第6話 『暗い底で』
これは、いつも見る夢。
空を覆い隠すほどの黒い影に、獣のような男の咆哮。
目の前で倒れていく大切な人たち。そして、鋭く、鈍い脚の痛み。
悪夢の最後には決まって、ある少女が微笑みかける。
私を救ってくれた一人の魔女。
ふわふわの髪をした、やさしい少女。
それは、やがて聖女の姿と重なり、消えていった。
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「まって……!」
手を伸ばし飛び起きるロザリー。しかし、何かに繋がれたその手は何かを掴む事もなく静止する。額からは冷たい汗が流れ、乱れた息を整えるのにしばらく時間を要した。
「はあ、はあっ……また、あの夢か」
ロザリーは薄暗くカビ臭い部屋の中で、ようやく意識を取り戻す。頭は未だぼんやりとしており、どこか現実味を伴わない。
「ここは……?」
はっとして自分を見ると、露出の多い衣装のままで手と足の四方を鎖で拘束されていた。どれくらい経ったのだろう。時間の感覚も分からないほど眠っていた気がする。あの時受けた聖女の光による外傷はなく、むしろこの体を暖かく包んでいてくれたように感じた。
(私は確か、聖女と戦って)
次第に、覚醒した脳は不都合な記憶を辿り出す。そして一つ一つ、あの作戦で起きた出来事を追体験するかのようにこの身に起きた現実を知らしめた。
「あ、ああ……」
聖女暗殺作戦は失敗に終わり、逆十字は壊滅した。
だが、自分はまたしても助かった。いや、惨めにも生き延びたのだ。
作戦前に見た、みんなの笑顔。思えばあれが、彼らとの最期のひとときであった。
「キル……ギュスター……みんな……」
血だまりの中、倒れる同胞の亡骸。そこに転がる、よく見知った顔。聞こえるのは、自身を親代わりに育ててくれた、優しい祖父の断末魔。そして、好きだった人の、死に際の微笑み。ロザリーは最後に見た光景を思い出し、一人声もなく泣いた。
しばらくして、汚い格好をしたやせぎすの小男がその部屋へと入って来る。その目立つスキンヘッドには、焼きごてで付けられたようなガーディアナの紋章が入れられていた。おそらく、元罪人であろう。
「気がついたか。立て」
「…………」
泣き疲れたロザリーは言われるがまま、男の前に立った。男は様々な拷問器具を手に持ち、値踏みをするようにその体を眺める。
「久しぶりの上玉だ。ここの所、来るのはガキばかりだったからな」
彼が喋る度に生臭い息が届く。ロザリーは思わず顔をしかめた。
「聞いたぞ、聖誕祭で聖女様の命を狙ったというのは貴様だな。ふん、いかにも魔女の国の奴らが考えそうな事だ。どこまでもその性根が腐ってやがる」
「ふっ、あなた達の頭もずいぶん腐っているようね。聖女……あの子も、その魔女とやらだったわ。だったらここも、魔女の国ではない?」
「な、貴様ァ!!」
激高した男は、ロザリーの腹へと洋梨のような形をした拷問器具の先端を何度も打ち付けた。
「ぐふっ!」
「聖罰、聖罰! 聖罰ゥ!!」
「うぐうっ!」
男は次にその器具を操作し、下ぶくれに膨らんだ金属の分割部分をゆっくりと開いて見せる。いくつかにパクっと開いたそれは、あまりにも残酷な姿をしていた。
「ククク、これは苦悩の梨と言ってな、貴様らの穴という穴にねじ込んで使うのさ。中でもアレに突っ込んだ姿は見物だぜ。どんな生意気な女も、泣いて助けを請うようになる」
これまでに何人もの女性が彼の拷問の犠牲になったのだろう。部屋を見渡すと、あらゆる箇所に棘の生えた椅子や、焼きごて、指を締めるための器具などが所狭しと並んでいた。
「どうだ、もう一度言ってみろ。その内蔵ごと全部ひっくり返して欲しければな!」
「う、く……」
流石におとなしくなったロザリーは、そのまま念入りに身体を調べられた。どこかに武器を隠し持っていないか、それこそ隅々まで。これまで生きてきてここまでの羞恥は初めてであったが、今は抗う術もない。
「……んっ」
「ほう、処女か。これから死ぬかもしれないってのに可愛そうな女だ。魔女なんぞ、気持ち悪くて抱いてすらもらえないらしい」
「そんなこと、あの人が思うわけ……!」
