第7話 『旅立ち』
ウィンストン聖堂。ここは聖女セント・ガーディアナがこの世に生まれ落ちたとされる、豊かな自然に囲まれた神聖な地。
そこには毎日、途切れる事なく神徒達が巡礼に訪れる。さらにこの日は聖誕祭、街から離れた森の中であるにもかかわらず、聖堂の前はいつにもまして人で溢れていた。
そんな中をおびただしい数の従者に連れられ、傷ついた聖女が帰還する。
聖女は裏口から聖堂へと一人かくまわれると、それを出迎えた男から急に抱きしめられた。教皇リュミエール。彼女の帰りを誰よりも待ち焦がれていた男である。
「聖女よ、大事はないか?」
「はい……これも、あなたの加護のおかげです」
「お前、髪を……、何という事だ……」
聖女のその美しくたなびいていたはずの長髪は、全て首の辺りまでで切りそろえられており、今では見る影もなかった。という事は、無惨にもその細首にめがけ剣が振り下ろされたという事に他ならない。
静まりかえった場に、彼の奥歯を嚙み締める音だけが響いた。
それもそのはず。聖女が命を狙われるなど、彼にとっては一顧だにしない事であった。そもそも、たとえ聖女自らがそれを望もうと、彼女を傷つける事のできる者などこの世には存在しないという奢りもある。彼女は絶対的な崇拝と加護の下にある、ガーディアナ始まって以来の神の巫女なのだから。
「私が愚かだった。まさか、お前に手を下そうという者がいるなどとは。やはり、悪こそが人の生まれ持つ性。今後は戒律をより厳格とした教義を一層広めなければ」
「…………」
聖女は、その考えこそが間違っているのだと心で呟く。操り人形である自分ですら、こうしてあなたに反発しているのだから。教皇、いや、魔王リュミエール。
「しかしあれだけの数を派兵したというのに、警備は何をやっていた。これは、まるで糞ほどの役に立たん泥人形共への裁きも必要か」
「リュミエール……あの者たちへの裁きは、お待ち下さい。彼らは命を賭け、立派に私を守ってくれました」
「お前がこの私に意見をする気か?」
「いいえ……」
険のある言葉の後、決まって聖女は彼に従う。自分の意見など、通るはずもないのだと。
「今日はもう夜まで休んでいろ、あとは私が一切の式を執り行う」
「はい……」
「愛している」
少しの間があった。そして、聖女は無表情でそれに応えた。
「はい」
教皇の怒りは計り知れない。今はただ、こうして嵐が過ぎるのを待つしかないのだ。
聖女は厳重に守られた最奥の部屋へと通され、侍女によってボロボロのドレスを脱がされた。
「ああ、何という事、何という痛ましいお姿……」
侍女には本当の事など言えなかった。この姿こそ、自らが死を望んだ結果なのだと。そしてそれとは対照的に、目の前には煌びやかな婚礼用の聖衣が飾られている。これから身を清め、それに袖を通したとき、自分は自分でなくなる。死ぬ事すらも、もう望めなくなるのだ。
今夜、待ち受けるもの。それは婚礼の儀式。
教皇と結ばれる、運命の儀式。
最も愛という感情から遠い存在と紡ぐ、愛の営み。
(怖い。怖いよ……)
不安から、そっと胸の傷をなぞる。しかし教皇を前にしてからというもの、あの優しく語りかけてくれる不思議な心の声は聞こえなくなっていた。
「みんな、消え、ちゃった」
ただ無意味に過ぎていく時間の中、聖女はあの美しい魔女の事を思い浮かべる。
強大な敵に刃を向けながらも、最後まで己の中の憎しみと戦い続けた、叛逆の魔女。
(また、あなたに会いたい……。とっても素敵な、あの人に……)
しかし、それは叶わないだろう。聖女の力によって、彼女は浄化された。
ああでもしなければ、おそらく彼女は自らその命を絶っていただろう。しかしこれから訪れる苦難を考えれば、その方がむしろ彼女にとっては良かったのかもしれない。
「う、うう……」
目の前に現れた希望すらも、この手は掴んではくれない。あまつさえ再び魔女をその手にかけてしまった絶望に、彼女はただただ悲嘆に暮れるのであった。
「ごめん、ごめんね……どうか、弱い私をゆるして……」
そう、ここは心の檻。私は守護者達の鳥籠で歌う、ただの哀れなカナリア。
