第7章 番外編 『遙かなる頂』
伝説の龍が眠るという国、クーロン。その、うねるように空を駆ける姿を表すかのような八つの山々の一つは五行山に、“武術の天才”ともてはやされた少女がいた。
その名はリュカ゠レイフォン。神の気をその身に纏い、正しき心で正しき現し身を操る、齢十七の女道士である。
七つの頃、国を統べる八仙の一人ショウリに引き取られ仙境に身を置いて後、めきめきと頭角を現わした彼女は、同じく仙者を目指す道士達の中でも指折りの実力者として、次期仙者筆頭候補とまで噂された。
仙者とは、かつて生命の賢者とばれたクー゠ロンが残した人体強化術を実践した者達の総称で、それに選ばれた者は修練の果てに龍の気と同化し、人を越えた真人となり人々を導く定めを持つ事となる。
そのため道士達には、人並み外れた心、技、体の成育が必要とされ、数々の試練が時に与えられた。
ある者は絶世の美女からの誘惑に耐え、ある者は持てる全財産をも投げ出す事を迫られ、またある者は世にも恐ろしい怪物を前に、少しも動じずただ座して耐えたという。
こうして長く厳しい修行の果てに得られる仙者への道。若き道士リュカは自身もいつか仙者になる事を夢見て、師父ショウリと共に今日も修行に明け暮れていた。
「師父ー……毎日毎日こんな木の実ばっかりじゃ、力がでないよー」
五行山にひっそりと建てられたお堂にて、気の抜けた声が響く。
「ほほ、お前は武術の才には秀でるが、気の扱いには多少ムラがある。これは穀断ちといってな。気の濁りを取り去るため、穀物による糖を断つのだ。これにより余分な邪気は胎息(呼吸)と共に流れ、内なる気、内丹を鍛える事に繋がる」
「だから、山中のまつぼっくりを拾わされたのかあ。こんな事ならついでに野ウサギでも捕まえておけばよかったよ」
「日々是修行也。山の神に感謝を忘れず食せよ」
「はーい」
師父と呼ばれた優しげな老人はカッカッと満足そうに笑う。衣服を着崩したその身なりは簡素で、装飾品の類いは身につけてはいない。白々とした頭髪を後ろに流すだけの垂髪には、世俗のしがらみに縛られず、自然のままに生きるという意味が込められている。
「ごちそうさまでした! 今日も自然の恵みに多謝!」
「カッカッ……う、ごほっ、ごほっ」
「師父!」
笑った拍子に出た咳と共に、その純白の着物へと真っ赤な血液が飛び散る。
「く、内丹に乱れが……これはお前の事ばかり言っておられんのう」
「そんな事より休んで! どうしたんだよ、一体!? 仙者って、不老長寿で神様みたいな人の事なんだろ? 師父、最近おかしいよ!」
「ほほ、そんなものはない。仙者とは結局、神の伝えし力、神通力を得ただけの人に過ぎぬ。不老不死の伝説を持つ仙人という存在はただ一人、太上老クーロン様のみよ。人の生の終りは神のみぞ知る事柄。私なぞにはどうする事もできんて」
「そんな……」
落胆するリュカは師父を寝室へと連れ、安静に寝かしつけた。
「すまんな。老後の世話をさせるためお前を引き取った訳ではないというのに……」
「かまうもんか。師父のためなら、あたいは何だってする!」
「リュカ……。良い機会だ。お前に教えておかねばならぬ事がある」
師父は流れるリュカの涙をぬぐい、静かに語り始める。
「私は過去、過ちを冒した。それをどうしても話しておきたくてな……」
「師父が……?」
リュカは信じられないという顔をした。神にも近い師父が、過ちなどするはずがないと。
「ああ……言ったであろう、私もただの人だと。私はお前という弟子に恵まれる以前、ある一人の男を育てた。名をカルマという。その男はまさに稀代の才を持ち、お前すらも遥かに凌ぐ武術の高みへと瞬く間に到達した」
「そいつ、あたいの兄弟子ってこと?」
「そうだ。しかし、その驕りが良くなかったのかもしれん。奴はやがて八仙全てへと勝負を挑み、勝利を奪う事のみに固執した。奴は私を除く全員に勝利し、最後に私へとその牙を向けた。その思いはただ純粋な力試しであったのかもしれんが、悪しき気を感じた私は奴を再起不能なまでにたたき伏せた」
「そんな、いつも優しい師父が……」
