第9章 番外編 『天使ですが、何か?』
天界。それは冥界と対をなす、創造主の造りし魂を新たな生命へと与える場所。冥界を死後の世界とするならば、ここは生前の世界と言えよう。
生命が死を迎えると、その魂は冥界へと運ばれ、浄化という行程を経て輪廻する。そんな長い旅を終えた魂を地上の生物へと再び授けるため、今日も天使達は母体に眠る赤子の下へと舞い降りるのだ。
このような、天界による生命を育む一連の行いを彼らは調律と呼ぶ。
しかし、そんな天使の存在理由とも呼べる由緒ある仕事を、女神の権限により一切与えられない天使もいた。蛹(クリサリス)と呼ばれるそれらは、創造主の一部から生まれたオリジナルのコピーであるにもかかわらず、どこかしらのエラーを抱える個体として生まれた変異種。
それらは時に、調律には必要の無い個性を多分に持ち、地上の人間の持つ欲望に惹かれ、堕天使となる事も多かった。
特に、魔王の時代に生まれた最も悪しき個体、堕天使ベリアは背徳を好んだ。
ヘリヤという名の一天使だった頃の彼女は、天使にとって必要のない肉体への快楽に溺れ、いたずらに多くの天使を堕落させては、さらなる刺激を求め共に地上へと堕りた。やがて地上を覆う魔に染まり人類の脅威となった彼女は、最終的に天使サイファーによって封印されるまでの間、長きに渡り人間の心にも悪しき種を撒き天界の調律を乱したとされる。
その結果、先代の女神の力は衰え、天界はとうとう魔王の力の前に屈する事となった。
調律は停滞し、新たな命は魂の力を存分に与えられず、すでにある命は魔に堕ち始め、地上は人類史上最も苛酷な時代を迎える事となる。
そのため救世主と共に世界を救った天使サイファーは、自身が女神となった後、クリサリスに対し特に厳しい措置を行った。それは絶対的な隔離。真と偽を合わせ持つ真偽である彼女達は、世界から隔離された繭(コクーン)と呼ばれる収容施設へと送られる。それは生きる自由と引き替えに、どこにも出られず、誰にも会う事も許されぬ、ある種過剰な保護の下、共存の可能性を神に示すための場所であった。そうしなければ、その全てが殺処分とされていたのだ。
コクーン。別名、天獄。そんな絶望的な空間へと、ある特殊な事情から送られた一人の天使がいた。
アンジェラス゠ベル。どこか、ここへ来る事が運命付けられたような名を冠した彼女は、むしろこの状況を喜び、何もする事がない、いや、何もしなくてもよい堕落を思う存分に貪っていた。そして蛹である彼女はある種の特別感、他とは違うという全能感に天使としての自覚を歪ませながら、怠惰な日々を繭の中で過ごすのであった。
どこにあるのか定かではない、空の果て。天界と呼ばれる世界に、神の日が差す。
「ふむ、天界門の様子は異常ありませんね。みなさま、今日も通勤お疲れ様です」
今日も遠くに見える光の柱へと、無数の天使達がせわしなく向かっている。アンジェはそれすらもを見下ろすような高い建物の窓から、朝のいつもの様子を確認しては眠りに就こうとしていた。そう、地上では朝を迎えるこの時間に、彼女は眠りに就く。その自由こそがクリサリスに与えられた特権なのだ。
「こんな生活、バチが当たりそうですね。と、アンジェは罪悪感たっぷりにお休みするのです。今日も一日、自宅の警備疲れ様でした」
一見気楽なように思える彼女の生活も、適性がなければある意味地獄である。終わる事のない、押し寄せる不安との戦いに常に苛まれ、生まれてきた意味を問い続け、人として当たり前の承認欲求も満たせない日々。
けれども彼女にとって、割とそんな事はどうでもよかった。外にはもっともっと、辛い現実がある。競争、優劣、懲罰、侮蔑、欺瞞、そして孤立。他ならぬ大切な妹が、それを教えてくれたのだから。
「無能が何をやっても、ただ迷惑になるだけですからね……それでは、おやすみなさい」