聖堂にて一切の儀式を執り行う場、至聖所では、今回祭典に携わった関係者が一堂に並べられていた。それらを壇上から見下ろし、教皇リュミエールはただ嘆息する。
「聖女はなぜ、このような目に会わねばならなかった」
誰も答えない。いや、答えられないのだ。誰も、教皇と同じ口など持ち合わせてはいない。それは神と口をきくに等しく、神徒達にとって最も憚られる行為であった。
「理由などただ一つ。情けない事に、未だ神の名における思想の統一が為されていないためである。そこで、ガーディアナ十の戒律に、また一つ項目を加える事とした。一人の過ちは、これ人民全ての過ちとすること。さあ、全ての戒めを口に出して、改めてその身に刻み込むのだ」
その声をきっかけに、神徒達は自らに科せられた戒律の全てを一斉に唱え出す。
一、聖典のみを絶対神として崇めること。
二、聖女をガーディアナの象徴とし、敬うこと。
三、霊魂ではなく、聖体と血を讃えること。
四、信仰を喜びとし、生きる力とすること。
五、目上の者には絶対遵従すること。
六、労働を尊び、国家のためよく富を捧げること。
七、不法、共謀に目を配らせること。
八、自力救済を禁じ、裁きは神より受けること。
九、同性での不純を交えぬこと。
十、異端は例外なく排除すること。
そして、彼らは新たに加えられた連帯責任の戒めを復唱する。これによりガーディアナはさらに強大に、揺るぎない教えとなると教皇は満足げに頷いた。
「さて、であるならば大いなる光と共に、貴様達には裁きを与えなければならない。だが喜べ、神はそう易々と見捨てはしない。聖女から慈悲深き懇願があった。よって、それを望む者にだけ、救いを与えよう。我こそはという者、挙手にて答えよ」
普通であれば迷う選択である。どちらにしても裁きを受ける可能性があった。しかし、偉大なる教皇リュミエールは嘘などをつくような男ではないと、そこにいる誰もが盲信している。
つまり本当に助かると分かっていながら、皆、じっとその場で裁きを待った。
「よろしい。敬虔なる神徒達よ。初めから貴様達には聖女の慈悲すら受ける権利などは無い。神の火に焼かれながら、再びこの世界の秩序のため、その身を捧げられる悦びを血肉に刻め」
そう言うと、リュミエールはおもむろに手をかざした。その瞬間、彼の光のない銀色の瞳が炎のような赤へと変わる。すると同時に、一斉に神徒達の身体が燃え始めた。
「う、うおおっ!」
「いひいいいぃ!」
彼の全能の力の一つ、聖火である。もだえ、苦しみ、泣き叫ぶ声が響き渡り、目下には瞬く間に地獄絵図が広がった。
「私は全てを救う。例外はない。今宵、日付が変わる時、神の火は収まるだろう。その日の罪はその日の内に償えばよい」
神の火に燃えさかりながら、前方に位置する一部の者はずっと教皇に平伏していた。この裁きはこれが初めてではないのだ。彼らは、苦痛を通り越した責め苦の中、己が助かる事を知っている。一定以上の位に上り詰めた神徒には、教皇から特別な洗霊が与えられるのだ。中でも最も一般的なのが終癒と呼ばれる奇跡である。これによって、損傷した細胞はたちまち自己再生を繰り返し続ける。
通常、熱傷にも様々な段階があるが、細胞が炭化するⅢ度熱傷まで行くと特に痛みも感じなくなる。しかしこの儀式の場合、決してそうはならない。最も熱く、最も痛みを覚えるⅠ度、そして真皮が焼けただれ、ちぎれるような痛みを伴うⅡ度熱傷を、延々と繰り返すのである。彼らの表皮は全て剥け落ち、水疱はできたそばから破裂し、膿と共にその下から新たな皮膚が再生する。また、呼吸により肺は焼け、そこに存在する空気が全て失われてもなお、教皇の力は意識を失う事を許しはしない。逆に言えば彼らは、死すらも教皇の許可無しには迎えられないのである。
「こほー……こほー」
「ひゅう……ひゅう……」
平伏している者達は、この苦しみの一切が無駄と悟っている。そう、ただ、明日まで耐えれば良いのだ。それは、信じられぬほど寛大な教皇に対するせめてもの敬意でもあった。
「ふむ。このまま貴様達の覚悟を見届けたい所だが、私は式典の準備がある。祝いの日に生まれ変われるとは、なんとも幸せな者達だ」
