後日談02:ハルガリアン・レミール・ロアン(前編)
ルレイヤの生家の末路。
思った以上に長くなったので、二話に分けて投稿します。
一体何が悪かったのか。
この数週間で目まぐるしく変わっていく状況に、ハルガリアン・レミール・ロアンは未だついていけていない。
春が訪れると社交の始まりを告げるのは、王家主催の夜会である。
一夜明けて貴族たちが疲れた体に休息を与える中、未だロアン家の面々が夜会の余韻に浸っているのは、王太子妃がルレイヤに声をかけていたのを知ったからだった。
ルレイヤの夫となったルフェーヴル侯爵令息であるマティスと言葉を交わした後、ルレイヤを無視し、両親に連れられて挨拶廻りをしようと広間の中心から離れていたせいで気づかず、事のあらましを教えてくれたのはルフェーヴル侯爵家の親戚であるルブラン子爵だった。
王太子妃はルフェーヴル侯爵令息も交えて話をした後、ルレイヤだけを伴って立ち去ったらしいのだが、話の内容までは聞こえていなかったと言ったルブラン子爵は酷く機嫌が悪かった。
ならばマティスに聞こうにも、ルブラン子爵は不機嫌さを隠すこともなく帰ったことだけ教えてくれる。
今にして思えば、彼は何を話していたのか知っていたのだろう。けれどハルガリアンの意識は、目の前の男が子爵の分際で機嫌が悪そうに話す態度に腹を立てることにしか使われなかったし、友人と会話を楽しんでから戻ってきた婚約者が「まさかルレイヤ様が王太子妃殿下とご友人だったなんて」ときらきらした瞳でハルガリアンを見上げるので、すぐに苛立ちは消えて彼女に良い所を見せられたのだと誇らしい気分になった。
周囲の貴族達もチラチラとハルガリアン達を遠巻きに見ており、今宵の夜会で一番注目されているのはロアン家で間違いないだろうと父親が鼻を膨らませていた。
「ルレイヤ様に頼んだら、王太子妃殿下にご紹介頂けるかしら」
と嬉しそうに言う婚約者は可愛らしく、こちらもつられて笑顔になる。
両親も思わずといった様子で顔を綻ばせた。
大切な家族であったルーシェリアを亡くしてから家の中は春を失ったようだったが、彼女が嫁いできてくれたら、ルーシェリアのいない寂しさは少しずつ埋まっていくだろう。
「ルレイヤには私から言っておこう。
大丈夫、義姉になる君の願いを断ることなんてさせないから」
きっと王太子妃も彼女を気に入るだろう。
もしかしたらルレイヤよりもハルガリアンの婚約者の方を、自身の最適な友人として選ぶかもしれない。
そんな妄想は見る間に膨れ上がり、ハルガリアンの記憶の中で薄らとした染みのように存在するルレイヤと彼女を比べる程に、確信めいた気持ちへと変わっていく。
彼女が王太子妃と親しくなれば、ロアン家は王家に対して強いコネクションを持つことになる。
王太子夫妻とは年齢も近い。
生まれてくる子どもの年齢が近ければ、もしかしたら婚約者に選ばれるという可能性すらある。
あの妹では華々しい舞台など荷が重いはずだ。
いつだって表立って行動することをルーシェリアに押し付けていた。大切な妹がいない今、ルレイヤに負担を増やしてもこなせるかどうか怪しいところだ。
何を言っても曖昧に笑っているだけで、機転も利かなければ機微にも疎い。
この件は本人にはっきり伝えた方がいいだろう。
そのほうがルレイヤの為になる。
しかし、とハルガリアンは首を傾げた。
一体ルレイヤは何処で知り合ったのか。
家に帰ってからも珍しく話題はルレイヤのことであり、けれどルレイヤが王太子妃殿下と友人になった切っ掛けや理由がさっぱりわからないままでいる。
いつも家に帰ったら課題があると部屋で勉強をしていた。
ルーシェリアは要領よく課題をこなしていて家族といるのに、ルレイヤはどうにもできの悪い妹だと思っていたし、気がついたら家にいるので学園で何をしていたのかも聞いたことはない。
ただでさえルーシェリアが快活によく喋るのだ。いちいち二人分も聞いていられない。
きっと家で本を読んでいるだけだと思ったが違うのだろうかと家令に聞いてみれば、学園で学生をしている頃は図書室で自習をしていたので、早い帰りではなかったのだと教えてくれた。
やはり、あれは愚鈍だ。
「王太子妃殿下のご友人が、ルーシェリアならまだ理解できるのにな」
