第64話 『聖女戴冠式(前編)』
ガーディアナ大聖堂に高くそびえる鐘が、神の降臨を思わせる音色と共に十二の時を告げた。いよいよ、あらゆる思惑に彩られた第二の聖女戴冠式の幕が開く。
なんとかそれに間に合ったマコトとブラッドは、首都の全人口が集まったのではないかというくらいの人混みをかき分け、比較的前方へと待機する事ができたのだった。
「ブラッドさんの顔が怖いからか、人が面白いように避けていくね」
「ふん、うるせえよ。だが、どうもきな臭いな……警備がザルすぎる」
「うん……やっぱり、守る気なんて初めからないのかな……」
しばらくすると民衆が何かに気付き、にわかにざわめき出す。彼らの見つめる方向には、広場と大聖堂を繋ぐ大階段を司徒バルホークが降りてくる姿があった。ガーディアナ兵達は一斉に敬礼し、場は一気に静まりかえる。そして音楽隊の奏でるファンファーレと共に、厳かに式典が開始された。
「ちっ、よりによって奴がいるのか……まあ、考えられる事ではあったが……」
「あれは、昨日私達を捕まえに来た人?」
「ああ、ガーディアナの司徒、バルホークといったか。これは簡単にはいかんぞ」
そう言うとブラッドは体勢を低くした。彼には一度姿を見られている。彼の目は遠くの獲物すらも決して見逃す事はないだろう。
「俺は顔が割れている。見つかると警戒されるだろうから、あまり無茶はできんぞ。マコト、ここからどうするつもりだ」
「うん、イチかバチかだけど、式典の中で彼女の身に危険が迫ったら、どうにか隙を見つけて私が彼女を連れ出します。ブラッドさんはその間、警戒されてる事を逆手にとって、あの人達の目を引きつけてくれたら助かります」
中々に剛胆なマコトの作戦に、やはり救世主の血は確かだとブラッドは感心を隠せない。
「ほう。それは簡単だが、聖女を無事連れ出せたとして、その先はどうする?」
「きっとアンジェが来てくれます。あの子と合流して、また空から逃げるんです。ブラッドさんはこの人混みに紛れて、私達を追いかけてきてください」
「ふむ……そう上手くいくかは分からんが、後ろは任せておけ。この俺がいる限り、そちらに敵を向かわせはしない」
そう断言してしまうブラッドに、マコトは流石の頼もしさを感じた。こんな馬鹿げた考えも、レジェンドの彼がいるからできる事である。
「そうと決まれば、あとはやるだけ。私は最前列の方で待機していますね」
「何かあれば俺も出て行く、無茶はするなよ」
「はい。でも、私は大丈夫ですけど……」
「どうした、何が言いたい」
口ごもったような、はっきりとは言いづらい様子で、マコトは言葉を続けた。
「ブラッドさんは、きっとまた、人を……」
マコトの言わんとしている意味はブラッドにも通じた。また人を殺すのか、と言いたいのだろう。
「とりあえず、お前が気にする事ではないとしか言えんな。俺は奴らを憎んでいる。根絶やしにしてもまだ足りんくらいにはな。そもそもお前の戦いと俺の戦いは別だ。くだらん事を考えてないで行け」
「そんな、くだらなくは……!」
思わず大声を上げそうになったマコトは、はっとして自らの口を塞いだ。
「お前はまだ若い。復讐がどうとか言う気分は分かるが、全ては、弱いから諦めざるを得なかった奴の戯言だ。だがもし、力があれば、どうする。力を持つ俺は、死んでいった奴らの剣となる義務がある。許しなどという、奴らの最も望むシナリオにこちらまで付き合ってやる必要はない。全てを諦めた者の待つ先にあるのは隷属。屠所の羊にでもなりたければ勝手にしろ。俺はまっぴらごめんだがな」
「う……」
マコトは何も言い返せなかった。そこに宿る憎しみはすでに生半可な正論すらも飲み込むほどの力で溢れていた。彼もそれに気づいたのか、そのギラついた目を閉じ少し冷静な声色で付け加える。
