後日談04:マティス
変態の親戚は、やっぱり変態。
マティスが目を覚ますと、そこは見知らぬ天井だった。
部屋に煌々と灯された照明の眩しさからか、酷く頭が痛む。
目を細めながら瞬きを繰り返せば、部屋の灯かりに慣れつつあるものの、鈍い頭痛は治まらぬまま。
首と視線だけでゆっくりと周囲を見渡せば、青色に統一された部屋は豪奢で、そしてどことなく見覚えがあるものだった。
思考の定まらぬ頭でぼんやりと部屋を眺めながら、体を起こそうとし、ガチャリと金属の音に我へと返る。
見下ろせば手枷が嵌められていた。視線を辿れば足枷までもされている。
ご丁寧にも枷の触れる箇所には包帯が巻かれている。
一体何が起きているのか。思い返そうにも記憶に靄がかかったかのうように、最近のことが何も思い出せない。
マティスの記憶に残るのは不幸せを一身に纏う愛妻、ルレイヤのことだけ。
そこでマティスは思い出す。
マティスのいる部屋が王都のタウンハウスに用意した、ルレイヤを監禁するために用意した部屋とよく似ていることに。
不快さから眉間に皺を寄せた時、外へと繋がる扉がノックも無く開かれた。
「あら、目を覚ましたのね」
入ってきた女に見覚えがあった。
燃えるような赤毛は結い上げることなく、炎のように波打って豊かな胸元へと流れ落ちている。
夏に生い茂る緑を配された瞳は、照明の光を受けていっそ豪華な宝石のように輝きを反射し、手にした躾用の鞭が似合う妖艶さを持ち合わせていた。
あれは従姉妹のマルゴーだ。
領地経営の補佐をしている叔父の一人娘で、勝気な性格をした美女である。そしてマティスが毛嫌いする類の女でもあった。
後ろに連れているのはマルゴーの夫だろう。入り婿である彼女の夫は、領地での挙式に参列したので覚えている。確か、どこぞの男爵家の四男だったはずだ。
王都で婿を探さなかったせいか、見た目も中身も凡庸な男を夫に迎えたものだと馬鹿にしていたものだが、嫌味を言っても変わることのない穏やかな笑みを浮かべている男が妙に苛立たしかった記憶はある。
こうしたことを思い出せるということは、ここのところの記憶だけがないようだ。
頭の痛みからして酒を大量に飲んだのかもしれないし、この女狐に何か盛られた可能性だってある。
「こんな所に監禁して、一体何の真似だ?」
マティスが睨みつけるのを見返すこと数秒。すぐにマルゴーは小馬鹿にした笑みを浮かべた。
「あらあら、囚われのお姫様もかくやといった風情なのに、態度だけはいつまでも相変わらず。
従姉妹に対して開口一番に言うことがそれなの、どうなのかしら」
「その従姉妹が主家の跡取りを閉じ込めているんだ。
罵倒されないだけマシだと思え」
マティスが返せば、艶やかで軽やかな笑い声が部屋に響く。
「面白い冗談だわ」
胸元へと流れる髪を一房いじりながら、マルゴーはこれ見よがしに溜息を落として見せた。
「貴方が由緒正しいルフェーヴル侯爵家の跡継ぎだったのなんて、いつの話をしているのやら。
王都での失態のせいで、とっくに廃嫡されて森の番人になったことまで忘れたの?」
憶えていない。
どこから忘れて、どこまで覚えているのか。
一週間か、一ヵ月か。それとも。
欠如感はあれど何が失われたのかわからないことに、薄ら寒さを覚える。
まるで当たり前のはずの何かが、砂の如く手から零れ落ちる感覚。
ベッドから降りないままのマティスへと、マルゴーがゆっくりと近づいてくる。
「忘れているようだから教えてあげるけど、貴方がしたことを伯父様はご存知なのよ。」
自身の両手から視線を離し、マルゴーへと顔を向ける。
「あなた、双子の片割れにあの薬を使ったのでしょう?」
──バレている。
運の悪いことに、その辺りの記憶はマティスの中に残っていた。
「何のことかわからないが、言い掛かりは、」
「知らないとは言わせないわよ。
あの薬は侯爵家が国から栽培と精製権を得ている貴重な収入源なのだから、管理も疎かになんてできないのを貴方が一番知っていたでしょうに」
マルゴーの夫が手にした帳簿をマティスに見せてくる。
あれはタウンハウスでの収支と新しい販路や取引先との記録簿だ。隠していたはずなのに勝手に入り込んで調べたのか。
「不治の病で亡くなる病人が穏やかに死を迎えられるように考案された、痛みと恐怖を緩和する薬、『青の雨』。
あれは多幸感を得られる代わりに、副作用として体の本来持つ機能が著しく損なわれる。
健康であれば罹ることのないような、体調管理もままならない貧民ばかりに流行った病で彼女が亡くなったのも、貴方が薬を与えたのが原因でしょう?