そうして教皇は一切振り返る事も無く消えていく。その場では、決して絶望のうねりが鳴り止む事はない。ただこれも、教えをより理解するための試練であると誰もが受け入れていた。天国と地獄、それらは全て表裏一体であると言わんばかりに。
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一方その頃、ロザリー達は無事収容所を抜け、邪教徒を名乗る者達と行動を共にしていた。
奇しくも運命を共にした反逆の同志。何とも怪しい身なりだが、同じ死線をくぐった仲であるためか十分信用に足る人物だとロザリーには思えた。
「でも邪教徒ってどういう事? あなた達、ローランドの反乱軍ではなかったの?」
「ああ、違う。だが改めて言うが、お前と目的を同じくする者だ。我々はあるお方の命により、聖女の暗殺を実行していた」
「でも……失敗したのね」
「そうだ。何としてもやり遂げねばならぬ任務だったが、聖女の力は我々の想定をも越えた。だからとて諦めるつもりはないが、これ以上は我らに疑いがかかる。そこで、本物の反乱軍の生き残りであるお前にこの先を託したい。我らの代わりとしてな」
彼の言うことが本当ならば、あの時に起きた全てもある程度は納得ができる。しかし全てが偶然にこうも進むとは、何かがおかしい。直情径行型のロザリーといえども、さすがにきな臭さを覚えずにはいられなかった。
「そういえば昨日の夜、あなた達はこちらを見張っていたわよね? なぜ、私達を知っていた? それに、どうして偶然、同じタイミングで行動したの?」
「全てはあの男による手引きだ。お前達の長、ギュスターと言ったか。あれは、我ら邪教と通じていた」
「そんな……!」
ロザリーはそこで初めて、あらかじめ全てが仕組まれていた事を知る。恐ろしくなって立ち止まったが、後ろに続く子供達がロザリーの手を引いた。
確かに、よく考えれば急に聖女の暗殺などと言い出した事も不可解であった。逆十字は小さな組織であり、今まではガーディアナの戦力を末端から少しずつ削る事しか出来なかったのだから。
「奴はずいぶんと焦っていた。邪教である我々にすがるほどにな。元々一人で死ぬつもりであったらしく、お前達の無事だけは保証しろとうるさかったよ。まあ、結果はお察しだがな」
「ギュスター……」
考えをまとめようとするも、うまく頭が働かない。今にして思えば、ギュスターの情報筋には怪しい点も多かった。教会の動きなど、片田舎の反乱軍にそう分かるはずもないのだ。だが全国各地に信者を持つ彼らが関わっていたのならばそれも頷ける。
そんな事を考えながらロザリーはただただ、その後を付いていく事しかできなかった。途中で目に映ったのは、煌びやかなガーディアナの表の顔とはまるで正反対なスラムの街。道行く人々の多くは、邪教徒や魔女を見ても騒ぎ立てる事もせずに、ただ頭を下げた。
「ここだ。入れ」
スラムの中にある、暗い地下へと続く道。ロザリーは再び捕らわれるのではないかと警戒するが、いまさらどうする事もできない。
「改めて紹介しよう。我々は邪教団イルミナ。偽りの教えであるガーディアナと敵対し、お前達マレフィカを受け入れる唯一の組織だ」
その言葉にロザリーは少しだけ安心するも、いまだ怯える子供達をかばうように入り口を抜けた。
「これは……」
たいまつに照らされた薄暗く、広い空間。そこでは、老若男女様々な邪教徒達による、何らかの儀式が行われている様子が広がっていた。そして一際異様なのは、その中心にいる、謎の金色の巨大な面。そのあまりの禍々しさに、子供達はロザリーへとしがみつく。
「来たか。待っていたぞ、叛逆の魔女よ」
巨大な面は動きながら言葉を発した。その内部で響く声は女性のもので、想像したよりも遙かに幼かった。化け物があざけるように笑う仮面の細めた目から、少しだけ内部の様子が見える。確かに中に人がいるようだ。面の後ろへと流れる黒く長い髪は彼女のものであろう。
「邪神アルビレオ様だ。頭を下げろ」
