後日談05:相澤陽菜
異世界転生負け組。
夕日に染まる校舎。
人影の見当たらない渡り廊下。
無呼吸を内包した教室。
そして階段の踊り場。
言い争う女生徒の片方が相手を突き飛ばす。
階段へと体が傾いでいく中で、突き飛ばされた方は手を伸ばした。
掴まれる手。
いやにスローモーションな風景に、一緒に落ちていくのだとわかっても咄嗟のことに体は反応しない。
先に落ちるだろう気に食わない相手が、唇だけを動かして「ざまぁみろ」と言っているのだけ確認して、すぐに時間は速度を増した。
「ルーシェリア」
水面の向こう側で聞こえているような声が名前という形を結んだ時に、陽菜の意識はそのままに、ルーシェリアの意識が動いて返事をする。
「お兄様」
「ぼんやりしていたようだが、具合でも悪いのか?」
心配そうに声をかけてくる、そこそこのイケメンではある金髪は、陽菜の精神の宿先でもあるルーシェリアの兄だ。
確か、ハルガリオンだとかカルガリアンだとかそんな名前。
日本以外の名前は覚えにくくて嫌になる。
ルーシェリアの名前は何度も呼ばれるから覚えたけれど、他の人の名前を覚えるのなんてルーシェリアに任せればいいのだから、陽菜が率先して覚えるつもりもない。
「もしかして、ルレイヤが何かしたのか?」
「違いますわ、お兄様」
兄ポジの金髪が心配そうに言葉を重ねるのを、慌ててルーシェリアが首を横に振って否定する。
毎回ルレイヤって。
どれだけ嫌いなのかと、さすがの陽菜も呆れてしまうのも仕方のないくらい、家族の誰もがルレイヤを貶めようとするのだ。
まあ、ルレイヤは暗そうなタイプで、陽菜も好きではないけれど。
けれどルレイヤだってルーシェリアと家族に一線引いて近寄る気も無さそうなのだから、どっちもどっちな気はしている。
そんなことしているから家族と打ち解けないのだと思いつつ、庇い過ぎて自分に害が及ぶのはいやなので近寄るつもりもない。
未だ会話の終わらない二人にイライラする。
会話を終わらせるのは簡単なのに。
ルーシェリアの意識を押し除けて陽菜が浮上する。
するりと兄に腕を絡ませて、学園でも一番の美女に恥じない笑みで上目遣いをした。
「そんなことよりお兄様、欲しいものがあるの。
街に買い物に連れて行って」
そうすれば途端に相好を崩した。ちょろい。
「そうだな、ルレイヤもいないし二人で出かけようか」
なんだ、あの子が帰ってきていないのを知っているんじゃない。
そう思ったけど、聞いた途端にルーシェリアの感情が曇ったので察する。
確認などしていない。いない、ということにしただけなのだと。
とはいえ、陽菜にはどうでもいいこと。買い物にさえ行ければいいのだから。
ようやくハルガリアンだと名前を思い出せた兄と一緒に、馬車を用意してもらうように執事を探す。
婚約者が決まったことからハルガリアンの使えるお金が増えたと聞いている。
たかるのに丁度いいのだ。
さて、今日は何を買ってもらおうかと思いながら、新しくできたという洋菓子店の名前をルーシェリアの記憶から探し始めた。
ルーシェリアの中に居座る前の陽菜は、なんちゃってヨーロッパみたいな世界に住んでいない、日本によくいる女子高生の一人だった。
過去形なのが悲しい。
放課後の学校で階段の踊り場から落ちた陽菜は、気がつけばルーシェリアの中にいた。
本気で意味がわからなかったし、どうやったら戻れるかもわかんない。
けれど、急に倒れたのだとベッドで寝かされたルーシェリアを、心配そうに覗き込んでいた暗そうな美少女がルレイヤって呼ばれた時に気がついた。
あ、ここって本の中の世界なのかもしれないと。
だって、陽菜が言い争っていた小牧の、父親が書いたっていう官能小説のタイトルが『侯爵夫人ルレイヤの背徳』だったから。
