第67話 『告白』
再び時は現在へと戻り、二つの物語が邂逅した日の夜。
ロザリーとソフィア。心も体もさらけ出した、二人きりの浴場でのひととき。そこで語られた、まだ十五という少女に与えられる試練としてはあまりにも凄惨な出来事。ロザリーは部分部分のみとはいえおおよその話を聞き、すでにソフィアへと情が移ってしまっていた。
「ふう……。少し、ぼーっとしてきちゃった」
「ええ、そろそろ上がりましょうか」
話し疲れたのか、ソフィアは湯船の中でロザリーへと抱きつくようにして体重を預けた。その身体を支えるように浴場から出たロザリーは、いつもパメラにしているようにソフィアの濡れた体を拭き上げる。
「なんだか、お姫様にでもなった気分」
「ふふ、次はマッサージしてあげる。ほら、そこへ寝そべって」
「わーい。ロザリーさん、やさしくしてね」
嬉しそうに背中を向け、マッサージ用のベッドへと寝そべるソフィア。クリームを塗り込むため彼女の斜めに切りそろえられた後ろ髪を持ち上げると、ロザリーの目に生々しい斬り傷の跡が映った。
「これが、その時の傷ね……」
彼女の口から明らかにされた過去には、確かにロザリーの知る物語と地続きであろう現実味があった。恣意的な語り口で同情を誘うような脚色はあったものの、ロザリーには嘘は通じない。それは大きく語らずとも、実際の出来事として充分に同情に値するものであった。何より彼女が恩人、ビアド゠クレイディアの孫であるという事実は、自身がその死に間接的に関わっているという罪悪感をも存分にもたらす。
「辛かったでしょう、よく頑張ったわ」
「うん、頑張ったの……ロザリーさんは、きっと分かってくれると思ってた!」
ソフィアは感極まり、思わずロザリーの胸に飛び込んだ。ふくよかなそれに包まれている時、ソフィアは存在全てを肯定されているような心地になる。ブラッドが父の胸ならば、ロザリーは母の胸とでも形容すべきだろうか。両親、そして祖父共に失ったソフィアにとって、全てを晒しても受け止めてくれるロザリーは、すでに幼い頃に失った童心を思い起こさせてくれるような存在となっていた。
「大好き。あなたといると、全部忘れられそう」
「そうね、世の中には、忘れた方がいい事だってあるわ。そしてまずはあなたが、あなたに優しくしてあげて。そうでないと人に優しくなんて、きっとできないもの」
「んー……誰に、優しくしてほしいの?」
「みんなに、よ。誤解しないでほしいのだけど、私にも荒れていた頃はあったわ。その時、仲間に対して少し辛く当たった事、今でも後悔している。いつだってそう。きっと私も、辛い現実を受け入れられなかったのかもしれないわね」
「そっか……」
決して、あの子の事には触れないらしい。それが彼女の優しさであり、弱さでもあるのだろう。
(ずるい人……あの子は私のものだって、断言もできないんだ)
だったら、彼女からあの子を居なくしてあげればいい。このまま自分との関係を曖昧にできなくしてあげれば、もうこちらを向くしかなくなるはず。その優しさゆえに、違う子と深く結ばれたという事実がこれからの彼女を蝕み続けるのだ。
失ったものは、また新たに手に入れればいい。ソフィアは次なる獲物を見定め、小悪魔のように微笑んだ。
「うん、ロザリーさんの言う通りかもしれない。しあわせになれば、私も変われる気がする。こうしてあなたに抱かれていると、そんな風に思えるの。私に足りないものは、あなたとのこんなしあわせな時間なんだって」
「ソフィア……」
「だから、しあわせに、なろ? 二人で、色んな事して、二人だけの、世界で……」
二人が裸のまま抱き合っていると、そこへ賑やかな声が近づいてきた。よく通る、元気な声。どうやらマコト達が食事を終え、皆でお風呂に入ろうとここへ向かっているらしい。
「だめよ……、ソフィア、みんなが来るわ」
「えー? 聞こえなーい」
からかうように笑うソフィアはそのままロザリーをベッドに引き入れ、その首へと抱きついた。そしてとろけるような視線でロザリーを見つめては、妖艶に口を開け、なまめかしい舌を覗かせる。
