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最後に見る夢が、こんなにも詰まらない過去の記憶だとは思わなかった。
この忘れがたい事実から、心のどこかで目を背けようとしていることの表れなのだろうか。
だけど今の自分には夢の分析をしている時間も、禊を済ます時間もない。
すぐさま行動に移すためにも、忌まわしき日課を始めよう。
保管庫の傍に最後の一本が寂しく佇んでいた。
ザイトが遠隔操作してこのボックスのロックを外しておいたのだろう。
最早体感時間の差は天と地ほどある。
彼がこちらの定刻を待ち切れず、こうなったと容易に想像できる。
ペンシル型の不凍液フィルターを手に取る。
これで在庫ゼロ。
つまり、自分は何が起ころうとも明日の昼にはこの世を去ることになる。
保湿オイルを全身に塗りたくり着替えをし、最後の命綱を脚の付け根に差し込むと、神経を刺激する痛みがピリッと全身を駆け巡る。
この一連の作業もこれでお終いかと思うと、どこか感慨深いものがある。
外の様子を伺うと、昨日の猛吹雪は既に収まったようだ。
積雪が凄まじいが、デアイサーなら道を切り開けられる。
まずはメアリに連絡しようかと思ったが、デアイサーの中に着信がやかましく鳴り響いたので、コンソールを急いで起動した。
《【ザイト】/早くログインしろ。こっちで絶対に会うぞ》
テキストメッセージをすぐさま消し去る。
そんなことをしたって、誰も幸せにならない。
自分の一番の願いは、生き残ることではない。
この氷の地獄で生きていた理由が欲しい。
そしてそれは職務を全うしたときに得られるものだと、信じている。
ウィンドウを開き直し、メアリにメッセージを送ろうとしているときに、今度はうるさい警告音がイヤーマフを大きく振動させる。
特殊なメッセージの場合、見逃さないような仕組みになっているのは知っていたが、実際にこの状況になるのは初めてだ。
そもそもこんな仕様を理解しているのはザイトくらいしかいない。
《【システム】/全てを、疎ましく思う》
迷惑行為が目的のコールは散々受けたため、意味不明な文章に今更驚きはしないが、メッセージの主が信じられない。
システムメッセージは権限を持った運営スタッフにしか発信することができないため、こんな悪戯のような文言を送り付けてくるはずがないのだ。
ザイトなら文句があれば直接言ってくる。
他の運営スタッフの中には自分のことをよく思わない連中もいるだろうが、やはりこんな遠回りなことをするはずもない。
《【システム】/私が作った世界は、結局私の思い通りにならなかった》
こんな内容を、直接自分に伝えようとしてくる人物は、一人しか思い浮かばない。
イブなら時間差でのシステム乗っ取りくらい、お手軽にやってのけるだろう。
だが、死んだ後にこうなるように仕向けて、一体何のつもりだ。
いや、本当は分かっている。
不凍液フィルターが尽きるときを狙ってやっているのだから。
イブは、アオという存在を、恨んでいるのだ。
自分がやったことを褒めて欲しいとは、全く思わない。
だけどここまで憎まれているとなると、心臓が凍る気がした。
《【システム】/だから、あるべき姿にするために、邪魔なものは壊そう》
がたがたと揺れる手つきで、メッセージの表示を送る。
ホログラムのウィンドウに浮かぶテキストは、血の気の通った呪いの言葉のように見えた。
イブはこのメッセージ以外にも、何か仕掛けを残していったというのか。
《【システム】/与えられた安寧にすら文句を言う者達に、まずは現実を知らしめるとする》
既に息絶えているイブが、あの世界に干渉する方法は殆どない。
このメッセージのように時間差で起動するウィルスを、彼女の私物のデバイスに用意してあるのが関の山だ。
だけどそれも意味がない。
基幹システムへのクラッキングが考えられるが、当然その難易度はとても高く、攻撃を仕掛けた時点で即対策されるだろう。
なにせ、現実とVR空間の時間はもう百倍以上違う。
現実のデバイスが持てる限りの速さで攻撃しても、VR空間の技術者はゆっくりと丁寧な仕事で簡単に対処するだろう。
ここまで考えて、忘れていた大事なことを思い出す。
あの鍵だ。基幹サーバーにあるスイッチングハブへのアクセスを可能にする鍵。
もしVR空間の開発初期から、何かを仕込んでいたら、他の人員は気づかないかもしれない。
それほど人手不足で、他人を疑う余裕もなかった。