小牧は、ルーシェリアの中に居座るちょっと前、陽菜が言い争っていた相手だ。
小牧とは住んでいる地域が割と近かったせいで、小学校は別だったけど中学校は一緒だった。
陽菜にとって小牧は、見た目も中身も底辺なモブでしかない。
それでもその存在を無視できなかったのは、小学校が同じだったクラスメイトからは父親が官能小説専門の翻訳家で作家だと話を聞いたことからだろう。
そんな話を聞けば、多感な年頃の中学生がどうなるかは一目瞭然で。
陽菜の在学中、中学でいじめは一切無かった。
だって誰も何も言わなかったから。
小牧本人もあんまり学校に来なかったのでなおのこと。
だから高校が同じだったのは不思議じゃ無かった。
陽菜が通う高校は、電車を乗り継がなきゃ行けない偏差値が底辺の私立だ。
多分誰も自分を知らない所に行きたかったのだろうけど、遊び過ぎて成績を落とした陽菜もその高校にしか行けなかったのだ。
通学のために朝早く電車に乗り込んだら同じ制服を見つけて、誰かと確認したら小牧だったの時の陽菜の気持ちとしてはネタを見つけた程度だ。
だから最初にできた友達に小牧のことを教えたし、ちょっと喋っただけの他のクラスの人間にも教えてあげた。
何故言いふらすのかと聞かれれば、こう返すだろう。
だって、その方が面白いじゃん、と。
最近はちょっとしたことでも『いじめ』だと世間は煩いけれど、受けている側が何も言わないならいじめではないと思っているし、別に陽菜は悪意があってしているつもりはない。
そういう人間と付き合いたくない人だっているから、先に教えてあげているだけだ。むしろ親切だと思っている。
自分のしたことによって居場所を無くすであろう小牧を見ていると気分が良くなる。それだけだ。
なのに、その結果が微妙な反応で終わったのが、陽菜には気に食わなかった。
小牧を揶揄おうと絡む生徒は少しだけで、大半の奴が他人なんかどうでもいいという態度。
逆に少数派だけど、作家の娘さんなんてすごいねと言っているクラスメイトすらいる。
小牧の話は他の学年にも広げようとしたけれど、思ったよりも誰も彼女を馬鹿にする様子なんてない。
そうしている間に揶揄っていた数人も飽きたのか、他のことに興味を移していった。
誰もがSNSで新しく追加された絵文字とか、推しの話とか、綺麗に盛れるアプリとか、そんな話ばっかり。
それに中学校の時のように陽菜を可愛いって言ってくれる人間は少ない。
高校に入ってからはお小遣いも増えて、プチプラだけど人気のあるコスメを買ってるし、家族とは別でシャンプーとコンディショナーで3000円するのを使っている。
高校入学時のお祝いの一つとして、高いドライヤーとヘアアイロンまで買ってもらったから完璧なはずなのに。
だから苛々ついでに小牧の親父の本を手に入れたから、それを学校で見せていたら、生活指導に呼び出される羽目になった。
絶対にチクッたのは小牧に違いないと、放課後に捕まえて文句言ったら知らないって嘘までついて。
お前のせいで先生に怒られて本は取り上げられたから、本代を払えと言ったら拒否までしてきて。
底辺のくせに生意気だと思いっきり突き飛ばしてやったら、まさか手を掴まれるなんて予想もしていなかった。
そして今、信じられないことに陽菜は見覚えのある名前が双子となった世界にいる。
生活指導に取り上げられた小牧の父親の本。その中に。
本なんか文字ばっかりで面倒臭いと、中身までわざわざ読んでいない。
そのせいで本の中でのルーシェリアの役回りを知らず、陽菜はルーシェリアとして何をすればいいのかわからない。
とりあえずルレイヤが主役だから、脇役として大人しくしていたらいいかと思うくらい。
ルーシェリアは陽菜がうっかり漏らした言葉から、ルレイヤが侯爵夫人になれるのかと喜んでいたけれど。