「ロザリー。あなたのぜんぶ……私がもらうね」
「ソフィっ……」
そして二人は、激しい口づけをかわす。
それは今までにないほど、背徳的な交わり。
ロザリーの中で、何かがこぼれ落ちる音が聞こえた。
「えっ、ロザリー、さん……?」
彼女達には、まるでこちらが襲いかかっているかのように見えただろう。その証拠に、マコト達の驚いた顔の向こうに、確かにパメラの刺さるような悲痛な視線を見た。ただ、それだけに気を取られながら、ロザリーはソフィアの唇の火照りを受け入れ続ける。
「ロザリー……どうして」
ぽつりと漏れる言葉。その瞬間、ロザリーの意識は暴走した。
************
「ん……」
ロザリーが目を醒ますと、目の前には覗くように見つめる見慣れた顔があった。
「あ、気がついた?」
パメラはやさしく声を掛けながら、ロザリーから流れ出る額の汗を拭き取る。
「私は……」
混濁した意識をはっきりとさせながら、ロザリーはベッドから起き上がった。ソフィアはすでにおらず、部屋にはパメラとティセ、そしてサクラコだけであった。ガウン一枚を纏った自分を確認し、風呂上がりに起きた子細を次第に思い出す。
「ふざけんな……」
起き抜けに、ティセがロザリーの胸ぐらを掴んだ。完全に目が据わり、今にも殴りかからんとする勢いだ。
「今度ばかりは許さない。アンタには自分の意思がないの!? いっつもいっつも! あれだけ側にいて、どうしてこの子の気持ちが分かんないのよ!」
目を白黒させながら、ロザリーはパメラを見つめた。すると彼女は目が合う瞬間にぱっと顔を背け、唇を噛みしめる。今は気丈に振る舞おうと必死に何かを耐えている様子だった。全てを説明しなければと、ロザリーは口早に言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい……その、あれから外で彼女を呼び止めたんだけど、匂いが気になるって言われて……お風呂に入りながらソフィアの今までの事を聞いていたの。そして……」
「いいの!」
めずらしくパメラが怒鳴った。ティセは驚いてロザリーから手を離す。
「いいの……、大丈夫。そんな風に取り繕うロザリーは見たくない。私にしてくれたのと同じように、ソフィアにもやさしくしただけの事だよ。悪いことなんてしてない。だから、これは私の問題……」
そう言うと、パメラはロザリーの視線の先にある震える手を咄嗟に隠した。
「マコトから全部聞いたよ。ソフィアがどんな目に会ったのかまでは分からないけど、ガーディアナに掴まったっていう事は、そういう事だと思う。私のせいでそんな目に会った子に、私は……嫉妬した。だから、これは私の問題なの」
「違うでしょ、これは全部……!」
「ティセさん!」
パメラに対し言い返そうとしたティセを、サクラコが制止した。ティセは渋々怒りを収め、ソファに座りながらパメラに話の続きを促した。
「パメラ、この際だから、いいたい事全部言ってやりな。そうじゃなきゃ、アタシが我慢できない」
「ありがとう、ティセ……。えっとね、ソフィアはあれからロザリーと同じように気を失ったの。ロザリーの力のせいだよ。この際だから言うね。ロザリーにはその感情や記憶を、マレフィカと共有する能力があるの。私がロザリーに最初に惹かれたのは、偶然唇が触れ合ったから。ロザリーの中の、色んなものが私の中に入ってきた。私は一瞬であなたの事が好きになった。でも、あるときすごく怖くなって、その力を封じたの。他の人にも同じようにしちゃったら、取られちゃうような気がして……。そしてそんな私の気持ちがばれないように、それからは出来るだけ唇を重ねないようにしてた」
「パメラ……」
ロザリーは唖然としていた。しかし、今ならその感情が手に取るように分かる。
「でも、それは違うって分かった。ロザリーにとって、その力は必要だって気づいたから。そして、それでもロザリーはちゃんと私の事をみてくれてた。だから、リュカにお願いする事にしたの。ロザリーのまだ目覚めきれてないマギアを、引き出してほしいって」
