第65話 『聖女戴冠式(後編)』
全てが虚仮で彩られた、邪悪な思惑が交差する式典の最中、それは起こった。本来聖女として人々を守るべき力が、その制御を外れ神徒へと降り注いだのだ。
神聖なはずの第二の聖女はついに自らの本性をさらけ出し、偽りの魔女として処刑される運命を迎える。
「いやあっ! 誰か、助けてぇっ!!」
かねてから危惧していた通りの展開となり、マコトは自らの力を信じて身を乗り出した。
「ブラッドさん! 行くね!」
それだけを叫び、彼女は兵士達と民衆の乱闘騒ぎを見事な体捌きでくぐり抜けていく。
「始まったか……!」
慌ててそれを追うブラッド。
我が娘、ロザリーがこの地でどのような行動を取ったのかは定かではないが、おそらく今のマコトと同じように、考えるより先に駆けだしていたのかもしれない。自身にも覚えがあるが、若いとはそういうことだ。
「ふっ……親子揃って聖女誘拐犯かよ、笑えねえな」
言葉とは裏腹に、彼は声を出して笑っていた。娘にできて自分に出来ないとあれば、生き延びたとして会わせる顔もない。
「まずは景気づけに一発だ、ブラッディボンバーッ!」
ブラッドはソフィアへと群がろうとしていたガーディアナ兵の一団に向かい突撃していく。彼が繰り出そうとしているのは、先手必勝の例の大技である。
まず、大剣の柄を握る手が全身の闘気を刀身へと伝えると、闘気は熱に変換され、その刀身と周囲に留まる。熱された刀身は徐々に圧力を高め、限界まで溜め込んだ闘気を解放し一気に振り抜いた時、大剣は大爆発を起こしあらゆるものを両断するのだ。
ブラッドはその一振りにて周囲の兵を全て吹き飛ばし、ソフィアへと続く道を断った。
「やはり、加減が難しいな……まあ、これくらいでくたばりはしねえだろ。助かりたければ、教皇の加護とやらに祈るんだな」
これが、血まみれの爆撃手と呼ばれ、かつて大いに魔軍を苦しめたブラッドの奥義である。
「ブラッドさん……大丈夫、私もやれる!」
マコトは背後で起きた爆発に後押しされるように、ソフィアの下へと辿り着いた。しかし彼女の恐怖が深い闇を呼び、その姿を捉えることすらできない。
「聖女さん、どこにいるの!? あなたを助けたいの! 返事をして!」
「うう、あなたは……?」
怯えた声が近くから聞こえた。闇の中、その声に向かってマコトは優しく呼びかける。
「私はマコト。えっと、救世主って言っても分からないか……。とにかくあなたの味方だよ、姿を見せて!」
「無理、無理なの……今ここから出たら殺されちゃう……」
幸い、ブラッドが食い止めているため今は兵士達も近づいはてこない。しかしこのままでは彼女も助けることもできない。マコトはしびれを切らし闇へと深く入り込むと、突然こちらに向けて殺気が放たれ、それは鋭い痛みとなって頬を走った。
「くっ、誰!?」
「何者かは知らんが、それは我らの獲物だ。渡すわけにはいかんな」
幼く、少ししゃがれたような少女の声が聞こえる。おそらく彼女がこちらに向け刃物を投げつけたのだろう。
「そう、あなたに勝ち目はないわ。この闇の中でも私達はあなたを捉えている。だって、私達は常に闇の中で生きてきたのだから」
次に聞こえたのは落ち着いた女性の声。マコトの前に、同じくソフィアを連れ出そうと企む暗殺者、フェルデナンド姉妹が立ちはだかる。その殺気から、敵対するつもりである事は明確にマコトにも伝わった。
「でもその子、怖がってるじゃない! たった一人をこんなになるまで追い詰めて、あなた達は……」
「問答無用!」
闇を切り裂き、刃の切っ先がマコトの胸に触れた。慌てて旋回し回避するも、その速度はこちらの動きすらも越え、左腕を切り裂かれてしまう。
「うっ!」