眠り。天使にとってそれは、全体意思とのシンクロナイズを兼ねた、脳内のメンテナンス作業である。しかしアンジェだけはどうも回線が通じないのか、人と同じように過去の記憶をつなぎ合わせた荒唐無稽な出来事を追体験する。
「うーん……チョコおいしい……むにゃむにゃ」
――そして、今日もそれはやってきた。
舞台は昔アンジェもいた、見習い天使達の養成学校。そこに姉妹で送られ、共に与えられた部屋に住んでいた頃に起きた出来事のようだ。
「おねえさま、おねえさま!」
「どうしましたか? クピト。そんなに慌てて」
「私、今日も背が低い事を馬鹿にされました。私も、おねえさまみたいに大きくて立派な天使になりたいです! それには、どうすればいいのですか?」
夢の中であるため、自分の姿は今の大きな姿のまま、けれども、妹のクピトの姿はずっと昔の、五歳ごろの姿となっていた。二人は双子のはずだが、アンジェにとってはむしろこの方が都合が良かった。彼女は、自分を肯定するだけの、幼く愛らしい妹でいればそれでいいのだ。
とても照れ屋な性格をした妹のクピトは、アンジェとは対照的に大人しそうな顔と華奢な体をしており、快活で発育の早いアンジェにいつも憧れていた。そのためか、真似できる髪型だけはおそろいの長髪に、おでこを見せたものにしてくれている。アンジェはそんな風に慕ってくれる事が嬉しくて、いつもこうして彼女の面倒を見ているのだ。
「そうですねえ。アンジェみたいに立派になるには、よく食べて、よく寝て、我慢せずにおトイレに行けて、ちゃんと歯磨きができるようにならなければいけません」
「わあー、すごいです! 私は歯磨きが上手くできません。どうやったらできるようになりますか?」
「それはですね、苦いミントを使った普通の歯磨きから、チョコレートでの歯磨きに変えるのです。すると、おやつを食べている感覚で楽しく磨くことができますよ」
「やったあー。これで虫歯さんと、さよならですね」
「はい、虫歯さんは恐ろしい悪魔の姿をしていますからね。彼らは未来永劫、天使の天敵なのです」
わざと難しい言葉を使い、妹の反応を伺う。案の定、妹は顔を輝かせてその意味を聞いてきた。それに対しても得意げに説明してあげる事が、二人のワンセットのやりとりであった。
「すごーい! そういう意味だったんですね! 綺麗で、お勉強もできて、とっても強いおねえさま。ずっとずーっと、私の憧れです!」
「大丈夫ですよ。あなたは何と言っても私の妹ですからね。ここも主席で卒業して、やがて立派な大天使となる事でしょう」
「はい! クピト、おねえさまにとって恥ずかしくない天使になってみせます!」
私達は、二人で一人。この一つずつ与えられた片羽根と、半分この天使の輪が、二人を結びつける絆。ぴったりと並んだ二人は一対の羽根と天使の輪をつくってみせては、互いに笑いあった。
そこで、仲睦まじい姉妹のシーンが終わる。幸せな夢である反面、アンジェはどこか不安な予感に起きようとするが、ぐっすりと眠ってしまった頭からは逃げられない。
次のシーンは案の定、養成学校の適性検査に一人合格できなかった所からであった。
アンジェは今にも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。そして気がつくと、やはりこれまで小さかったクピトの姿が、やや成長したものへと変わっている。
「お姉様……不合格って、どういう事ですか?」
「ち、違うんです! これはですね……」
「そうですよね、何かの間違いですよね! 私、大天使様に確認してきます!」
「クピトっ!」
次に現れた妹は、大天使と共に冷ややかな目でこちらを見つめていた。これまで自分へと向けていた羨望の目はそのまま大天使へと向けられ、二人は共に遠くへと消えていく。
「さあ、行きますよクピト。あなたは生徒の中でもトップの成績でした。我が校は優秀な天使を歓迎しています」
「クピトっ、いかないで……!」
「お姉様……」
