太子妃を辞退して領地を治めていくのならば、エレオノーラが公爵になるのが筋ではないのかと王妃殿下が聞けば、きょとんとした顔でエレオノーラに公爵としての勉強はさせていないのだから無理だと返す。

ならば、エレオノーラに領地経営は無理だろうし公爵となった者が本来すべき義務だと言葉を重ねれば、息子には枷の無い自由な生活を送ってほしく、他の娘達は蝶よ花よと育てたので働くのは可哀想だからエレオノーラがやってもらわないと困ると言う。

領地経営をするならば公爵と為る者だろうという話を三巡したあたりで、国王陛下が重い溜息を落とした。

まるで違う言語を話しているかのようだった。

父親の後ろに控える近衛騎士も驚きを隠せずに見つめている。

誰から見ても異常な姿。

現公爵には公爵としての立場のみならず貴族としての常識が著しく欠如していること、それを理解できていないこと、公爵を諫められない後継者にも責務を務める能力があるのか疑わしいと国王陛下が苦々し気に話す。

下された沙汰は、当主の蟄居だ。それも年内の。

王家といえども貴族が犯罪を起こさない限り、本来はここまでの過干渉を行うことはない。

せいぜいが苦言を呈するくらいだ。

王命をもって公爵家に介入するということは余程のことである。


「現状そなたの子息以外に適当な者がおらぬから、致し方ないが当主として暫定的に認めよう。

しかし、同じように病だと判断されたら力ずくでも蟄居させ、親戚筋から養子を迎えた上で、必要に応じて国から執務官を派遣する。

拒否権はないと思われよ」

意味がわからないと呆然とした面持ちは、言葉の意味を理解し始めたのか怒りで赤く染まっていく。

王太子殿下からエレオノーラへの理不尽な態度を謝るように言われるも、反抗的な眼差しが拒絶を含んで、その唇が開かれることはない。

「最後に伺いたいのですが」

そう声をかければ、濁った瞳がエレオノーラに向けられた。

「兄を公爵にするとというのはわかります。勿論、後継者として大事にするのも。

兄は長子ですし、私は嫁ぐのですから」

それでも、おかしいのだ。

「どうして妹達に未だ婚約者がいないのですか。

あの子達は既に15歳。早く決めないと釣り合う令息が少なくなり、良い縁を結びにくくなるというのに」

親として妹達を想うのならば特に。

結婚する必要はない、とボソリと落ちた言葉に嫌な予感を覚えて肌が泡だった。

濁りのある瞳に暴力的なまでの愛情が滲み出る。

「いつまでも可愛い、私のエヴリンとエリーズ。

お前のように不出来な女と違って、夜会で春の精霊のように美しいと持て囃される、私の可愛い娘達」

どこか惚けた顔が気持ち悪い。

「大切な私の娘達に、下心を持った配偶者なぞいらん。

いつまでも私と息子の庇護の下で健やかに過ごせばいいのだ」

「そんなことをしたら、兄に嫁いでくるご令嬢がどう思われるか。

娘達に執着する異常な家なのだと、早晩にも婚約解消されると何故考えないのですか」

既に相手のご令嬢が公爵家に訪れなくなって久しい。そして彼女に使われるはずのお金は、今や妹達の小遣いと化している。

もはや公爵としての体裁すらも取り繕えないのか、歪んだ笑顔でエレオノーラを見据えた。

「そのときはエレオノーラ、お前が子を成せばいいだけだ」

「私に領地経営だけでは飽き足らず、公爵家の為に誰かと結婚して子を成せと?」

エレオノーラの言葉に鼻で笑う。

「結婚?そんなものは必要ない。

可愛い私の子供達の影でしかないお前なぞに、婚姻で使ってやる金などない。

一応お前にもデュランベールの血が流れているのだから、我々の欲の捌け口にでもなれば、血筋正しい子供はできるので問題なかろう」

一瞬、呼吸が止まった。

どれだけ無視されようとも、あからさまな悪意に晒されずにいたから公爵家の中でも生きてこれたのだ。

人を人とも思わない発言は、実の父親に投げられた言葉は悍ましい以外の何ものでもない。


王太子の婚約者に対して不敬ゆえに捕らえよという言葉に、公爵の後ろに立っていた近衛騎士達がすぐに身柄を拘束し、荒っぽい手つきで猿轡までして床に転がす。

それを止めようなんて思わない。

目の前にいるのは知っている父親ではない。あの尊敬すべき姿など消えて久しい、残骸ですらないお粗末な狂人でしかなかった。

「デュランベール公爵よ、そなたには公爵としての責務だけではなく、人の倫理すらも欠如しているとわかった。

先程の王命を取り消し、改めて王命を下そう。