タイトルに背徳と付いて、更には官能小説だ。
どうせ旦那に冷たくされて、不倫とかするのだろうと陽菜は思っている。
だとしても納得がいかない。
どうして陽菜がいるルーシェリアが侯爵夫人になれないのか。
ルーシェリアは学園で一番人気がある。
恋愛結婚がいいと言っているから両親は婚約者を用意しないだけで、それでもルーシェリア宛に釣書は送られてきているのも知っている。
それなのに、どうしてルレイヤが選ばれるのか。
陽菜にとってルレイヤは、どことなく小牧を思い出させるので好きになれない。
いや、はっきり言って嫌いだ。
暗そうなところとか、家族扱いされないのを悟ったふりをしているところとか。ルーシェリアを持て囃さないところだって。
陽菜は詳しくないけれど、多分この家族は虐待とかネグレクトみたいなのだと思っている。
両親はルーシェリアにどこまでも甘いが、ルレイヤにはわかりやすく態度を変える。
常にルーシェリアと比べてこき下ろし、自分達がつけた名前が陰気なルレイヤにはお似合いだと嗤い、比べるところが無くなったら無視をする。
少し離れた所で家族を見つめるルレイヤ。
まるで家族ではないといわんばかりの扱いをする両親と兄。
ルーシェリアは心を痛めていたが、陽菜は最高の気分だった。
つい先日まで小牧のせいで面白くない学校生活を過ごしていたと思ったら、まさか自分を持ち上げてくれるうえに、鬱憤を晴らせるような相手まで用意されているのだ。
後はルレイヤが侯爵夫人にさえならなかったら、ルーシェリアは、つまり陽菜は勝ち組だ。
きっと最初に会ったのがルレイヤだったから、侯爵はこれでいいと思ったに違いないし、ルーシェリアに出会って後悔したからルレイヤにも冷たくなっていくのだろう。
だから、ルレイヤじゃなくてルーシェリアがマティスの婚約者になったとき、陽菜は歓喜の声を上げ、ルーシェリアは悲鳴を上げた。
そしてマティスは恰好良かった。
ルーシェリアの兄が学年で一番のイケメンというところなら、マティスはテレビの向こうにいる、手の届かない人物といった感じだ。
アイドルとかじゃなくて、イケメン俳優系。
来るときは必ずプレゼント持って来てくれるし、それに伯爵家よりも金持ちだからプレゼントのグレードも高い。
前来たときは予約制の高級洋菓子屋のケーキ。その前は王妃様も使っていると評判の化粧品。
とにかく湯水のようにお金を使っても大丈夫な、国に僅かにしかいない侯爵という家に住めるようになるのだ。
今よりも贅沢な生活ができるに決まっている。
きっと社交界でも目立つ存在になるし、王家と公爵家を除けば、誰もが陽菜を敬って軽んじることはない。
望んだ未来が手に入るのだ。
それなのに婚約者はルレイヤであるはずなのだと、ルーシェリアが何度も陽菜に説得するのが鬱陶しい。
だからルーシェリアが表に出てこないように、気持ちの奥の奥まで押し込めた。
この頃には陽菜も何となくだけど常識や簡単なマナーは身に付いていたし、名前を忘れても誤魔化してかわせるようになっていた。
もうルーシェリアはいなくていい。
ルレイヤには悪いけど、喩え本の中だったとしても現実の陽菜が混じれば変わるのだ。
ルーシェリアの外見と陽菜の性格であれば、どんな男だって落とせるのは当たり前のことなのに。
よく考えたら小牧の父親が書いた世界だ。いやらしい内容を書くためだけだから、話の内容が変わったところで問題なんかあるはずない。
マティスとの結婚準備を進める中で、誰もがルレイヤを忘れている。というよりルレイヤのことを無視している。
この世界の貴族女性は学園を卒業すると同時か、一年の内に結婚する。
そこまでが適齢期だからだ。
それなのに両親はルレイヤの婚約者を見つけてくることをしない。家族の誰もがルレイヤの結婚を気にすることもない。
