第6章 番外編 『いかにして少女は死を迎えたか』
――ちゅん、ちゅん。
窓辺から聞こえる、小鳥達のさえずり。軋むように音を上げる関節の痛みに耐えながら、少女は幾度となく訪れる生の世界が、今日も変わらずある事に安堵した。
「……ふう」
ベッド横の花瓶には、デイジーの花が数輪。庭先に咲き乱れる、執事ご自慢の花畑からくすねてきたものである。
「あなたはいいわね……。朝になると綺麗に花開いて、夜になればその瞳を閉じる。日の目と呼ばれるだけはあるわ」
少女は、その太陽のように広がった花弁に向け自嘲気味に笑った。
「一度でいいからわたくしも、陽の光の中、綺麗に咲いてみたい……。わたくしなんて朝も夜も変わらず、こんな人の来ない森の中、死人のような生活を続けるだけですもの」
「でしたら、きちんと養生して、まずはお身体を治しませんと。コレット様」
やや低い、ハキハキとした老人の声。コレットは驚いて、扉の横に備えられた椅子に姿勢良く座る執事の姿を確認した。総白髪をぴっちりと後ろへ流し、その穏やかな目には左右の視力差を矯正するモノクルが嵌められている。長らくコレットの世話をしてくれている、清潔感の漂う老年の男性である。
「いつからいたの、ロバート」
「ええ、昨夜、その可愛らしい寝顔をお見せになった時からです」
「ずっといたという事ね。ほんと、お暇なこと」
執事は襟元を正し、胸元に白手袋をした手を当て答えた。
「執事たるもの、忙しくしている姿を主人に見せてはなりません。ですが、大旦那様に仰せつかったコレット様のお世話をはじめ、遠く街への買い出しに、広い屋敷の手入れにと、これでも色々と大変なのですぞ」
「そうね。あなたは良くやっているわ。……ありがとう」
「え、いま何と……?」
執事は信じられないという顔で聞き返した。彼女がこんな事を言うのは、それこそ仕えた長い年月の中で数度あるかないかなのだ。
「まったく、耳が腐っているのかしら。もう二度と言いませんからね。ほら、いいから立たせなさい」
コレットは執事の手をとり、ゆっくりとベッドから降りると、深い色のマホガニーで造られた小さなドレッサーへと向かった。
「ほら見なさい。この昨日と全く同じ、痩せこけた憎たらしい体を。これでいつになったら良くなるというの?」
「そればかりは何とも……お医者様が言うには、目に見えぬ良くないものが飛び交う、せわしない都会がコレット様には合わないのではという話でございます。この穏やかな自然の中で暮らしていれば、じきに良くなりましょう」
「ふん。その目に見えないもののために、わたくしは都会の暮らしも捨て、これからもずっと引きこもっていなければならないのね」
日を浴びた金色の髪に櫛が入れられ、黄金の輝きを放つ。執事は感嘆の声と共に、一つ主が喜びそうな話を切り出した。
「ところでコレット様。本日はお忙しいお仕事の合間を縫い、大旦那様がいらっしゃるとの事。精一杯おめかしをしてお出迎え下さいませ」
「それを早くお言いなさい! 朝から無駄に落ち込んでしまったじゃないの!」
コレットは一転、にこやかな顔で目の下のクマを隠すためのファンデーションを塗り始めた。執事はほっと一息つくと、着替えの邪魔にならぬよう早々に部屋を後にする。
「ルンルンルン、お父様、お父様。あなたはどうしてそんなにお忙しいの」
廊下にまで聞こえる即興の歌に、執事はくすりと笑う。こうして一月に一度、遠く働く父と会える事が何よりの楽しみなのだろう。ならばここからは執事の本領発揮。目いっぱいの料理と飾り付けにて、二人の再会に華を添えて差し上げなければ。
「さて、大旦那様のためにも不肖ロバート、たとえこの身が朽ちようともお嬢様にお仕えいたしますぞ!」
その頃、コレットの館のあるロンデニオン郊外を、この辺りには似つかわしくない豪奢な馬車がひた走っていた。そこに乗り込むのは、白髪交じりのロマンスグレーを七三分けにした、やや窶れたスーツ姿の紳士。コレットの父、フランである。