「何……? 手応えが甘いだと……」
「……うん、利き腕は守った。それに、今のであなたの癖、何となく理解できたよ」
「貴様、ほざくか……」
その息づかいや足音から察するに刃物と相手との距離は近く、彼女が使うのは爪のような武器であろうとマコトは分析した。しかも相手は冷徹に自分の急所を狙うかなりの使い手。この女神様にもらった胸当てがなければ危なかっただろう。
「お姉様、今手助けを!」
「お前は手を出すな! これはメリル様の獲物だ!」
「は、はい……」
メリルは苛立ちを隠せずにいる。どうやら咄嗟の挑発が効いたようだ。
(よし……とりあえず五分には持ち込めた)
この暗闇で二人も相手にするのはさすがに自信がない。それどころか、実戦にて武器を持つ者と対峙するのも初めての事だった。マコトの心臓は悲鳴を上げるように鼓動を打つ。
「ふぅ……」
マコトはゆっくりと息を整えた。焦りは心を鈍らせ、負けを呼び込むものだと父から教わった。勝利はより冷静な方に訪れる。目を閉じ無心となり、恐怖を克服する。そう、己に負けるは全てに負けるに等しい。
「しゃっ!」
再び相手が動いた。殺気が線になり、マコトの横方向から襲いかかる。それは、駆け出すと同時に最高速に乗った。当然だが、初めの速度は全力ではなかったのだ。
(疾いっ……!?)
縮地を使ってもかわせないほどの速度に、再び恐怖心が沸き起こる。その脚はすくみ、回避行動に一拍の遅れを招いた。今度は胸当てを避けるためか、殺意の軌道は先程よりも低い。このままでは敵の刃先は自分の腹を抉り、内臓にまで届くはず。
(だめ……っ)
未熟なマコトは痛感する。おそらく、一瞬の躊躇が明暗を分けるだろう。この遅れを取り戻すには、思考をも越える速度が必要だった。
(こんな時、お父さんだったらっ)
走馬燈のように浮かぶ父の姿。つい安堵してしまいそうなその優しげな声は、マコトへと何かを伝えようとしているかに見える。そうだ、いつか教えてもらった、あの言葉だ。
(そう、みんなを、笑顔に!)
ただそれだけを思い浮かべ、マコトは無心となった。その瞬間、全身を巡る救世の気によって、マコトの身体能力は極限までの高みへと到達する。
「ふっ……!」
咄嗟に放ったのは、父の使う天の型、一の奥義・魔破拳。
マコトはまず腰を落とし、メリルの放つ刃を胸当てにて受け、表面を滑らせた。そして音速の拳を殺意の向こうにある本体へと叩き込む。それは攻撃に集中し無防備となった、柔らかなメリルのみぞおちを見事捕らえた。リーチの差によってマコトの攻撃だけがまともに入る形となったのだ。
「ぐぶうっ!」
思わぬ衝撃を受け、メリルの動きが止まる。さらにマコトは間髪入れず肘鉄を頭上に振り下ろし、続けざまに丸まった腹部へと膝を入れた。
息もつかせぬ連撃を受け、どさ、とその場に倒れ込むメリル。
「はあ……はあ、できた、お父さんの技……。この子が殺気剥き出しじゃなかったら、きっと危なかった……」
「お姉様をよくもっ!」
風を斬る音と共に、パァン! と破裂音が鳴った。だがそこに殺気はなく、近くの地面へとそれは打ち付けられようだ。瞬時に鞭の動きであると判断したマコトは、もう一人の相手への懐へと一瞬で潜り込み、その首を抱え込むと一気に体重を落とし込んだ。重心の高いシェリルは、半回転して思い切り尻を強打する。
「いったぁい!」
「武道を舐めないでね。あなたは匂いが凄いからどこにいても分かる。それに、体術がまるでなってない。受け身も取れない子に本気は出さないよ」
「んーっ! ひどいぃ」
マコトはあえてシェリルにとどめを刺す事をせず、手を差し伸べた。殺意を感じない彼女ならば、話が通じると思ったのだ。