「ほほ、私もかつては修羅と呼ばれたものだ。要するに、同じ穴のムジナ。私にも奴と同じ血が流れていたのかもしれん。勝利の美酒に酔い、必要のない力を振るったのだ。それから、すべての歯車が狂いだしたのよ」
師父の声からは優しさが消え、かすれてはいるが圧を感じるものへと変わる。
「私の体がこうも弱った理由、それは、奴の復讐にあった事にある。奴は私の許可も得ず、独断で仙者になろうとした。私との決闘により怪我を負った身体で仙龍山へと昇り、天に輝く太陽をも奪おうとしたのだ」
「なんで、そんな事を……」
「お前になら分かるのではないのか? 力とは、この世においてかくも不当な唯一の掟であるからよ。奴の出自は、数十年前に仙者の治める世の転覆を企てた猴巾族の忘れ形見。そんな長きに渡る猴巾の乱を平定した後、仙者の間では反逆者である猴巾族を根絶やしにすべきとする一派と、情けをかけるべきという一派の衝突まで生んだ。私は一族の粛正に反対したが、彼らによって蹂躙された民からの反発もあった。そして一人の赤子を引き取る事と引き替えに、渋々それを受け入れてしまったのだ」
その話に、リュカは生唾を飲む事しかできなかった。太平の世が続いたとされるこの国にも、こういった数多の反乱が歴史の闇に消えていった事は教えられていた。そして、頭の不出来なリュカにとって、どの選択が正しいのかまでは分かるはずもなかった。
「その呪いのような出自も、奴の取った行動の動機として多分に同情できる。だが、これは全て私の責任。私は仙龍山から帰った奴へと再び相対し、その息の根を止めるために全ての力を振るった」
「それで、師父は勝ったんだよね……?」
ショウリはかぶりを振った。目を閉じたその顔からは、すでに生気すらも感じられない。
「相打ち、いや、奴を仕留めきれなかった私の負けだ。奴は仙龍山の高みへと辿り着き、その秘術をも獲得していた。教えのない、ひたすらに純粋な暴力を奴は手に入れ、その通り力のままに暴れた。同じ流派であり、力としては互角。ならば、残るは勝ちへの執念のみ。私は甘さを捨てきれず、奴にはそれがあった。私はその時に負った傷のため、その後山を下り蹂躙の限りを尽くす奴を止められなかったのだ」
「優しさのせいで、負けたの?」
「ああ、一つの考えではそうだ。だが……そんなときに現れたのが、リュカ、お前だよ」
「え……」
その場面は、幼少期のリュカの記憶と合致する。あの猿面を被った、恐ろしく強い妖仙。あれこそが師父の弟子、カルマだったのだ。
「お前はその優しさのみで、奴に立ち向かい、それを退けた。つまり、最後に克ったのは、まぎれもなく自己を犠牲にした優しさなのだよ。だからこそ、私は最後にお前を弟子にした。一度は過ちを冒したが、次こそはと、もう一つの道をお前と共に模索したかったのだ」
「師父……、ううっ……」
リュカは再び泣いた。どこか天涯孤独の自分と重なる兄弟子の過去に対しても、愛する者に裏切られた師父の悲しみに対しても、そして、あの時にとった行いを、大好きな師父に褒められた事に対しても。
「しかし、それもここまで……うぐっ……」
「いやだ、いやだよ! 師父、行かないで!」
あれほど研ぎ澄まされた師父の気が感じられない。その不安から、リュカはかつてないほどに動揺した。すでにショウリの内丹は尽き、気力のみで天命へと抗っていたのだ。
「泣くなリュカよ。どうしても泣きたいときは、龍のように力強く哭くのだ。そして、その全てを力に変えよ。そう、私の生き様さえも喰らい、いつか、私の代わりに……」
その言葉を最期に、ショウリは息を引き取った。
「師父っ! 師父ぅー!!」
動かなくなった師を前に、リュカはいつまでも泣いた。慟哭のような叫びと、あふれんばかりの気が五行山をかけ廻る。
大陸全てに行き渡るほど巨大な気の消失。そして新しく産声を上げた天地を揺るがすほどの気は、深い地の底にいたある男に、いつかこの地で起きた悲しい闘いの記憶を呼び覚まさせた。
「……逝きおったか……」
猿の仮面に隠れた男の素顔から、黒く濁った一筋の線が伝う。
彼はその面を外し、洞穴内に伸びた鍾乳石へと引っかけた。その素顔は人の面影こそあるものの、獣のように逆立った髪、くぼんだ目の周りの朱色、もみあげから顎にかけての体毛、時折覗く牙と、まさに人外のものを思わせた。