大天使はさらに妹をそそのかす。ここでは姉妹などの立場など関係なく、全てが能力主義の世界であると。
「あの人の事は忘れなさい。天使にとって規律を守れない事とは最も恥ずべき事。近くにいれば、あなたもああなりますよ。クリサリスという不良品にね」
「はい、大天使様……」
「クピト、ほら、大好きなお姉様ですよ……お願い、見捨てないで……」
「よくも今まで私を騙していましたね。不良品のくせに……二度と顔を見せないで」
突然の決別である。クピトはその長い髪をばっさりと切り、丸見えのおでこを切り揃えた前髪で隠した。憧れはその大きさのまま自らの恥として置き換わり、こちらへ向かう感情は憎しみへと変わった。
「クピトっ……!!」
アンジェは飛び起きたい衝動に駆られるが、まだ頭は起きてくれない。昨日の夜更かしが祟り、脳が休息を求めているのだ。
「はあ、はあ……」
気がつくとアンジェは暗闇に閉じ込められていた。その後の学園での記憶はない。一つも知り得ない事は夢と言え出てくる事はないのだ。途端に虚無となった世界は、自分すらも塗りつぶすようにその描写をやめた。
「識別名、アンジェラス゠ベル。いや、クリサリス・アンジェ。お前にコクーンへの投獄を言い渡す。女神様による規定により生の保障はするが、二度と外には出る事はないだろう。では、最後に言い残す事があれば聞き届けよう」
「ごめんなさい……クピト……。あなただけでも、どうか立派な大天使になってください……」
「安心しろ。ここへと送られた者は全てから無縁となる。恥ずべき姉など、もう彼女には存在しないのだ。お前もただ不良品らしく、何も考えず空虚に生きるがいい」
闇の中届く、無機質な声。アンジェはその声に向けて、ちょっとした怒りを覚えた。遙かなる上位存在に対し、本来ならば芽生えないはずの感情である。
服従本能。これは基本的な天使としての生態であり、適性検査においても多大に評価される能力。つまり妹もただ、これにより何かに服従していたかっただけなのだ。あの時自分に見せた急変した態度も、その対象が他へと移っただけのこと。彼女自体は、何も変わってはいない。そして自分も憧れの姉に変われる事はないだろう。つまり、あの日々に戻ることは、今後二度とないのである。
「うう、クピト、クピトぉ……」
血を分けた姉妹を失う事は、アンジェにとってとてつもない喪失感を与えた。いや、天使は通常、一人一人が人工で胚から製造される。個体ごとに多少のランダム性は加えられるが、父は全て同じ創造主であり、母もまた同じ創造主。それが当たり前の中で姉妹というのは、やはり特別な意味があるのだ。
ではなぜ、彼女達だけが姉妹なのか。それは製造途中、大天使達により強制的に分裂させられたからである。彼女達がまだ二人で一つだった頃、彼女を育んでいた長期胚培養装置、つまりは人工子宮にてある事故が起きた。カオスの侵入である。
魔王が解き放ったカオスは、女神の指示により天界もできうる限りの回収を行った。だが神の魂であるカオスは天使にもそう扱えるものではなく、その中で起きた事故により、偶然その一つがアンジェのいるゆりかごへと宿ったのだ。
そうして生まれてきた彼女は、すでに大天使ですら凌駕するほどの魔力に溢れており、その存在そのものが天界を大いに揺るがす事となる。
堕天使ベリアの再来を恐れた大天使達は、赤子の内にカオスをその個体の中に封印し、取り出した魔力のみを同一の個体へと移す事で、その恐ろしいまでの力をコントロールできるようにした。
カオスを内包し、それ以外の全てを奪われた存在、アンジェ。
そしてそのコピー体として、本来の能力と膨大な魔力が与えられたクピト。
結果として二つの個体はそれぞれ片羽根に半輪となってしまったが、カオスの隔離には成功する。大天使達はこれを、ヴァルキュリア計画と呼んだ。これが成功した暁には、かつて存在したという神々の魂をも運ぶ天使の製造も可能になるとあり、二人の成育過程はその後も注目される事となった。