「あなた達、もしかして聖女さんを助けたいの?」
「くっ、そうよ。それが私達フェルデナンド姉妹の使命だから」
「だったら、邪魔しないで。あの子は私が、きっと助けてみせる」
「うっ、なに……この、黄金に輝く力は……」
どうやら超常的な概念に対し鋭敏な彼女には、救世主の力がそのように見えるらしい。
確かに今ならば、はっきりとソフィアの位置を感じる事ができる。マコトはそのままそちらへと歩み寄ると、ぼやけた感触ではあるが、確かに彼女に触れることができた。
「もう大丈夫だよ。立てる?」
「あなた、私を……助けてくれるの? 怖い事、しない?」
「うん、当たり前だよ。後はあなたが信用してくれるだけ」
「そっか……」
よろよろとマコトにしがみつき、ソフィアは立ち上がった。そして、もしかしたら助かるかもしれないと安堵した途端、次第に辺りを覆っていた闇が晴れていく。
「逃げよう、今はブラッドさんが戦ってくれてるから、その間に」
「うん、うん!」
シェリルはその隙に気絶したメリルに駆け寄ると、すかさず術をかけ正気へと戻した。そしてその場から離れようとするマコト達に向け、思わず弱々しく本音を曝け出す。
「ねえ、ソフィアの事、どうする気なの……? その子はマレフィカ、普通には生きていけない子なの。だから、私達みたいに暗殺者になってでも生き延びる道を選ぶ方が幸せなの。何も知らないあなたに、その子が救えるって言うの?」
闇が完全に払われると共に、マコトは二人に対し振り返り答えてみせた。
「まかせて! 私は救世主だもん、マレフィカだろうと何だろうと、絶対にこの子を笑顔にしてみせるよ!」
「う……また、光が強く……」
自分達を照らし出す陽の光以上に、その心には光が溢れていた。闇そのものである二人の心は全てが飲み込まれそうなほどに眩しく照らされ、そこに希望という初々しい感情が沸き上がる。だが、姉のメリルだけはその浮ついた感情を必死に否定した。
「何を甘い事を……。我々は恐ろしい魔女なのだぞ! おまえになど何が分かるというのだ……いたずらに我々に同情するな!」
「私もマレフィカだよ。でも魔女じゃない。きっとね、そう自分でも思ってしまったら魔女なんだよ。私は救世主、須藤真琴。これから先も、ずっと」
マコトは死闘を演じたはずの二人へと微笑みかける。そして、その闇から引き上げるように手を伸ばした。いつまでもそんな所にいないで、こっちにおいでよと。
「き、貴様……」
「お姉様、この子は、もしかすると……」
二人は思わずその光を求め、這い上がろうとする。しかし、何者かの射貫くような視線に捕らえられ、その場で凍り付いた。
「そこまでだ。偽りの聖女をこちらに渡して貰おう」
闇が晴れた先には、剣を両手に携えたバルホークの姿があった。その後ろでは数百の兵士が次々にブラッドへと襲いかかる光景が広がる。彼は次から次へとそれを血の海に沈めるも、まるで兵士達は命を投げ捨てるかのように起き上がっては、再び為す術もなく倒れていく。
「やはりあの男の企みだったか。本当に散々だ……、教皇様の落胆した顔など……見たくはなかった」
ゆらりとバルホークの影が動く。すると、まずメリルとシェリルに異変が起きた。
「ソ、フィ、ア……」
「はやく、逃げろ……」
それだけを言い残し、二人は全身から血を吹き出して倒れ込む。
「あなた達……!」
マコトには、かろうじて二つの無数の剣閃が二人の体を通り過ぎるのが見えたに過ぎない。しかしその一瞬だけで、自分との格の違いを理解するには十分であった。
「この娘もまた、邪教の間者であったか。命までは奪わん、私の邪魔をした首謀者を見つけ出すまではな」
バルホークは血塗れた剣を綺麗に拭き取ると、次にマコトへとその剣を向けた。