ルビー家の当主、フラン゠ルビーは今は無き亡国、クライゼン王国にて一代でのし上がった豪商である。
魔王の時代、彼の祖国は魔にそそのかされ、魔族と共に近隣の国へと向け侵略支配に乗り出し、結果滅亡した。当時、クライゼン王家と取引関係にあった彼は、魔族によりもたらされた数々の魔石技術と共に時の大国フェルミニアへと亡命し、それを人類に伝え、魔に立ち向かう手助けをした。魔力を持たぬ者でも魔法が扱えるようになる、かの有名な魔晶石などは彼の技術によるものだ。そういった功績や類い希な商才から、ルビー家は彼の代で経済界において不動の地位を築くこととなるに至る。
そんな激務もようやく一段落した晩年、彼はお見合いを通してやや遅めの結婚をし、目に入れても痛くないほどの可愛らしい娘を授かった。妻もまた名のある政治家の娘であり、それは美しい女性であったが、二人の結婚生活は長くは続かなかった。
なぜなら、娘が魔女だった為である。
魔女を生んだという事でその名に傷が付く事を恐れた妻の家が、全ての責任をフランへと押しつけ、妻もまた娘を置き去りに彼の元を去ったのだ。
それからというもの、残された娘をなに不自由なく育てて上げたいという一心で、彼は再婚もせずに再び事業に没頭した。その体に、病魔の影が忍び寄っている事など知らずに。
娘、コレットには生まれつき、死が取り憑いていた。
あるときは死相を持つ人間を見抜き、それを言い当てたり、あるときは共にいる事で生気を奪われるような感覚に襲われたりと、彼女が魔女という事もあり、人々は当然、たいそう気味悪がった。
それは本人も例外ではなく、生まれつき病弱で、自身の死相をも感じとっていた。彼女は幼くして死という概念を当然のように受け入れていたのだ。
だが父、フランだけは別である。自分の呪いによってみるみる衰弱していく父を気遣い、コレットはついに彼の元を離れる決心をした。母方の家が流した噂によって、すでに社交界においては鼻つまみもの。果てはルビー家の悪童とまで呼ばれる始末であった。このままでは父の事業にも影響すると、こうして一人、新興国ロンデニオンの街外れにて静養の身となったのである。幸いロンデニオンのボルガード国王は父の顔馴染みでもあったため、土地を格安で譲り、その身をかくまってくれたのだ。
けれど、本当は自分も社交界を華々しくデビューし、すぐ側で父の手伝いがしたかった。そんな思いを知ってか知らずか、父はどうにか家に連れ戻そうと足繁くこの森に通い続ける。そんな彼の熱意に、コレットの決意もまた揺れている最中であった。
だが、そんな二人の想いを、己の私欲にて踏みにじろうとする者もいた。
父の側近、チャールズ゠ヴィンセントである。彼は苦労知らずの貴族の出自で、母方の家とフランとを取り持ち、政略結婚させる事によりルビー商会へと潜り込んだ経歴がある。
彼は今回の旅にももちろん付いて回り、コレットの別荘に向かう馬車の中でも、フランの身体を心底気遣う素振りを見せた。
「会長、お身体はいかがでしょう? 馬車での長旅など、あまりよろしくないかと」
「ああ、大丈夫だよ。むしろ娘に会えると思えば、普段の雑務も忘れ心も軽くなる。まるで若返ったような気分だ」
「しかし、あの娘は……いえ、会長がそうおっしゃるのであれば、何よりでございます」
チャールズの言いたい事は分かる。娘に会えば会うだけ、なぜかこの身はやつれていく。妻が娘を捨てたのも無理からぬ事。しかし、だからこそ自分だけはあの子を愛してあげなければならないのだ。
「しかし、ここの景色も変わっていくな。さらに移民が増え活気にあふれれば、寂しく暮らす娘にとっても良い事だろう」
「この国、ロンデニオンは魔族と相対するために造られた国だと聞き入れます。今では魔晶石の売り上げもこの国頼みですが、いわばそれは慈善事業。利益率の高い稀鉱石の方こそ我が社の要と言っても差し支えありますまい。それでどうでしょう、ここで新たにそちらの事業を開拓するというのも……」