適齢期から外れると問題ありだと見られ、嫁げるのは年老いた貴族の後妻か、裕福な商家の妻ぐらい。
それすらも越えると、領地の隅にひっそりと建てた小さな家にでも押し込めるか、寄付をした修道院に入れることになる。
それぐらい陽菜が住み替わった世界は厳しい。
可哀そうなルレイヤ。
そこで黙って指を咥えて、自分に似た妹の幸せを見ておけばいいのよ。
負け組らしくね。
この頃になるとルーシェリアは何も言わなくなった。
今ではずっとメソメソと引き籠ったままで、陽菜に何も教えてくれなくなった。
姉妹揃って似てくるのは、なんなのか。
ルーシェリアの取柄なんて可愛いだけだから、上手く生きていくことが大事なのを理解していない。
やはり陽菜がルーシェリアに代わって生きていくのが一番いいのだ。
だから、マティスがバタフライピーみたいなお茶を出してくれた時も、久しぶりにルーシェリアの持っている知識から確認しようとしたら、初めて拒否されたのも気にならなかった。
もう何日も表に出てこないまま、埋もれたままのルーシェリア。
でも別にいい。
学園を卒業すればマティスと結婚するのは決定事項だし、マティスはルーシェリアに一目惚れしただけあってお姫様扱いしてくれる。
珍しい茶葉なのだと言ったマティスの勧めるままに、青いお茶へと口をつけた。
どことなく人工甘味料にも似た甘さに首を傾げながら、胡椒の粒が目立つチーズクッキーを口直しに運べば幸せだという気持ちが湧き上がる。
全てが上手くいって幸せなルーシェリア。
この物語はルレイヤじゃない、陽菜がハッピーエンドで終わるのだ。
だから今だって、すごく幸せ。
ベッドから出られなくなったとしても、マティスはいつだって陽菜に会いに来てくれる。
幸せになれる薬を欠かさず打ってくれて、うっとりとした顔で陽菜を見下ろすのだ。
何もかもがどうでもいいくらいに幸せ。
陽菜の中にいるルーシェリアも喜んでいる。
あれ、ルーシェリアの中に私がいるんだっけ、と思い直してみたりするけれど、ルーシェリアがどうでもいいじゃないと囁きかけてくる。
だから陽菜もそれもそうかと思って、ふかふかしたベッドの中で死を待つのだ。
ルーシェリアがルレイヤにも小牧という少女にも勝てて満足でしょ、と話しかけてくる。
勿論幸せよ。
あの二人が不幸で、自分が大切にされて、見下している時間は最高だった。
でも飽きたのかな。
あの二人のことなんてどうでもよくて、いつだって幸せな気持ちが勝手に溢れてくるから笑顔でいられる。
もうすぐルーシェリアとして死ぬ。
視界に入る腕はすごく細い。
よく食べられなくなった人とかのドキュメンタリーで観たような腕だ。
体も同じ。信じられないくらい細い。
それでも幸せなのだから気にしない。
マティスがいつかの青いお茶と同じ色の薬を打ってくれる。
「こうして君が死ぬのを見届けるのが、すごく幸せなんだ」と言いながら。
可哀そうなルレイヤ。
可哀そうなルーシェリア。
どちらが不幸せなのかなんて知らない。
知らなくていい。
知りたくもない。
自分が幸せだったかなんて、知りたくもない。
だから、どうか。
どうか、我に返ってしまわぬよう、最期まで幸せなままで逝かせて。
後日談は残り一話。
最後にエレオノーラ王太子妃を書いたら完了です。
今回と同じくらい日程が空くかと思いますが、しっかり書き上げてきまーす!
2024/7/18 登場人物の名前が芸能人と一致するとご報告を頂きまして、苗字を訂正致しました。芸能界に疎く、語感だけで選んだため、なんとなく記憶にあった名前になったのかもしれません。ただ、芸能人や一般の方含めて起きることだと思いますし、こちらも意図したものでもありませんので、以降は余程でない限り訂正しないこととします。お気遣いいただき、ありがとございます。