「……しかし、解せんのは貴様だ、異国の女。天使を連れ大聖堂へと迷い込み、逃げたかと思えば今こうしてここへ舞い戻った。貴様、一体何者だ」
「私は……私は、救世主、須藤マコト」
「救世主……だと? 笑わせるな。子どもの分際でこのような舞台に上がり、一人で何が出来るというのだ。ごっこ遊びも大概にしろ!」
「遊びじゃない……! それに、私は決して一人なんかじゃない!」
マコトは大聖堂を見上げた。そして大きく息を吸い、大声で叫んだ。いつまでも共にある事を誓った、もう一人の少女の名前を。
「アンジェええええ!!」
大聖堂の時計台まで響く、自分を呼ぶ絶叫。そこに隠れ、それまで怯えながら地上の様子を見ていたアンジェだったが、その時になってとんでもない過ちを犯した事に気付く。
「マコト……私は……」
主であるマコトは、最後の最後には自分を頼ってくれた。こんな状況になるまで隠れていた事などまるで気にせずに。そう、決して忘れられた訳ではないのだと、アンジェの中に不思議な感情が沸き上がる。
「これが、エンゲージ……私と、マコトの、絆……」
アンジェは震える手をそっと握り、その先で自分とは比べものにならない程の恐怖と戦う少女を見据えた。
「くっ、耳が……」
突然の大音量を近くで浴びたバルホークは耳をふさぎ、不快感に眉をしかめる。
「虚仮威しか……しかし、なんと姦しい。女というものはこれだから耐えられんのだ……」
「そう言うあなただって、ずいぶんとおしゃべりみたいだけど」
「くっ……」
おそらくこれでアンジェには伝わったはず。マコトはその隙に、同じように耳をふさぐソフィアの手をどかし、そっと耳打ちした。
「聖女さん、ここにアンジェっていうおっきな天使が来るから、彼女と一緒に逃げて。私がそれまで時間を稼ぐから」
「うう、あなたは……逃げないの?」
「逃げないよ、私はこの力を信じてみる」
「でもあの人、メリル達だってやられるくらい強いよ。無理だよ!」
「それは、やってみなきゃ分からないよね!」
マコトはソフィアに向け、力強く微笑みかけた。そして、全身の気を滾らせバルホークへと駆け出す。
「次は私がお相手します! たあーっ!」
「来るか、ならば我が二刀を以て受けて立とう!」
マコトの拳からは、まばゆいまでの救世の光が溢れていた。正真正銘、全力全開の力がバルホークへと放たれる。
「お父さん、行くよ……ジャスティス、ハーーート!!」
閃光に全てが霞む。それは以前に放ったものより、明らかに純粋な力を秘めた一撃であった。
「うっ、天使……天使はどこ……」
ソフィアはその光を背に天使の姿を探す。すると大聖堂への階段の向こう、時計台の塔から、何かが急降下で降りてくるのが見えた。ソフィアが大きく手を振ると、それは更に勢いをつけ低空を飛行し、こちらを一直線に目指した。
「天使、来たよ! 救世主さん! 救、世主……さん?」
振り向いたソフィアが見たもの。それは、自分をどこまでも追いかける、悲劇の再演であった。
「お、とう、さん……」
救世の光が収まる。
最大の奥義を放ち、マコトは力尽きたようにバルホークの胸の中へと倒れ込む。無惨にもその体は、メリル達と同じように血にまみれていた。
「……光速剣、ダブルヘリックス。これに逃げずに向かって来たのは、貴様が初めてだ」
奥義は不発に終わった。マコト渾身のジャスティスハートがバルホークへと届く直前、すでに彼女は光速剣の餌食となっていたのだ。にも関わらず、バルホークの身につけた鎧には大きな亀裂が入っている。
「しかし何者だ、この娘は……。まさか、本物の……」