そういった背景もあり能力を大幅に奪われたアンジェは、不良品としてコクーンへと送られる事となったのだ。だがそれもまた、彼らの織り込み済みのシナリオである。
「私は、不良品です……。私は、ダメな子です……」
天使としては規格外の、体ばかり成長した理由も抑制能力の欠如から来るものであった。彼女は満足するまで食べ、ただ寝るだけの生活が与えられる。当然そこでの生活は、彼女の自尊心を根こそぎ奪っていくのだった。
次の朝、もとい、夜。アンジェが目覚めると、部屋に見知らぬ女性の姿があった。金の刺繍が施された純白の衣を纏い、その翼は天使のものよりも二回りは大きい。黄金にたなびく長髪の上には、銀のティアラが輝いていた。その姿はまるで女神である。もしかして、まだ夢を見ているのだろうか。
「アンジェよ、泣いているのですか?」
「へ……?」
アンジェは予期せぬ言葉に自らの睫毛をぬぐう。そこには一筋の涙の跡があった。女性は綺麗な布を取り出し、涙と共に大好物のチョコレートがついた口元を拭いてあげた。
「まあまあ、こんなものを食べた後に寝ては、虫歯になりますよ」
「歯磨き、苦手なので……」
夢の内容とはまるで真逆である。天界で虫歯になる事はないが、天使の役目を与えられ地上に降りるとなると話は別だ。しかし二度と地上に降りる必要のないアンジェは、得意げになって妹に教えたそれすらも放棄していた。
悲しい顔をした女性は、そんなアンジェをふくよかな胸に抱きしめる。
「アンジェ、長い間、本当にごめんなさいね。私は女神サイファー。このような施設を造りだしてしまった者として、まずは謝らせてほしいのです」
「えっと、何をでしょう? 私は特に何も……むしろ感謝しているくらいで」
「嘘は良くないわ。あなたも立派な天使なのですから」
嘘をついたつもりはないが、これが嘘かも本当の所は分からない。アンジェはここに来た十年ほどで、そうやって心を隠す事を覚えてしまっていた。
「私は、悲しいんでしょうか?」
「そう。悲しくない事が、悲しいのよ。いない事にされるというのは、あなたが自分を大事にできなくなるという事。自分でその存在を消してしまうという事」
女性の言葉はどこか、これまで出会った天使のものとは違った。女神と言うのも、あながち嘘ではないのかもしれない。
「私が間違っていた……こうなる事は分かっていたはずなのに。どんなに崇高な理念で始めた行動も、それを管理、維持する者の理解がなければやがて地獄が生まれる。地上のどんな国々においても、これまでそれを覆す事はできなかった」
「よく分かりませんが、そんなに悲しまないで下さい。なんだかこっちまでみじめになってきました」
「ふふ、そうね……。ところでアンジェ、あなた普段は何をやっているの? ここでの生活は辛くはなかった?」
「全然です。地上の書物を読んだり、絵を描いたり、新しい遊びを考えたり、まだまだやることばかりで退屈しません」
女神は小さな部屋を見渡し、そこらに飾られている、それなりに上手な風景画などを見ては感心した。
「あなたは“想像”を知っているのね。天使は通常、創造主に服従し、与えられた命令のみに従事する。それは時として、あなたのように定型的な性質を持たない者にとっては苦痛となるのかもしれないわね」
「よくおわかりで。今さら働けと言われても困りますね。私はこれからもせっせと、ここでうんちを製造していくだけです」
いきなり現れては、自己肯定感を上げてくれる女神様を名乗る女性。少し怪しく感じたアンジェは、どこまで優しくしてくれるかを計るためちょっとふざけた事を言ってみる。すると、やっぱりその美しい顔から笑みが消えた。
「あなたが自暴自棄になるのも分かるわ。けれどね、苦痛のない世界なんて存在しないの。人は、誰もが必ず生まれてきた意味を持つ。もちろん、それはあなたも例外ではないわ」