その名はハマヌーン。またの名をリュカの兄弟子カルマにして、史上最強の妖仙となった男。
かつて猴巾族の崇めたとされる猿神ハヌマーンに自らを重ね、そのなり損ないである証としてやや滑稽な響きに改変し、ハマヌーンとして本名のカルマに似た発音からも遠ざけた。
ただ、そこまで自分を捨てても、やはりこの胸に迫る想いまでは隠しきれはしない。
「カァーッ!」
洞穴に響く一喝。その振動は細い通気口を通り、麓の街にまで響いた。
「儂はすでに地仙。天に昇りし天仙とは、二度と交われようはずもない。いつかこの魂が尸解し罪が許される時が来たならば……師父よ……もう一度、酒でも酌み交わそうぞ……」
ハマヌーンは再び面を被り、そしてもう一つ、新たな産声を上げた魂に向けつぶやく。
「小猿の咆哮か……。やはり似ておる。あれもまた、道に迷うか否か。未だ業深き道には無いが、儂の二の轍は踏ませまい。それが、儂に出来る最後の孝行よ」
男は筋骨隆々な肉体を地下水のせせらぎで清め、久方ぶりの地上へと出向いた。今や残る七仙全てから狙われる身ではあるが、それでも、師父の無念を思うとこのヒゲがこそばゆい。
「カッカッ、このハマヌーン、吾が身は太陽になれずとも、曇天の中にある妹弟子くらいは照らして見せようぞ」
風は吹きすさび、木々がざわめく。獣は逃げ、人々は不吉な予感に肌を粟立てる。人の世を捨てたはずの妖仙ハマヌーンの復活に、哭龍の大地が揺れた。
************
明くる日、リュカは師父の亡骸を丁重に弔い、国を治める七仙へと訃報を届けるため仙龍山の麓へと出向いた。
そのクーロンの中枢に立てられた道院、龍哭観。ここにはすでに、気の異変から全てを察知した仙者達が各々集まっていた。一道士であるリュカは深々とお辞儀をし、目の前に立ち並ぶ七仙へとひざまづく。
「ショウリ殿の弟子、リュカであるな。面を上げよ」
「は、はい!」
「ショウリ殿の訃報、私も未だ信じられぬ。この度は誠に惜しい人物を亡くした。リュカよ、厳しい修行にも耐え、よくぞその晩年を支えてくれた。私から感謝の言葉を贈りたい」
「もったいないお言葉……ありがとうございますっ!」
涙を浮かべながらリュカをねぎらう、品のある着物を身につけた男性。彼は八仙の中心人物だったショウリの腹心とも呼べる仙者で、名をドウシンという。クーロン一の剣の達人であり、リュカも時折稽古をつけてもらっていた。
「あの方はやや甘い所もありましたが、それが真人となった私達と下界の人々とを上手く結びつけてくれていたのかもしれません。かつての猴巾の乱においても……」
「その事はもうよい! カルマ……あれさえいなければショウリ殿も……」
若く聡明な風貌の仙者に対し、ドウシンがたしなめる。師父の話してくれた兄弟子について、そこにいる皆が苦い顔を浮かべた。
「師父はあた……私に全てを話してくれました。私は、師父の選んだ道が間違っていたとは思いません。最後に見せてくれた顔はあんなにも、安らかだったから……」
「そうか、私達から見ても苦悩に満ちた人であったが、今際の際、お前という存在が共にあった事に救われたのだろう。リュカよ、今後は私の弟子として精進を続けよ。ショウリ殿の忘れ形見だ、責任を持って立派に導いてみせよう」
「ドウシン様、抜け駆けはよくありませんね。彼女は以前から私が引き取ろうと決めておりました。ここは一つ、このカンシに譲ってはいただけませんか?」
先程の若い仙者が再び横入りする。すると、次から次に他の仙者も優秀なリュカの獲得に名乗りを上げた。
「待って、でしたら同じ女である私が適任じゃありませんこと? 女丹から房中術まで、女ならではの術を何から何まで、このカセンが教えて差し上げます。ねえ、あなたも知りたいわよね、リュカ?」
「ふむ、そんなのこの子にはまだ早かろう。ワシの所に来れば、何度でも蘇る無敵の肉体を得る事ができるぞい」
やがて七仙の間でリュカの取り合いが始まり、にわかに堂内がざわめく。リュカは嬉しさの反面、焦りを覚えた。新たな師父につく事になれば、流派の違いにより再び基礎からの修練が始まる。このままでは、師父の代わりとなるには何十年とかかるだろう。
「……あのっ、あたい、一つお願いがあってここに来ました! 弟子の話はその後でもいいですか?」