そう、この子は全てを見抜く力を持つはずのロザリーの全てを見抜き、いつも見守ってくれていたのだ。それに応えるべく、ロザリーはずっと言おうか迷っていた気持ちを打ち明ける事にした。
「パメラ、私の気持ちは……あなたと同じだったのかもしれない。どこか今の関係が壊れるのが怖くて、遠慮して、でも他の子も私を好きだって言ってくれるから、そっちに逃げて……結果、あなたの気持ちをないがしろにしていた。それに、結局は女同士だから……、この気持ちは、どこかおかしいのかもしれないって……」
ロザリーの抱えている本心は、ごく普通の少女の抱く感情であった。そこまで聞いて、パメラは初めて微笑んでくれた。
「それは、分かってた。うん、分からなくなるよね。女の子同士でこういう感情を持つって。異性が怖いからとか、すごく身近な存在だからとか、まだ本当の恋愛を知らない子供だからとか、色んな事が、好きっていう気持ちを、そんな風にさせたのかもしれないって。でも、私の好きは、少なくとも、愛してるって事なの。考えて考えて、考え抜いて、生まれて初めて心からそう思えたの」
これは、今まで彼女が見せた好きとは違う。明確にロザリーへと向けられた感情に、何の対価も必要としない、純粋な想いだけが乗せられている。これが彼女の言う愛というものだという事は、今のロザリーにも理解できた。
「今こんな事言うの卑怯かもしれないけど、私達マレフィカは、マレフィカ同士で惹かれあうのかもしれない。私は、婚約者だったリュミエールの事を、どうしても好きになれなかったの。異性だし確かな地位もあって、なんでもしてくれるのに。私は彼の冷徹な部分もよく知ってるからかもしれないけど、多分これは、魔女の本能によるものなんだと思う。男の人、女の人、そしてマレフィカ。悲しいけど、私達はそういう存在なんじゃないかって」
パメラの放った言葉はロザリーにとって思いもしなかった事だったが、確かにそれで、これまでの全ての説明がつくような気がした。
「そうね……私は、昔好きだった人がいた。これは、男の人なのだけど」
「知ってる。聖誕祭で、私を救おうとしてくれた人だよね。あの時、ロザリーからたくさんの感情が流れ込んできて、その中にその人もいたから」
「ええ、あの人は私にとって、初めて意識した異性だった。直接の上司で、たくさん剣の修行にも付き合ってくれた。とても優しくて、それでいて私を思うからこそ、厳しい事もきちんと言ってくれた」
――そう、あなたはいつもその人の事を見てた……。わたしなんかの事よりも。
それは心の中のパメラにとっても大きな存在である。絶対に勝てないと思っていた、異性という絶対の存在。
「だけど私が抱いていたのは、憧れだったのかもしれないって最近思うの。だって、その、あなたへの感情とは……そもそも根底から違う。普通の人を魔女の世界に巻き込む事に対する、常にあった遠慮。せめて、まともに振る舞う事で人という存在に近づきたいという焦り。これまでの私は、そんな事ばかり考えていた。それがあなたと出会って、同じ目線で、全てを共有した時、そんな後ろめたさがなくなって、私は心から安らぐことができたの……」
それは、マレフィカ全てが直面する現実。世界には、差別や迫害が当たり前のように存在し、人と魔女、互いの住む世界の違いを嫌でも感じさせた。
「わかるよ。みんな言い出さないけど、泣き出してしまうくらい、辛い事だよね」
軽々しく踏み入れてはいけない領域であると自覚しつつ、たどたどしくパメラは言葉を紡いだ。
「でも、自分の体と強く結ばれた、本能っていう鎖に、みんな、強く縛られてる気がするの。それぞれの持つ魂にまで、性別なんて垣根はないはずなのに、誰もがこうでなくちゃいけないって」
ロザリーはティセやサクラコの方を見る。彼女達も、その事を考えない事はなかったはずである。その言葉を受け、ずっと、思い詰めたように目を伏せていた。それは、もちろん心の中のパメラも同じであった。