いかにも教会の作り上げた、悪魔と魔女を結びつける安易な雰囲気に納得できないものを感じたが、ロザリーも邪教徒達と同じように頭を下げる。今の状況で逆らうわけにはいかなかった。この規模の組織、もし味方に付けばという期待もある。
「さて、皆も知る所であろう聖女暗殺の件だが、惜しくも失敗に終わった。我が力と対等、いや、それ以上の怪物を相手に、我らの存在を明るみに出す事なく立ち回るのは確かに分が悪かったと認めよう。しかし、まだ諦めるわけにはいかぬ。今宵、全てが終わる。あの忌まわしい儀式の前に! 何としても! 聖女を亡き者にせねばならぬのだっ!!」
ビリビリと、怒りを含んだその声は邪教徒達の間に響き渡った。慌てふためき、誰もが皆、改めてかしづく。
「そのため、我は一人の魔女をこの地へと導いた。そしてあらゆる手を使い、その身を奴らの囚獄から解き放ったのだ」
仮面の視線に合わせ、信者達の目が背後のロザリーへと集まる。
「どうやら、私の事のようね」
「ああ。反乱軍の女、いや、叛逆の魔女よ。我が力で、お前を再び聖女の下へと送る。そこで今度こそ完全に奴の息の根を止めよ!」
「え……」
その声は、まっすぐとロザリーに向けられていた。しかし未だ事態が飲み込めていない彼女を見かね、仮面は部下達へと何かを促す。
「くく、例のものを持て。あれを見ても、お前はまだ怖じ気づいていられるかな」
続けて、邪教徒が見慣れた道具箱を運んでくる。それは、ロザリーの防具が一式入ったあの箱。しかし、同時に運ばれてきたもう一つの何かにこそ、ロザリーは驚愕した。
「……うそ……」
ギュスターの死体である。少しくぼんだ眼窩。土気色に覆われたあのやさしい顔。ピエロの化粧は所々にじみ、まさしく自分達が道化であった事を強調した。
「ギュスター! あなた……」
「我が邪神アルビレオ様による異能、空間転移にてここへと運んだ。ひとときとはいえ、邪教に身を捧げた同士でもある。無下にはできんとの計らいだ」
フードの男は、アルビレオの呪術が空間を飛び越える力を持つ事を伝える。いまさら納得がいったが、それによって彼らはパレードにて様々な工作を行っていたのだ。
ロザリーは、生気のないかつての仲間、ギュスターの手を握った。
「ばか……バカだわ、あなたは……こんな」
あんなに暖かかった手が、物言わぬ冷たさに包まれている。そこには、逆十字のシンボルである蛇と十字のロザリオが握られていた。死の間際、皆と交わした誓いから最後の力を貰おうとしたのだろう。
たくさん言いたい事があった。あれも、これも、どれも言おうとしても、言葉が続かない。しかし、祖父代わりの、かけがえのない存在である。こんな事になっても、悪くは言えなかった。
「他の……キルやみんなは?」
男は首を振る。邪教徒はギュスターのみである。後は知った事ではないとばかりに。
「そう……」
だがむしろ、これで良かったのかもしれない。今ここでキルの亡骸に会えば、この気持ちは確かに揺らいでいただろう。少しばかり芽生えた世界への憎悪を、思い出の中で生きるキルの優しい言葉が振り払ってくれた気がした。
「あなたの誓い、私が受け継ぐわ。だから、あなたはもう、家族とともに安らかに眠っていいのよ……。いままでありがとう……ギュスター」
ギュスターの手に握りしめられていたネックレスを自らの首へとかけ、ロザリーはそれを彼との別れとした。
「ほう、いよいよやる気になったか」
仮面の奥に隠れた両の目が怪しく光る。
続いてロザリーはボロ布を脱ぎ、衆目に素肌を晒した。そして一つ一つ、よく馴染む装備を着用していく。最後に赤いバンダナを力強く額に締め、再び自分の装備へと身を包んだ。その手に握りしめるのは父からもらった無骨な剣、そしてその胸にはギュスターからもらった逆十字の誓いを飾りつける。
「ロザリーさん……」
不安げに見つめるノーラ。ロザリーはただ、それに微笑み返す。そして今度こそマレフィカを取り巻く全ての呪いを断ち切るという決意と共に、邪神へと向き直った。
「覚悟を固めたようだな。今宵、お前は人生最大の偉業を成し遂げる。成功した暁には、我がイルミナでの確かな地位も約束しよう」
