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「私はこれから毎日、デアイサーの練習があるから。もうここにはあまり来られないと思う」
勝手に置いていった私物を両手に抱えて、イブは無表情のまま立ち去ろうとする。
このブースを占拠していた荷物が奇麗に消えると、以前より寂しく思え居たたまれなくなる。
僕は、こんな現状を肯定したくはない。
僕自身は、人と深く関わることを好まない。
彼女は僕に輪をかけて人が嫌いだ。
だから僕が何を言ったって、彼女は受け入れてくれないだろう。
それでも今言っておかないと、彼女はこのまま氷の監獄へ消え去ってしまいそうだった。
「イブさん、話がある」
「……何?」
振り返った彼女の顔には、拒絶の相がはっきりと見える。
だけど僕は、止まる気にならなかった。
「現実に居残るのは、やめてくれ」
「誰かが残らないといけないことよ。アオだってよく分かっているでしょう」
溜息とともに、イブは何の感情も籠っていない声を吐き出した。
「誰でもいいなら、僕でもいい」
握り締めた拳が、わなわなと震える。
極寒の世界へ飛び込むことなど、彼女を失うことに比べたら、大したことではなかった。
「私は、私の世界を守るためなら、なんでもする」
イブは僕の言葉を無視するように吐き捨てて、そのままブースから出て行った。
彼女があのVR空間に、強い思い入れがあることは知っている。
だけど、自ら身を投げるほどだとは思わなかった。
結局、僕は彼女の心の強さに勝てず、後を追いかけることもできなかった。
ドームの天蓋に届きそうなサーバーの頂点を、じっと見上げる。
苦労したが性能も耐久性も予定通りで、開発者としては少しだけ気持ちがいいものだ。
だけど、予想外のトラブルで全てが台無しになってしまうかもしれない。
しかも、そのせいでイブと永遠の別れになるかもしれない。
その二つの思いが交互に入れ替わって、僕の心臓に波を起こしているように思える。
「なんだぁ、アオ、お前も見に来てんのか」
大男がのっしのっしと近づいてくると、水飛沫がブーツに蹴飛ばされて拡散する。
水浸しの床は、事態の深刻さをそのまま表していた。
「ザイトさん、あのデアイサーの作業は、僕でもできますか」
自身のグローブが指さす先は、ドリル形状の両手をぶら下げた猫背のロボットがある。
排水溝に発生した氷山にアームを交互に突き刺し、砕氷作業を行う作業は、すっかりこのサーバー群の風物詩となっていた。
「ああん? お前、道路があった頃に車を運転したことあるか? それと大差ねぇよ」
「じゃあ、少しレクチャーしてもらえれば問題なさそうですね」
「そうは言っても、アオ、お前はもうすぐ向こうへ行くんじゃないのか?」
ザイトが髭顎を持ち上げて示す方向には、サーバーがある。
VR空間のことを向こう側だと、僕達現実側の人間はよく言っている。
サーバーを覆う強固な外装が、まるで人類を二分しているようだ。
それが本当に、越えられない壁となってイブを一人にさせてしまうことになる。
「ザイトさん。僕をここに残してください。イブの代わりに」
「もう決まったことだ。まあ、そればっかりは早い者勝ちだな」
「だから、こうしてザイトさんに直接頼んでいるんですよ」
ザイトの半開きの眼を直視すると、それに応じてか彼の顔が強張った気がした。
「本気……か。でもそれはイブも同じだ。もうイブが現実に残って、他は向こうで小さいトラブル対応。それで予定を組んで準備もしてある。今更変えられない」
「本当に、変えられませんか……何があっても」
「そりゃあ、でっかい問題がまた起きたら、計画も見直すが……おい、変なこと考えるなよ」
ザイトが驚くくらい、僕は深刻な顔をしているようだった。