「おっと、暴れるんじゃねえぞ。貴様の武器は全て回収した。さらに聖女様によってご自慢の異能まで取り上げられては何もできはしまい」
そう言うと男は乱暴に胸へと手を伸ばし、強く握った。そこは前日、キルに触れられた場所。思えば、あの人との唯一の交わりを穢される屈辱にロザリーは唇を噛みしめる。
「くう……」
「しかし、つくづく魔女にしておくにはもったいない女だ。この無駄に扇情的な身体は何のためにある? そう、全て男に奉仕するためにある。どうだ? 俺様の奴隷になるってなら、助けてやらん事もないぞ」
「……そうね、だったら自由にしてみたら? きっと一秒もかからないわ。あなたをねじ伏せる事なんて」
ロザリーは男に向け、ぞっとするような視線を向けた。どこか女性に対し持っていた優越感すらも、粉々にするほどの視線を。
「くっ! ……もういい、行け! 問題なしだ!」
検査はそこで中断され、武装した看守らしき男が入ってくる。続けてロザリーは一時的に拘束を解かれ、看守と共に拷問部屋を出た。
(このくらいの事、覚悟はしていたけど……)
男から乱暴に扱われた身体がズキズキと痛む。ロザリーとしても、自分の置かれている状況はすでに把握していた。魔女ならば一度は考える結末。とうとう仇敵ガーディアナに捕えられたのだ。おそらくここはマレフィカの一時的な収容所だろう。この先は奴隷として売られるのか、それとも処刑されるのか。どちらにせよ、暗い未来しか待ってはいない。
「目を閉じて進め。おかしな動きを見せれば殺す」
「く……」
言われたまま道なりに進むと、檻で塞がれた部屋が並ぶ通路へと出た。するとロザリーは看守から44という番号が刻まれたチョーカーを付けられ、その一室へと放り込まれた。
「便宜上、これから貴様をナンバー44と呼称する。食事は一日二回、ここに運ぶ。排泄は部屋の隅に備えられた穴にて行え」
ロザリーに与えられたのは、どこか記号のような名と簡素な石畳の牢である。どうやら本物の魔女は人間扱いすらされないらしい。
「すん、すん……」
「だれか、来たぜ」
「うん……」
近くからはすすり泣く声や、ひそひそと話す声が聞こえる。暗くてよく見えないが、ここには他にも数人のマレフィカが捕らわれているようだ。
「成熟した魔女は本来ならば個室行きだが、我々は今忙しい。異端審問会からの迎えが来るまでの間、俺達の代わりにここで子守でもしていろ。いいな、下手な事は考えるなよ。そうすれば命までは奪いはしない」
そう言うと、看守はロザリーを鍵の掛かった牢へと閉じ込めた。どうやら囚人に仕事を押しつけ、早速自分の持ち場へと戻っていったようだ。子守を押しつけるという事は、ここにいるのは全て子供だろうか。
「ふう、ようやくゆっくりできそうね」
「……あの、これを、どうぞ」
看守の足音が聞こえなくなると、一人の少女がロザリーにボロ布を差し出した。少し小さいが、これで十分に体を隠すことができる。ロザリーは早速それをまとい、一応の感謝を伝えた。
「ありがとう、胸までしかないけれど」
「先日、病気で亡くなった子の物です。すみません」
「そう……」
失意のロザリーは一人、部屋の奥で力なく腰を下ろす。見たところ、ここには自分以外に四人のマレフィカが押し込められているようだ。
ナンバー41。先程布きれをくれた、やさしい顔立ちをしたブラウンのお下げ髪の子。
ナンバー42。すすり泣くブロンドの二つ結びの子。その顔はどことなく気品がある。
ナンバー43。ふて寝している、気の強そうな顔をしたツンツン髪の少し背の高い子。
そして、ナンバー39。前髪で顔があまり見えない、一人で何かを話している蜂蜜色の長髪の子。
一つ飛んでいるナンバーは、すでに亡くなったという子のものだろう。
(かわいそうに。異能に目覚めたばかりに、ここへ連れてこられたのね)
皆全て、くたびれた布きれを着ただけの幼い子供である。思えば先程の暴力的な検査は、この子達に対してさえ行われたのだろうか。ロザリーはあらためてガーディアナの非道な行いに怒りが込み上げてきた。
そんな物思いにふける彼女へと、またもや掛かる遠慮がちな声。
「あ、あのっ」
「なに?」