――わたしも、ずっと届かないと思ってた。この気持ちは、嘘じゃない。でも、絶対に届かないんだって……。この気持ちは、ただロザリーを苦しめるだけだって……。
(ううん、私達は、ロザリーを苦しめていたんじゃない。ロザリーも、ただ分からなかっただけなの。その気持ちは、絶対に悪い事じゃない)
――ありがとう……。あなたも、わたしのために我慢しなくていいんだよ。だから、わたしの分まで、幸せになっていいの。
(だめ。言ったでしょ、私達は一緒。どんな時でも、ね)
――聖女、様……。
パメラは自分の唇を指で押さえた。そして伝えなければならない事を言い出す勇気を、その唇と、もう一人のパメラから受け取る。
「だけどね、ロザリー。私とあなたの間には、世界なんて関係ない。……ロザリー、私は、あなたを愛してる。それだけは、誰にも負けるつもりはありません」
「パメラ……」
初めてその口から聞く、本当の気持ち。ロザリーはただ、嬉しかった。色々な関係性の中それを言ってくれた事も、純粋に、自分が一番に求められている事も。だがその告白は、同時にソフィアに対する宣戦布告でもある。パメラは焦りから、ロザリーの答えを遮るように続けた。
「でも、だからこそ分かるの。ソフィアの、ロザリーのお父さんに対する気持ちも、きっと憧れや依存に似たもの……そしてあなたはその人の娘で、すごく優しかった。きっかけはそうかもしれない。でも、このままだと、あの子はロザリーの事を本当に……」
皆まで言わずとも、パメラの言おうとしている事はロザリーにも伝わった。
確かに最初に出会ったのがソフィアであれば、この気持ちは揺らいでいたかもしれない。しかし目の前にいるのは、全てを失った自分に生きる意味をくれたかけがえのない存在。そして共に寄り添い、これからを歩む女性。絶対にそれは不変のものであると確信できる。
「そう……。そうかもしれない。でも大丈夫。私は、いつだってあなただけを見ているから」
「ほんとうに……?」
もう、傷つきたくない。そんな弱々しい目で、パメラはロザリーを見つめた。
ロザリーは、これほどまでにこの子を追い詰めていたのだと知る。そして、誓う。この気持ちに偽りはないのだと。
それは、他の誰にも見せたことのない、まるで聖母のような顔であった。
「大丈夫よ。愛してる。私は、誰よりもあなたを愛してると誓うわ、パメラ」
「うん……、うん……! 私もっ……!」
ロザリーは泣きじゃくるパメラを抱きしめた。壊れないように、もう、壊さないように、何よりもやさしく、ぎゅっと。
――ああ……わたしが、ずっと、聞きたかった言葉……。
パメラの中で、かつてのパメラも重なるようにロザリーに抱かれていた。
聖女の気持ちに気づいてからはあまり表へと出てこなくなっていた彼女も、今だけは同じように万感の幸せを感じていた。
――よかったね……、聖女様。あなたはもう、空っぽじゃないよ。あなたにはもう、ロザリーがいる。
しかし、これ以上、聖女の中に存在し続ける事はできない。あくまでこれは、彼女達の恋。世界から抹消されたパメラ゠リリウムという存在が明るみに出る事は、きっと二人を苦しめる結果になるだろう。目覚めてしまったロザリーの共感の力に認識されてしまう前に、いなくなるのが二人のためでもあるのだ。
――楽しかった……。こうして聖女様といられて、そして、大好きな人といられて……。
彼女にとって一度は終わったはずの生だが、聖女に力を託し、もう一度ロザリーの力になれた事が何よりの救いであった。そして、彼女は満足そうに聖女の心の奥底で深い眠りにつく。二度と目覚めない事が、二人の幸せであるのだと信じて。
――ロザリー、ばいばい……。わたしの事、覚えててくれて、嬉しかったよ……。
パメラにも気づかれる事なく、彼女の魂は眠りについた。幸せの中にいる、二人だけをそこに残して。
「あのさ……」
告白の余韻も引いた頃、ティセはロザリーに対しどこか申し訳なさそうに話しかけた。
「あの子……ソフィアなんだけどさ、目が覚めてからずっと泣いてたよ。多分あの時、ロザリーの気持ちとか、色々と流れ込んできたんだろうね。だからさ、アタシは色んなもの振り回してるアンタがムカついたの……。そんだけ」
