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予定よりも遅れたが、徐々にVR空間への移住を開始した。
初期テスターとして開発者の一部が梅雨払いの役目を果たし、それに続いて命知らずの被験者が現実から離脱している。
何かあったら脳死するかもしれないが、今のところ特に問題ないようだ。
安全が確認でき次第、権力者が我先にと極寒の世界からの逃避を目指す。
コンピュータで制御されたVR空間には脳神経を直接ケーブルに繋ぎ、体は冷凍保存して死なないようにしておく。
この寒い中、人が冬眠できるように温度調整し寝かせておくためのカプセルを用意する必要もあり、ログイン処理には膨大な時間がかかる。
それを生き残った数百万人に施すとなると、まだまだ終わりは見えない。
僕達開発者は、仕事に責任を持つという意味でも、何か不測の事態に備えるという意味でも、ログインの順番は最後に割り当てられていた。
「後数か月待ちってところかしら」
「イブさんは、やっぱり早くVR空間に行きたかった?」
「貴方は? すっかり寒くなったけど、最後まで待てる?」
シャツの上にトレンチコートを羽織っているだけのイブは、優雅にコーヒーをすすっていた。
「寒さは、我慢できるよ。それよりも」
ヒータ機能付きコートを何層にも重ねた僕は言葉を続ける。
「不凍液フィルターが邪魔だな。これはしっくりこないよ。本当に改造人間って感じだし、交換するとき少し痛いし」
「死ぬよりましでしょう。私達だけが優遇してもらっているようなものよ。一般市民はこんな改造手術を受けられないし、ログイン待ちの間まともに動けず、身を寄せ合って凍えているのよ」
「勿論、そうだけども」
血液を不凍化させる代わりに、人工フィルターを足の付け根に差し込む必要がある。
人間離れした機能が植えつけられたが、これのおかげでまだ人間らしい活動ができている。
しかし、ここまであの太陽と付き合うことになるとは、全く思っていなかった。
さっさと自分の仕事を終えて消える予定だったが、開発遅延は勿論、凍死による人員不足で僕の仕事も増えた。
よく理解できない書類データに電子捺印をするような立場になるのも、イブが推薦したせいらしいが、これで僕も正式稼働が始まるまで現実に居残ることになった。
「ねえ、アオ。早くVR空間に行きたい?」
さっきと似たような質問をされる。
となると先ほどの僕の回答では不満だったのか。
「そりゃあ、勿論。こんな寒くてろくなご飯も出ない場所は、さっさとおさらばしたいね」
「もし、現実が寒くなかったら、VR空間とどちらがいい?」
イブは今の太陽のような眼差しで、僕を射抜いてくる。
なんだかとても本質的な問いをされたように思える。
生半可な答えは出来ない。
暫し逡巡してから乾燥した唇をゆっくりと開いた。
「……VR空間、かな。家族は皆死んだし現実に思い入れはない。VR空間なら携わった身として少しは愛着もあるしね。それにあっちの方が色々と快適そうだ」
「そう。ならいいのだけど」
「どういう意味?」
「どっちにしろ、VR空間に移住するのだから。それならアオの好みの方がいいでしょう」
どこまでも他人事で。
あれだけ熱心に開発に関わったのに、完成したら興味のない素振りを見せる。
ここでその謎を解明しておかないと、彼女との距離は一生縮まらないと、そう感じた。
なけなしの勇気を振り絞って、僕は、僕の聞きたいことを言おうと思った。
だけど、そのとき。
『おい、ちょっと緊急事態だ。プロジェクトチーム全員、会議室に集まってくれ。今すぐだ』
ザイトの音声情報が、寂れた館内に響き渡る。
嫌な予感がする。
この寒くて手足も動かすのが嫌になるときに、わざわざ召集をかけるなんて只事ではない。
それもVR空間の稼働が軌道に乗ったはずのこのタイミングで。
「集まってもらったのはな、勿論VR空間のことだ。……まあ、結論から言うとだなぁ、このままいくとサーバー機器に支障が出ちまう。結露防止機構から垂れ流す排水が、最近の気温低下の傾向から行くと氷ついてしまうことが分かった。たった今凍結防止剤を混ぜるように手配したが、その場しのぎだ。その内ドームの中は水浸しになってよぉ、サーバーはいかれちまって、仕舞にはVR空間も稼働停止になる」
暖房が効かない広い会議室に、生き残った少数の精鋭たちが息を呑む声が響く。
何かトラブルが起きるのだろうとは思っていた。
こういった開発業務というものは、何かしら下らないことで躓くものだ。
だけど、そんなものは大抵飛び越えられるハードルでしか経験したことがない。
VR空間の開発だって、精々修復可能なバグが見つかる程度だと思っていた。
まさか、サーバー機器が寒さに耐えられないという根本を覆す事態に陥るとは、想像だにしなかった。
