十二時
十二時を告げるチャイムが各所のスピーカーから流れ、それが鳴り終えるのを待ち、雫は窓口に一番近所の自分の席を静かに立つと、折よく閑散としているのをよいことにして、昼休みをしめす手づくりのちいさな札をそこへ立てた。
そばに重ねて置かれたお弁当の、黄色いビニールに包まれてきゅっとなった結び目を器用にほどくまま一番上の弁当箱を手にして、すぐと自分の机に置きながらその足で冷蔵庫をたずね、買って冷やしておいた緑茶といっしょに席に舞い戻ると、いよいよお昼の時間である。
親もとで過ごしていた頃は知らず知らず、義務としていた朝食からすでにはなれて久しい雫には昼食こそ至福の時なので、輪ゴムをはずして透明のふたを取り、箸を割ってほうれん草のお浸しをほんの少しつまんで口元へ運ぶ、そのそばから箸先は勝手気ままに、実は舌の求めに応じるままきんぴらごぼうをつつく。
雫は醤油いらずのだし巻き卵を小指の関節大に一口切りとるかと思うと、今度は趣向をかえてポテトサラダに箸をつけ、焼き鮭をつまみにふりかけのかかったご飯を一口。そこでやっと落ち着いて、緑茶のペットボトルを口にくわえ見るともなしに前を見上げると、こちらからは灰色の壁に遮られて死角になっているエレベーターの到着音が耳をうち、そのままぼんやりしている折から三十代半ばくらい、市役所におもむくには適宜といっていい穏やかな身なりをした女性があらわれて、天井からぶら下がる看板を一瞥すると、視線をはずしてゆっくりこちらへ向かって歩いてくる。
ひっそりとした所内に反響するきゅっきゅっという音は疑いなく聞こえているはずなのに、皆弁当に顔をしずめ、あるいはパソコンとにらめっこしつつそのままやり過ごそうと思案をきめてもいるのか、なお静寂のなか独り足音のみたくましく響くうちすっと止んだ。と思うと、足音は始まって、つづいてソファへ沈む音が雫の耳をとらえた。折から弁当にもどしていた視線を、雫はまた折から女性のほうへ向けるまま静かに立ち上がり、彼女に声をかけた。
「どうぞ。ご用でしょうか?」
女性は腰をあげて雫のもとへと寄りながら、
「昼休み中にすみません」
「いえ、どうぞお掛けになってください」
その声を待っていたもののように椅子を引いて腰をおろすやぽつりと、
「……実は支援を受けられるというお話を聞きまして」
「支援ですね、はい、こちらでは離職後まもないお困りの方を対象にして、就職活動をすることを条件に家賃補助をしております。そのことでしょうか?」
「家賃補助……ですか? それではお金を直接受け取れるということではなく」
「そうなんです。直接ではなく大家さんの口座へのお振込みという形で」
「大家さんの。そうですか。それならちょっと聞いていたものと違ったかもしれません」彼女は化粧の巧みな顔に疲労の面持ちを少しも隠さずに言いながら、ハンドバッグの持ち手をきゅっと握りはや立ちかけるので、
「何かお困りですか? わたしに案内できる場所があればお教えいたしますけれども」
「いえ、確かにここと聞いてきたものですから。早とちりがあったのかもしれません。これで失礼いたします。お昼休み中にほんとにすみません。ありがとうございました」と、折り目正しく辞する様子に、雫も不憫とは思いながら無理にともいかず、
「いえ、そんなことは、こちらでご相談できることがあればまたぜひお寄りください」
彼女は軽く頭をさげて歩きだすと、一度こちらを振り返り、首で丁寧におじぎをしてから壁のあちら側へと消えてゆく。ほどなくエレベーターの到着音が聞こえ、ほっと一息、雫は再び箸をつけたところで、どうだった、と向かいの席にすわる酒井さんから声をかけられた。
すきまなく立て並べたファイルが若い二人の邪魔をするので、彼は首を伸ばし心持ち顎を突き出してあらわになった喉仏に雫はふいと惹きつけられ、すぐに自分でそれと心づいて視線を上げ、何か勘違いをなされていたみたいで、でもかなり困っているようでした、と答える言葉を待たずに、そっか、ありがとう、と一言残したきり、彼ははや目の前を去ってパソコンを見つめ弁当をつついている様子である。雫はつづけて言おうとした言葉もそのままのみこんでしまって箸をとり、空腹を幸い静かなうちに無事食べおえ、すぐにしょぼくれる目を指でこすりこすり歯磨きをしていると、期限をついつい超過してしまっているせいだろう、二週間用のコンタクトレンズが乾いてはずれそうな気がするので目をパチリパチリ、口を清めて席に舞い戻りすぐさま一段目の引き出しをあけたものの目薬は見当たらない。
どこ? と苛立った折から、立て並べたファイルの手前に転がるそれを見いだして点眼したのちぎゅっとひとつむりしてから何度もまばたきする。すうっと目を浸すこころよさに、たちまち心も安らぐと、雫はなおも襲いかかる眠気を払うため、体質に合わない珈琲に代わってせめて緑茶のカフェインを今日も味方にしようとキャップを開けようとするそばから忽然電話が鳴り響く。突如瞳を捕まえたそれへためらった跡を見せる間もなくついと左手を伸ばし、机をさぐる右手はただちにボールペンにメモ用紙を見いだしたかと思うと、早くも受話器を耳に押しつけ用件を伺うかたわら、両目はこちらを訪ね歩いてくるらしい先程とは別の女性を認めて立ちかける折から、酒井さんがなかば後ろを向きつつすっと立ち上がり、雫を遮り伸びた白シャツの右腕とともに、幾分ひかえめにとがる細い顎に見惚れる自分に雫はたちまち心づき、酒井さん宛てだと思います、と言いざま受話器をさげて思わず押しつけ、すかさず両手で耳に押し当てると、彼と瞳が交わるなかすでに電話は切れていた。
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