「うむ、他ならぬお前の頼みだ。何でも申しつけてみよ」
「あたい……仙者の道に挑んでみたいんです! あたいの全てを賭けて、師父と歩んだ道が正しかったって、証明してみせたいんです!」
仙者達は絶句した。いかにリュカが武術の天才といえ、それはあまりに無謀で浅膚な考えである。
「リュカよ、仙者の道はお前が思っているほど甘いものではないぞ。最年少で踏破したこのカンシでも、当時まだ二十であった。下手に挑めばどうなるかは、お前の兄弟子を見ても分かろう!」
「それでも、あたいはやってみたい、いや、だからこそやらなきゃいけないんです! あなたの育てた弟子は、あいつを越えたんだって所を見せてやらなきゃ、師父は……」
「むう……」
彼女が複雑な事情を抱えている事は皆承知だ。そんな中、答えに窮する皆をよそに一人の仙者がリュカの前へ出た。仙者の道を最年少で突破したという、カンシという青年である。
「分かりました。仙者の道の試練には二つあり、まずは学問を修めなければなりません。リュカにはまず、そちらをやってもらう事にしましょう」
「おいカンシ、本気か!」
青年は端正な目を細め、反対の立場を取るドウシンへと耳打ちした。
(道の神髄を極める事は、リュカにはまだ不可能ですよ。まずはここで篩いにかけ、諦めさせるのです。あなたもそれで、私の下で勉学の修行をさせるべきだと気づくはずですよ)
(うむ、それはそうだ……。勉学についてはショウリ殿もことさら手を焼いていたという。とてもあれが合格できるとは思えんな)
その提案に特に反対する者はおらず、カンシの案は可決される。
「よし、ではリュカよ。今回は一つ区切りをつけるため、昇仙の儀を特別に許可しよう。七日の後、お前にタオの試練を与える。それまではカンシの元で勉学に励むのだ」
「多謝! 師父の名に恥じぬよう、精一杯がんばりますっ!」
リュカはかえすがえす頭を下げ、カンシと共に龍哭観を後にした。
その後、彼の住む八行山で行われた地獄の勉強会については、今後リュカの口から語られる事はないだろう。彼の唱える念仏のような経典を思い出すだけで、その頭は何かに締め付けられるようにキリキリと痛み出すのであった。
そして迎えた試験当日。リュカは緊張のあまり、前日から一睡もとらずに龍哭観へと向かった。その緊張がピークに達したのは、会場内にある太上老の椅子を模した厳かな席に座った時だった。
「はっ、ひっ、ふーっ! はっ、ひっ、ふーっ!」
もはや正しい呼吸法もままならず、出産でもしそうな勢いである。その姿を目にしたドウシンは、やや罪悪感を覚えた。彼女がどれほどの研鑽を積んだかは分からないが、これも全て計略。全てが徒労に終わるのだ。
「しかしカンシよ。本当に大丈夫だろうな? もしリュカがタオの試練を突破するような事になれば、仙龍山への登頂も許可せざるを得なくなるぞ」
「いいじゃないですか。リュカには私の持てる全てを教え込みました。当たるも当たらぬも八卦。我々はただ、粛々と天命を受け入れましょう」
真にリュカを思ってこその計略である。その飄々とした彼の態度に、さすがのドウシンも呆れかえる他ない。
「なんと、貴様計ったな! もしあの娘まで妖仙になど落ちては、ショウリ殿に申し訳が立たんではないか!」
「妖仙……いつしか地仙をそう呼ぶようになって久しいが、果たして本当にそれが正しい事なのか……。迫害すれば反発を生むのは、いつかの乱でも学んだはず。天地をも総じて喰らう者こそが、真の人、真人ではないかと私は思うのです」
「頭でっかちはこれだからいかんのだ! 我々は為政者、この聖域にそんなおかしな思想を持ち込むべきではない! あの娘は女巫。いわゆる魔女だ。一つ扱いを間違えては国すらも滅びかねんのだぞ! この茶番が全てが終われば、リュカは私が引き取る。いいな!」
ドウシンは立腹し、ドスドスと別室にて試練を待つリュカの下へと向かった。
「やれやれ……ですがご安心を。あの娘は生半可な馬鹿ではありません。試験をまともに突破できるようになるには、あと半生はかかるでしょう。だからこそ、私はこの先に起こる未来が視えてしまう。リュカよ……どうか下手な気を起こすでないぞ……」