「ご、ごめんなさい……。その厳しい世界を生きる人というのは、こちらにも簡単にそれを強要してきます。でも私、本当に何もできないんです。自分が必要とされてない世界で、一体どうすればいいのかも分からなくて……」
「大丈夫よ。あなたには無限の可能性がある。いつか蛹は蝶になり、大空へと羽ばたく日が来る。本当はその手伝いが出来るよう、私は繭を造ったのだから」
「クリサリスって、さなぎって意味だったんですね。てっきり、腐りますって事だと……」
「笑えない冗談ね。さあアンジェ、私とここを出ましょう。この繭の中で、本当に腐ってしまう前に」
女神はその美しい手を差し伸べた。アンジェは昨日チョコを食べてから手を洗っていない事を思い出し、代わりに両の手首を差し出した。
「ここに縄を結んで下さい。私なんか、それで引っ張って下されば……」
「それは罪を冒した者がとる行為よ。何もできない事は、決して罪ではないわ」
「あっ……」
女神は強引にチョコでベトベトの手を掴み、その部屋からアンジェを連れ出した。色々と快適だった暮らしとの別れだが、不思議とそこに名残惜しさはなかった。ただ、未知の世界への不安感と、女神に対する安心感がまぜこぜとなり、彼女の胸を覆い尽くしていた。
「引っ越しの手続きはこちらでやっておくわ。アンジェ、今日からあなたはここで暮らしなさい」
「ほえー……」
アンジェが連れてこられたのは、雲の上にそびえる天上の宮殿。おそらく、女神様のお住まいだろう。
「ただのクリサリスが、一夜にしてセレブの仲間入り……これが地上の本で見た、成り上がりヒロインってやつでしょうか……」
「もちろん、下働きはやってもらいます。それともう一つ、あなたにはいつか重大な使命が与えられます。その時のため、これから様々な修行を課すつもりです。覚悟しておくように」
やや女神様の振る舞いが冷たい。最初だけ優しくする悪徳商法にでも捕まったような気分である。
「しゅ、修行? そんなの、今時流行りませんよ?」
「文句があるのなら戻りなさい。その程度の意思でやり遂げられる使命ではありませんから」
「ごくり……急にキャラ変しました? さっき見せた優しさには、やっぱり裏があったのですね」
「何とでも言いなさい。嫌われる事が怖くて女神などやってはいられませんから」
女神は用事でも済んだとばかりに、出迎えの天使達を連れその場から立ち去った。やっぱり、この厳しい世の中を平気で渡っていけるような人の考えている事は理解できない。
「うう……これが俗に言う、不幸ヒロインへの洗礼。でもまあ、修行と言っても花嫁修業みたいなものでしょう。五歳くらいまで優等生だったアンジェには楽勝ですよ。あの頃はよく神童と呼ばれ、もてはやされたものです」
「ほう、それは優秀な新人が入ったもんだねえ。それじゃあんた、今日から目いっぱいこき使ってあげるから覚悟おし」
「へ……?」
振り向くと、ここを取り仕切る中年の天使長が腕を組み、でーんと立っていた。クラシカルなメイド服にシニヨンでまとめた髪。さらに、その神経質そうな顔には角度のついた眼鏡が光る。一言で言うと、それこそヒロインを執拗なまでにいじめそうな外見である。
「さあ、まずはみっちりとメイドのいろはを仕込んであげようねえ」
「ひいー、許して! そもそもアンジェ働いた事なんてないんですー!」
得意のホラ話を真に受けた彼女は早速アンジェを引っ張り、せわしなく人々の行き交う下働き達の持ち場へと連れて行くのだった。
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「こっちが本当のエンジェルインヘルじゃないですか! 私、コクーンに帰らせてもらいますっ!」
宮殿での生活がしばらく過ぎた頃、アンジェは自身の置かれた状況を直訴するため女神の部屋へと押しかけた。憧れた優雅な暮らしなどそこにはなく、メイドとしての苛酷な労働に加え、地上についての勉学、体力作りから弓の修行、さらにはちんぷんかんぷんな初級神聖魔法まで覚えなければならないのだ。学校はおろか、働いた事などないアンジェにとってはちょっとした拷問である。