蟄居は今すぐとする。公爵家のことは我々に任せ、療養所へとすぐに旅立たれよ」

公爵は何か言おうとしているが、猿轡によって呻き声にしか聞こえない。

「不満しかないであろうな。だが、デュランベール公爵という立場が他貴族へ強く影響するからこその措置である。

国の為、そしてこれ以上に不敬罪で厳重に処さねばならない言葉を吐き散らしてエレオノーラの立場を汚さぬため、今より表舞台から姿を消すが良い」

「公爵よ、その倫理から外れた親としてあり得ない考えをエレオノーラに語ったこと、いつか悔やむがよい」

王太子殿下の怒りを含んだ声を聞きながら、頭の中でシーエも聞いたこともない類の悪態で、目の前の父親を罵倒していた。

塵野郎。ド変態サイコパス。社会不適合者。去勢してから粗大ゴミで出してやるから、今すぐ生ゴミと仲良く袋にでも入ってろ。

止めるべきなのかもしれない。それでもシーエの怒りはエレオノーラを傷つける者を許さないのもので、長くエレオノーラに寄り添ってくれた彼女の言葉がどれだけ品の無いものだとしても優しさで満ちていた。

病ゆえだとしながら、エレオノーラも怒っていいのだとシーエの言葉が脳内に響く。

きっと、エレオノーラの言葉は何一つとして父親に届くことはない。

それでも王太子妃となる公爵令嬢ではなく、虐げられた者として言わせてもらえるのならば。

罪を諭すのではなく、復讐を。

私は目の前の男を許さない。


エレオノーラの背に触れた王太子殿下の手が温かい。

大丈夫、私にはこの人がいる。

私には、私の選ぶ未来がある。

大きく息を吸った。

「今の公爵は精神を蝕む病に侵されていることにも気づかず、長く過ごしてきたのが残念ですが、けれどそのお陰で症状が進行している者の貴重なサンプルとなるでしょう。

これから発表する病の研究対象として、大変興味深い内容でした。

国王陛下の仰られるように、私もデュランベール公爵は重篤患者だと判断いたします。これでは公爵として次の後継者を選ぶ責務も果たせませんね。

どうぞ今すぐにでも当主という枷から解き放たれて、静かな療養所で余生をお過ごしください。

夫人もですが、貴方の大切なご子息も同じ病である可能性があれば、慈悲として家族仲良く同じ療養所に入れて頂くよう、陛下に進言することをお約束します」

そうして微笑む。

この人が嫌った、令嬢らしい微笑み。

「この病は現在治療方法が明確に確立されておりませんので、貴方の可愛い娘達がどれだけ望んだとしても療養所から長い期間出ることはありませんし、症状の悪化が見込まれるのでエヴリンとエリーズにも会わせません。

そもそも、あの二人も病である可能性がありますから、当然医師と研究者との立ち合いの下で確認させて頂きます。

問題ないようでしたらデュランベール公爵令嬢として過ごせるでしょう。

公爵は嫌がるでしょうが、どなたかに嫁ぐことも可能ですわ」

病ではない可能性は限りなく低いが、それでも第三者による公平な診断書は必要であるし、もし本当に病でないのだとしたら新たに公爵となる者の為に嫁ぎ先を探してもいい。

ただ、公爵令嬢としての自覚も無ければ品性も無い、見た目しか取り柄のない下品な少女でしかない彼女達にどれほどの縁談がくるかは想像に容易いが。

「貴方の可愛い娘達は行儀作法を一切身に付けていませんので、高い爵位の令息など難しいでしょう。

良縁は探しますが彼女達の身の丈にあった家となると、訳ありでも貴族でさえあったら問題無いと言ってくれる裕福な平民か、社交界にはもう出られない高齢な方の後妻ぐらい。

それが嫌ならば修道院となりますので」

呻き声が大きくなる。

可愛い可愛い、たった二人だけの娘が不遇な目に遭うことへの怒りだろうか。

けれど。

「せめて公爵がきちんと家庭教師を付けて正しく育てていれば、エヴリンとエリーズも伯爵位くらいまでには嫁げましたのに。

これも全部、デュランベール公爵のせいですわ」

ぼろり、と公爵の眦から涙が落ちる。

その涙すらもエレオノーラを酷く冷静にさせ、国王陛下の指示にて引きずられていく姿を見送った。


ようやく公爵家の件が片付いた。

これで全て終わったと思ったのに。


デュランベール公爵家のことは明日にも他の貴族に知れ渡ることになるだろうから公務は暫く休み、退屈だろうが暫く王太子妃の部屋と、王族以外は出入りを許されていない庭でゆっくり過ごすとよいという言葉に甘えて部屋に戻れば、王太子殿下の側近から届けられたのはルーシェリアの死亡とルレイヤの婚約。