いよいよ試験が始まり、リュカはめくるめく設問と格闘した。このタオの試練では、全部で八千四百八十五巻からなる経典を全て暗記するのは当然として、歴史、経済、政治、こんな時あなたならどうするかといった人間力が試される問題など、あらゆる面でその資質が問われた。
「あっ……ちがう……消さなきゃ……ぎゃあ、紙が破けた!」
結果から言うと、当然、無理だった。
リュカはこれ以上ないほどに落ち込み、自分の石頭を岩という岩に打ち付けた。そしてどんな岩も自分の頭より脆かったため、自分には脳みそなど入ってないのだと泣いた。
ちなみに、人間力の問題のみ満点であった事は仙者達のみぞ知る所である。
こうしてリュカはドウシンの下で再修行する事が決定し、荷物をまとめるため五行山に一度帰省した。
師父と暮らしたお堂。ここには自分の全てがある。リュカは無数に転がる松ぼっくりの山を見て、師父との日々に想いを馳せた。
「うう、師父……師父ぅ……」
思えばこれまで、苦手とする勉学の修行はそこそこに、得意な体術の修行にいつも明け暮れていた。再び失敗を繰り返さぬよう次こそは厳しくしつけても良いはずだが、いつも自分を見守ってくれるその瞳は優しかった。
「……やっぱり、あたいの師は、あの人しかいない。そして、あたいは越えなきゃいけない。恩知らずでとんでもなくバカな、あの猿面を!」
考えるより先に、その脚は外を駆けていた。そう、考えたって仕方がない。どうせもとより頭などないのだから。
山を駆け下りる途中、麓にある安旅館が目に入る。リュカはここの女将に、返せないほどの恩があった。幼い頃父にこき使われ、飢え死にしそうな時に与えられた、山菜と鶏肉の鍋。10年ほど過ぎた今になっても、未だあの味が忘れられない。
「おばさん……」
脚が止まった。その顔を一目でも見たくて、ボロ旅館を遠くから覗きこむ。すると竹籠を背に、これから山菜を摘みに出かけようとする女将の姿が見えた。久しぶりに見たその姿は、とても豊かな暮らしをしているとはいえない、実にみすぼらしいものであった。
さらに、あの頃いたはずの旦那さんの姿も見当たらない。もしかすると、今はその細腕で一人切り盛りしているのかもしれない。リュカは今すぐその仕事を手伝ってあげたい衝動に駆られた。この自慢の脚なら、籠いっぱいに山菜を採ってあげられる。肉だって、魚だってたくさん……。
「ううん、あたいが立派になれば、もっともっと楽をさせてあげられるんだ」
全てが終われば、迎えに行こう。リュカはあふれる涙をぬぐって、再び野を駆けだした。
獣の低いうめき声のように、お腹の虫が鳴る。風呂敷いっぱいに詰めた松の実も、すでに心許ない数となった。
「師父、文句ばかり言ってごめん……。今はこの木の実がたまらなく美味しいよ」
リュカは三日三晩山々を駆けずり回り、遥かにそびえる仙龍山の頂を目指していた。
仙者様達には、おそらくもうバレているだろう。もしかしたら、今頃必死になって探しているかもしれない。しかし千里眼や飛行術なんてものは空想の産物でしかなく、仙者といえども簡単に見つけられはしないはずだ。
「うん……迷惑かけた分、絶対にやり遂げてみせるんだ!」
仙龍山。それは別名崑崙とも呼ばれ、天を突くほどに高くそびえる巨大な岩の柱が集合して一つの山岳を形成したものである。その地には絶え間なく龍脈からの気がほとばしり、並みの人間ならば過剰な気の巡りによって中毒症状にまで陥る。しかしこれが練気の達人であれば、その全てを自らの力に変える事ができるようになるのだ。ただその制御は極めて難しく、仙者達が長年の修行を経た者以外に入山を禁じている一つの理由でもある。
リュカは仙龍山の入り口付近に来て、ようやくその身に流れてくる気の膨大さに改めて圧倒された。
「く、すごい気を感じる……。こんな所にいたら確かにおかしくなりそうだ。けど、本番はここから!」
リュカは目の前に立ちはだかる切り立った崖をよじ登り、雲の先のてっぺんを目指した。そしてやっとの事で一つの岩山を登り切った時、その頂上に陣取る小さな集落を見つけた。木の枝で作られた簡素な住処は荒れ果てており、鼻をつまむような悪臭が立ちこめている。
「あれ? 人がいるのかな? おーい! 誰かいますかー?」