王都に送った薬の帳簿を調べてみれば、当時の記録に見知らぬ商会へと少数卸しているのが確認できたけれど、ちょうど彼女の亡くなった後からは販売を止めてしまっているのよね」
この女はどこまで知ってしまったのか。
「詳しく調べてみれば、開業申請をしたきりの名ばかりのところで、実店舗どころか倉庫すら無かった」
おそらく開業申請をしたのが家令だということも把握しているのだろう。
あの厳しい父のことだ。失態を冒したマティスのことを見過ごしてくれるはずなどない。
どうにかこの女から逃げ出さねば。
どれだけ不幸を纏う人間を愛そうとも、別にマティス自身が不幸になりたいわけではない。可哀そうなのはルレイヤでいいのだ。
「言っておくけど、伯父様は大層お怒りだったわよ。
いくらなんでも婚約者を始末するのに、国からの監査対象となっている薬を使うなんて」
「それで?私を捕まえて引き渡すよう、父にでも言われたのか?」
マティスが問えば、マルゴーが笑う。
「まさか」
唇が蠱惑的な笑みを作る。
「伯父様が私に命じたのは、恥晒しな貴方の処分よ」
マティスが嫌いな自信に満ちた笑み。
たかだか分家の、それもルフェーヴルの血筋から外れた見た目の女でしかないくせに、いつだってマルゴーはマティスをイラつかせる天才だ。
「王太子妃殿下の友人を貶めたルフェーヴル侯爵家の残念な元後継者様の話は、今でも社交界で持ち切りよ。
そんな評判の落ちた侯爵家を押し付けられることになった私のために、可愛いはずの息子を好きにしていいと差し出してくれたわ」
彼女の手にあった鞭が、マティスの顎を捉える。振り払うようにして顔を背ければ、小さな笑い声が落ちてきた。
「……何が目的だ」
「私が欲しいのは貴方の中にある血統。残念なことに私の外見ってルフェーヴルというより、お母様の家系寄り。
伯父様もお父様も気にすることはないと言ってくれたけど、次の子までもルフェーヴル家の特徴を持たないようなら、他の親戚に足を掬われる可能性だってある。
だから貴方よ。貴方と子作りをすれば、ルフェーヴルの系譜らしい容姿を備えた子が生まれる確率が上がるのだから」
マルゴーの鞭がマティスの体をなぞる。
体をよじって避け、男娼を扱うかのような従姉妹を再び睨みつけた。
「夫の前で男漁りとは、とんだ阿婆擦れだな」
「ふふ、彼は良き理解者ですもの」
マルゴーが後ろを振り返れば、従順さを見せるように男が頷く。
「何を勘違いしているのか知らないけれど、私達は政略結婚であるし、彼女と私は同志のようなもの。
互いの利害が一致して、一緒にいさせてもらっているんだ。
彼女は隠れ蓑として私を利用するし、私は周囲から理解されないだろう嗜好を暴かれないように彼女と一緒にいる」
大事な契約を結んだの、と言って、そうしてからマルゴーは内緒の話をするように声を潜めて告げた。
「彼ね、男性が好きなのよ」
思わずマルゴーの夫を見る。
彼は変わらず微笑みながらも、今や熱量を隠しもしない視線がマティスの体をまさぐるように見ていた。
「だから、貴方を共有するという約束を取り付けて、書類上の夫婦として婿入りしてもらったの」
無意識に後退り、壁に背中が当たった。
「貴方が双子の彼女にしたように、貴方も薬漬けであり続けてもらうわ。
心配しないで。これは王太子殿下とも水面下でやり取りした決め事で、正規の方法で手に入れた薬だから。
王太子妃殿下の怒りを買ったうえに妻に逃げられて、心が壊れて日々やつれていく貴方のために、伯父様が嘆願して薬の使用を許可されているという筋書きよ。
だから侯爵家が取り潰しになることなんてないから、安心して幸運を浴び続けて頂戴」
彼女の夫が手にしていた箱を開ければ、注射器と小瓶に入った青い液体が目に入る。
「自分から私達を受け入れられるように、薬を沢山使ってあげる。