葬儀の後にすぐルレイヤがルフェーヴル侯爵家に嫁ぐことが決まったのを知ったのは、正式な婚約証書が提出されたのを王太子殿下が発見したからだ。

そこからはあっという間だった。

妹の婚約者と婚約だなんて世間から見れば非常識でしかない。

それでも問題自体は無いため、両家当主の署名がされた婚約証書は恙無く処理がされるのを、呆然と見守るしかなかった。

どうして。

音にすらならない声が空気だけを染めて消えていく。

シーエから散々な物語の結末を聞いた日から、ずっと未来への絶望から逃れられるようにと励ましてもらい、背を押してもらって懸命に生きてきたのに。

王家を後ろ盾にして、王太子殿下と支え合って生きていけるのだと思っていた。盤石であったはずの土台が今にも崩れ落ちそうに感じる。

どれだけ努力しても何も変わらないなんて。


ねえ、エレオノーラ。

部屋で塞ぎ込むエレオノーラに掛けられた、エレオノーラにだけしか聞こえない声。

泣き疲れてぼんやりした頭で意識をシーエへと向ければ、いつになく思い詰めた空気が伝わってくる。

そうして伝えられた申し出は意外なものだった。

エレオノーラは寝てていいから、ゆっくり休んで。

そうして声が少し笑う。

でも、私がエレオノーラの体を借りるから、目が覚めてもスッキリしないと思うけど。

その言葉にエレオノーラも笑う。

エレオノーラの体を借りたいなんて初めて言われた。

いつだって彼女はエレオノーラが主体となって動くのを見守ってきたのだから。

けれど彼女が話すことはいつだってエレオノーラの未来を変えるためのものだ。

二人で同じ体にいる、いわば双子のような存在。

誰よりも一番近い家族。

不安を覚えることなく、エレオノーラは初めてシーエに体を明け渡した。


明朝の目覚めは確かにスッキリしなかったが、それが妙に面白くて寝具に包まれたまま笑ってしまう。

シーエは眠っているのか反応はない。

侍女達が入ってきて支度を終えると、気を遣ったのか朝食も部屋で頂けた。

カブと玉ねぎの味が優しいポタージュ、滋味溢れるサラダに、ソテーされたアスパラガスと人参が添えられた小さなオムレツ、柔らな白パン、そして搾りたてのジュースとは別の果物。

食器を下げてもらえば侍女はいるものの、可能な限りの一人の時間だ。

きっとシーエが何か痕跡を残してくれているはずだと机に向かえば、学生時代に使っていたノートが机に残されていた。

これは自習室でルレイヤ達と過ごした時に使ったノートだ。

つい先日のことのようで、そのくせ無性に懐かしくなる。

開けば鮮明に思い出せる授業の内容。少しクセのある発音だった教授の話。

ノートの思い出を辿れば、最後の授業で使ったページの後に見慣れない言語が窮屈そうに走り書きされていた。

複雑な文字形態をしており、何かの記号かと思うシンプルな形の文字から、画角の多くて暗号にでも使いそうな複雑な文字が並んでいる。

王妃教育で近隣国の言語を修得したエレオノーラでも、法則性を見いだせずにお手上げ状態だ。

シーエが起きたら聞かなければ。


シーエの存在を認識できたのは、正午を少し過ぎた頃。すでに昼食を終えた後だ。

起きたばかりなのに満腹になっているのが不思議、と本当に不思議そうな声が響いて、でもすぐに我に返ったようで昨日何をしていたのかを教えてくれた。

エレオノーラの体に入り込む前は17歳の少女だったシーエは、エレオノーラの中で生き続ける内に過去の記憶が少しずつ薄れていったらしい。

勿論それはエレオノーラに対する知識も含めてのこと。

何か思い出せないかと考え、もしかしたら自身の見慣れた文字でひたすらに書き綴れば、記憶の引き出しから何かを見つけられるんじゃないかと思ったのだそうだ。

そして、彼女は懐かしい文字から記憶を掬い上げた。

曰く、マティス・ルフェーヴルが中庭で見初めたのはルーシェリアではなく実はルレイヤであり、その幸薄そうな姿に強く心を惹かれたのだとか。

けれど侯爵令息である彼が選んだらルレイヤが不幸せで無くなってしまい、彼が好ましいと思った不幸な理想像が失われるので、近くでルレイヤの不幸な姿を見守られるようにルシェーリアを選んだらしい。