「ただ、一つだけこの俺にも掲げる信念がある。奴らのやった事は無差別な殺戮だった。俺は戦場に出る覚悟のある者しか討たん。それで生まれた新たな憎しみは、いくらでも引き受けるつもりだ」
「そう……ですか」
確かに、マコトには実際の戦争で起きた悲劇など想像のしようもない。自分には復讐する対象などない、恵まれた世界を生きてきたのだ。無責任で甘い事を言っている事も重々理解できた。マコトはただうつむき、唇を噛みしめる。
そんなマコトを見かねたブラッドは、面倒くさそうに尻を掻きながら一言だけ付け加えた。
「……まあ、リョウの娘の前だ。今回は、出来るだけ加減をしよう」
「ブラッドさん……」
照れたように放つその言葉に、マコトは安堵した。
そう、彼には彼の戦いがある。他者の領分を侵す権利など、未熟な自分にはあるはずもない。しかし、だからと言って納得もできない。ならば、自分は自分の戦いをすれば良いのだ。できる限りで、全ての憎しみを終わらせる戦いを。
「それを聞いて安心しました。では、行ってきますね」
「待て、それともう一つ言っておく。マコト、お前にも戦闘の心得は多少あるだろうが、俺は何より、お前の救世主としての運命力を信用している。リョウの見せたその力は、俺にとって全てを覆すほどのものだった。お前もきっとそれと同じ物を持つと、どこか期待している俺がいるんだ」
「運命力……」
「そうだ。たとえ一対一万の戦いであろうと、奴ならば生き延びた。俺はそれにもう一度賭けてみたい。ほら、分かったらとっとと行け!」
「は、はい!」
珍しく賛辞と共に送り出すブラッドと別れ、マコトは最前列付近へと潜り込んだ。幸い小柄なため、目立つこともないだろう。
ただ、やはりこの状況はどうしたって心細い。その不安からか、マコトは無意識に空を見上げ、アンジェの姿を探す。すると、どこか不格好な鳥らしきものが上空に浮かんでいるのを見つけた。
「アンジェ!」
マコトは嬉しくなって声を上げるも、目が合ったとたんすぐにそっぽを向かれ、彼女は大聖堂の向こうへと消えていった。その声は辺りにはどうもエンジェルと聞こえたらしく、つられて人々も空を見上げる。
「おお、見ろ! 大聖堂に降りた天使がまた現れたぞ!」
「ふむ、聖女の顕現を見守りにやって来たのだろう……そういえば、共に黒髪の少女もいたはずだが、どこかのう」
「ぎくっ!」
その場にはこの地に降り立った時に拝み倒された老人達もおり、マコトは思わず人影に隠れた。老人の感慨深そうに話す内容は事実こそ正反対だが、それでも皆納得してしまうあたりにこの国の信仰の深さがうかがい知れるというものだ。
(アンジェ……ほっといた事、やっぱり怒ってるんだ……。本当に、こんな事を私一人でできるのかな……)
ここまで来たは良いが、そうそう上手くいくだろうか。ブラッドという心強い味方がいるとはいえ、あの兵士の数、そしてブラッドですら強敵と認める司徒バルホークを前に、武道をたしなむ程度の自分がかかっていける訳もない。押し寄せるネガティブな感情は、マコトの力をだんだんと奪っていく。
(……ううん。信じるんだ、お父さんの力を)
このままではいけないと、マコトはあらゆる元気の出る言葉を思い浮かべた。父や友、これまで出会った全ての人々がマコトに残した言葉を。すると今の自分を形作ったその宝石のような輝きが、マコトの中に強く宿り始める。
(うん……大丈夫。これならやれる)
深く息を整え見据えたその先を、聖歌隊の歌声と共に美しい銀髪を湛えた少女がやってくる。流れるのは、彼女のために一部が差し替えられた聖歌である。
――主よ、あなたにこの身を委ねます
主よ、全能の神よ、ここに神聖を見せ、天と地と子羊とを護りたまえ
御身の神子たる、イリス・ガーディアナの名のもとに――