「結構よ。代わりに、この子達をここで保護してほしい。お願いできるかしら」
「ロザリーさん!?」
ノーラは、急に別れを告げるようなロザリーの言葉に戸惑った。
「よかろう、血なまぐさい場所に子供など足手まとい。別れが済んだならば、そのゲートをくぐるがよい。よいな、事が済めば我はもう手を貸さぬ。もし下手をしてもここでの事を話せば、子供達の命は無いと思え」
「覚悟はすでに出来ているわ。失敗は、しない」
「くくっ」
小さく嗤う邪神から妖しい光が放たれると、目前にゆらゆらと空間が屈折したような縦割れの穴が生まれた。そう、この先に、聖女がいる。
「じゃあ、みんな、良い子にしているのよ」
「ううっ、ロザリー、オレ、おれ……」
「い、色々ありがと……ロザリー。元気で……」
すっかり仲良くなった子供達ともお別れである。母を求めるように、彼女達はロザリーへとすがりついた。そして再び立ち上がるきっかけをくれたノーラが、代表してロザリーの背中を押す。
「ロザリーさん、私達、あなたの事は忘れません……! 絶対にまた、会える日を信じています!」
泣きながらうなずく子供達。最後の一人であるメアは別れ際にポケットから飴を出し、ロザリーに手渡した。
「ろあいー、こえ、あげう」
「ありがとう、メア。ん、おいしい……」
少し、安心する蜂蜜の味が広がる。それをほおばると、ロザリーは再びギュスターを見つめた。そして、こうして自分の理想を歩む覚悟をくれた事に、ロザリーは改めて感謝の気持ちを覚える。みんなの死を絶対に無駄にしない。そう固く誓いながら、ロザリーはゲートをくぐった。
その先に待つ運命、いや、自分で切り拓くべき未来へと向かって。
聖誕祭の夜。刻一刻と運命の時が近づき、聖女は言われるまま純白の聖衣に袖を通していた。侍女達はあれこれと慌ただしく儀式の準備を進めている。そう、今夜はいよいよ教皇と聖女の婚礼の儀式が執り行われるのだ。
「星が、きれい……」
聖女は一人、誰の目も届かない軟禁部屋で窓の外を眺める。逃げられないよう備えられた窮屈な格子窓の向こうに広がる夜空は、とても美しかった。それは、ただこうして見ている事しかできない風景。だが、あの人が見せてくれた新しい世界の風景は、自分の手でも触れられる気がしてもっと素敵だった。そして彼方に見える一等星のきらめきのように、眩しかった。出来る事ならば後先も考えずに、全てを捨てて踏み出してみたいとすら思えた。
(でも、きっともう二度と、見られない。私は、あの人の妻になるんだ)
婚礼。それは添い遂げる事。教皇の妻となるという事は、それまで籠の鳥であった彼女の人生が、これから終わりの時まで確定する事を意味する。
(それが、聖女。それが私の、役目だから)
愛情。そんなものはない。ただ、言われたとおりに、この聖体を差し出すだけ。そして子を産み、育て、それを次の操り人形とする。
母という存在すら知らない自分は、どうやって生まれてきたのか、何も分からない。自分は本当に望まれて生まれてきたのだろうか。あの子、女教皇エトランザのように、脅迫的な感情によって生み出された存在なのではないか。そしてきっと、自分もそれと同じ事をするのだ。まだ見ぬ我が子を思うたび、そんな事ばかりが頭を巡る。
(それでいいの、きっと。私に、意思なんていらない。だけど……)
今日、初めて知った感情がある。
それは恋慕。彼女がくれた、素敵な感情。心のまま、どこまでも羽ばたいていけそうな、熱い感情。いや、彼女がくれたものは他にもある。世界の真実、そしてかすかな希望。
(あの人みたいに、私にも、できるのかな。どんなに怖くっても。負けるって、分かっていても)
死を望めば、全ての苦しみから解放されると思っていた。
けれど彼女の見せた叛逆こそ、死のその先にあるもの。
きっとそこにあるものは、夢にまで見た希望という未来。
「だけど、神様に逆らう事なんて……私にはできない。できないよ……」
レースのカーテンが揺れる。
そのつぶやきを聞き入れるかのように、ふっ、と誰かが聖女の綺麗に整えられた髪を撫でた。それは、何よりも優しい手。そして、彼女が夢にまで見た、温かな手。