女性を腕に抱く嫌悪感と同時に何か末恐ろしさを感じたバルホークは、偽りの聖女と共に、この少女を早急に葬るべきだとの結論に達した。そして、マコトの首筋に冷たい刃が添えられたその時、吹きすさぶ突風がバルホークを襲った。
「マコトおおぉぉ!!」
「なっ!?」
絶叫と共に、弾丸のような何かが突撃してきた。片側だけ翼の生えた天使、そう認識した瞬間、それはバルホークの体ごと吹き飛ばし、奪い取ったマコトと共にゴロゴロと転がっていった。
「くっ、不覚っ……!」
バルホークは受け身を取りながら体勢を立て直したが、アンジェはマコトを守りながら不格好に何度も体を地面に打ち付ける。
「ぐえー!」
やがて勢いが止まると、体中傷だらけとなったアンジェはふらふらと起き上がった。自身を守り、衝撃でボロボロになった羽を広げると、中から傷ついたマコトが現われる。アンジェはふくよかな体で、そんなマコトを優しく抱きしめた。
「あん、じぇ……?」
「良かった……。何があってもマコトだけは……アンジェが守ります。今頃になって、気づいたんです。それだけが、私の生きる意味なんだと」
バルホークの鎧は完全に砕け、手にしていた片方の剣はどこかへと落としてしまっていた。しかしダメージはさほどではない。彼はプッ、と血の混じる唾を吐き、一刀で十分だとアンジェに対し向き直る。
「天使と黒髪……。なるほど、昨日の聖女騒ぎはやはり貴様等か。私はどこまでも爪が甘い。なんとしても見つけ出し、あの時に殺しておくべきだったのだ……」
「ひっ……」
アンジェの足はガクガクと震え、心臓は不自然に動悸を早め、下腹部は腹を下したかのようにぎゅうっと痛んだ。それなのに、どうしてこんなに力が湧いてくるのだろう。アンジェのなけなしの勇気は、マコトの存在で何倍にも膨れあがっていた。
「……私は、あなた達ガーディアナなんかどうでもいい! 聖女さんだってそうです! でも、マコトが助けたいって言うなら、助けるしかないじゃないですか! 本当は怖くてしかたありませんが、それでいいんですよね、マコト!」
「あ、ん、じぇ……良い子、いいこ」
かすかにつぶやいたマコトの声は消え入りそうな程弱っていた。しかし、バルホークは自分の急所にはひとつも剣を突いてはいない。それはメリルとシェリルも同じであった。敵ながら己の正義を信じ遂行するその精神に、マコトは絶対にこの相手には敵わないと悟る。
「だけどアンジェ、今は逃げて。あの子を連れて……。戦おうとはしないで……」
「ですが……。隙がないんです。この状況でマコトも聖女も助けるなんてとても……」
「私の事はいいから、ね……?」
「嫌です! 嫌です、嫌ですー!」
アンジェは絶対に嫌だと首をブンブンと振った。溢れ出す大粒の涙がマコトの頬へと落ちる。それだけに留まらず、鼻水までもトロリと流れ出した。身動きの取れないマコトは、それが口に進入してくるのを止められずに少しばかり味わってしまう。
「んー、しょっぱいぃ……もうぅ……」
「ずびー! ごべんだざいぃ!」
様子を見ながら二人に近づくバルホークだったが、急にその足取りを変えた。その標的を、まるで邪気を感じないマコト達から、どうしていいのか分からずその場に立ちすくむだけのソフィアへと。
「……っ!! だめ、それは駄目……!」
いち早く、その真意に気付いたマコトが叫ぶ。
「気が変わった。そもそも私の任務は偽りの聖女の粛正……。それのみが教皇様の願い」
「ひうっ……」
ソフィアは全てをかなぐり捨てて逃げ出した。
もう、誰も助けてはくれない。そうだ、あの人達は自分から飛び込んできただけ。私が頼んだ訳じゃない。勝手に来て、勝手にやられたんだ。メリル達だってそう。全部、自分達が私を利用するため、みんな、みんなそう!