サーバー機器の担当者は僕だが、あの結露防止機構の担当者は別にいた。
ある程度完成させた後殉職してしまったため、僕が引き継いだのだが、当然中身を完全に理解できているはずもない。
排水が水路内で凍結する問題を回避するためには、多分、流体力学や熱力学の知識がいる。
門外漢の僕には責任をとるための能力もない。
解決策はあるのですか、という問いが、弱弱しい音色とともに沸いてくる。
ザイトはそれに力強く首を横に振って答える。
「今残っている人員と資材じゃあ、どうしようもできねぇ」
プロジェクト全てを管轄するザイトがそう言うのなら、本当に手詰まりなのだろう。
確かにこれから殆どの人員がVR空間に移住するのでは、現実にあるサーバーのハード的な問題はどうにもならない。
VR空間の内部からも開発チームは運営活動を続ける予定だが、現実のサーバーにまとわりつく氷の問題には手出しできなくなる。
だけど、解決方法はいたって簡単だった。
誰でもすぐにも思いつくが、その重大さに誰しも口を噤んだ。
「……俺が、ここに残る」
ザイトが、ただ静かに言を放った。
なんだかこうなるだろうなと思っていた。
責任感が人一倍あるザイトなら進んで現実に残るだろう。
「道路整備に使っていたデアイサーが、まだ残ってるだろ。あれをちょっと改造すれば、排水路に溜まる氷を砕けるはずだ。それを俺が現実に残って毎日やってやりゃあ、サーバーは、とりあえず問題ないはずだ」
皆と同じ考えを、自ら確認するようにザイトは口にする。
だけど僕たちとは決意が違う。
僕だってザイトには、こんな極寒の世界で一人寂しく死んでほしくはない。
しかし、この中で一番寒さに強い人間が、その役を買って出るというのが合理的だろう。
厚めのコート一枚という薄着でも、くしゃみ一つしない人間なら、風邪もひかないで地球最後の日まで生き残れそうだ。
だから、ザイトが砕氷作業を担当してくれるのは、いいことなんだ。
僕は我が身可愛さに、こんな思考回路になっているのではない。
上司に損な役を押し付けて喜ぶ卑怯者なら、まだよかった。
僕の隣にいる彼女の姿を、視界に収めたくなかった。
スマートなコートを軽く羽織っているだけの彼女が動くところなんて、見たくなかった。
孤独を好む彼女が、手を挙げようとするところなんて認識したくはなかった。
このまま解散になるまで、じっとしてくれと願った。
だけど現実はいつも、自分の思い通りにはならなかった。
「いえ、私が残ります」
イブは、透き通るような音声で、自らの願いを出力した。
僕はそれを止めるための理論理屈を、何も持ち合わせてはいなかった。
だから、ただザイトの言葉を待った。
「作業は俺一人で十分だ。それに食料やフィルターも精々一名様分しか残せねぇ。残るのは俺一人だけでいい」
「ですから、私が代わりに残ります」
イブは何でもないように、平然と宣言した。
ザイトはすぐさまそれに反論する。
「駄目だ。これは責任者である俺の仕事だ」
「責任者ならば、VR空間に拠点を移した後も指揮を執るべきです。世界の運営を行うことになります。恐らく問題は絶え間なく発生して、様々な専門家の手も足らなくなるでしょう。この中で、私が一番替えが効く」
「いや、だがなぁ……核融合炉が止まるまでの間、生き残ることが使命なんだぞ。寒くても生きていける奴じゃなきゃあ、駄目だ」
「医学検査ありましたよね。それで環境負荷項目でトップの成績だったのは、私のはずです。それに今日まで生き残っているものは皆、大差ないでしょう」
「そうだが、しかし……」
ザイトは頭を掻きむしって反論を試みているようだが、次の手がないようだった。
ザイトにしたって、誰かにこの責務を負わせるためにこの集会を開いたわけではないだろう。
ただ単に決意表明して別れを惜しんでお仕舞だったはず。あの厳しい顔付きを見れば、嫌でも透けて見えそうだ。
そして、それ以上に僕は顔を歪ませていることだろう。
イブはあれほど理想の世界を作るために苦心していたというのに、本人はそこへ至ることなく凍え死ぬなんて、あまりにも酷ではないか。
これから一刻毎に寒さは殺傷力を増していく。
今は平然としていられても、いずれ生物としての限界が来る。
VR空間の住人が我が世の春を謳歌しているときに、イブは滅びゆく体を酷使して氷と戦わなければならない。
寒さ以外で心臓が締め付けられる思いをするのは、何年振りだろうか。
ここまで追い込まれないと気付かないなんて、それほどに生き残るのに必死だったのかもしれない。
僕は彼女に憧れていたんだ。そんなことに今更気づいても、何もかも手遅れだった。
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