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今日もイブは勝手に僕のブースに居座って、仕事をしていた。
それだけならいいが、思いついたらすぐに新たな仕事を押し付けてくるのだから、たまったものではない。
「……ということで、次の試験では五百万のオブジェクトが動かせる環境にしたいの。これでもまだ、全人類が移住するには全然足りないのだけどね。……今の人口がいくらか知らないけど」
イブの御高説を聞かされ始めてから暫くして、やっと終わりが見えたらしく、軽口のようなものが聞こえてきた。
「僕も知らないよ。毎日激減しているらしいからね。あのゲーム世界が完成する頃には、イブさんしか残っていないんじゃないかな」
ノート型デバイス上でデータ整理の作業を続ける彼女の指がぴたりと止まり、ほんの少しだけ眉を顰めた。
「あれはゲームじゃないわ。本物よ。本物だから皆が移住する」
何か琴線に触れたのか、感情のようなものがイブの声に上乗せされている。
久しぶりに僕のブースが騒がしくなったと感じた。
何も興味がなさそうな冷徹人間かと思ったが、そうでもなかったようだ。
しかしそれも当然か。
このご時世に研究職につくような人間が、自身の抱えている領域についてプライドを持たないわけがない。
僕だって演算機の性能についてとやかく言われたら、何かしら思うところがあるだろう。
「……すみません。イブさんの仕事を、馬鹿にするつもりで言ったんじゃないんだ」
「……いえ、こちらこそ急に声を荒げて悪かったわ。こんなこと慣れているのに」
「えっと、慣れているって?」
すぐに熱を失った彼女の顔に、純粋な疑問を投げかける。
するとイブは頬に垂れた黒髪を掻き上げて、ゆっくりと唇を動かし始めた。
「気温が下がる前にはね、VRは時代遅れだ、もう研究することはないだの、税金泥棒だのさんざん言われたものよ。太陽が死にかけてからは、更に当たりも強くなる。もっと直接世界を救える研究をしろってね」
イブは口角だけ少し吊り上げ、微笑みみたいなものを漏らした。
「まあ、だろうね」
「それが今は救世主扱いよ。このプロジェクトの話を聞かされた時にはもう、一生分笑ったわ」
何かに急くようにデータ入力を進めるイブは、すっかり真顔に戻っていた。
本当に笑顔の在庫を尽いたかのように。
「どうせこれから笑えることもないんだから、丁度よかったんじゃないの」
「いえ、まだよ。まだある。これからやっとやりかったことができる。理想の世界を作ることが」
生き残った人類の住処を0から作るというのは、神にでもなった気分になれるのだろうか。
単純に高性能なサーバーを用意するだけの僕には、あまりその感覚が沸かない。
だから、彼女に面と向かって聞いてみたくなった。
「イブさん、君はどんな世界を作りたいの」
答えは色々と予想できた。今
よりも暖かくて、朝は明るくて、食糧に何も不自由しない世界。
自由に外を出歩くことができて、街に活気が溢れる。
死臭すら氷に閉じ込められる世界とは対極にある場所。
何でも作られるとしたら、僕はそんな世界を望む。
それ以上の欲望は、凍り付いた脳髄からは中々湧いて出てこない。
「私が欲しいのは」
だけど、彼女の口から出てきたのは、そんなものから遠くかけ離れたものだった。
「私たった一人だけの世界」
VR空間の稼働テストを繰り返す頃になると、様々な仕様変更依頼が僕の所へ舞い込んでくる。
それらに合わせて、機器設定を変えていかなければならないので一苦労だ。
そもそもサーバー構築自体、大きな課題を抱えている。
莫大な計算量を支える設備を用意するなんて、城を建築するのと大差ない。
僕の意識はその課題の方に向かっていた。
「アオ。いい加減、物理演算のアルゴリズムを採用できないの? 今の設定のままだと、次のテストが詰まらないものになるけど」
作業を中断して振り返ると、そこには雪山に咲いた花のような彼女が、いつも通りにそこにいた。
すっかり僕のブースを仕事場にして占拠しているイブは、毎度のように文句を並べたててくる。
「イブさん、ここは僕の仕事場なんだけど」
「別にいいでしょう。近頃は寒くなってきたからね。ここはまだ温かいし」
推奨温度を遥かに無視した暖房設定は、不作為の内に同類の研究者を呼び寄せてしまったようだ。
通報されたなら反省文ものだし、黙って不法滞在者を受け入れるしかない。
「イブさんは、一人の方が好きなんじゃないの」
「アオもそうでしょう。なら、いいじゃない」