幸せな気持ちの中で溺れ狂うといいわ」
完全に壊れるまで遊んであげる、と赤い口紅の映える唇が囁き、夫はマルゴーに「彼は見目がいいから楽しめるね」と言っている。
「とても楽しみだ」
マルゴーの夫からは欲望でギラついた目で見下ろされ、体の震えを止めることができない。
この薬を摂取したらどうなるか、近くで見ていたマティスが一番よく知っている。
微量であっても幸せしか感じられなくなり、全てが幸福に繋がるのだと何でも受け入れてしまう。痛みに鈍くなり、幸福感に浸れば体が溶けるような気持ちで過ごせるのだと、ルーシェリアは何度も言っていた。
そんなものを規定量すら超えて投与されたらどうなってしまうのか。
マティスの中にある他の感情も、常識も、経験も全て溶けて、幸せだけを感じる人形になるだけで済むのか。それとも記憶同様に何かが壊れて消え失せるのか。
どちらが先にマティスで楽しむかという話をしながら、マルゴーは手際よく注射器に液体を満たしていく。
注射器の側面にある目盛を遥かに超えて、容器の中一杯にまで満たされているのが酷く恐ろしい。
いつの間に部屋に入っていたのか、見慣れない使用人が無表情のままに、マルゴーの夫と共にマティスの体を押さえつけた。
抵抗しようにも手枷や足枷が行動を制限するせいで、容易くベッドの上に抑え込まれてしまう。
「暴れると何回も刺すことになるから、大人しく受け入れた方が楽よ」
冗談ではない。
こんなものが大量に摂取されれば、体に変調をきたして早晩亡くなる未来しかない。
小さな針先が皮膚を潜る、チクリとした痛み。
僅かに冷えるような感覚と共に、針を抜き取られたマティスの体は、次第に霧が晴れるように思考が滑らかに動き始める。
この投与でマティスの記憶は消え失せるのだろうか。大量に使用された後の反動はないのだろうか。ちらりと見えた自身の腕にいくつもあった注射痕は何だろうか。
とめどない考えが溢れるも気持ちが高揚するにつれて、幸せなのだから取るに足らないことを気にする必要はないという結論に至るだけ。
そう、幸せなのだから、ただ在るものを享受すればいいのだ。
「ねえ、マティス。
このやり取りを何回繰り返したかは覚えている?」
不意に耳朶を伝って滑り込んだ言葉がマティスの動きを止めた。
「ふふ、そんな不思議そうな顔をして」
言われても記憶がない。
同じ会話を何度したかなんて、マティスは初めてだとしか答えようがない。
欠落していく記憶。原因のはっきりしない頭痛。
薬を打てばどうなるか。
ルーシェリアには記憶の欠如なんて副作用は無かった。頭痛がするとも聞いていない。
本当だろうか。
彼女が自身の記憶が無いことにすら気づいていなかったら。
彼女の成績はいつだって悪かったのだから、今更多少下がったと聞いても気にしても無かった。
ルーシェリアには薬の効果が切れないようにと、婚約の期間はこまめに会う時間を設けて常に効果は薄いが服用できるものを与えていた。
依存症に陥ってからはいつだって飲めるように幾つか渡していたのだが、それを無くすことが度々あったのも記憶を喪失したせいではないのか。
病に罹患する前ぐらいには、面倒になって注射で摂取させていた。
お陰で体調を崩したと聞いたときには、伯爵家を言いくるめて自身の主治医を往診に向かわせたのには苦労した。
いや、本当にこの記憶は合っているのか。
どこか辻褄が合わないような気がするし、何か違和感を覚えたような、そんな感覚が胸に残る。
「きっと、これから先も貴方の中に在るものは失われていくのでしょうね。
不安かしら?それとも辛い?」
ああ、でも。
「今が幸せなら、そんなことはどうでもいいさ」
マティスがそう答えると、ルフェーヴル次期侯爵夫妻は欲を隠すことを止めて、熱に浮かされたような瞳でマティスへと手を伸ばした。