そんな風に、ちっぽけな罪悪感をかき消す言葉を一杯に頭に浮かべながら。
「はあっ、はあっ……!」
まるで夢の中のように体が重かった。
一歩一歩前に出す足に何かがまとわりついているような気がして、ふと足下を見る。するとそこには、無数の少女達が自分の足を掴もうと、亡者のようにもがいている姿があった。皆、見覚えがある顔である。収容所に共に捕らえられていた少女達。その中からただ一人聖女になる事ができると聞かされ、自分が蹴落としてきたマレフィカ達であった。
「ひいぃぃ、消えて、消えてよう!!」
彼女達は恨めしそうに次々に手を伸ばし、その足を引きずる。ソフィアは半狂乱でそれらを踏みつけ逃げ惑うも、振り返るとそこにはすでにバルホークの姿があった。
「亡霊を見たか。数多の穢れを抱える貴様は、やはり聖女の器ではなかった……」
「きゃあああ!!」
バルホークの剣がソフィアの背中を裂いた。美しい銀色の髪は斜めに切り落とされ、それはほとばしる鮮血に染まった。しかし、バルホークは同時に違和感を覚える。本来はせめて苦しまぬようと、首を切り落とすつもりで放った剣であったのだ。そして大きく手元が狂った理由に、少し遅れ、気付く。
「これは……」
バルホークの横腹には、兵に支給されたはずのガーディアナの剣が突き刺さっていた。そして、それより遥かに鋭くこちらを突き刺す視線を背後から感じ取る。
「き、貴様……!」
振り向くと、兵士達と戦っていたはずの黒髪の大男が、息を切らせながら凄まじい形相でこちらを睨んでいた。その先には再起不能の兵士の山。ガーディアナの精鋭たる近衛騎士団が壊滅するという信じられない光景に、バルホークは二度言葉を失う。
「よお、待たせたな……忠犬バル公」
「お……、おのれぇぇぇ! このドブネズミがぁ……!!」
バルホークは自らに突き刺さった剣を引き抜き、再度相まみえた黒ずくめの男を睨む。男が構えるは、血に濡れ、何者かの臓物がしたたり落ち、あちこちが欠け、それでも鈍い光を湛えるロングソード。
「しかし貴様、何者だ……? なぜ、ここまでする必要がある……」
どこか引っかかっていたが、彼には先日の衝突だけに留まらぬ因縁を感じずにはいられない。バルホークは目の前の男の姿形、それと共に響き渡る爆発音に符合する記憶を辿った。そしてその中に、ローランド戦役にてよく似た風貌をした男の邪魔が入ったという部下からの報告があった事を思い出した。それが確かだとすると、通りで只者ではないはずである。
「まさか、貴様が……あの、タロスを沈めたという伝説級……」
「そんなガラクタの名前なんぞ知らんが……てめえか? あのゴミを俺の国へとよこしたのは」
「ああ……。しかし、やむを得なかった。ああでもしなければ我が軍に多大な被害が……」
「そうか。おかげさまで、俺たちは全てを失った。その落とし前、高くつくぜ」
「う、うおおっ……!」
焦燥したバルホークは、近づいてきたブラッドに対し光速剣を繰り出す。しかし、傷を負い一刀にて繰り出すそれは、かつてのキレとはほど遠いものであった。ブラッドはそれらを全て剣で弾き、その腕力を以てバルホークもろとも遠くへと吹き飛ばした。
「ぐおおおっ!」
宙を舞うバルホークは、そのまま固唾を飲んで見つめていた観衆の頭上へと落ちていった。蜘蛛の子を散らすように逃げ出す人々をよそに、ブラッドは目前に倒れるソフィアを抱き起こす。
