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デアイサーのスパイクで無垢の氷道を踏み荒らして進む。
少し贅沢だが最後の人類の特権だ。
『アオさん、地面が輝いて見えますけど、ライトアップしているんですか?』
『いえ、単に太陽の光を反射しているだけですよ』
『え、今って夜じゃないんですか!』
『定義によりますけど、日が出ているから一応昼ですね』
燃え尽きそうな太陽は質量を大幅に失い、重力を日を追う毎に弱めている。
だから地球の自転も公転も滅茶苦茶になってしまい、時節というものが壊れてしまった。
自分は腕を目一杯伸ばし、あの情けない姿になった赤い星に向かってコンソールを掲げる。
『なんですか? あの赤い丸は』
『あれが今の太陽ですよ』
『え? 太陽って、もっと大きくって白く光りますよね?』
『それはVR空間のオブジェクトですね。昔の姿を模したものです』
炎は低温になると赤く燃える。
そして太陽の巨大だった重力から解放されれば、当然距離が離れて小さく見える。
このまま太陽系はバラバラになって、最終的には巨大ブラックホールに飲み込まれるのだろう。
仮に温度の問題を解決できたとしても、絶望しか待っていない。
だから人類は、潔くVR空間への移住を決心できたのだ。
『はー。これは現実でないと見られないよね。あ、でもアオさんがちょちょいとやってくれれば、こちらの太陽の見た目なんて、簡単に変えられるのかな』
『できますけど、この姿の太陽は皆のトラウマですから。非難囂々でしょうね』
『はは。そうなんですね』
メアリは他人事のように笑う。
こういう反応をされると流石に不気味に思えてくる。
彼女はあまりにも、現実を知らなさすぎる。
彼女のパーソナルデータを覗けば、その原因が分かるかもしれない。
だけど、今ここで行うことは躊躇われた。
『メアリさん。VR空間へのログインは早かったのですか?』
『そうです。だから現実のこと、あまり憶えてなくて』
移住権が早期に割り当てられたとするなら、特殊な事情があるか、上級貴族といったところか。
箱入り娘みたいだし、元々下々のことは知らないのかもしれない。
そう結論を得ると、彼女に見せたいものが思い浮かんだ。
駆けて行きたいが、滑る坂道ではそうもいかない。
直接見ても少しも痛くはない太陽に背を向けて、一歩一歩ゆっくりとデアイサーの歩みを進める。
『ちょっとカメラの向きを変えますよ』
丘から見下ろして、主人を失くした無機物の群れを視界に収めた。
『これは、町ですか?』
『そうです。最後まで残った居住区です。そしてVR空間の方々の、本当の体が保存されている場所でもあります』
氷漬けのビルディングが比較的綺麗に残っているのは、寒冷地対策を繰り返した人々の無駄な努力の成果だ。
そしてこの地下でVR空間へのログイン処理を行い、抜け殻となった人体は冷凍食品のように保存されている。
この町だったものは、言わば墓標だ。
『あそこに、わたしの体も? 体の安置所って、あそこのことなんですか?』
何も理解していなさそうな顔で、彼女は画面に向けて指を突き出していた。
『そのはずですが、憶えていませんか?』
『いえ、ちょっと分かってなくて。今から近くに見に行くことって、できますか?』
クレーム対策マニュアルの癖が抜けきれず、即答に躊躇していると、口の中に鉄と不純物の味が広がっていく。
唇が乾燥しぱっくり割れている。
オイルの効果が切れだしたか。
急いでコンソールを操作し体温を確認すると、もうすぐ危険域に突入しそうだった。
『申し訳ありません。時間がなさそうです。急いで戻らないといけません』
『そうですか。でしたら大丈夫です。アオさん、今日はありがとうございました』
画面の中で深々とお辞儀をしている彼女を尻目に、来た道を戻っていく。
滑り落ちそうになりつつもアームを振り回してバランスをとり、スパイクを氷道に食いつかせる。
その流れに身を任せるだけでも体力を消費し、貴重な熱を垂れ流しているように感じた。
『あの、アオさん、またコールしてもいいですか?』
彼女にとって自分は見ていて面白い珍獣なのだろう。
別に道化を自ら買って出てもいい。
だけど、そんな見世物がまともに成立するのは、生憎今日までなのだ。
『ご存じですよね? 明日から加速試験が始まることを』
『ええと、VR空間の時間を加速させるんですよね? よく分かっていないけど』
『ご説明しますと、VR空間の時間を、現実よりも徐々に速めるのです。明日の朝から二倍速く時が流れるようになり、そしてVR空間の午後には四倍速になります。問題がなければ、段々と加速させます』
冷気を取り込むことは本来避けなければならないが、それでも自分は口を大きく開いてはっきりと喋った。
これは別れの挨拶のようなものだからだ。
もうこれから現実とVR空間は乖離していく。
リアルタイムな会話もその内成立しなくなり、仕舞いには地球最後の瞬間まで何の情報も届かなくなる。
『そんなこと必要ですか? わたしは今のままでも幸せなんですけど』
『何を言っているのですか。何もしなければ、折角のVR空間も後数日で終わりますよ。ハードの限界まで処理速度を引き上げて高速化させる。そうすることで皆さんの体感時間を無限に等しく引き延ばせるのです』
生き残った人類が、冷えた頭を抱えてなんとか生み出した起死回生の策。
それに今更異議を唱えるなんて、世間知らずもここに極まりといったところか。
『そうですよね、ごめんなさい。でもわたしは本当に、この世界に十分満足したから。支えてくれた人に感謝したくって』
『……どうも、ありがとうございます』
寂れた廃墟のような倉庫に戻り、デアイサーを前屈みに停止させる。
コンソールをシート横に放り投げて、急いで身体のメンテナンスの準備をする。
すぐにオイルを塗り直さないといけない。
『メアリさん、設定変更等ありますので、一先ず切断させていただきますね。よろしいですか』
『あ、最後に質問! というかさっきの返事聞いていません。加速が始まってもコールしてもいいですか?』
『質問など頂いても、即答はできなくなります。間が開いてもいいのでしたなら。でもこれからは原則VR空間内部の機関に頼るべきです』
『原則、ね。絶対駄目ではないってことですね! でね、アオさん。単純に疑問なんだけど、いつまでお仕事するんですか?』
『……どういう意味ですか』
『え? どういう意味って』
いや、彼女の言いたいことは分かる。
コールセンターがリアルタイムで処理できなくなるなら、廃業すべきだというのだろう。
『だから、アオさん。貴方はいつ、VR空間に来るの?』
保湿オイルを顔に丁寧に塗りたくって、時間稼ぎのようなことをする。
非礼にあたらないよう即答を避けるべき、というマニュアルのせいではない。
本当に、彼女の問いに答えられなかったからだ。