「あなたは十年間もの間、他と遅れを取ったのです。それを取り戻すために、多少は無理をしなければなりません。それに、少しでも力を付けた今ここを出るとなると、あなたは即反乱分子となる。これまでコクーンに居られたのは、無力であったがゆえ。一度でも外へ出た蝶は、二度と蛹へは戻れないのです」
「そんなの横暴ですっ、女神様のいじわるーっ!」
「いい加減になさいっ! いつまで子ども気分でいるのです!」
「びくうっ!」
珍しく声を上げた女神に、アンジェは思わず硬直した。そして、ただそれだけの事なのに、ボロボロと涙がこぼれてくる。怖いと言うより、親に見捨てられるような不安が押し寄せ、どうしようもなく泣きわめいた。
「だってだって、アンジェ、これでもたくさんがんばったのに、ちょっとくらい、ほめてくれても、いいじゃないですかあ、ぴぎーっ!」
どこから湧いてくるのか、涙はその体を伝い彼女が立つ絨毯を徐々に染め上げた。このままでは涙の海で部屋が溢れてしまう。困った女神はこれまでの冷徹な仮面を捨て、もう一度本来の優しさでアンジェを抱きしめてあげた。
「落ち着いて、アンジェ。怒鳴ったりして、悪かったわ」
「ひぐっ、ひぐっ……」
アンジェがひとまず泣き止むと、女神はその頭を撫でながら彼女が必要とする言葉を紡いだ。
「一つ、お話をしましょう。私がどうしてあなたに厳しく当たるのか。……これは言うつもりのなかった事ですが、アンジェ、あなたは過去の私なのです」
「へ? 過去の……?」
「そう。私は元々、天使としては不良品だったの。あなたと同じ、クリサリスよ」
「そんな……だって、天界で一番偉い、女神様ですよ? そんな事……」
「当時は私が成るしかなかったのよ。先代の女神様は魔王に殺され、私と同じ使命を与えられた天使達も皆、死んでいった。私は、あなたとは理由が違うけれど、その中では一番の落ちこぼれ。戦う事が怖くて、誰も傷つけたくないと願う蛹。そう、ただの不良品だった事に違いはないの」
女神はゆっくりとアンジェから離れ、遠い目で天界を一望に見渡せる窓の外を眺めた。いや、彼女が見ているのは、天界のさらに遥か彼方である。
「でもね、地上に降りてみて、私とよく似た人に出会ったわ。そして、彼は誰も傷つけたくないと願いながら、いえ、その想いすら力に変え戦った。……リョウ゠スドウ、あなたも知っているでしょう。魔王を倒し地上を救った、かつての救世主よ」
「では、救世主と旅をした、導きの天使って……」
「あなたには言ってなかったわね。そう、私の事よ。彼らとの出会いが、私を変えてくれた。だからアンジェ、あなたにとっても、あなたを変えてくれる大切な人がきっといる。私はそれを知っているの。だから、あなたに地上へと行くための厳しい修行を課したのよ」
「地上……アンジェ、地上に行けるんですか?」
それは、天使にとって憧れの地、人間界。天界に集められた書籍は、天使達の熱意を高めるためそのどれもが地上の素晴らしさを記していた。そこに、自分が行ける。アンジェの期待はいやが上にも高まっていく。
「ええ……導きの天使、アンジェラス゠ベル。あなたには、私と同じ、救世主を導く役目を担って貰うわ。それはいつかは分からない。けれど、必ず訪れる運命。……いい? これは、あなたにしかできない役目なのです」
「私にしか、できない……」
何もできないと思っていたはずの天使に与えられた、誰にもできない仕事。アンジェの空っぽの胸に、これまで満たされる事のなかった何かが注がれていった。
「今の天界は昔とは違うわ。私の正体がクリサリスだと知る者達、真翼連盟の起こしたヴァルキュリア計画が、近頃本格的に大きな動きを見せた。これにより、今まさに天界の勢力図が塗り変わろうとしているの。ここで手を打たなければ、おそらくあなたは彼らによって消されていたはずよ」