「大丈夫か、嬢ちゃん」
「痛い、いたいよう……」
「皮一枚斬られただけだ、死にはしない」
そう言うと、ブラッドは背中の傷を酒を含ませたバンダナで優しく拭った。
「うっ、うう……うあああ!」
恐怖に耐えていたソフィアの心は限界を迎え、ぼろぼろと涙が溢れだす。そして恥じらいもなくブラッドにしがみつくと、その広い胸の中でわんわんと泣き出した。
「……怖かったな、もう大丈夫だ」
男の逞しい腕に抱かれ、ソフィアはここにきて初めて心を落ち着かせる事ができた。中年男性特有の汗の臭いすらもが心地よい。まさに全てを受け止め、それを守り通す力を持つ存在に、一瞬で心を奪われてしまったのだ。
「……ぐす。あの、あなたは……?」
「ただの通りすがりのおっさんだ。いいか、あいつらと一緒に、急いでここを逃げろ。俺が奴の相手をしている間にな」
「でも……」
「いいから行け!」
ソフィアは人混みの向こうに、二刀を携え再びこちらを見据えるバルホークを見た。その瞳はソフィアではなく、すでにブラッドに向けられている。彼の武人として決着を望む姿勢に、ブラッドも立ち上がりそれに応えた。それでも一緒に行こうと説得を試みたソフィアだが、そもそも男達の世界に自分などが入り込む余地はない。
「あ、あのっ! お願い、死なないで……!」
ソフィアは思いの丈を込め、一言だけそう伝える。
「ふっ、そうそう俺が死ぬかよ」
初めて見たブラッドの笑顔に後ろ髪を引かれ動き出せずにいると、その震える手を誰かが強く握った。
「聖女さん、行こう!」
驚いて振り向くと、そこにはボロボロの胴着を纏うマコトの姿があった。アンジェによって治癒されすでに傷は塞がっていたが、血を多く流したためかその手は冷たい。
「マコト、嬢ちゃんを頼む」
「うん……任せて!」
二人は互いに心配する様子も見せず、ただ、ソフィアの無事を約束しあった。マコトはソフィアの手を取り、振り返ることもなくアンジェの下へと走りだす。
「あの人の事なら大丈夫だよ。ああ見えて、救世主の一人なんだから」
「ブラッドさん……て言うの?」
「うん。名前通りいつも血まみれで怖いけど、いい人だよ」
「そっか……ブラッドさんか……」
ソフィアの頬が赤く染まる。同時に後ろから重い剣戟の響きが鳴り、死闘の幕開けを知らせた。その胸に、初恋と失恋を同時に味わったような感情が押し寄せる。
「マコト、準備は良いですか、飛びますよ!」
待ち構えていたアンジェは二人を抱きしめると、片翼をはためかせる。二人を連れて飛ぶのは限界に近い。それでも必死に羽ばたき、三人は徐々に宙に浮かんでいく。
「あっ、ちょっと待って!」
その時、近くに倒れていたメリルとシェリルが意識を取り戻し、ゆっくりと起き上がるのが見えた。その治癒された体を見て何が起きたのかしばらくして理解したのか、彼女達はマコトを見つめ何か言いたげにしている。
「アンジェ、あの子達も連れて行けない?」
「無理です! 重量オーバーです! 治せって言うから治しましたが、そもそも敵ですよ!」
その言葉に、メリルはやはりと言った様子で唇を噛んだ。
「くっ、やはり、よりにもよって貴様らに助けられたのか……。メリル様とした事が、一生の不覚を取った……」
「お姉様……ガーディアナの援軍が来る前に私達も引きましょう。ソフィアも無事生きています。任務は一応ですが成功しました」