「チャールズ、今はまだその時ではないよ。この国の民の暮らしはまだまだ貧しい。今、贅沢品に人々の心が奪われれば、意味の無い搾取が横行し争いの火種にもなりかねない。我々は、地道な努力によって国が豊かになるのを座して待つべきだ」
「は、差し出がましい真似を……」
そう返しながら、チャールズは密かに唇を噛んだ。
やがて馬車は別荘に到着し、フランは一人、大急ぎでコレットの元へと向かう。
「コレット!」
「お父様!」
有名な仕立屋にオーダーメイドされたスーツを優雅に着こなすフランに見合うよう、お気に入りの黒ドレスと共に精一杯のおめかしで出迎えたコレット。父に贈られた真っ赤なリボンだけはやや少女趣味であったが、それもまた彼女の可憐さを引き立たせていた。その姿は、それは蝶のように儚くも美しく、不意に別れた妻の面影をも思わせる。
「綺麗だ。やはり、段々と似てくるものだな……」
「お父様……あの女の事は忘れて下さい。わたくしはわたくし。せっかくの再会なのです、今はわたくしだけを見て」
「そうだな、すまない。さて、長旅で腹が空いた。食事にでもしようか」
「はい! ではロバート、準備を」
執事が用意した食事の席には、チャールズの姿もあった。彼はコレットから一番遠い席を陣取り、豪勢な料理に舌鼓を打っている。
「お父様、どうして彼も連れてきたのです……せっかくの親子水入らずなのに」
「コレット、お前が生まれたのも、彼が私の結婚を取り持ってくれたおかげだ。悪く言う物ではない」
「はい……」
彼がいると必ず商談の話になる事を嫌い、コレットは執事に彼の相手をするよういつも命じている。今はもてなされ気を良くしているが、たまに聞こえるその下品な笑い声だけで少し不快だ。
「さ、お父様。ランチには少し遅いですが、ロンデニオンのお料理、どうぞ楽しんで下さい。今回は、健康にいいオーガニックなものをご用意いたしました」
「ほう、相変わらずロバートは良い仕事をするな。コレットの教育も上手くいっておるようだ。お前に娘の世話を任せて正解だったよ」
「旦那様、滅相もございません。お嬢様は勤勉で博学。あらゆる書物に精通し、将来旦那様のお手伝いをしようと、日々努力しておられます。私などが教える事など何も」
「その通りです! この気品と知性はわたくしが生まれ持って獲得したもの。そんな、失礼しますわ!」
「ホッホッホ。良家の血、でしょうなあ」
早速チャールズが茶々を入れる。こちらが嫌うように、彼もまた自分の事を嫌っているのか、さりげないけん制が始まる。
「ふん、この半分は穢れた血、ですけれどね。わたくしが魔女などと言われるのも、全てはあの女のせいですわ」
「コレット! 言って良いことと悪い事がある! 謝りなさい!」
フランは珍しく声を荒げた。彼がどの部分に怒ったのか、それは明白である。父は、別れた母に対する愚痴には大抵目を瞑ってくれる。ならば、自らを穢れた魔女などと自虐したために他ならない。コレットは粗相した子犬のように、上目遣いで父の機嫌を伺った。
「ご、ごめんなさい、お父様……」
「いや、私もこんな話をするために来たのではない。今回こそ、お前に戻ってきて欲しいと願ってこそ来たのだ。どうだ、そろそろ気は変わったか? 私の体など気にしなくてもいい。それだけ優秀なら、私が倒れようとすぐにでも後を継げるだろう」
「そんな悲しい事言わないで! お父様がいなかったら、わたくし、どうして生きていけばいいか……今はこうして、たまにでもそのお顔を見せて下さるだけで、わたくしは幸せですのに!」
自らの死を半ば受け入れている父に対し、必死に反論するコレット。それに続き、利害の一致するチャールズも説得に加わる。
「会長、その通りですぞ。ルビー商会がここまで成長したのも、あなたの手腕あればこそ。お嬢様に後を任せるには、まだいささか早いかと」
「チャールズは黙っていなさい。これは、私達の問題だ」
「く……」