他の貴族同様に夜会の次の日はゆっくりしようと、サロンでお茶をする父親の言葉がすとんと胸に落ちて納得する。近くに座る母親も頷いたことから同じ気持ちなのだろう。
そうして若くして亡くなってしまったルーシェリアのことを思い出したらしく、涙を堪えるように瞬きを繰り返す。
「本来ならばルフェーヴル家に嫁ぐのはあの子だったのに」
そう、ルフェーヴル侯爵家に嫁ぐのはルーシェリアだった。
あんな儚く亡くなってしまわなければ、きっと今頃夜会で注目されたのはルレイヤではなかったはずだ。
ルーシェリアの葬儀を恙無く終えた後、ルフェーヴル侯爵からルレイヤへの婚姻の打診があった際、家族の誰もが信じられないと驚いた。
当然ハルガリアンもそうであったし、普段は無表情を貫く家令ですら目を僅かに見開いていた。
けれど誰よりも早く我に返った父が、顔色を悪くしたルレイヤの頬を打った。
自分に婚約者がいないからといって妹の婚約者を掠め取ろうなんて、一体今まで何を学んできたのだと父は怒りながらルレイヤを突き飛ばし、母は自分が嫁ぐために関係を迫ったのでしょうと、身持ちの悪いふしだらな娘だと泣き崩れた。
ハルガリアンは手出しこそしなかったが自身の胸の内が伝わるようにと、床に倒れて被害者面をしたルレイヤを精一杯に睨みつける。
ルーシェリアが受け取るはずだった幸福を、全て横から奪い去ったルレイヤ。
婚姻の当日、馬車に荷物を積み上げて我が物顔で嫁いでいく妹に対し、盗人の振る舞いだと罵るのを我慢したのは、ルーシェリアがそんなことを望まない優しい子だったからだ。
ルフェーヴル侯爵令息には恩義があるので礼節は忘れないが、あれはもう他人だ。
小さくなる馬車を見送り、そう言った両親の横でハルガリアンも頷いていた。
ルレイヤは名前の通り、薄暗い冬の夜みたいな妹だった。
母の母国で厳しい冬の夜を司る、森深くに住まう梟に似た姿をした精霊の名前だ。
いつも本を抱え、サロンの日差しが注ぐカウチや、どこからか持ち込んだ灯りを使って自室で読んでいる。
声をかけても唇の端だけ少し上げて笑うだけで言葉少なな妹は、とても愚鈍なくせに本ばかり読み漁って閉じこもり、どこか家族に対して距離を置いていた。
ハルガリアンが生きるこの国は大陸の北西に位置しており、季節の寒暖差が激しいことから、冬ともなれば誰もが家に籠って家族との団欒を楽しむものだ。
林業が盛んなこの国では木盤を使った陣取りゲームが好まれ、次いで華やかな装飾のカードでゲームや占いに興じる。
裕福な者達は外套を着込んで友人や親戚の家を訪れ、訪れるだろう春を待つ詩を諳んじながら温かな食事を共にし、暖炉の前でハーブや果実を一緒に漬け込んだ葡萄酒を温めて飲み交わす。
子ども達には蜂蜜がたっぷり入った果実水を温めたものが振舞われ、祖父母が読んでくれる絵本の内容に聴き入り、少し年が上がれば大人に混じってゲームへと参加する。小さな令嬢達は刺繍に刺す図案や流行するだろうドレスの話に興じる。
そうして春を迎えれば、鳥が羽を広げるように外へと繰り出すのだ。
卑屈で怠惰なルレイヤを除き、ロアン家の人間は皆が社交的だ。
人との触れ合いを大事にし、家族を大事にする。
余程でない限り、父は家族の食事に間に合うよう帰宅して食卓を囲み、家族の誰かが誕生日ともなれば盛大に祝ってくれる。
ハルガリアンの欲しがったものを、街で懸命に探してくれる子ども思いの父が、幼い頃より何よりも誇らしかった。
母は精力的にお茶会へと参加して、伯爵夫人の務めを良く果たしている。
ルーシェリアも幼い頃から人見知りしなかったので、親戚とは庭で遊び、年頃になりつつあると母の友人宅へと一緒に連れて行かれた。
愛くるしいルーシェリアはどこの家でも評判だった。
ルーシェリアなら嫁ぎ先は引く手あまただわと母が満足そうに笑い、結婚するなら自分で選びたいわと可愛らしいことを言い出す。
とても仲の良い家族だった。
それを自分勝手な我儘で壊して去って行ったルレイヤを、妹などと認めていない。
社交シーズンの開始を告げる王家主催の夜会で、ルフェーヴル侯爵令息との再会から一週間と少しばかりが経過した頃、王太子からの使者が訪れると事前の報せがあった。
途端に家の中が騒然となる。
ルレイヤが何か粗相をしたのではないかと母は蒼褪め、こんなことならルフェーヴル家からの心証が悪くなろうとも、嫁ぐ際に絶縁状を突きつけておけばよかったと父が大きな嘆息をつく。