《【システム】/私はアオと同じことをしてあげる。それが、私からの手向け》
自分がやったこと――爆発オブジェクトを住宅街エリアにばら撒き、物理演算の通りに破壊させた。
だけど今は、どのエリアも人で溢れている。そんな中爆発事故が起きれば、精神的にダメージを受ける人が続出してしまう。
最悪再起不能になるかもしれない。
イブが自分を恨むのは仕方がないことだ。
だけどそれは、他の人を巻き込んでいい理由にならない。
《【システム】/だから、何もしないで》
心の中でイブの言葉を否定しながら、操作ウィンドウを幾重にも展開する。
すぐに対処しないと、取り返しのつかないことになる。
絶対に止めないといけない。
自分にVR空間の人々が苦しむ姿を見せて、それを復讐代わりにしたいのかもしれない。
確かにそれは、殺されるよりも辛いことだろう。
今の自分の命は薄氷よりも軽いのだから。
何のために、過酷な現実で命を繋いだのか。
全てが台無しになる前に、自分の体が動く内に、方を付けよう。
ザイトに連絡するか迷ったが、鍵のことを知らなければ真面に取り合ってくれないだろうし、イブの名誉を傷つけることはしたくなかった。
一先ず様子を見るべきだ。
イブは自分と同じ方法と言っていた。
爆発物が勝手に起動するようなプログラムを、自ら命を絶つ前に仕込んでおいたということなのだろう。
ならば、全ての爆薬オブジェクトの所在地をデータベースから抽出し、一旦無効化させるしかない。
急いでウィンドウにVR空間の様子を表示させ、インターフェイスを起動させた。
いつもの所作のつもりだったが、すぐにとんでもない違和感を憶える。
全てが、百倍を超える速さで流れている。
人の歩く速さだけなら問題ない。
大変なのは車も船も飛行機も超高速で動き回っていることだ。
基本的にコールセンターの業務は、対象をカメラに収めて、表示されているオブジェクトを指で触れることで各種処理を行っている。
コールしてきた人と対話することで問題解決するためのインターフェイスなので、それで十分効率が良かった。
だが今はそれだと、飛行機に積まれた小さな爆弾を一々補足するだけで骨が折れる。
これから一番早く爆発する予定なのは、欧州サーバーの空港に貨物として設置されているオブジェクトのようだ。
それが何故か所有者の意に反して、他の空港へ輸送されることになっている。
イブの残した情報が確かだと、空の旅へ出た後、どこかで爆発四散する仕組みになっているのだろう。
必要もないのに空気の振動や音の大きさ、光の強さなどの物理演算を行って派手に爆ぜる。
それで死人が出るわけではないが、大騒ぎを起こしてしまうことになる。
まずいな。
以前はリアルタイムでの問題対応だったため、何でもできるような気持ちがどこかにあった。
しかし、凡人である自分にはこの高速で動き回るオブジェクト達を上手く支配することができるのだろうか。
まずは貨物機に爆弾が積み込まれる前に対処しようと、空港のマップを表示し対象のオブジェクトにタッチする。
案の定、ロックが掛かっているが運営スタッフに対しては意味を成さない。
暗号解析ソフトを走らせて無効化を計る。
だけども即エラーが高音と共に跳ね返ってきてしまう。
何故だと思いログを凝視すると、同期が取れない旨が読み取れた。
そうか。あのロック機構は恐らくワンタイムパスワード。
ある周期でパスを変更し、より堅牢な鍵となっている。
その間隔が今は加速のせいでとてつもなく短い。
現実のソフトではそれに追いついていけないのだ。
イブはこうなることが分かっていたから、手の内を明かしたのだろう。
体が冷える思いがする。
実際にデアイサー内部の温度が低下しているようだ。
外部モニターは雪で塞がって何も見えないくらいの悪天候になりつつあるが、それどころではなかった。
現実からの操作でロックが突破できないとなると、自分にはVR空間の協力者が必要になる。
あのロックは、向こうでは物理的な錠前として表現されているようだ。
相方の鍵を使うか、緊急解除キーコードが分かればVR空間の住人でも対処できる。
爆発する可能性が高そうなものだけでも向こうの人間に任せて、その間に自分はあのイブが残した鍵を使って、物理演算機能を一時的にでもオフにするしかない。
縋る思いで、ロックで守られた爆薬オブジェクトの来歴を確認する。
これを用意した人物に訳を説明し、協力してもらうとしよう。
そう思った自分の瞳に飛び込んできた文字列は、あの少女の名前を示していた。