「ティセ……」
そう告げるとティセは一人、自分の寝室へと向かった。その力無い足取りから、思わずその場を立つサクラコ。
「ティセさん……。あの、私、行ってきます。お二人はどうか心配なさらず」
「サクラコ。ごめんね、色々と」
「いいえ、私にできる事は、このくらいですから」
部屋を出る前に、サクラコは最後に一つだけロザリーへと告げた。
「マコトさん達は私が無事送り届けました。別れ際、ロザリーさんにお礼をと何度も謝ってくれて……。私は、彼女達とも仲良くやっていけるはずだと思っています。そうですよね?」
「ええ……大丈夫。私もそのつもりよ」
「安心しました。では、おやすみなさい」
その答えを聞き届け、サクラコは静かにその場を離れた。今は余計な事は抜きにして、二人だけにしておきたい。ようやく結ばれた愛を、大切にしてほしいからと。
けれど、その影で何かを失ってしまった人もいる。サクラコは足早にティセの後を追いかけた。
「ティセさん、入ります」
「……入らないで!」
ティセの部屋には鍵がかかっていた。それは心の鍵。惨めな姿なんて誰にも見られたくないという、心の壁。
「この程度の鍵、私には簡単に開けられます。素直に言って下さい。本当に入らないでほしいと思うなら、私はこの場を去ります」
答えは返ってこなかった。サクラコは唇を噛みしめ、その場を離れようとする。
「……待って」
一歩踏み出した時、内側から鍵が開いた。そして、立ち止まったサクラコはその手を掴まれる。振り返ると、涙で目の周りの化粧を落としたティセが微笑んでいた。
「見てよ、こんな情けないアタシ。たぶんもう、二度と見られないと思うよ」
「そんな事は……」
「そうね、アンタには結構見せてるか……」
「とりあえず中へ。ロザリーさんには来ないように言いましたが、もしかしたらがありますから」
サクラコはティセを連れ部屋の中へと入った。薄暗いティセの部屋は雑然としていたが、灯りはつけないでおく。二人はシーツの乱れたベッドへと腰掛けると、ゆっくりと語り出した。
「ふう……なんでかな。やたら効いたわ。アタシ、どうしちゃったんだろ」
「それは、ティセさんが一番分かっているはずです。だから、いいんですよ、強がらなくても。それだけ、本気だったって事なんですから」
「アタシのどこが強がってるって? アタシの、どこが……」
いつもなら食ってかかる彼女だが、今はその勢いもない。ここまで弱々しい彼女は見たことがなかった。サクラコはその分、自分が強くあらねばと痛感した。
「大丈夫。今度は私が受け止めます。あの時、あなたは私の事を見捨てたりしなかった。だから、今度は私の番です。ロザリーさんの事、本当は好きだったんですよね?」
「そんなこと……でも、素直に良かったねって、言えなかった。パメラのこと、ずっと応援してたはずなのに……。それが、自分でも許せなくて、う……ひぐっ……」
「ティセさん……」
失った途端、好きが溢れてくる。サクラコは気が済むまで泣き明かす彼女のそばに寄り添った。
「ううっ、うああ……!」
灼熱の恋を全て流す、浄化の雨。サクラコにはただ小舟に揺られるよう、その雨が通り過ぎるのを待つ事しかできない。けれど、止まない雨はないのだ。全てが流れきった心を癒やせるのは、新しい恋だけ。彼女は傷ついたティセの、そんな小さな灯りであろうとした。
やがて泣き疲れたティセは、大の字になって寝転び、自嘲するように笑った。
「あーあ……あのままが良かったなあ。なんとなくでいられた、あのままが」
「そうですね……。でも、永遠なんて、ないんだと思います。今回のこの結果も、二人の時を強引に進めてくれたソフィアさんのおかげかもしれません。そういう意味では、私は彼女に感謝しているんです」
「ふん……あの子もアタシと同じで、今頃泣いてるだろうけどね。やっぱり、大人になんてなるもんじゃないな。だって、傷つくだけじゃん」