不用意な行為であった。すでに人の世から足を踏み外しているにも関わらず、当たり前のように人の言葉が返ってくると期待した。しかし返ってきたのは、人語を解する獣の言葉のみ。
「ダレダ!」
「オオ……オ、ンナ、オンナダ!」
「ヒサシブリ、ニク! クエル!」
その姿はそれぞれ人型の獣とでも形容すべき異形で、頭が半分トラであったり、シカだったり、レイヨウだったりと、とても直視できぬほどに醜いものであった。
「マテ、タノシムノガ、サキダ。オンナ、ソコヲウゴクナヨ」
「ひっ……」
彼らの住処から所々に覗くのは、肉がこそぎ取られた人骨であった。人里に降り、攫ってきた人間だろう。そしてさんざん欲望のはけ口とされた後に待つのは、ただ彼らの餌となる結末。
これがこの地の呪いを受けたという者達、妖仙。ここまで理性が失われていると言う事は、修練もろくに積んでいない低級妖仙であろう。つまり力を欲して入山した悪党共のなれの果て。リュカは同じく悪党であった父を思い出し、その場に立ちすくんだ。
「オンナ! ソノニクヲ、ヨコセ!」
「あたい、女じゃないよ……父ちゃんだって、お前は男だって」
リュカが男として育てられたのは、女媧である事を隠すためでもあった。だが彼らにはそんな方便は通用しない。隠しきれない成熟した女の匂いが妖仙達をくすぐるのだ。
「ハア? ドウミテモ、オンナダロ」
すると次の瞬間、妖仙達は凄まじい速度で襲いかかってきた。彼らを支配するのは本能のみ。その衝動にまかせ、性欲と食欲を剥き出しに、リュカの衣服をはぎ取ろうと一斉に手を伸ばす。
「ヒャヒャヒャ!」
「くっ、こいつら、強い……!」
羚羊のように突進する妖仙は脚が速く、虎のように牙が鋭い妖仙からは隙あらば噛みつかれ、頭に鹿の角を持つ妖仙には容赦なく胴着が切り裂かれていく。一対一であればまだ何とかなるだろうが、リュカは極限まで強化された身体能力を持つ者達相手にじわじわと追い詰められてしまった。
「うう……こんな、はずじゃ……」
本来であれば仙者達の管理する正式な道を歩む事で、このような妖仙との遭遇は避けられる。リュカは先人の教えを守らず勝手をした浅はかさを今になって痛感した。
「くっ……!」
後ろは崖。リュカは押し迫る恐怖から、このまま崖下に身を投げるかを考えた。だがこの程度の崖であれば結局は死ねず、そこを再び襲われる事になるだろう。
「……何を考えてる! あたいは、負けない! 師父の育てたあたいは、絶対に負けないんだあっ!!」
リュカは気を持ち直し、逆に妖仙に突っ込んだ。羚羊よりも速い脚でその出鼻を挫き、人中に正拳を叩き込む。勢いよく回転する足刀は鹿の角を折り、涎を垂らし噛みつこうとする虎の顎を、自らの石頭で粉砕した。
「はあっ、はあっ……やった!」
勝負はあった。それぞれの長所すらもねじ伏せた、言い分のない勝利である。ただ、それは勝ち負けで全てが片づく世界の話での事。
「フシュ、フシュルル……」
「っ……!? なんだ……こいつら」
妖仙達は立ち上がり、何事も無かったかのようにこちらを見据えた。
そしてそれ以上にリュカの心を砕いたのは、遠くの岩山から見える無数の人影。爆発したリュカの気を感じ取ったのか、様々な頭をした異形達がこの岩山へと集まってきていたのだ。
「だめだ……こんなの、勝てない……」
リュカは思い違いをしていた。これはもう、勝負ではない。互いの生存を賭けた闘争なのだ。
「ケケケ……イイ、オンナダゼ」
「……ナア、オレモ、マゼロヨ」
不思議と、彼らの間には協定でも結ばれたかのように統率が取れていた。ただ、そこに女性の妖仙はいない。その理由は一つ。たとえ妖仙であったとしても純粋な力の差から、誰もがあの骨のような末路を辿るのだ。
思い返せば自分の父もそうであった。悪人同士で一心同体であるかのように徒党を組み、女や弱者を所有物のように扱う。外国人であった母も旅の途中で攫われ、慰み者となり捨てられたと聞いている。
「あたいは、いやだ……こんなの、いやだ」
リュカの胸にどうしようもない怒りが涌き上がる。勝てないんじゃなく、闘わない事がすでに敗北なのではないかと。母の代わりとして、今ここで憎むべき暴力に立ち向かうべきなんじゃないかと。