家族が全員揃うようにと言われているので、婚約者への贈り物を購入するために外出しようとしていたハルガリアンも家で待つこととなった。
王太子の使者を名乗って訪れたのは、まだ若い男女の二人組だった。
ここ数年で増えてきた職業婦人だろうか。令嬢と呼ばれそうな外観の、まだ若い女性の方は襟の詰まった堅苦しい紺のドレスに身を包み、真珠のイヤリングだけといった慎ましやかな服装だ。
背筋をまっすぐ伸ばした様子から、初々しくも仕事ぶりは真摯なのだろう。背筋同様、視線は真っ直ぐに見つめている。
同じく濃紺を纏う男の方も若く、ハルガリアンとそう変わらない年齢に思える。
二人して余りにも若輩といった姿から、本当に王太子からの使者なのかと疑いたくもあったが、近衛の制服を着た騎士を二人伴っていた上、彼らに見せられた大き目の封筒を閉じる蜜蝋には確かに王家の紋章が押されていた。
緊張で顔を引き攣らせた女中が、茶器を並べていく。
「あれが、ルレイヤが何か失礼をしたのですな」
挟むテーブルにお茶の準備が整ってすぐ、思わずといった風に言葉を落とした父親に対して、男性の使者の方が「失礼、ですか?」と短く返す。
「使者殿が訪問されたのも、ルレイヤのことでしょう?」
「ルレイヤ嬢に関係することだというのは否定致しませんね」
予想通りの言葉に父は深いため息を漏らし、横に座る母が膝の上に重ねた手を強く握る。
「恥ずかしながらあれは外に出すのも恥ずかしい娘で、請われるのを断り切れずに侯爵家へと嫁がせたのも数か月前。
今は亡き、もう一人の娘と同じように育てたはずなのに、どうしてか出来が悪くて気にしていたのですが……」
あんな妹のせいでロアン家の家名に傷をつけられたくはないハルガリアンも、身を乗り出して使者へと口を開いた。
「ルフェーヴル侯爵家には申し訳ないのですが、妹には絶縁状を送ろうと思っていたのです。
既にご存知かもしれませんが、ルレイヤは大切な妹であるはずのルーシェリアの婚約者を奪ったのです。
騙されたルフェーヴル侯爵令息は責任を取るためか、ルーシェリアの死後すぐに婚約を打診され、こちらは断り切れず嫁がせることに」
「責任ですか?」
不思議そうに首を傾げる女性に頷いて見せる。
「ええ、若い女性の前で口にするのは憚られるのですが、あの陰気なルレイヤのことですから体でも使って篭絡したのでしょう。実に汚らわしい」
そうでなかったらルーシェリアの死後すぐに、侯爵家がルレイヤへの婚約を打診するはずなどない。
「ロアン伯爵家の方々の仰りたいことは理解致しました」
薄く微笑んだ男性の使者の方が頷き、横の女性は心得たように封筒を開けて紙を取り出したかと思えば、さっとテーブルの真ん中に置いた。
「丁度よかったかもしれませんね」
差し出されたのは、まさに話題にしていたことに関する書類だった。
「王太子妃からも双方の為によろしくないと、ルレイヤ嬢をロアン伯爵家から除籍にするよう申し出がありました。
書類は不備なく揃えておりますし手続きはこちらで行うので、当主の署名だけして頂けますか」
「なんと、それはありがたい!」
父が家令にペンとインク瓶を持ってくるように伝える。
何か言いたげな家令は、けれど使者と目が合うと頭を下げて部屋を辞した。すぐに必要な物を盆に載せて戻ってくる。
ブル ニュイ プロフォンとラベルに書かれたインクは、角度によっては黒にも見える深い青色で、王太子妃の実家であるデュランベール公爵家お抱えの商会から購入したものだ。
小さな瓶一つで当たり年の葡萄酒五本分という破格のインクであったが、相手からの印象を良くするために家令が選んだのだと理解する。
父は気にした様子もなくインク瓶にペン先を浸し、素早く自身の名前を書き込んだ。
顔を上げた父の前に残された書類を素早く手元に戻し、若い女性の方が名前を確認して、それから大きく頷いてみせた。
「お名前、確かに頂戴致しました。
これで問題無く手続きが済ませられそうです」
ほっと安堵の息を落として父がお茶を一息に飲む。
ハルガリアンもお茶に口をつけて、少し温くなっていたので冷めきると不味かろうと、父に倣って一息で飲み干した。母は眉を少し顰め、お茶を淹れ直すように言い付ける。