ソフィアの無事を確認し、シェリルが姉のメリルを諫める。妹の言う通り、結果は重畳。苦々しくも、メリルはその矛先を収めた。
「くっ、礼は言わんぞ……この借りは必ず返す……」
二人は支え合いながら立ち上がるも、その時マコト達の後ろに不気味な影を見た。ガーディアナ兵の中でも運良く致命傷を免れた者達が、倒れた兵士達をかき分けこちらに向け押し寄せていたのだ。マコトとの約束を守ったブラッドの手加減により、それはかなりの数に上っていた。
「おのれ……行かせるものか……」
早速、亡者のような血まみれの手がアンジェの足に伸びる。
「ひええ、悪霊退散!」
「まったく、最後まで世話が焼ける!」
メリルは颯爽と飛び上がり、掴まれる間一髪と言うところで兵士の腕を斬りつけた。
「ぐああっ!」
「あ、どうも……」
「油断するな、次が来るぞ!」
「ひいーっ」
アンジェは次々に迫る手から逃れるため、必死に翼をはためかせる。すると火事場の馬鹿力か、二人を乗せたその体は徐々に浮かんでいった。
「マコト、このまま行けそうですが、どうします!?」
「だけど……あの子達が……」
「何をしている! 我々はいいから早く行けっ!」
「私達は暗殺者。どのみち、あなた達と同じ道は進めないの。救世主さん、ソフィアを……お願いね」
シェリルは微笑み、メリルと手を繋いだ。二人は互いにその手を握りしめ、迫り来る兵士達の群れに飛び込む。マコトは返す言葉も無く、その覚悟を受け取る事しか出来なかった。これがこの子達の生き方で、これがこの世界のあり方なのだと。
「行こう……アンジェ」
「あいっ!」
マコトのかけ声を受け、アンジェの体が上昇していく。
「あっ……あの、ありがとう! メリル、シェリル! あなた達がいなきゃ、私、わたしっ……!」
ソフィアは死闘の中にいる二人へと、ずっと言えなかった感謝の言葉を叫んだ。それが聞こえたのか、シェリルだけは振り返り小さく手を振ったが、メリルに叱られ再び戦いへと戻っていった。
一方、何度も何度も剣を打ち合い体中を傷だらけにしながらも、ブラッドは横目で飛び立つマコト達を伺っていた。そしてようやく肩の荷が下りたと言わんばかりに、シッシッと、早く行けというジェスチャーを伝える。
「ブラッドさん! 絶対に無事で、絶対に笑顔で戻ってきて下さい! 約束ですよ!」
「ブラッドさん……! ブラッドさぁん!!」
徐々に小さくなっていくブラッドを見つめながら、マコトとソフィアが叫ぶ。それが届いたのか、一際大きな爆発がブラッドを中心に起こった。
アンジェはその風圧を糧に上手く気流に乗り、ぐんぐんとスピードを上げながら大聖堂から脱出する事に成功した。
「ようやく行ったか……。さて、こっからは本気だぜ……バルホーク」
「臨む所だ……レジェンド、ブラッドよ」
音速の壁を越える衝撃音と、けたたましい爆裂音が大聖堂に響き渡る。人々は式典の事などとうに忘れ、巻き添えを食らうまいと一斉に逃げ出した。そこにはもう信仰を選ぶ者の姿はなく、自らを救う者は己のみでしかない、純然たる真実の世界だけが残されていた。
こうして偽りの聖女を取り巻く悪夢のような式典は、やがて救世主と呼ばれる少女の勇気と、一度は朽ちた伝説の再起によって、狂乱の内に幕を閉じたのである。
―次回予告―
見上げる空は果てしなく続く。
そして、あらゆる因果が繋いだ命の行く先も。
人の持つ温もりに触れ、少女達はまたひとつ明日へと歩き出す。
第66話「明日へ」