鷹と鷲
今回かなり短いです。
暗幕をめくりあげた先には、昏く重い宵闇が拡がっていた。
会場の壁際は何か所かに分かれて暗幕が掛けられている。
入り口から一番遠い暗幕を選び、外のバルコニーへ。白と黒の大理石を組み合わせた床を一歩、二歩……、鉛のような足を進める。若執事の方がアードラより先へ、先へと進んでいく。
昔はあっちのが背、高かったのにね。
今はアードラの方が頭一つ分高い。つい引き合いに出してしまうが(だが反省はしない)、スタンよりも背が低いかもしれない。
「月がきれいな夜ですね」
ローマン列の白い手摺に背中を預け、若執事は微笑した。
小柄な体躯に鼻先から頬に散ったそばかすが実年齢より幼く見える。生まれつき酷い癖毛ではあったが、毛先があっちこちはねたブルネットの髪は主人に咎められやしないのか。
見れば見る程、あいつ――、あの日教会へ置き去りにしたファルケと似ている。
でも、あいつは未だ植物状態で眠ったままの筈。脳と心臓が辛うじて動いているだけでも奇跡だと――、まぁ、あくまで風の便りに聞いただけだが。(会いになど到底いけるもんか)
何にせよ本物のファルケだろうと偽物だろうと、アードラの複雑極まる心情に変化なし。
若執事から徐に視線を逸らす。代わりに夜空を見上げれば、雲ひとつなく月と数多の星々が輝いている。彼の言葉通りきれいな満月だが……、きれい、か??
確かに月面の影の形まで見える程、強く光り輝いている。その輝きが仲間の髪色に似た白銀だったらきれいと思うだろう。しかし、血の色を想起させる赤い輝きは美しさよりも不気味さが勝っている。
「アードラさん、でしたね。私が貴方の探し人に似ている、と仰られましたが……」
あいつの一人称は『私』じゃなくて『俺』だった。
笑い方も違う。控えめな含み笑いなんてしなかった。あいつはいつも大口開けて豪快に笑っていた。でも、だけど――
唇が震える。
今から口に出す言葉を、皆まで閊えることなく言えるのか。
情けないことに肩に相当な力が入っている。
「いや、あんたはファルケだろ??孤児で、生後半年でアンスターキルヒェン教会に引き取られた……」
「??人違いじゃないですか??」
「勉強は苦手だったけど足が速かった。教会の子供達の中で一番速かった。僕はファルケのせいでいつも二番目だった」
「それは残念でしたね。ですけど、私は」
「ヒヨコ豆入りカルトッフェルスープが大好物だった。僕の好物でもあったし、揃ってお代わりを神父様によく強請ったっけ。欲張ってはいけないよ、年下の子達のこと考えなさいって毎回叱られたけどね」
「大変な生活を送られたのですね。ただ再三申し上げますが、人違いです」
まだ言い張るつもりか。
この話だけはしたくなかったが、仕方ない。
「……十年、十年、十年前、の話、さ」
体温が急速に下がっていく――、錯覚を覚えた。
声だけじゃない、指先まで震えだすなんて。
きっと今の自分はスタンやミア、ルーイ達吸血鬼よりもっと青白い顔に違いない。
「アンスターキルヒェン教会で無差別銃乱射事件が発生。犯人は当教会で育ち、成人と共に教会を出たかつての孤児数名」
事実のみを端的に。機械的な物言いがラジオから流れるアナウンスのようだ。
「生存者はたったの二名。当時九歳だった少年二人。その内の一人は僕、もう一人が……、ファルケ、あんただよね??」
「一つだけ追加させてもらっていい??一人は軽傷、もう一人は意識不明の重体って」
若執事はふふっ、と慎ましやかに笑った。
女性的な柔らかな笑みだが、栗色の双眸は笑っていない。静かな憎悪が滲み出てさえいた。
「お前があんまりしつこいから白状するよ。そうだよ、俺は正真正銘ファルケだよ。でも、俺がファルケだって分かったところでお前は何がしたかったの??」
「何って……」
ファルケに言いたいことなんて一つしかない。なのに、その一言ですら口にするのが憚られてしまう。口籠るなんて自分らしくない。気弱でどんくさいミアじゃあるまいし、何やってんだか。
「うん、わかってる。全部わかってるから。俺に謝りたかったんだろ??ははっ、その顔は図星って捉えていいんだよな??別にいいよ、俺、全然怒ってないし」
「う、嘘つくなよ……」
どうしても言葉が続かない。
瞳に宿る憎悪だけでなく、ファルケの全身から強い殺気が立ち込めている。
「嘘じゃないよ??終いには里親からも死を願われてた俺を、あの人が助けてくれたから。全部チャラにしてやるよって、な??」
「あの人、って……、誰だよ??あのジイさん??」
「まさか!違う違う!!」
「じゃ、誰、なのさ……??」
ここでファルケは突如として押し黙った。
なんとか言ったらどうなんだ、と叫びかけて――、息を飲む。
ファルケの瞳が栗色から深紅へ、唇には鋭い牙が--
「今夜の真の主役、ハイディマリー様のお蔭だよ。何もかもあの人の仰る通りだったよ、こうもあっさりと場を離れて俺にノコノコ着いてくるなんてさ!」
「なっ……!」
しまった、と後悔する暇すらなかった。
我に返った時にはすでに、凶悪な様相のファルケが眼前に押し迫っていた。