「短い髪も似合うわね。やっぱり少し、あの子に似ているわ」
振り返ると、優しく微笑むあの人がいた。夜空のかすかな光を浴び、その人はひときわ美しく輝いていた。
「あ……、ああ……」
二度と叶う事はないと思っていた人との再会に、聖女の胸は張り裂けそうなほどに高鳴る。
(そっか。私の神様は、ここにいたんだ)
不意に涙がこぼれた。彼女は今度こそ、自分を救いに来てくれたのだ。二人はしばし見つめ合い、やがて聖女は深く目を閉じた。この世界と別れを告げるために。
「どうぞ、私を救って……叛逆の、魔女様」
聖女は跪き、あの時とまた同じように首を差し出した。そこからあふれ出す様々な想いを受け取り、ロザリーはゆっくりと頷く。
「そうね……もう終わらせましょう。こんな、地獄は」
「うん……」
ようやく楽になれる。そんな涙と共に微笑む彼女に向け、どこまでも研ぎ澄まされた刃が放たれた。
「はあああっ!」
ロザリーは渾身の力を込め、剣を振り払った。
それは、聖女の頭上を掠め、鉄格子もろとも窓を両断する。そして一つの世界が砕かれたような音の中、そのたくましい腕に抱かれる聖女。
「え……」
「行くわよ!」
ロザリーは、ためらいもせずそこから階下へと飛び降りた。上階から着地するのは容易ではなかったが、二人分の重さを何とか耐えきった。新たに背負った重い運命だが、ギュスターが、キルが、みんなが支えてくれた気がする。そしてそのまま勢いをつけ、ロザリーは薄暗く広がる森の中へと逃げ込んだ。
「ここは……」
どこか肌寒い。聖女は、今になって外の世界にいる事に気付いた。けれど、新しい景色はその瞳に映らない。ロザリーの胸の中に抱かれながら、彼女はずっとその美しい顔を見つめていた。
「いやああ、聖女さまぁ!!」
遠くで侍女の叫び声が響いた。じきに気付かれる。ロザリーは夢中で走った。すると、目の前にまたしても空間の歪みが現れる。二人は躱すことも出来ずに、その中へと飛び込んだ。
「……っ!?」
気がつくと二人は、すでに森を抜けた先にいた。遙か後方に聖堂の鐘だけが見える。どういう訳か先程のように、空間を飛び越えてここまで来たのだ。
「まさか、彼女が……?」
こんな事が出来るのは邪神アルビレオしかいない。しかし、彼女との約束には背いた事になっているはず。まさか助けてくれたとでもいうのだろうか。そんな事を考えていると、再び目の前に歪みが生じた。
「くっ、私を試しているの?」
「大丈夫。信じて」
何かを理解した聖女は、ただそうつぶやいた。ロザリーは恐る恐るそれに入る。すると今度はさらに街を遠くにした全く違う景色が広がった。もう、聖堂の鐘も見えない。ひとまず安心したロザリーは、木陰に潜み乱れた息を整える。
「はあ、はあっ、は……」
次に息を吸い込んだ瞬間、何かがロザリーの口を塞いだ。驚いた彼女は呼吸が出来ずに目を見開く。
「……っ!」
目の前には、聖女の潤んだ瞳。二人は、再び口づけをかわしていた。口の中に残っていた飴が溶けるほど、柔らかく、蜂蜜の味がする甘い一時に、二人はしばし酔いしれた。
「ん……ふ……」
――ああ、ロザリー……。
聖女の中で、感応的な何かが声を上げる。これまで正道とされる教えによって押さえつけられていた彼女が、一度知ってしまった禁断の味。最大の異端とされるその行為こそ、彼女に備わっていた本能が求めるものだったのだ。
「くぷ……れろ」
全ての理性が破壊されるような口づけ。二人の唾液は混ざり合い、敏感な舌先で互いの粘膜を刺激し合う。それはこれまで経験した、どんな快楽よりも遙かに肉体と精神とを満たした。いや、これまで魔女という孤独の檻にいた二人は、確かにその瞬間、心の殻を脱ぎ捨て深く深く繋がっていた。
「ん……」
絡めば絡むほど、沈んでいく底なし沼。しかし次第にロザリーは正気に返り、得体の知れない罪悪感と共に聖女から顔を離す。
「ぷはっ! 私は、なにをっ……!?」
「接吻だよ。気持ち、よかった?」
「えっ、あっ……うん……。でもこんな事、誰ともしたことないのに、私……」