チャールズは行き場のない苛立ちと共に葉巻を咥え、それ以上二人の間に踏み入れはしなかった。
「コレット、お前が戻ってきたなら、すぐにでも社交界に我が娘として紹介するつもりだ。魔女などと、巷に流れる噂など関係ない。私を見くびってはいけないよ。そんな噂、全てこの私が握りつぶす。これが、そんな体に生んでしまった父として、私にしてやれるせめてもの償いだ。どうか親孝行だと思って、帰って来てはくれないか」
「社交界……。ですが、わたくしは……」
コレットは密かに憧れていた社交界への進出と、父のため、自らに課したこの暮らしとを天秤にかけた。それでも、父がそれを望もうと、父への愛がやはり上回る。フランは駄目押しにと、その懐から大きな真紅の宝石を取り出した。
「もうすぐお前も数えで十になる。その祝いと言っては何だが、これを受け取ってくれ。宝石に捧げてきた我が人生でも、これほどの深い赤をたたえたルビーは他にない。ルビーには魔を退け、幸福を運ぶ力もある。お前の呪いとやらも、必ずや払ってくれるはずだ」
「まあ、きれい……」
「これを身につけ、お前は私の跡取りとして堂々と人々の前に出るのだ。その姿を見れば、誰も文句など言えぬよ。いや、言わせるものか。おまえの体の事が心配なら、もっと良い医者も用意する。ここが気に入っているのなら、私の私有地の森に同じような屋敷もすでに作ってある。……頼む、お前がいない生活など、もう耐えられないのだ……」
「お父様……」
コレットの心が大きく揺らいだ。決して物に釣られた訳ではない。何より、心からの父の嘆願を無下になどできなかったのである。
確かに、そのルビーには自分の魔を打ち払うだけの力があるように思えた。これを身につけていれば、父に自分の呪力が及ぶこともないはず。ならば、どこに死に怯えて暮らす必要があろうか。
「分かりました。わたくし、お父様の娘として恥じぬよう、精一杯努力いたします。どうか、わたくしを陽の当たる場所へ連れて行って下さいませ」
「コレット……おお、コレット!」
止まっていた時計が再び動き出した。二人は抱き合い、執事も涙して見守る。しかし、ギリギリと奥歯の軋む音が一人の男から漏れていた事を、その時は誰も気に留めることはなかった。
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ついに訪れた社交界デビューの当日。コレットはいつものゴシックな黒のドレスを着込み、首元に真っ赤なルビーを飾っては、控え室にてその時を今か今かと待ちあぐねていた。
「ねえ、出番はまだなの? パーティーはもう始まっているのでしょう? このままではわたくし、緊張で心臓が止まってしまいそう」
コレットが生まれつき弱くしているのは、まさにその心臓であった。縁起でもない事を言う主に、執事は大慌てで事の説明をする。
「ただいま、お医者様の到着が遅れているようです。これだけ人の集まるパーティーなのですから、万全を期して望まねばなりません。もうしばしお待ち下され」
「だったら、いつものお医者様でよろしいですのに。大病院のお偉い様なんて、忙しくていけませんわ。来てもらうのに一体いくら積んだのかしら?」
「現在の医学界で、最も信頼できる方にお願いしたと旦那様から伺っております。それだけ、コレット様の事を愛しておられるのです。ありがたい事ではありませんか」
「そう……そうね。もう少しだけ待ってあげてもいいわ。ふふ」
そう、淑女たるもの、こんな事で腹を立ててはいけない。これからは、自身の態度がそのまま父の態度となるのだ。
そうしてしばらく待っていると、ようやく医者とみられる、やつれた細身の男が待合室へと入ってきた。度の強い眼鏡にくすんだ金髪、やや汚れた白衣。どことなく不健康なにおいのする男である。
「おやおや、すでに準備も万端なようで。お待たせいたしました、可愛らしいお嬢さん」