前聖女には及ばないまでも、彼女は十分に美しい歌声でその一部分を歌唱する。少し緊張している様子ではあるが、その品格と知性を感じさせる振る舞いに、彼女こそが第二の聖女である事は誰が見ても明白であった。その証拠に、ほとんどの人間は抗議にやってきたのであろうが、その一瞬で虚を突かれたように黙り、しばらくして再び時が動き出したかのようなどよめきが起り始める。
「静粛に願いたい! これより第二の聖女、イリス・ガーディアナ様が国民に向け聖女として啓示されし神の御言葉を紡がれる。その一字一句を心して刻みつけるのだ!」
そう一喝したバルホークによって手を引かれ、第二の聖女が祭壇上へと登壇する。しかし、その顔はどこか憔悴している様子であった。式典で何を話せば良いかなど事前には聞かされてはおらず、彼女は神の言葉などもちろん知りはしない。後ろに控えるメリルも苦い顔でそれをただ見守っていた。このようにあらゆる試練を与え、ボロを出した所で異端審問にかける段取りなのであろう。
しかし、メリルには勝算があった。今のソフィアはただの操り人形。こちらの意のままにその言葉を操れるのだ。
(ここまではいい。正しく威を示し、民衆を味方につける事ができれば処刑などと言えなくなるはずだ。シェリルが上手く手ほどきをしていれば乗り切れるはずだが……)
第二の聖女の震える唇に、数万の目が注がれる。そして、偽りの言葉がゆっくりと紡がれ始めた。
「私、イリス・ガーディアナは……神の啓示を受け、新たなるガーディアナの聖女としての使命を果たすべく、ここに立ちました。私は……光の聖女、セント・ガーディアナの妹であり、今も皆様を天から見守っておられる姉の代わりとして、現世を光溢れる楽園、そして七色の豊かな恵みある世界へと変え、全ての人々を悠久なる安らぎへと導く事をお約束します……」
たどたどしくも、ソフィアは慎重に語り出す。シェリルが洗脳するように叩き込んだ言葉は中身のない形式的なものではあるが、啓示とはたいていこういうものであると、妙に納得させられるものでもあった。
「迷い子よ。求めなさい、わたくしは神の御力を以て、汝らを一人として見離す事なく救いましょう……」
ソフィアは両手を広げては自らを発光させ、より神々しく見えるよう演出する。さらに彼女はどこからか雨を降らせ、風を自在に操り、皆の頭上へと虹を架けてみせた。人々はただ、神の起こす奇跡に息を飲んでいる。
「そして、救いは力……。私の持つ力は、時に相対する者へと無慈悲に牙を剥きます。神をも恐れぬ悪魔達でさえ、この力を前にしてひれ伏すでしょう……」
次は、力を示す場面である。ソフィアが両手を降ろすと、闇が虹をかき消して空を覆い、大地はわずかに揺れ、祭壇の両隣からは火柱が上がり、さらに轟音と共に雷が周囲に降り注いだ。
しかしその一つだけ手元が狂い、雷はガーディアナ兵達の下へと直撃し想定外の負傷者を作った。兵士達は騒然としたが、民衆は次第にその力に飲み込まれるように心酔していった。
「ふぅー、ふーっ……」
緊張と失敗により、次第にソフィアの心の鏡にひびが入る。本来のソフィアの精神力ならば、大観衆の前でこのような真似など到底できない事である。ソフィアは内なる感情を爆発させ、今も聖女の殻を破ろうと、一人もがいていた。
「……神は見ています、誰であろうと、決して逃れる事はできません。罪を背負いし者には、罰を。……でも、今のは、違うの……私は、何も悪いことしてない」
誰もが耳を疑った。民衆はさすがに聞き間違いではないかと周囲に目配せするも、皆同様に困惑している様子であった。
「私は悪くないの! ねえっ! 聞いて! これは違うのぉっ、お仕置きはいやあっ!」
絶叫が響き渡る。美しく清らかであるはずの聖女は、ついにその本性を現し、醜く喚き散らしていた。
(まずい……!)