そうだ、いいようにされてたまるか。こんな、自分にすら勝てなかった奴らなんかに、あたいが負けるはずがない。
「うああああっ!!」
再び闘気を爆発させ、リュカは妖仙の群れに立ち向かった。しかし最初の三体こそ手負いであったためか容易に突破できはしたものの、やはり数というものは力であった。
「オラッ、オトナシクシテロ!」
「うぶっ!」
「ギャハハ、コイツ、ヨエーゾ」
「ぐはっ!」
あらゆる暴力が四方から襲いかかる。リュカは長いお下げ髪を掴まれ、背中を狙われ、眼球を狙われ、急所という急所を攻撃された。痛いだとか、怖いだとか、そんな事を思う暇もないほどに加えられる暴虐。
(ああ、やっぱ、強いや……。師父……優しさなんかじゃ、誰にも勝てないみたい。あたいが、間違ってたよ)
未来はもはや潰え、信念すらも葬られ、自慢の体も動かない。さらに、この者達を妖仙へと変えた瘴気は、すでに自身の気すらも喰らい覆い尽くしていた。
「師父……待っててね。あたいもすぐ、行くから……」
自ら舌を噛む事で生への執着を手放そうとした瞬間、リュカに何者かの気が届いた。
「!! ……何、この気は……」
それはこの瘴気の中でもまっすぐと、ひたすらに気高く、師父のように暖かい。そして彼方上空から聞こえる、仮面の奥で響くようなくぐもった男の声。
「小猿よ。全てを諦めるのは、ちと早いのではないか?」
太陽を背負い天から降ってきた純粋な気の塊に押し潰され、その真下にいた妖仙は黒い液体をまき散らしながらはじけ飛んだ。
「グギャ……ッ」
金色の気を纏った男は、次第にその姿を現わす。伝説の神獣、ハヌマーンを模した猿の面。袈裟懸けの胴着と、全身に広がる金の逆毛。その頭に巻いた緊箍児という法具。その特徴を併せ持つものは紛れもなくただ一人……。
「ハ、ハマヌーン……!」
妖仙の一人が叫んだ。それは妖仙の間ではもはや伝説とも呼べる絶対の掟。一度この山で暴れ回り、全ての妖仙を絶対的な支配下に置き統率した後、再び地下へと潜りその行方をくらませたというが、それを知る者も今では一握りとなって久しい。
「しばらく留守にしておれば、どいつもこいつも勝手な事を。地仙もその名の通り、地の底に落ちたものよ」
「あ、あんたは……」
今にも虫の息のリュカは、おぼろげに映る瞳に師父の姿を見た。
いや、纏う気は似ているが違う。これは、いつか自分の街を襲った……。
「カッカッ、同じ師を持つ者。やはり気は争えんな。まるで、儂の生き写しのようだ」
ハマヌーンは師父のように笑いながら、傷ついたリュカの下へ歩み寄る。
「テメエ、ソノオンナハ、オレノダ!」
若輩者の妖仙が後ろから襲いかかる。しかしハマヌーンは裏拳一つでそれを物言わぬ肉塊へと変え、遠く霞掛かった岩肌へと叩きつけた。
「ただ、未熟も未熟。見ていろ、闘いとはまず、こうするのだ」
ハマヌーンは群れの中でも強大な気を持つ妖仙へと歩み寄る。それは頭の禿げた猛禽類のような出で立ちをしており、他よりもやや流暢に喋った。
「ユルシテクレ! オレハ、オマエノイナイアイダ、ココヲマモルタメ……」
「囀ルナ、聞ク耳ハナイ」
拳が男の嘴もろとも空を貫く。それに怯え、生存本能の高い個体からその場を離脱しようとする動きが見えた。
「ヒ、ヒイーッ!」
「ふむ。そろそろ、掃除をしておかねばのう」
ハマヌーンの体が宙を舞い、凄まじい回転と共に蹴りによる衝撃波が放たれる。
「天龍拳、逸踏両断」
暴風の中、無数の刃が妖仙達を襲う。異形の者達は断末魔の叫びすら上げることもなく、瞬く間に物言わぬ骸となった。やがて、彼らの切断された頭部は人であった頃の形へと変わる。奇妙な事にそのどれもが、長きに渡る呪いから解放されたように安らかであった。
「最後の情けに苦痛だけは与えずにおいた。そのまま畜生として、大地へと還るがよい」
「ああ……」
これが、最強の妖仙。リュカはただただ怯え、何も言い出せずにいた。言いたい事は山ほどある。師を裏切ってまで、なぜ力を求めたのか。妖仙でありながら、なぜ他とは違うのか。何より、どうして自分なんかを助けたのか。
「どうして……」