サクラコはどうにかこの人を救えないかと考える。そう、誰も、傷つきたくなんてない。それなのに、時は勝手に進んでいく。誰かが何かを手に入れるという事は、誰かが失という事。誰よりも平和を願う彼女には、そのどちらからも得意の逃げ足で逃げ出す方法しか思いつかなかった。
「だったら、私達だけは、なんとなく、ではいけませんか?」
「は? 何、言ってんの……?」
恋愛をするのは決められた性別でだとか、マレフィカ同士でだとかといった難しい話はこの際置いておいて、好きだから近くにいる。今はそれでいいんじゃないかとサクラコは提案した。これならば、何も傷つく事なんてないのだから。
「私は、いいですよ。いつまでも、このままでいます。ティセさんが望むなら、いつまでも、いつまでも、こうして近くにいます。ロザリーさんも、パメラさんも好き。だからそばにいる。それじゃ、いけませんか?」
「サクラコ……」
やっぱり、この子は少し変だ。好きだからこそ奪い取る、なんて発想が微塵もないのが彼女の良い所でもあれば、物足りない所でもある。しかしそれも、自分を想っての決断なのだろう。ティセはその熱っぽいおでこをツンとつついた。
「バーカ……。いちいち言わなくても、アンタはアタシの……大事な……子分、なんだから」
「はいっ。それでもいいんです。こうしてお側にいられたら、それだけで」
二人の時は、そこで止まった。そう、容赦なく進む時計の針を、二人で止めておく。その間だけは、何も変わらない二人のまま。そうしてようやく訪れる安心感と共に、大きくあくびをするティセ。
「ふあ……悔しいからアタシ達も一緒に寝よっか。ほら、早く抱き枕になんなさい」
「えっ! なんだか、いつもと違って緊張しますね……」
「意識しすぎ。そもそもマレフィカって、近くにいるだけでおかしな気持ちになるからいけないのよ……。こんなの、絶対……」
「ティセさん?」
「くー、くー……」
「寝ちゃったんですか? もう、勝手なんですから」
いつもなら硬直し抱きしめられたままのサクラコだったが、今日だけはその身体をティセの方へと向け、その胸へと顔を寄せた。
「……ふふ、お休みなさい。今日は私も、夢の中にお邪魔しますね」
そして激しく滾るような彼女の鼓動を子守歌に、同じ夢の世界へと旅立つのだった。
静寂が世界を包む。
そんな心音だけの世界で、ロザリーとパメラはこれまでの事を語り合っていた。
「パメラ……今まで、本当にごめんなさい。全部一人で抱え込んで、苦しかったでしょう」
「ううん、そんな事ない……って言っても、全部分かっちゃうね。そういう所、やっぱりずるいな」
「これはこれで、結構辛いのよ? 肝心な所までは見えないし。だけど、もうあなたにそんな思いはさせない。楽しい事も、辛い事も、これからは二人で共有しましょう」
「うん。でも、二人だけではどうにもならない事も、たくさんあるよ。ロザリーはこれからも、ティセやサクラコちゃん、マコト達の事も、気に掛けていてほしいな」
「そうね……あなたがそれで良いのなら……」
告白を経て、二人はより強く結びつきながらも、これまでと変わらずにいる事を約束をした。ロザリーは、どこか一人辛そうにしていたティセを想う。それは、今回の騒動を招いたあの子へも同じである。
「ねえ、ソフィアが、ビアドおじいちゃんのお孫さんだったって話、聞いた?」
「ええ、驚いたわ……。彼の死に私達が関わっている事、もしかすると私の力で、あの子にも伝わったかもしれない」
「うん……。その事にも、これから向き合わなきゃいけないね。ビアドおじいちゃんは、私を孫だって言ってくれた。だったら、あの子は私の妹でもあるんだから……」
どれだけ嫌われていても、自分からは嫌わない。それだけで、どんなに切れそうな糸も繋がったままでいられる。パメラはロザリーを見つめ、その決意を告げた。
「私ね、決めたんだ。私はソフィアの事、諦めないよ」
「ええ、きっと、解り合えるはずよ。……いや、そうしなければいけない。それがあの子にとって苦しい選択だったとしても」
「ありがとう……ロザリー」
「いいのよ……パメラ」