シェリルの術が完全に解けた事を理解し、メリルはスカートの中に隠し持った暗器に手を掛ける。
「おぼぉぉっ!」
あらゆる感情が一気に込み上げ、ソフィアの口から胃液と共にわずかな消化物が飛び散った。そして涙と嘔吐物でぐしゃぐしゃになった顔で、すがるように民衆に叫ぶ。
「だれか、誰か助けてぇ! 私、殺される、ガーディアナに殺されるのぉお!!」
ソフィアは観衆の前で乱れ狂いながら這いつくばり、上手く動かない体をずるずると引きずり逃げ出そうとしている。
「な……何事だ……」
バルホークは完全に油断していた。後方で死にゆく妹を見守るように半ば感傷に浸っていたのだが、次第にこの狂った状況を理解するに至る。そして彼は自らの冒した失態を取り戻すべく、慌てて観衆に向けて叫んだ。
「くっ、やはりこの私を謀っていたか……! 皆の者、聞き届けたであろう、この者は事もあろうに聖女を騙り、今ここに神をも冒涜した!」
流れが変わった。バルホークは剣を抜き、ソフィアへとその切っ先を向ける。
「その罪は万死に値しよう! よって、死を以て償ってもらう!」
「いやあああ!!」
聖女戴冠式は本来の予定通り、偽りの聖女の公開処刑へと変更された。
その恐怖のあまり、ソフィアから闇が漏れ出す。闇は次第に辺りを包み込み、バルホークはついその姿を見失ってしまった。
「くっ、処刑人!」
バルホークの声に、かねてより近くに待機していた処刑人がソフィアの下へと向かう。その手には切っ先のない幅広の剣が握られている。幾人もの受刑者の首を狩ってきたであろうそれは、鈍い光を放ちソフィアを捉えていた。
「大人しくしていろ、今楽にしてやる!」
「いや、いやあ……!」
処刑人は這いつくばるソフィアに剣を振りかぶり、一気に振り下ろす。
「させるか!」
「ごばっ……」
処刑人の首を、メリルの放った暗器が貫いた。すんでの所で守られたソフィアは、近くに居た彼女を見つけては礼も言わず怒鳴りつける。
「何をしてるの、早く私を助けてっ!」
「くっ、どこまでも我が強い女だ! シェリル!」
その声に、今まで物陰に隠れていたシェリルが闇の中から現われた。
「お姉様、すみません! この子少し異常だわ、私の術が一時間も持たないなんて……!」
「ああ、ますますこちらに引き込みたくなった。このまま攪乱するぞ」
二人は使用人の衣装を引きちぎり、暗闇に溶け込むように本来の露出度の高い暗殺者の衣装へと姿を変えた。
メリルは指をくわえ、指笛を鳴らす。その合図に応じて、民衆の中から数百人の男達が飛び出してきた。さらに彼らはイリス・ガーディアナこそ真の聖女だと大声で扇動し、ソフィアに心奪われた者達をも味方に付け暴れ出した。
「ひどい、こんな事……」
まさに混乱のるつぼと化した聖女戴冠式。マコトは目の前で起こる光景に言葉を失いつつも、偽りの聖女の悲痛な叫びに拳を強く握る。
「そうだ、私が、やらなきゃ……私は、救世主なんだ!」
マコトの中で、何かが鼓動する。そして恐怖を覚える間もなく、その脚は聖女ソフィアに向け駆け出していた。
―次回予告―
きっと助けてみせる。そうあなたは言ってくれた。
世界を穿つ二つの光と、その狭間で交差する、二つの剣戟。
未だ戯曲の中にある人々は、救世の再臨に何を想うか。
第65話「聖女戴冠式(後編)」