それは父の祖国である、クライゼンの言葉であった。かの国は魔族と共に滅んだが、同時に多くの優秀な技術者を生みだし各国へと輩出した。魔晶技術のエキスパートである父もその一人である。コレットは父の同郷らしきその男に対し、どこか少しだけ親近感を覚えた。
「ええ、あなたもずいぶんとお忙しいようで。わたくしを待たせるなんて、よほど腕の良い医者のようね」
「ふふ、自己紹介がまだでしたね。私の名はメンデル゠サンジェルマン。クライゼン式医学の提唱者にして、第一人者。人々は私の事を“神の腕を持つ男”と呼びます。この度、チャールズ殿のご紹介によりコレット様の担当をさせていただく事となりました。以後、お見知りおきを」
「神の腕……ずいぶんと大袈裟ね。けれど気に入ったわ。本当に自信がなければそんな冗談は言えないもの」
メンデルは苦笑する。ここまで堂々と物を言える子供には出会った事がない。涌き上がる興味に、彼女を見つめる眼鏡が怪しく光った。
「準備ができている所悪いが、まずはお体の方を診せていただきたい。心臓の方に異常があるという事だが、そのドレスを脱いでいただいても?」
「ええ、よろしくてよ」
コレットはドレスを脱ぎ、その下に着けた白のビスチェをはだけさせた。
「それも取りなさい。私はヘルツの音を聞きたいのです」
「え、ええ……。ロバート、きつく締め付けてあるから、外すのを手伝って」
「かしこまりました、お嬢様」
緩んだビスチェから、白い肌が露わになる。いつもの医療行為に過ぎないが、コレットはほんの少しの羞恥を覚えた。メンデルは聴診器をその胸に当て、少女が奏でる音色を執拗に探る。
「ふむ、確かに拍動が弱いな。いや、止まっている時が長く、リズムがおかしい。しかし、同時に妙な音もする。何かがこの動きを手助けをしているような……」
メンデルは聴診器を下へ下へと移動させ、音の出所をさらに探った。
「ひゃうっ」
「まさか……これか? 子宮の動きに合わせ、心臓が……」
「メンデル殿、差し出がましい質問ですが、それはコレット様のご病気に何か関係があるのですかな?」
「い、いや……」
執事の指摘により診察は中断され、何かを納得したようにメンデルは聴診器をしまった。
「もう服を着ていい。本来ならすぐにでも手術をしたい所だが、しばらくは問題ないだろう。あり得ない事だが、君の心臓は神にでも守られているようだ」
「神様が……?」
オカルトとは縁遠いであろう医者が放つ突拍子もない言葉に、コレットは父から贈られたルビーを見つめた。きっとこの力が、自分を守ってくれている。そう信じずにはいられなかった。
「さて、ではコレット様、そろそろパーティーの方へ。旦那様がお待ちかねですぞ」
「ええ! 退屈な時間はもうおしまい。いよいよわたくしの、コレット゠ルビーとしての人生が始まるのですわ!」
再びドレスに身を包んだコレットは目を輝かせ、光差す舞台へと向かう。この夜が、これまでの空虚な人生を変える、特別な夜となる事を信じて。
「皆様、パーティーをお楽しみの所、大変申し訳ありません。これよりルビー商会会長、フラン殿より、皆様へと素敵な贈り物があるとの事です。どうぞ舞台の方をご注目下さい」
司会の声が、聴衆の目を一点に集める。そこには普段より一段と晴れやかな顔をしたフランの姿があった。
「どうも皆様、ただいまご紹介にあずかりましたフラン゠ルビーです。この度は私共主催の晩餐会にご来場いただき、誠に感謝申し上げます。その気持ちと言ってはなんですが、皆様には我が社の誇る、色とりどりのジュエリーを贈らせていただきたい。この輝きが、忘れられぬ一夜の思い出に一層の色を添えるよう願っております」
フランの声と共に、参加した一人一人に宝石があしらわれたアクセサリーが贈られる。その破格の振る舞いに、客席からは一斉に歓喜の声が上がった。