よく分からない答えに続いて、彼女はディスプレイを表示させて、難解な数式を羅列して見せてきた。
「そんなことより物理演算の実装の件。これを見れば分かると思うけど、計算量に余裕があるから、次の試験稼働に適用できるはず」
僕は画像処理などに詳しくはなく、イブの適当な説明では何も答えを出せない。
「後で再計算してみるけど……そもそも物理演算とか滅茶苦茶負荷がかかる要素、いるの?」
物理演算というのは、要は力学的な要素まで計算してグラフィックに反映させるものだ。
重力や重さ、摩擦も考慮して、他のオブジェクトとの衝突も考慮する。
例えば鋭利なオブジェクトとぶつかれば引き裂かれるし、鈍角なものと当たれば凹みを生じるといった具合だ。
当然、ポリゴンをただ映し出すよりも遥かに多い計算量を必要とする。
それをVR空間の全ての人とオブジェクトに採用するとなると、僕の仕事の難易度も異次元となるだろう。
「何言っているの。例えば風が吹いても髪は靡かないし旗ははためかない。他人とぶつかっても何も感じない。手を繋ぐことすら困難になる。そんな世界に愛着持てる?」
「そこまでしなくてもいいんじゃない。寒ささえ凌げられれば、文句は言われないだろうに」
「甘い。最初は何だって受け入れるだろうけど、すぐにクレームの嵐になる。特に感覚的なところは誤魔化せない。だから現実と可能な限りに似せた世界を、私たちはエミュレートする必要がある」
「文句があるやつは放っておけばいいよ。どうせ何をしたって皆死ぬんだし」
VR空間に逃げ込んで、寒さを感じなくしたとしても、最終的には電源供給が途切れて人類は滅亡する。
それを考えれば、細部に拘る必要性がどこまであるのか。
「ここは現実じゃない、とか騒ぎ出して一部が暴徒化、VR空間からログアウトしようとするのが目に見えるわ。そんな馬鹿なことを防ぐためにも、完全な世界を作らないといけない。それが私達の使命」
「そういうものかな」
僕は人間工学だとかインターフェイスについての学問を修めたわけではないから、彼女の言うことを鵜呑みにするしかない。
「アオ、貴方だってその内移住することになるのだから、違和感の類は無いほうがいいでしょう? 服の衣装データが貫通して中身が丸見えになってしまうような、ハリボテの世界では皆納得しない」
イブが他人事のように宣うので、僕はたまらず聞いてみたくなった。
「イブさんはどうなの? そんな完璧な世界で生きたいの? こんな人類の土壇場に手間暇かけて?まずは寒さを何とかできれば、僕はいいよ」
「……私は、完璧な世界を作りたい。それだけ」
そう言って彼女はノート型デバイスへと視線を落とす。
だから、表情も前髪に隠れてよく見えなかった。
「そう、仕事熱心なのはいいことだけど」
「理解してもらえたなら、さっさとこの仕様を理解して。追加の分も今用意しているから、それまでにサーバーを更新しておいて」
「気軽に言うなあ」
彼女に押し付けられたデータ群をざっと見通すと、確かにできそうな気がする。
というか理解しやすくなっているように思える。
何度かイブと会話をしていく中で、僕の知能レベルを把握してもらえたのだろうか。
僕でも分かるように仕様書を書き直しているのだろう。
多分、それだけ本気だということだ。
円滑にVR空間の開発を進めるために、僕に合わせて書類を準備している。
「イブさん、これ書き直したの? 僕のために」
彼女の真っ白だったはずの顔に、隈のような影が見えた気がした。
「自惚れないで。VR空間のため」
「にしたって、睡眠時間削るのはまずいよ。今は本当に健康管理に気をつけないと。昔と違って、簡単に人は死ぬ」
昨日も研究者が一人凍傷で死んだらしい。
次は僕かもしれないし彼女かもしれない。
「私は大丈夫。まだ死ねない。それに分かりやすい仕様書を書くのは開発者として当然のことよ。貴方のことも大体分かってきたし」
「三流の技術者で悪かったね。僕は偶々生き残っただけで、本来こんなに大きなプロジェクトを任される人間じゃないんだ」
「それも含めて才能だと思うけど。それに貴方は無駄口叩かないから楽でいいわ。私の持論だけど寡黙な方が優秀な技術者」
「どうして?」
「私のやる気を削がないから」
僕はもう何も言えなかった。
イブの光のない瞳が、僕の唇を深く閉ざす。
彼女はとことん人と関わることが嫌いなようだった。
だけど程度が違えど、僕もそれは同じだ。
今なら彼女がVR技術を専攻していた理由も分かる気がする。
自己を取り巻く環境を、仮想の理想の世界に置き換えたかったのだ。