「ま、待って下さい、何とか連盟だとか、何ちゃら計画だとか、一体何なんですか? おバカな私にも分かるように説明して下さい! どして私がそんな目に……」
「そうね……分かりやすく言うと、選良な天使達による、神の魂を持つ次世代の天使計画よ。そして、あなたはその事故で生まれた実験体第一号。けれどあの頃の天界にはカオスの強大な力をコントロールできなかったため、二つに分離し、ひとまず無力化した。あなたが天使でも珍しい双子なのは、そのせいよ」
「がびーん……」
生来の秘密を知り、アンジェは衝撃を受けずにはいられなかった。妹のクピトだけが優秀で、自分が出来損ないなのはそのせいだったのだ。だが、それは同時に何となくそそるエピソードでもある。
「つまり私は、特別だって事ですか?」
「まあ、そうなるわね。今は分からないけれど、あなたはこの世に二人といない、天使と魔女の力を持つエンジェリフィカ。本来持つ力はまだ出せないけれど、だからこそ私はあなたに目を付けたのです」
「ふふー。それなら全然オッケーです! いやー、なんとなくそんな気がしていたんですよね。いやー、選ばれちゃったかー、それなら仕方ありませんね!」
アンジェはそれまでの卑屈な態度をやめ、誇らしげにふんぞり返った。だが、そういった増長を女神は見逃さない。
「アンジェ。そういった考え方は、他者に対する優生思想に繋がります。もしもそこに邪な感情があるのなら、今すぐ捨てなさい。あなたはその歪んだ考えによって生まれ、同時に捨てられた。行き過ぎた自我は、その身すらも滅ぼす事になるわ」
「は、はい、もちろん冗談です! アンジェ、そんな大役が務まるかは分からないけれど、できる限りがんばります。だから、どうか見捨てないでください……」
「ええ、もちろんよ。あなたは私の、子どもみたいなものなのだから……」
女神はそう言って、アンジェの半分に欠けた天使の輪を撫でてあげた。この子ならきっと、不完全な者達の心が理解できるはず。今の地上はそういった寛容さに欠けているからこそ、彼女を送る事こそが適任だと思えた。
「では、分かったなら修行に戻りなさい。地上はここと違って、もっと厳しいわよ」
「は、はい!」
そうして、アンジェへのスパルタ修行はまたしばらく続く事になった。疑り深いアンジェは体よく騙されたような気もしたが、女神様のためならそれでもいっかと、そのチョコまみれの歯を食いしばるのだった。
「アンジェ、とうとう行ってしまうのかい……お前が来てからの日々、しばらくぶりに張り合いが出来たようで楽しかったよ。およよ……」
「鬼の目にも涙とはこのことですね……。ほら、泣かないで下さい、さすがに行きづらくなるじゃないですか」
「おーいおいおい……私が教えた事、向こうでも忘れるんじゃないよ」
あんなに厳しかった天使長も涙を流している。それもそのはず、今日はついに待ちに待った、地上へと派遣される日である。惜しむように苦楽を共にした仲間達との別れを済ませたアンジェは、女神だけが扱える特別製のヘブンズゲートへと連れられた。
「さあアンジェ、ここをくぐると、異世界テラへと出ます。そこに、新たな救世主がいる。覚悟はよろしいですね?」
「アンジェ、その人に着いていけばいいんですね? だったら楽勝です!」
「あなたが導くのよ? まあ、少しばかり不安が残るので、これを預けておきます。魔道具、天使のベル。これを使えば、救世主とはぐれても連絡が取りやすいはずです」
「わあ、私にベルを贈るっていうのがニクいですね。大事にします!」
「ふふ、では行きますよ。次元の狭間に振り落とされないように」
天使として生まれて、初めて踏み出す外の世界。そこは、少し独特な雰囲気のある、ニホンという国だった。どこか草の香りのする建物の中に出たアンジェは、緊張しながらその地面に降り立つ。