待って。意味がわからない。

だよねえ、と同意してくれたシーエだけど、世の中には理解できない異常な嗜好を持つ変態がいるのだと諭される。


かわいそかわいい。


そういう性癖があるんだよねえ、というシーエの呟きに本気で理解ができない。

可哀そうで、可愛い。いえ、可哀そうなのが可愛い?

つまり、ルレイヤが不幸である程に愛情を覚えるということ?

好きな相手には幸せになってほしいものじゃないの?

既にエレオノーラのキャパシティを遥かに斜め上へと超えた話だ。

まずは落ち着こうと侍女にお茶を用意するように頼んで、ソファへと体を沈める。

本来ならば窘められる無作法ぶりだが、公爵との謁見のことがあるので多少のことには目を瞑ってもらえるだろう。

少ししてお茶の支度が整う頃には、異常嗜好の理解はできないものの、そういう類の人間が存在するのだということだけは認めることができた。


それでね、とシーエが何と言えばいいのか迷う素振りで口ごもっている。

てっきり彼女が虐待されるのかと身構えて聞けば、彼女は結婚しても暫くは純潔のままらしい。

きっと間抜けな顔になっているだろう。侍女に背を向けていてよかった。

そんな変態の毒牙にかからずに済むのだから不幸せではない、と言いかけて止まる。

相手が誰であろうと結婚したのだ。

夫に相手にされない妻など不幸せ以外の何者でもない。

侯爵夫人として認められず、使用人からは馬鹿にされる。それが続けば子が出来ないのだから、一年もすれば夫にも相手にされない哀れな女だと噂されるだろう。

暫くとはどのくらいの期間なのかまではシーエも知らないらしいが、ルレイヤが不幸である程に喜ぶのだとしたら、もしかしたらマティス・ルフェーヴルはルレイヤと閨を迎えていないことを言いふらすのかもしれない。

いや、周囲の口が軽い人間達に言うのだろう。

だって不幸せであるほど良いのだから。


どうにかできないかとシーエが薄れかけた記憶を遡り、書き綴っては思い出しをして、最終的に出てきた名前がアミールだった。

彼もまた不幸を背負い込む彼女の薄暗い美しさに魅了される人物なのだという。

あんなに仲が良かったのにそんなはずはない、と思う一方でアミールが隣国の王子であることから、戦争の引き金になるのは彼なのかもしれないとも思う。

あれだけルレイヤと仲が良かったのにと不思議だったが、シーエの語る未来と今は大きく変わっている。

シーエの知っているアミールがどんな感情を抱えていたのかはわからないが、でも今のアミールならばルレイヤを幸せにしてくれるのではないだろうか。

そのあたりはアミールの返事次第となるけれど、王太子であるヴィクトルの説得も必要となる。

先に相談するとすぐに同意はしてもらえなかったが、侯爵家に誰か潜り込ませることを約束してくれ、本当にマティスが虐げるのだというならば救いの手を差し出すことを約束してくれた。

「エレオノーラの願いだから動くけれど、あくまでこれはアミール第五王子の強い要望があればで、隣国との結びつきを狙って恩を売りたい王太子がいるという体で話を進めるからね」

今の言葉をそのまま受け止めれば、王家の都合の良いように政略として扱うのだという話だろう。

けれどヴィクトルの言葉に隠されている本音は、エレオノーラを矢面に立たせないための気遣いだ。

触れた指先に手を重ねる。

お礼を言えば、大切な夫となったヴィクトルが微かに笑って顔を近づけた。


そうして侯爵家に潜り込んだ王家の影からの報告を不安になりながら受けて、すぐに異常性を見出されたことから対面したアミールに事情を話せば、拍子抜けするほど簡単に問題は解決した。

アミールがルレイヤを連れて帰りたいと言ったからだ。

学園を卒業しても自国に帰らないのが不思議であったが、どうやら国内でよろしくないことを考える貴族がちらほらいるせいで、内政で面倒事を起こしそうな派閥が婚約者候補を揃えて待っているらしい。