ロザリーは耳まで顔を真っ赤にし、目を伏せながら少しふくれてみせた。
「すごかった。一回目にした時よりも、ずっと」
「一回目? いつ!? いつしたのっ?」
「ふふっ。ひみつ」
聖女はただいたずらに、クスりと笑う。年上に見えて自分よりもウブな彼女をからかうのが楽しいのだ。
「……もう。聖女という割には、ずいぶんとマセているのね」
「ごめんなさい。ただ、世界が、見えるの。あなたとこうしていると」
「世界が……?」
ロザリーはどぎまぎしながらその言葉の意味を考えたが、さっぱりと分からない。ひとまず落ち着きを取り戻すため、抱えたままの聖女を下ろしてあげた。
「ロザリー……私、ずっと、あなたを待ってた」
「えっ?」
「あなたなら、私をこの世界から救ってくれるって」
「ああ、そんな事、言っていたわね」
「それは私から、世界を救うことでもあるの。だけど、私はまだ、生きてる。あなたは……これで、いいの? これが、あなたの出した答えなの?」
なぜか自分の名前を呼んだ聖女に対し、ロザリーは微笑んでみせる。不思議とこの少女とはずっと共にいたような気がして、むしろそれが当たり前に思えたのだ。
「そう……そうね。きっとそう。私は、あなたを救いたいと思った。ごまかしなんかじゃなく、本当の意味でね。それだけよ。世界なんて、私にとってはどうでもいいわ」
聖女の透き通るような青い瞳から、涙が溢れてくる。そんなわけがない。この自分が、魔女に赦される事なんて、あるわけがと。
「私は、聖女なんだよ? 魔女よりも恐ろしい、本当の……」
そっと、震える唇を塞ぐ指。吐き出されるはずの言葉は、その暖かな温度に行き場を失った。
「だめよ、それ以上は。あなただって、死のうとした私を助けてくれたじゃない」
「それは……」
「あなたは一度死んだの。これまでの、弱い私と一緒にね。それに、魔女なんていないわ。それは、人の心が作りだした弱い心そのもの。私の心も、聖女という悪魔を勝手に作りだしていた。でも、そんなもの、どこにもいなかったわ。……ね、そうでしょ?」
確かに、目の前の人は魔女とはほど遠く、むしろ、彼女こそが聖女のような存在にすら思えた。聖女は、震える手で自身の高鳴る胸を押さえる。
「弱い心が、作りだした、私……」
――そうだよ、聖女様。
いつしか、その心に生まれた声。口づけにより再び目覚めた彼女もまた、深い絶望の中の聖女へと呼びかける。
――聖女様……あなたは、生きて。これ以上、魔女という悲しみを増やさないために。ロザリーだって、それを望んでるよ。
なぜか、ロザリーの事を知る彼女。聖なる魔女と自らを呼んだ彼女は、少しだけ辛そうに続けた。
――生きるという事に、誰のゆるしもいらないの。わたしと違って、今を生きるあなたにしか、それはできない事。だからどうか、生きる事を怖がらないで。
自身を肯定する言葉など、これまで数え切れない程に聞いてきた。しかし、それは自分ではなく、聖女という存在に向けて放たれた言葉。しかし今ここに彼女達が見ているのは、紛れもなくこの魂。この世に一人しかいない、自分自身に向けたものであった。
「ほら、涙を拭いて。あなたには、笑顔が似合うわ」
「……笑っても、いいの? こんな私でも……生きていても、いいの?」
「ええ、辛い事もあるだろうけれど、生きましょう……これからは、一緒に」
「うん……うんっ!」
聖女は涙混じりに、初めて心からの笑顔を作ってみせた。
愛。それは、人が、人であるための感情。
この人となら、どんな明日だって怖くない。
二人は互いを確かめるように指を絡ませ合い、手を繋いだ。まるで初恋が叶った恋人同士のように。
こうして、私と聖女、二人の旅は始まった。それは、世界を敵に回す戦いの始まりでもある。そこに祝福などはない。あるのは、険しい道のりだけ。だが構うものか。誰かの用意した運命を踏み抜いて、私達は走り出した。
マレフィカ。それこそが、この世界の残した最後の純真であると信じて。
―次回予告―
思えばいつも一人だった。
だけど隣にはあなたがいて、繋いだ手はぬくもりを返す。
二人、それは微熱の誘い。
第8話「二人」