「あの、私、ノーラといいます。ここでは一番お姉さんでしたので、色々とあの子達のお世話を任されていました。あなたにも教えられること、きっとあると思います」
さっきのお下げ髪の子だ。どうやらお節介好きな子らしい。自分に近づけば、また不幸が訪れる。そう思ったロザリーは、少しだけ邪険に返事をした。
「そう、偉いわね。でも私なら大丈夫よ」
「そう、ですか……出しゃばってごめんなさい」
暗い部屋に灯った笑顔が消える。ロザリーは後悔した。やはり子供の悲しむ顔など、どんな状況であれ見たくはない。
「いいえ、子守は昔やっていたから得意というだけよ。ノーラね、頼りにさせてもらうわ」
「は、はいっ!」
屈託のない笑顔。ロザリーは気分を紛らわすために、少し彼女の話し相手をしてあげる事にした。
「あの、今日は聖女様の聖誕祭の日ですよね? そんな日に、あなたはなぜここに? もしかして、ガーディアナに逆らったのですか?」
「そうよ。ふっ、笑うでしょう? こんなにも無力だったとは知らずに、レジスタンスなんて気取ってね」
「いいえ、すごい事ですっ。私にはそんな勇気すらありません。私達魔女は、生まれながら罪を背負う子羊。ただ運命に従い、こうして正教の裁きを受けるしかないのです」
「なんですって……?」
全てのマレフィカはこうなる事が最初から決まっていたとでもいうのだろうか。あらゆる死を見てきた。だが、魔女達はそのどれもが清くあったのだ。不浄なる烙印を受けたのなら、せめて、誰より人間らしく生きようと。
「運命なんて、そんなもの……」
それは、自らの全て、そして死んでいった仲間達を否定するような言葉であった。ふつふつとロザリーに抑えようのない怒りが沸き上がる。
「そんなもの、私は認めはしない! 私達は人間だ! 誰からであろうとこんな扱いをされる謂れはどこにもない!」
「ごっ、ごめんなさい……」
突然のロザリーの怒号に驚き、部屋の少女達が次々と集まってきた。そして何かを感じたのか、それぞれ心配そうにこちらの顔を覗きこむ。
「おねーたん、おこってうの? でー、でー。こえ、なめう?」
「え……」
そう舌っ足らずに話す長髪の子は口からあめ玉を取り出すと、惜しげもなくこちらに差し出してくれた。ニコッと笑う口元から見える歯は、すでに数本しか残っていない。おそらく、まともな教育も受けられずにここへと収監されてしまったのだろう。少しだけ覗いた片眼は白く濁り、すでに失明しているようであった。
「メア、大丈夫よ」
ノーラがそれをメアの口の中に戻す。すると彼女は再び口をもごもごさせ、飲み込んでしまった。
「んきゅ。そっがー、おねたん、だえ?」
「お姉さん、誰? と聞いています」
「……ロザリーよ」
「そっがあ、ろあいー、ろあいー」
「気にしないで下さい、メアはこういう子なんです」
メアと呼ばれた子は、落ち着きなくじっとこちらを見つめている。ロザリーはこれ以上彼女に不安を与えないよう声色を落ち着かせた。
「こんな子まで牢獄に……驚かせてしまったわね、ごめんなさい」
「いえ、確かにあなたの言うとおりです。私は、運命と戦う勇気がないだけなのかもしれません。ううん、全ての魔女もきっと」
「ふ……戦った所でこれではね。私は、聖女を倒す事で全てのマレフィカを救おうとしていた。そして独りよがりに私の力で救えると思い上がって、仲間達まで巻き添えにしてしまった。……結局私も、聖女の裁きをこの身に受けた弱き魔女なのよ」
「そう、だったんですね……」
あの、身を焦がすほどの光。今思えば、あの光によって自分は今も惨めに生かされているのかもしれない。あの時の自分は、自ら生を捨て死のうとしたのだから。それは命を奪おうとする者にまで向けた、大いなる慈悲。ノーラは暗い天井を見上げ、まるで崇拝するかのように聖女について語り出した。
「ガーディアナの聖女……私達も、彼女に浄化されたから分かります。彼女は特別なんです。絶対に逆らってはいけない。聖体を焼かれたのなら、霊魂までも差し出す。それが、この世界の掟なんです」
「特別……立場としては、そうかもしれない。でも、彼女も私たちと同じマレフィカで、ただの一人の少女だった。そして、確かに私に救いを求めていたの……」
――あなたが、救ってくれるの? いいよ、綺麗な人。
