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今朝は予想よりも気温が落ちておらず、外の様子も氷の鏡が反射した光が一杯で、少し眩しいくらいだった。
蝋燭は燃え尽きる直前に強く炎を灯すというが、似たようなものなのだろうか。
そうではなく、もし太陽がここで踏み留まったりしたならば、VR空間の連中は大喜びを始めるのだろう。
最終的にはこちらの一秒で、向こうの季節が何巡も移り変わるほど時間の差が生まれることになる。
つまり予測よりも一瞬でも長く核融合炉が稼働できたならば、それはVR空間にとって計り知れないほどの延命に繋がる。
しかし、自分にとっては余り意味のないことだ。
シート横の箱に手を伸ばしてそう思う。
家畜が餌をもらうように、今日の分の不凍液フィルターが保管庫からぽたりと落ちてくる。
昨日真面目に業務を行ったご褒美だ。
あと三個。
一日につき一人一個消耗する。
今更太陽が上機嫌になったって、自分の最後のときはもう決定されている。
腰辺りのチャックを開けて素肌を晒すと、無数の針が突き刺さるような冷気が襲う。
こればっかりは仕方がない。
さっさとフィルターを交換し、命を繋ぐとする。
今日の業務の前に朝食を取ろう。
不凍液フィルターにおまけのようにくっついてきた四角い塊を口に投げ入れる。
ミドリムシは究極の食糧だとか言われてもてはやされていた時代があったそうだが、もっといいものにして欲しかった。
『おう、アオ。調子はどうだ?』
VR空間からコールが来るが、一般人からではない。
向こうの住人ではあるが、こちら側の人間からだ。
『ザイトさん。特に問題はありません』
眼前に投影された映像には、渋面の大男の顔が写っている。
このザイトという人は、VR空間内部での運営責任者であり、特にサーバー関係の統括技術者である。
つまりは自分の上司、そして監視役ということになる。
『こっちからだと、お前が止まって見えるが、それだけ時間差があるのかぁ? 加速は順調だな』
寒さに震える気力もないなんて、わざわざ口に出す気もない。
黙って要件を聞くことにした。
『そろそろだな。アオ、お前、自分の仕事を分かっているよな。雪かき職人じゃねえんだぞ』
『分かっていますよ。自分が望んだことですから』
『そう、か。ならいい。また明日――VR空間だと何日後だ? まあいい。また連絡する。真面目に働けよ。命綱はこちらが握っているからなぁ』
大きな手をぶんぶん振りながら、一方的に吐き捨てるようにザイトは通信を切った。
命綱と呼ばれたこのペンシル型フィルターを、ぐっと握りしめる。
使用済みだから壊してやろうかと思ったが、栄養の足りない細腕ではびくともしない。
従順なAIのふりをしているだけの自分は、この世界を裏切る可能性がある。
いや、前科があるのだから、当然ありうるリスクと言っていい。
だから手錠としてこのフィルターがある。
毎日新品に入れ替えないと、激痛が走って居ても立っても居られなくなるそうだ。
それは血液を不凍化した代償だと言われているが、もしかすると、狙ってやっているのかもしれない。
最後まで地球に残る人類をなんとかして監視する方法として、都合のいいものになっている。
どこか自傷気味にふうと息を吐く。
自分は何のために、この世界にたった一人で残っているのか。
決意したはずなのに、忘れそうになる。
もう意味がないのなら、寒さに耐えて生きながらえる必要もない。
VR空間の人間たちのために、働く義理もない。
自分を誤魔化し続けることにも限界が来ている。
だったらいっそ――。
不凍液フィルターを握りしめる拳がより強く力を込められると、呼び出し音がデアイサーの中に鳴り響いた。
『アオさんー、今いいですか?』
声の主は、先ほどの厳つい男とうって変わって、朗らかに笑う少女だった。
全身の力を抜いて、一呼吸。
そして動かしたくはない口を、なんとかこじ開けた。
『こんにちはメアリさん。こちらは問題ありません。どうされたのですか?』
感情を押し殺して、AIのように振る舞う。
天候がよくなったら、こちらから連絡するつもりだったので少し驚いたが、この霜が張り付いた顔には出まい。
『ええとね。前の服のエラーのことなんだけど』
『はい。どうなりましたか』
『ショップ店員さんに相談したらさ、なんとかなったよ。色々買わされたけどね!』
『そうですか、でもとりあえず解決してよかったですね』
彼女の個人データが自動で表示されてしまう仕様なので、自然と目に入る。
そこには衣装の状態が前と違って一新されていた。
『うわー、なんか興味なさそう!』
『そういうことではないのですが』
彼女の情報は全て分かってしまうため、どういう反応をしたらいいのか分からない。
サイズだけでなく色も変わってますねと言えばいいのだろうか。
『あの……それでね……アオさんが、元人間って、本当?』
高性能AIを開発するにあたり、ベースとなった人格があるという話がVR空間では流布しているらしい。
その方がリアリティが増すし、その人間がどういうやつかという話題でVR空間内の暇も潰せる。
いや、本当にその予定だったのを、ザイトが止めたのだったか。
感謝すべきことかもしれないが、寒さに何も感じず過去を振り返らない機械に改造してくれた方が、自分としては助かったのかもしれない。
『まあ、そうと言えますね』
こんな問いに対し自分ができることは、否定とも肯定とも取れない返事をすることだけだ。
『本当なんだ……それで、その人は、どういう人だったの?』
画面の中で高速で動き回る彼女に対して、自分の舌は凍り付いた様に止まってしまう。
『……業務に関係ない話は、余り言えません』
『えー』
メアリは素早く頭を振って、つまらなさそうな顔をする。
そんなリアクションをされても、自分の下らない話を披露する気にならない。
『じゃあ、業務に関係あればいいんだね?』
『そうですね。それならば、なんでもお答えできますよ』
『えーと、あ、そうだ。じゃあねー、クイズを出すよ。わたしは、ちゃんとした本物の人間でしょうか?』
最初は、メアリが何を言いたいのか分からなかった。
VRで成り立っているあの世界の住人は、分身となるグラフィックを脳で操作している。
冷凍保存しているとはいえ、元に戻す方法がないとはいえ、本体は立派に人間だ。機械の類ではない。
この前メアリの服のトラブルで、彼女の個人データを覗いたが、普通の人間だったはずだ。
――いや、そういえば普通ではない部分も多かった憶えがある。
メアリの顔の横に目をやって、自動で表示されている彼女の個人データを凝視した。
その中にある管理IDを、そのままコンソールに入力しようとする。
しかし、異常な感覚に陥り、途中で指が止まってしまう。
ID:A0000011。
なんだ、その異常に若いナンバーは。
管理IDの番号は、そのまま電脳の世界へと旅立った順になっている。
A番の二桁だなんて、上級家庭とか、権力者の娘だとか、そういうレベルではない。
恐らく彼女は開発内部の初期テスターだ。
開発初期にログインした人間は一部の開発者と、不具合があり最悪の状況が起きても、遺族が納得してくれるような人が選ばれたはずだ。
そして、こんな若い少女がVR空間の開発者であるはずもなく。
つまり、彼女は。
 