兄弟仲が悪いわけではないので争いの種にならないように、婚約者候補が辞退するよう、どこかで女性関係の不祥事を起こすなりしようと考えていたのだが、それなりに国際問題なるから誰に手をつけようか考えていたんだと、それはもうあっけらかんと笑う。

候補となっていたのは平民か一代限りの騎士爵の娘あたり。

とはいえ、野心家であっても困るから事前の調査をしなければいけないし、むやみやたらにと手を出しているのがバレたら帰国させられるのも目に見えている。

「ルレイヤのことは好きだから、ちょうどいいね」

屈託なく答えたアミールを見つめ、最初からルレイヤにそう言えばよかったのに思ったが、ロアン伯爵家を知っているだけに手は出せなかったのだろう。

最良のタイミングと手段で手に入れられて感謝するよと言ったアミールに、一緒に幸せになって欲しいとだけ伝えた。






城門を抜ける馬車を、城の物見台から見送るのは早朝のこと。

家紋の無い馬車の中には、アミールとルレイヤが乗っている。

事前に必要な書類には予備も含めて全て署名をしてもらった。

ならばマティス・ルフェーブル侯爵令息やロアン伯爵家の人間が、ルレイヤは城に滞在していると思い込んでいる間に出立させた方がトラブルも少ない。

二人が乗っているのは城から送られる手紙や書類、贈り物などが積まれた配送用の馬車だ。念には念を入れてと人目に触れない移送手段を選んだが、誰も人が運ばれているなんて思いもよらないだろう。

馬車は王都内の各地を回る前に、ルレイヤの世話をしてくれた侍女の生家で馬車を乗り換えて、港へと向かう手筈になっている。


昨日はルレイヤと二人で楽しく過ごした。

初めて体験した女友達との寝間着パーティーは、王太子妃となったエレオノーラにも、他国へと嫁ぐルレイヤにも最後の思い出となるだろう。

寂しくなるが、ルレイヤはもう国に帰ってこないほうがいい。

そう言ったらルレイヤが頷いて、必ず手紙を書くわと笑う。

それは確かに幸せが約束された笑顔で、ようやく彼女も私も報われたのだとルレイヤを抱きしめた。


「さよなら、背徳の侯爵夫人ルレイヤ」

数日もしたらルレイヤは侯爵夫人ではなくなり、そして誰も手の届かないアミールだけの佳人となる。


最初は自分の為だった。

名前の無い悪意に晒されないよう、納得のいかない終わりを迎えることのないよう、がむしゃらに抗って生き続けた。

最初にシーエがいて、そしてヴィクトルが、王家が寄り添ってくれた。

そして出会ったルレイヤ。

幸せになってほしい、もう一人のエレオノーラだった女性。

アミールと去って行った彼女の結末はもうわからない。

エレオノーラも、他の皆も。

これからは見えぬ先を他の人々と同じように模索しながら生きていく。

もしかしたら隣国とは別の件で戦争になるかもしれないし、ラヴェルディエールが勝つのかもしれない。

それでも。


「幸せも不幸せも、自分で選ぶわ。

押し付けられる不幸せは望まないもの」


背を叩く風に負けぬように背筋を正したエレオノーラの視線の先、馬車は小さな姿となり、そして角を曲がって消えていった。



誤字祭り開催中です。


2024/7/18 登場人物の名前が芸能人と一致するとご報告を頂きまして、苗字を訂正致しました。芸能界に疎く、語感だけで選んだため、なんとなく記憶にあった名前になったのかもしれません。ただ、芸能人や一般の方含めて起きることだと思いますし、こちらも意図したものでもありませんので、以降は余程でない限り訂正しないこととします。お気遣いいただき、ありがとございました。


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なるほどー! エレオノーラがなぜあんなにも親身になってくれるのか不思議に思っていたのです。友達を助けたいの範疇を超えているから。 背徳の公爵夫人、ちょっと読んでみたいです笑
[気になる点] 無理やり転生ものにせず終わった方がスッキリしてよかったと思います。ラスト2話とてもわかりにくくもったいないです。
[一言] スレイプニルス病って、プリオン病か雛□沢症候群かって感じですね。末期状態の公爵の基地外っぷりたらもう…。 (´・ω・`)「スレ病患者は出荷よー」 公爵家伯爵家「そんなー」 クズっぷりを…
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