あの時の言葉を今も鮮明に覚えている。一つだけ心残りがあるとするなら、その言葉を聞きながらにして、何も救えなかった自分。このまま彼女は、心を無くしながら自分のような魔女をこれからも裁いていくのだろう。
「あの子は、私と同じ。何も出来ずに、運命に縛られ、その罪を重ねる。いえ、それは魔女ならばみんなそう。だから私は、全てのマレフィカをこの地獄から救いたい。もう、いつかの時のような思いは、したくないの」
「だからって、あなた一人が全部背負わなくたって……」
心配そうに見つめるノーラの姿が、夢にまで見る、鮮烈な記憶と重なった。
目の前で倒れる小さなマレフィカ達。そして、自分に微笑みかける少女の優しい瞳。ここに来てまでなお想うのは、その時の光景ばかり。
(パメラ……)
脚の傷跡から鋭い痛みが走る。その度に何かが、ロザリーの内で静かに燃焼する。それは決して燃え尽きる事のない、小さな魂の灯火。
「かつての魔女狩りで、私は一人の魔女に命を助けられたの。その、小さな命と引き替えにね……。だから、マレフィカを一人救う度に、なんとなくだけど、あの子がね、救われるような気がするの。これは、ただの独りよがりなのかもしれないけれど」
「ロザリーさん……」
目の前の、救いを求める事すら諦めた少女達。一度、いや、二度敗れたからといって、このままそれを見捨てるというのか。
この冷たい牢獄の中、彼女達は布一つで寒さに耐えている。
もし母だったら、まずはこの子達を優しく抱きしめてあげるのだろう。
魔女達の母。それが自分にできる、せめてもの……。
「ねえ、おいで。こんな石畳の部屋、寒いでしょう」
「え、え……?」
「いいのよ。私にできるのは、こんな事しかないのだから」
「わーい、ろあいー、ぽっかぽか!」
ロザリーは思わず近くにいたノーラとメアを抱きしめる。
今にも折れそうな程にか弱い存在。それでもこうしてかすかに熱を放っている。だが差別という風によってこの熱が冷めてしまった時、この子達の生きる力もきっと失われてしまうのだ。
「ほら、あなた達も」
未だロザリーを警戒し、ただ見ているだけの二人にも声を掛ける。二つ結びの子とツンツン髪の子は困惑し、反抗期の子供のような悪態をついた。
「なんでそんな事しなきゃならないのよ……私達、明日死ぬかもしれないのに」
「ふん、オレ達はみなしご。ずっとこの身一つで生きてきたんだ。そこにいる甘ちゃん達とは違うんだよ」
ここへ来た経緯は知らないが、この国にいればこうなるのも無理はない。だからこそ、ぐずる二人へとロザリーは強引に歩み寄った。
「そう、それなら……」
「ば、ばか、やめろー!」
「むぐっ」
力で敵うはずもなく、反抗的な二人はもがきながらロザリーの胸へと沈み込んだ。
「ほら、あったかいでしょ。私が泣いた時も母さんは、よくこうしてくれたわ。すると不安な気持ちが消えて、不思議と心が落ち着くの」
「う……うん」
「ぐ、ぐす……ママ……」
皆、寂しいのだ。それは自分も例外ではない。母が抱きしめてくれた理由が、今ならばよく分かる。ロザリーは子供達に、逆に生きる力を貰った。
「私は……この命を救う。たとえ、神に反逆してでも」
そう、それこそが私の生きる誓い。
死んでいった仲間の為にも、ここで終わるわけにはいかない。
自分の正しいと思う道を選ぶ。だから、もう……迷わない。
――ロザリー、諦めてはいけません。世界を変える、その時まで。
キルの今際の際の言葉が後を押す。再び、ロザリーの目に光が宿った。
「ノーラ、私ね、もう一度、聖女に会ってみたい。いえ、私は会わなければいけない」
「そんな、また酷い目に会うだけです! 大人しくしていれば殺される事もないのに!」
ロザリーは、ノーラの頭を撫でた。そっと、やさしく慈しむように。
「昔ね、あなた達くらいのマレフィカの子供達が、私を慕ってくれていたの。誰も救えなかったけれど……彼女達の思いが、私のこの傷には刻まれている」
ロザリーは痛々しい脚の傷を見せた。子供達は自然と、それに手を伸ばす。その痛みを共有したいと思ったのかもしれない。
「ここに託された想いを、私は忘れない。忘れたくない。そう、私に許された自由は、絶望しない事だけ」
