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寒さは限界を超えると、息をするだけで溺れた気分になる。
肺の中で無数の針が暴れたような激痛に苛まされ、思わずむせてしまう。
それでも機体の中には、強風がキャノピーを叩く音のみが僅かに返ってくるだけだ。
一人だけの空間がやけに静かなのは、孤独のみが理由ではない。
音の伝達が冷えた気体に妨げられる上に、イヤーマフに跳ね返されるからだろう。
それに作業量も日に日に減っているため、自分の動作音も殆どしない。
同僚が次々と旅立った今、放置された機体の山は、より静けさを演出しているように思える。
たまにシートを少し下げても、断熱材が反射する音波は弱弱しく儚い。
そんな物理現象を一々考えてしまうほどに、この静謐に慣れて久しい。
物静かなのはこの機体だけではなく、全世界がそうだ。
この地球上で生きている人間は、自分一人だけ。
息吹を全く感じないこの白銀の世界は、そんな当たり前のことをいつだって再認識させてくれる。
眼前の氷の世界――キャノピーの向こうに広がる雪景色をじっと睨む。
昨日たっぷりとつけたはずの足跡も、たった一晩でパテで補修したように消え去り、無垢の雪原に戻っている。
明かりもなく薄暗い中でも、広範囲が視認できるほど遮蔽物がない。
建築物の殆どは、氷の重さに耐えられず崩壊してしまった。
数少ない例外は、これから行く場所くらいなものだ。
さあ、そろそろ休憩も終えて作業に入るとしよう。
除氷機【デアイサー】のレバーシフトを握りしめ、雪の道を砕いて進む。
固くなる前の新雪なので、アームが気持ちよく道を切り開く。
しかしこんなロボットのような機体の操縦者になるなんて、太陽が元気だった頃には思いもしないことだった。
いや、そもそも自分がロボットのような存在になること自体、想像の埒外だっただろう。
血の通わない義足がペダルを踏みしめると、ガチャリと音がする。
今日一番大きく耳に響いた音だろうか。こんな騒音を聞かされると、腐り落ちた足が、不意に恋しくなった。
目的地に着くと、すぐに状況確認を行う。
この雪をかぶったドーム状の設備の中は、巨大な計算機が何機も稼働しており、凄まじい熱量を生み出している。
内部は高温、外は極寒となれば霜の問題は避けられなく、その対策の自動化を施しても、人智を超えた環境ではあまり効果が見られなかった。
大量に発生した除氷液交じりの排水は、設備の処理能力を超え、結局氷ついて詰まりを起こす。
それを放っておいたらいずれ建物の中が水浸しになり、全てが終わってしまう。
だからこそ、のそのそと二足歩行を行うデアイサーでこんなところまで繰り出し、砕氷作業を毎日のように行っている。
昨夜は一段と冷えたようだ。
気温ログデータをわざわざ参照しなくても、排水溝付近に聳え立つ氷山を見れば一目瞭然だ。
これを放置していたらすぐに機器が壊れるというわけではないが、あの今にも燃え尽きそうな太陽よりも先に寿命が来るだろう。
万年の冬空に浮かぶ、薄紅色の球体。
今朝は夜に反発して、幾分機嫌がいいようだ。
久しぶりに日の光を見た気がする。
だけどもう氷漬けの地球を溶かす能力はなく、精々照明代わりにしかならない。
恒星の死に立ち会える知的生命体なんて、宇宙史始まって初めてではないだろうか。
だが、そんな名誉ある立場を得るために、自分はあまりにも多くのものを失ったのだ。
そんなことを考えていると、デアイサーのアームが、いつもより力強く氷を粉砕した気がした。
不凍化した体液を全身に巡らせ、それでも凍りそうになる体を、幾層にも重なったコートで包み込む。
防寒対策はそれだけでは完璧にはほど遠く、点滴で血液に直接酸素を取り込む必要がある。
気化したてのドライアイスのような空気を、なるべく吸わないようにするためだ。
壊死してしまった手足は切り落として、頑丈なものに入れ替える。
そんなヒトから遠ざかるような肉体改造を受けてでも、この無音で過酷な世界で生きていかなければならない。
これらは全て夢でも未来の話でもなく、現実の自分に、実際に起きている本当のことだ。
ただただ約束のときまで生き残ること。
それだけが自分にとって、この氷の地獄と戦い続ける理由となっている。
だから、あの仮初めの世界を管理することに、万能感を覚えたりはしない。
この任務は贖罪であり、処刑でもあるのだから。
もう一つの自分の仕事――。
そんな思考を中断させたのは、久しぶりに鳴る呼び出し音だった。
デアイサーを停止させ、操縦席に座ったまま対話デバイスを起動させる。
『ちょっとサポートセンターさん? 服装データを変更したのに、見た目に反映されないのだけど。これじゃあ折角の結婚イベントが台無しじゃない!』