「あれが、私の救世主様……」
その先には、とても背の小さな、けれども芯の強そうな少女が、その体よりも遥か大きな人間と戦っている姿があった。彼女こそ、自分を変えてくれるかもしれない少女。そこにいる皆は、彼女をマコトと呼んだ。
(マコトっていうんだ……。私は、ここにいます。あなたの天使……アンジェは、ここにいますよ)
「……ではアンジェ、後は教えた通りに」
「はいっ!」
まばゆい光の中、二人はエンゲージを結ぶ。少し、不器用なキス。こうして魔女達の世界で紡がれる、新たな救世主物語の幕は開けたのであった。
************
アンジェが地上へと旅立つ少し前。天界の最大勢力である真翼連盟の下部組織、純天使養成機関では、優秀な成績を収め全課程を修了した者達へと、天使の中でも特に名誉とされる任命式が執り行われていた。
その中心に立つのは、やや背の低い、前髪を揃えた金色のショートヘアの少女。彼女は他の天使と違い、片翼と半輪といった不利にも負けず、そこにいる誰よりも自己を高め研鑽した。その訓練期間、彼女に何があったのか。それは全てを凍てつかせるような、その氷の眼差しからも窺えるだろう。
「識別名、クピト゠ベル。前へ!」
「はっ!!」
割れんばかりの拍手に送られ、クピトと呼ばれた少女は大天使の待つ表彰台の前へ立った。
「我が機関史上最も優秀な成績を収め、堕天使の駆除を始めとする数々の功績を残した貴殿を、天界初となる軍の設立に伴い新設された要職、神使として任命する。これは地上をより良い世界へと武力を以て導く、名誉ある役職である。光栄に思うがいい」
「はっ……ありがたき仕合せに存じます!」
大天使、つまり大人の天使の言う事は絶対である。子ども達は皆、洗脳に近い状態へと置かれ、妄信的にその一挙手一投足を見つめている。
「よいか! 近年における地上の混乱は、我々としてもはなはだ目に余る現状にある。これは例外として女神の後任に選ばれたサイファーの招いた失態である事は火を見るより明らか。一つここに明確にしておくが、この非難は不敬罪には当たらない。なぜならば、彼女はそもそもが純天使ではないのだ。そう、奴の正体は蛹。クリサリスでありながら、その豪運にて女神の地位を得ただけのまがい物。よって、我々は正当な権利を行使し天界を構成するシステムへの介入を開始する。そして、天界を、地上を、本来のあるべき姿へと戻すのだ! それができるのは、純然たる力、ヴァルキュリアを持つ我々のみである!」
その手を天へと掲げた大天使に合わせ、狂わんばかりの合唱が起きた。皆の前に立つクピトは、それに応えるかのようにその薄い胸に手を当ててみせる。
「「クピト! クピト!」」
「そう、我々の力であるヴァルキュリア・クピトは、そのための尖兵として地上へと派遣する。そこで救世主の力を受け継ぐ者とまずは接触し、天界の指示の下、恒久的な平和を維持するために活動してもらう。いいな、ヴァルキュリア・クピト」
「はっ、承服いたしました! 伝説の戦乙女の名に恥じぬよう、この身を捧げる覚悟で務めて参ります!」
ここに、ヴァルキュリア計画は次の段階へと突入した。大天使達は満足げに笑みを浮かべ、天使達の鳴くクピトの名はしばらく止むことがなかった。
ただ、そこまでの地位に登り詰めながら、満たされない心。クピトという少女はその狂乱の渦の中でさえも、自己の形成に多大な影響を与えた、ただ一人の幻影に囚われ続けていた。
(私はついに、あのヴァルキュリアとなったのだ。そう、私は、お姉様とは違う……! 私は、私は……不良品などではない……決して!!)
期してか、期せずしてか、姉妹である二人は同時に地上へと降り立つ事となる。その出生から始まった、因縁めいた糸に捕らえられた二人。
果たして、一度袂を分かった二人が再び相まみえる時は来るのか。その先にあるものは天国か、地獄か。それは、未だ女神すら知り得ぬ事象である。