「どうして? それは儂が聞きたい。何故お前はここへと来たのか。妖仙の道。此処は彼岸。我ら亡者は生ある者を儕とは認めぬ。お主は己の道、聖天の道を征け」
ハマヌーンは振り向きざま、仮面を外した。背にした太陽の光でよく見えなかったが、その顔は人であった時の、師父の愛した兄弟子と思われる姿をしていた。目を細め笑う、師父に似た笑顔。次の瞬間、リュカは鋭い衝撃と共に気を失った。
************
三日三晩熱にうなされ、リュカはようやく目が覚める。
そこは、五行山の地下に広がる洞穴であった。何者かが世話をしてくれたのか、自分は干し草で作られた寝床に入り、辺りには食料も用意されている。
「あたいは、確か……」
もやのかかった頭から、断片的な記憶が蘇る。そうだ、自分は無断で仙者の道に挑み、力尽きた。そして、よりによってあのハマヌーンに助けられたのだ。
彼と同じ禁忌を冒し、何も得られずにおめおめと生き延びた。おまけに、体中を蝕む瘴気を連れて。リュカは情けなさに握り拳を自らの脚へと叩きつけた。
「あいつを越えるなんて言って、まるで足下にも及んでないじゃないか……。あたいは、何を思い上がってたんだ!」
次から次へと涙があふれ出す。仙者達からは、おそらく破門が言い渡されるだろう。それほどに許可無く仙龍山へ足を踏み入れた罪は重い。それどころか妖仙の疑いを掛けられ、幽閉されるかもしれない。仙者への道は閉ざされ、あろう事か大好きな人達の敵となってしまったのだ。
「うっ……、うっ……」
その名にまた泥を塗った以上、もう師父に会わせる顔もない。天龍拳を継ぐ者は断絶し、仙者の空席は他の優秀な道士が継ぐのだろう。けれどもう、自分にはどうする事もできない。
「師父、ごめん……。あたいもう、仙者にはなれないや」
リュカは全てを諦め、野に下る決意をする。人の生き方はなにも一つじゃない。サンチャのおばさんの手伝いでもしながら、これからは自分なりに修行を続ければいい。
けれどその一方、師父の遺した最期の言葉だけは、どうしても忘れる事ができずにいた。
「師父……あの時あたいに何を言いたかったのかな……。それはあたいにも、できる事なのかな……」
――いつか、私の代わりに……
リュカは今の自分と同じよう、道半ばで倒れた師父の無念を思い描いた。
ならばその先はきっと、こう続くのだ。
――私の代わりに、妖仙となった奴を倒してくれ、と。
圧倒的な力に屈したリュカは、静かに狂っていった。
「そうだ、あたいは、奴を倒して最強になるんだ……この、あたいが……」
自分への苛立ちはやがて力への妄執となり、何をしようが力こそが全てだという考えに囚われていく。それこそが、妖仙の呪いの本質であるなどと知る由もなく……。
************
仙者の気が近い。
ハマヌーンは激しい怒りに震える彼らの気をかいくぐり、クーロン国を後にしていた。
今回のリュカの件だが、仙者の間では全ての過ちの元凶はカルマによる呪いだという結論に至ったらしい。事実、リュカがカルマという存在を意識し過ちを冒したのは紛れもなく、あの場には自身が介入した形跡も残っている。
このまま七仙の相手をするのは容易いが、自分達ほどの達人同士がぶつかり合えば世は再び乱世となるだろう。国が乱れ喜ぶのは、巷を騒がすガーディアナなる勢力のみ。若い頃は亡き一族の仇討ちを望みもしたが、今はもうさほど興味もない。
「随分とほだされたものよ。師父の説く、慈悲の心とやらに……」
傷ついたリュカを残してきた事だけが気がかりだが、あの娘はきっと地の底でも逞しく生きる事だろう。
「そろそろ目覚めた頃か。あの地で根付いた凶相が気になるが、其れも又修行也。いつかお前は、師父の代わりとしてこの世を治めねばならん。聖天の道は長く、かくも険しいものよ」
遥か先にそびえる仙龍山を見上げ、ハマヌーンは様々な想いと共に祖国へと別れを告げた。
「さて、儂はこれよりガンダラにでも参るか。人の世の苦しみ、その全てを救うという経典でも拝みにな……」
願いは時に、呪いとなる。
力の魔女リュカ。彼女が辿る旅路には、いかなる星が輝くのであろうか。
天星か、地星か、はたまた凶星か。未だ目覚めぬそのカオスは、いつか訪れる運命の時を静かに待つのであった。彼女を救う、黄金の光がもう一度輝く時まで。