ここまで来たら、最後まで足掻く。この子達のためならば、情けないこの魂をまた燃やすことができる。
「だから、今度は必ず……!」
「ロザリーさん……」
ロザリーの決意に、ノーラは涙を流した。その言葉に、世界をも変える程の決意を感じ取ったのだ。
「分かりました。でしたら……私も、ご一緒させてください!」
ノーラはなけなしの勇気を振り絞り、ロザリーの手を取った。そのか細い手で、しっかりと、力強く。
「さっきはごめん、ロザリー……。だったらオレも手を貸すよ。オレはカイってんだ、この辺じゃちょっとばかし有名なストリートチルドレンのリーダーさ。よろしく!」
ツンツンと髪の子が、拳を握りロザリーに突き出す。こちらもそれに拳を合わせると、彼女は頼もしく笑いかけてくれた。
「ジュディ、お前も行くぞ」
「嫌よっ! わたしは行かない! どうせどこにも魔女に居場所なんてないんだから!」
残る二つ結びの子が、泣きながらぐずり出す。
「一人で残すわけにはいかない。奴らに何をされるか分からないわ」
「ぐす……だって……私の家、もうないもん。ここを出たって、裕福な暮らしなんて、もうできないもん」
「外の世界が怖い? だけどここにいても、もっと怖い事だらけよ。それなら、みんなと一緒の方がいいでしょ?」
ロザリーは、そんなジュディにも手をさしのべる。それは、今まで触れた事のないような暖かな手であった。安心したジュディは泣き止むと、その手をとり涙をぬぐった。
「いい? 次に扉が開いた時、一気に逃げ出すわ。看守は私がなんとかする」
「にげうー?」
メアだけはどこか脳天気にあめ玉をまだ舐めていたが、皆、黙ってうなずいた。
「上手くいく、絶対に上手くいく。だから神様、どうか……」
ノーラは一人、神様へとお祈りをした。ガーディアナの神などではなく、自分達を見守ってくれているはずの、それぞれの神に向けて。
「そう……私達マレフィカは、運命になど屈しはしない」
ここまで堕ちたのは、再び這い上がるため。
ロザリーは改めて運命とやらを勝手に押しつける神へと、叛逆の誓いを立てるのだった。
「食事だ。貴様ら魔女も聖女様のお力により、悪しきその魂は浄化された。だが、それではまだ不完全だ。聖体を育む事こそガーディアナの教え。この神の施しが、その血肉となる感謝を常に忘れるな」
数時間後、ロザリー達の前に食事が運び込まれた。
質素なものを予想したが、案の定それらは生かさず殺さずを目的とした、囚人用の最低限の食事である。ロザリーは毒味をするつもりで、その粥のような料理を一口食べてみた。
「うん……これでは栄養が偏るのも無理はないわ。それに、味付けも単調。見なさい、この子達の身体。育ち盛りだと言うのにこんなにやせ細って」
「く、確かに一人死なせてしまい枢機卿にお咎めを受けたが、食事が原因だったか……」
「料理は知識と愛情よ。正しい食事こそが、その聖体とやらを育むの。私の身体、あなたにはどう映る? 魅力的だと思わない?」
ロザリーは立ち上がり、少しだけ女性的なポーズを作って見せた。今にも健康な子供を産めそうな、肉感的なプロポーション。ガーディアナにおいて、それこそが魅力的な女性の第一条件である。厳格な戒律の中に置かれている看守は、たまらず生唾を飲んだ。
「ご、ごくり……」
ランタンの灯りしかない事が幸いし、真っ赤になった顔を見られずに済んだ。ギュスターにさんざん小言を言われたこの身体。こうなったら女性の武器でもなんでも、使ってやろうではないか。
「ねえ、少しだけここを出してくれたら、色々といい事教えて上げるわ。料理だけと言わず、あんな事や、そんな事も……。だけどさすがに子供の前では、ねえ?」
「う、うむ、確かに魔女といえどこれ以上犠牲は出せん。あくまでお上の為だ、少しくらいなら自由にしても構わんだろう」
男は期待に様々なものを膨らませ、鉄格子を開く。
待ってましたとばかりに、ロザリーは男へと近づいた。
「ありがとう、この身体も少しは役に立つのね」
「何……!?」
勢いよく首筋に手刀が振り下ろされ、看守はたまらず失神した。恵まれた聖体であると同時に、そこに育まれた筋量も尋常ではなかった事が彼の唯一の誤算。