女中が緊張で顔を引き攣らせたのを隠せないままに茶器を一旦下げる中、面倒事が片付いた父は上機嫌だ。
「それにしても、まさか王太子妃殿下が気にかけてくださるとは」
「王太子妃殿下は気配りを忘れぬ方ですから」
使者の回答には何度も頷く。
ハルガリアンもロアン伯爵家の後継者として名を落とすようなことにならず、使者がいなければ歓声の一つでも上げていたところだ。
今日はきっと夕食が豪勢になるだろう。
料理人にはいつもより品数を一つ増やすか、デザートを用意するように言っておかねば。
けれど、ハルガリアンはここまでで満足するつもりはなかった。
王太子妃殿下がロアン家に気を配っているのならば、それに乗じるのが貴族であろうものだ。
女中がお茶を淹れ直している以上、使者たちも今すぐに席を立つわけにはいかないだろう。
逃がしてたまるものか。
ハルガリアンが大袈裟なまでの溜息を落とせば、向かい側の二人がこちらを見る。
「せっかくご厚意を賜りましたのに、ルレイヤでは王太子妃殿下のご友人は荷が重かったのでしょう。
ルレイヤを除籍して無関係となったロアン家としては、王太子妃殿下への無礼を罰することができないのですが、ルレイヤが助けを請うても一切援助することなどありません。
父の代、私の代ともに領地に匿うなどもせず、あれがどうなろうと一切関わらないことを誓約致しますし、処刑となったとしても我々は嘆願書を送るような真似は致しません」
微かに、言質、という言葉が聞こえた気もしたが、目の前の二人が笑顔のままにハルガリアンを見つめていた。
「伯爵令息ハルガリアン殿のお言葉、一字一句違えることなく王太子妃殿下に伝えましょう。
ああ、ご安心ください。後ろにいる騎士達も証人となってくれますから」
使者が振り向けば、礼儀正しく礼をした一人が「近衛騎士デニス・ボワイエの名において、嘘偽りなく証言すると神にかけて約束致します」と口にする。
随分と仰々しい気もしたが、伯爵家であるロアン家であっても王家は雲の上の人々だ。
当然周囲で仕える者達であっても、行動や言葉には責任が生じるのだろう。
「王太子妃殿下にはどうか感謝もお伝えください。
格別のご配慮を賜ったお陰でロアン家が没落せずに済んだことを」
ですが、とハルガリアンは期待を込めた目で使者たちを見る。
「王太子妃殿下も友人だと思っていたルレイヤからの仕打ちに、さぞや傷つかれたことでしょう。
ルレイヤとの縁は切れたのでしょうが、事の成り行きを知っている我が家の者も心を痛める次第です」
「と、言われますと?」
「よろしければ、王太子妃殿下のお心をお慰めするべく、私の婚約者を伴って参上したく。
明るい気性で気の回る者ゆえ、きっと王太子妃殿下の憂いを払うでしょう」
向かいに座る若い女性は唇を上げて優雅に微笑む。
「なるほど、」
そして大胆な足さばきで、その美しい足を晒しながら組むとソファへと深く身を沈めた。
「気に入らない方の妹と縁が切れたのをいいことに、手前の婚約者を友人枠に捻じ込みたいと。
口の利き方だけは上品だけどさ、やってることは随分と下品だって自覚あんの?」
クスクスと笑う姿に、最初に与えた生真面目そうな印象は消え失せている。
顔も服も変わらないのに、ギラギラとした光を宿す瞳で見据える様は娼婦か肉食の獣だ。
先程までうら若き令嬢といった雰囲気を見せていたのに、今では年齢不詳ですらある。
「な、え?」
あまりの変貌ぶりに、驚きで言葉が出ない。それは両親も同じようで、母に至っては向かいにいる女の下品な様に、仰け反るようにしながらも目が離せずにいるようだった。
「言葉遣い」
声の調子は平坦なままに連れを窘める男に、「煩いよ」と返して扇を開くと、ヒラヒラと自身を仰ぐ。
「どうせ王太子殿下だって、こうなるってわかってたくせに私を使者にしたんでしょ。
それに絹で包むように優しく言い聞かせてやったって、欠片も理解なんてできないね。明日の昼食を賭けたっていい」
「それは賭けになりませんね」
とだけ返した男の方が、ハルガリアン達へと視線を戻す。
「王太子妃殿下からロアン家の方々に確認したいことがあるとのことで、少しばかり質問にお答え願います」
女が指を一本立てて、「第一問」と言った。
「ルレイヤ嬢の愛称は何でしょーか?」