二人は、いつ以来かの口づけを交わす。それは意外にも、ロザリーからによるものであった。
「ん……うれしい……」
「ふふ」
ただ、隣にいるだけでこんなにも心が安らぐのはなぜだろうとロザリーは考える。共感の力を使えば全てが解ってしまうのだろう。しかし、この純粋な感情にそんなものは必要ないはずだ。いつかマコトがソフィアに言ったという、分からないからこそ相手を考える事ができるとの言葉には、大きな意味があるように思えた。
(この力……いたずらに使うものではないのかもしれない。きっといつか、必要になる時が来る、その時まで)
嫉妬も欲望も、今は全て愛のせいにして、二人はこのぬくもりの中眠ることにした。この命ある限り続く、二人だけの永遠を夢見て――。
************
暗く、灯りすらもまばらな、ただひたすらに昏い街の外れ。
どうしようもなく悲しくて、少女はただ泣いていた。
そんな涙もとうに涸れてしまった頃、すっかり夜は寝静まっていた。近くからはマコト達の寝息が聞こえる。精神的な疲弊からどうしても眠れずにいるソフィアは、彼女達が心配してずっと声を掛けてくれていた事を思い出す。
「ごめんね、マコト、アンジェ……」
自分にとって大切なものは何なのか考えた時、それははっきりと答えが出せる。それは自分以外にはない。愛情も友情も嫉妬も憎悪も全部自分の存在を守るための打算的な感情。けれど、それを越えたものがある事はマコト達から教えて貰った。そして、真実の愛という感情をくれたロザリーにも、自分以上に大切な何かを感じていた。
それなのに、ロザリーの抱く感情の一番大事な所に、自分はいなかった。それならば、色々と割り切れるはずだった。
「……っく」
涸れたはずの涙がまた襲いかかる。ただ、あの子に当てつけたかっただけのはずなのに、なんでこんなに苦しいのだろう。
「おじいちゃん……」
彼女から流れてきた記憶。その中に、ビアドの死に関連するものもあった。まさに彼女達が、祖父を死に導いた原因といってもいい。けれどその記憶の中の祖父の顔は、かつて自分に見せてくれたものと同じ、満面の笑顔だった。
そしてフラッシュバックするかのように、ロザリーに向けられた聖女の笑顔が甦る。本当の聖女。空っぽの聖女。けれど、ロザリーのために戦う聖女。胸が苦しくなるほど、憎く、強大で、でも、かわいそうな存在。
「私はどうしたらいいの……? 私から憎しみさえも奪うの? ずるいよ……」
ソフィアはマコト達を起こさないように起き上がり、冷たい空気を吸うために宿の外へ出た。
この辺りはようやく整備が整い始めた区域であり、街灯がぽつぽつと点在しているのみだ。だが今はそれすらも煩わしく、その足は自然と闇の深い街の外れへと向かっていた。
「そうだ……全部元に戻しちゃえばいいんだ……。この苦しみも、あの子の幸せも。私は、本当の魔女。そしてあの子は、本当の聖女……」
灯りから逃げるように辿り着いた先には、漆黒の闇が広がっていた。それはまるで、ソフィアの心を映し出す鏡のようであった。
「はあっ、はあっ」
ソフィアは街外れの森の中をさまよい、今では誰も寄りつかない廃墟の屋敷へと訪れる。それはいつか聞いた、死神が住んでいたという館。すると、待ち構えていたとばかりに二つの影が彼女を出迎える。
「……いるの?」
「ようこそ、ソフィア」
「あなた達に、お願いがあるの」
「ようやくこちら側へ来る覚悟ができたという事だな」
「うん……」
「いいだろう。望みを言え」
ソフィアは歪んだ笑みを浮かべた。幾重にも張り付いた聖女の仮面は取り払われ、その奥に潜めた魔女の素顔がついに露わとなる。
「あの子を……光の聖女を、地獄へと送り返して」
愛憎がすれ違い、少女は醜き魔女へと変貌した。そして闇が光へとうつろう頃、いつものように仮面をつけ、日常へと回帰する。純粋で邪悪な、偽りの聖女となって。
―次回予告―
愛の前に、全ては反転する。
表と裏。聖女と魔女。理解と拒絶。
求め合うほど遠ざかる、魔女達のジレンマ。
第68話「共闘クエスト」