「ロザリーさん、凄いです!」
「私もこんなに上手くいくとは思ってなかったわ。さあみんな、急いで!」
ロザリー達は、驚くほど簡単に牢獄から抜け出す事ができた。聖女の光を浴びた魔女が再び立ち上がるなど、彼らにとっては予想外であったのだろう。
聖誕祭での騒ぎによって警備兵自体の数も減っているのか、騒ぎに駆けつける者も現れなかった。しかし、おそらく外へ出るには、先程ロザリーを恥辱に染めた男のいる部屋を抜ける他ない。ロザリーは子供達をかばいつつ、拷問室へと突入した。
「き、貴様はっ!」
「魔女を良いようにした罪、高くついたわね。覚悟は出来てるかしら?」
「くそっ、魔女ふぜいが!」
男は拷問器具を手に立ちはだかるも、本気となったロザリーの相手ではなかった。彼は長く伸びた脚から放たれた凄まじい蹴りを腹にくらい、血ヘドを吐いて悶絶する。
「ぐへえっ」
「もう一発だ!」
さらにカイによる股間への追撃が決まり、男は泡を吹いて倒れ込んだ。
「こいつ、さんざんオレ達の事好き勝手しやがって……!」
「そこは狙っちゃ……でもまあ、これで少しは懲りたでしょうね」
さすがに気の毒だが、これも人の尊厳を軽視した罰というもの。
「無事で帰れますように、無事で……」
怖がりのノーラは未だ一人、ぶつぶつと神に祈りを捧げ続けている。ジュディは何が起きているのか分からないままのメアの手を引き、泣きながらついてきていた。
「にげうー、にげうー」
「うわーん、怖いよぉ、もう帰りたいー!」
「みんな、もう少しよ!」
この状況で騒がしくわめくジュディであったが、なぜか待ち受けるはずの兵の姿が見当たらない。人が消える。そんな現象には心当たりがあるが……。
「でも変ですね……ここにはもっと看守がいるはずなんですが」
「好都合だわ。どこかに回収された私の武器があるはず、探しましょう」
すると武器庫の中に、ぞんざいに置かれた剣といくつかの短剣があった。他とは一線を画する鉄の塊。まさにロザリー愛用の剣である。
「あった、父さんの剣!」
「わあ、すごく大きな剣ですね……」
「ええ、これさえあればもう無敵よ。行きましょう!」
一同がおそるおそる最後の階段を上がると、地上から差し込む夕焼けの明かりが見えた。
「やった、出口です!」
「待って、誰かがいる」
そこへ突然、夕日を塞ぐように男の影が現れた。罠ではないのかと、ロザリーは一人剣を構え先行する。すると陽の光に慣れ、次第に男の詳細な容姿がその目に浮かび上がった。
「そのフードは……」
「ご苦労、自ら這い上がるとはな。おかげで助ける手間が省けた」
聖誕祭にて幾度となく見た、黒フードの男が告げる。
するとロザリー達の後ろから、さらに同様の格好をした男が数人、音もなく現れた。
「その女がここに存在した痕跡は全て消した。目撃者も、一人残らず」
「うむ」
子供達はただ怯えている。よく見ると男達の服は血で濡れていた。
あの日の夜からずっと暗躍するこの者達は何者であろうか。人が消えたり現れたり、まさに異能とも呼ぶべき力。まさか、地下牢からかくも簡単に脱出できたのも彼らの手引きだとでもいうのだろうか。
「あなた達は、誰なの……?」
「我らは邪教団イルミナ。貴様達魔女と、志を同じくする者」
「邪教団、イルミナ……」
「これからお前達をある場所へと連れて行く。ついてこい」
正教あれば邪教あり。
いつの世も正義の名は一つではない。それは正教に反するような教義の下、世界からこぼれ落ちた者達を掬い上げる、もう一つの影の教え。富める者あれば貧する者あり。そんな者達の縋る悪魔崇拝の組織があると、いつかギュスターに聞いた事があった。
しかし、正道とされるものがいかに幻想であるかを知るロザリーには、むしろそんな彼らの方が自分達に近しく映った。
「ロザリーさん……」
「大丈夫、あなた達は何があっても私が守るわ」
ロザリーは子供達の手を引き、その男達の後に続く。
先の見えないこの道で、かすかな灯火にすがりつくように。
―次回予告―
あの日の絶望は、今日までを生きる誓いとなった。
希望などない。だが、この身はまだ朽ちてもいない。
ならば今はただ、光へと向かって歩き出そう。
第7話「旅立ち」