様々な思念が頭の中でせめぎ合って、ポーカーフェイスを保つ余裕なんて僕にはなかった。
「いえ、大丈夫ですよ」
「そう、か……ま、なんにせよ、お前が作ったこのでっけえサーバーの中に全人類が住むんだ。もっと誇らしくしろ。何も後ろめたいことはねぇ」
ザイトは多分、僕が残りたがる理由を、女性一人残すのは忍びないからだと思っている。
だけど本当は違う。
本当はもっと利己的で情けなく人間臭いものだった。
そしてそれはイブが最も嫌うものなのだろう。
「この中に人は住みませんよ。離れたところにある安置施設で、全人類の体を冷凍保存するんです」
だから、イブも全人類と隔離されて、氷の世界で凍え死ぬまで奉仕することになる。
各施設が少し離れているのは地熱や電力関係の名残らしいが、そんなことどうでもよく、許せない気持ちになった。
「例えも分かんねえやつだなぁ」
ザイトの言葉はあまり頭に入ってこなかった。
それよりも、次に起こすべき行動――、グラフィック関係担当であるイブが、本来の業務に専念しないといけないようなトラブル――それがどんなものかと立案することに、僕の脳神経全てを注いだ。
「アオ、貴方に教えておく」
久しぶりにイブが僕のブースに顔を見せた。
遠巻きから彼女の顔は毎日見ていたが、不思議と日々充実しているようだった。
これから辛い目に沢山遭うというのに、いくら変人の類といっても常軌を逸しているように思えた。
「それは何、イブさん」
こんなに近くにある眩しい瞳を見たくはなかった。
だから、自然とイブの手にぶら下がった荷物に目が行った。
「これ? これはね、世界の鍵よ。知っているのは貴方と私だけになる」
子供の悪戯じみた話に、僕はまるで要領を得ず、ずっとそのアルミケースを凝視した。
「どういう意味?」
ずかずかと奥まで入り込んできて、イブはそのアタッシュケースを開いて見せる。
確認できたのはメッシュポケットと、小さな鍵が一個転がっているだけだった。
「本当に鍵が入っているけど、何の鍵?」
「サーバー群のね、中枢となっている一基があるでしょう? そこにロックがかかっている小窓があるから、これで開くと、スイッチングハブが出てくる。そこで各種調整ができるの。例えばVR空間の物理演算オフとか、ログイン制限とか、かなり高い権限が必要なこともできるようになっている」
「……なんなの、それ。初めて聞いたよ。それで、どうして僕にそんなこと教えてくれるの」
彼女が過去に押し付けてきた、サーバーの仕様を思い出そうとする。
言われてみれば確かに、そんな物騒な機能を仕込んだ記憶も、脳の片隅に潜んでいる気がしてきた。
そんな隠し財宝を、まるで冥途の土産と言わんばかりに。
本当は仮死状態になるのは僕達の方で、現実で生き残るのはイブの方なのに。
「私はこれから手術や調整があるから。もうVR空間にトラブルがあっても、すぐに対処できない。だから、アオが向こうに行くまでの間だけでも、鍵を持っていて欲しい」
そう言ってイブはアルミ製アタッシュケースを閉じて、僕のブースの奥に設置していった。
何でもできる、世界の鍵か。
それを知った刹那、すぐにやるべきことが固まった。
だけど、踏み留まろうとする自分もいる。
少しだけ頬を緩めたイブの顔を見ると、それを歪ませるようなことはしてはいけない気がしたのだ。
全く情けない男だ。
後押しが必要だなんて。
これからのことを自分で決められない。
そう思うと、次の言葉を発するのに、勇気なんてものは欠片も必要なかった。
「イブさん、僕と一緒にVR空間へ行って欲しい」
僕が言葉を発すると、このブース内の時間が凍り付いたように止まってしまう。
その魔法が解けるのに、少しだけ時間を要した。
「……私は、現実に残る」
駆ける足音が、遠くへと去っていく。
拒絶の言葉だけが、僕のブースに残されていった。