「それともう一つ。今夜は我が一人娘を皆様にお目にかけたく思っております。娘も年の頃十を迎え、ようやく我が事業の後継となる自覚が生まれたようです。彼女は少し体が弱く、これまで人里離れ静養しておりましたが、その事が良からぬ疑念を呼び、根も歯もない噂に苦しめられてきました。しかし今回、ついに勇気を振り絞り皆様の前に顔を出す決心をしてくれたのです。では皆様、拍手をもって出迎え下さい。我が娘、コレットです!」
渦を巻くような拍手が、空気を振るわせた。それに後押しされるよう、コレットは舞台袖から飛び出す。
(わあ……)
絢爛豪華な舞台。絵画の中から飛び出してきたような人々。全てが黄金色に輝いて見える。これが、夢にまで見た社交界。コレットは万感の思いに胸を滾らせた。
「コレット、ほら、ご挨拶なさい」
「あ、はい! わたくし、ルビー家は長女、コレット゠ルビーと申します。父や皆様には、こんなに素晴らしい機会を用意していただけて、誠に感謝しております。まだ右も左も分からぬ若輩者ですが、どうか、皆様のご寵愛を賜りたく存じ申し上げます」
コレットはスカートをつまみ、会釈をする。可愛らしいカーテシーを見せた少女に、一同は再び万雷の拍手を贈った。その一方で、その場には彼女を快く思わない人々もいた。魔女という噂、母方の家が流した悪評、ルビー家の跡継ぎが男子ではない事など、貴族ならばあって当然の選民意識が冷ややかに彼女へと降り注ぐ。しかし、その悪意の全てがフラン一人の威光により、小さくかすんで見えた。
「これが、わたくしの光……」
そう、確かにその瞬間、彼女は社交界のヒロインであった。これまで数々の人間を選別してきたであろう人々の好意的な視線に、承認欲、いや、存在欲求は満たされ、コレットは初めて生きた心地を覚える。これが、これこそが生。これからどれだけ、自分はこんな瞬間を迎えるのだろうか。いや、これすらも越える悦楽が、人生にはきっとある。
壇上を降りたコレットは、ワイングラスの揺れる人々の海へと足をつけた。そして早速、その新鮮な餌を喰らおうと富に飢えた群衆が押し寄せる。
「これはこれはコレット嬢、いやあ、こんなに大きくなられて。私の事を覚えておいででしょうか? バビロン銀行のノーマンです」
「ええ、もちろんですわ。その節はどうも」
「いつもご贔屓にさせていただいております、彫金師のフィリップでございます。あなたにぜひ、私の全霊をかけた作品を贈らせていただきたい」
「まあ、嬉しい。大切にいたします」
感情は、あまり易々と見せるものではない。安い女と見られぬよう、彼女はこの時のために身につけた社交辞令を言い放つ。けれども、その心はすでにワルツを踊っていた。
「フラン殿、ご息女に事業を譲った後の事はもう考えておいでですかな。政界はあなたのような方をいつでも歓迎いたしますぞ。……ところで、うちの息子がコレット様の事をたいそう気に入ったようでして……」
フランの下には男児を持つ貴族などが押し寄せ、コレットが将来の許嫁となるよう競うように取りはからう。子供ながらに見目麗しいコレットは、あれやこれやと代わる代わるそんな男の子の相手をさせられた。
「あ、あの……良かったら僕と少し、お話をしませんか?」
「ふふ、よろしくてよ。ですがわたくし、退屈が嫌いですの。あなたはもちろん、わたくしを楽しませてくれるのよね?」
「は、はい!」
コレットは熱病にかかったように、初心な男の子を手玉に取りながらその時間を楽しんだ。
しかしこれだけの人が集まる慣れない場。様々な思惑にあてられたのか、病弱な彼女はすぐに疲弊してしまう。
「お父様、わたくし、そろそろ……」
「おお、無理をさせたな。すみません、この子は生まれつき体が弱く……。一通りご挨拶も済んだ事ですし、先に家に返そうと思います。ほら、お前は早くロバートと帰りなさい。念のため、医者もつけておこう」
「ごめんなさい。お父様……」
「いいんだ。コレット、愛しているよ」
フランは膝をつき、コレットの頬にキスをした。たくさんの愛に包まれ、少女は満面の笑みで最後の挨拶をする。
「では皆様、たいへん名残惜しいですが、ごきげんよう」
コレットは惜しまれる声を余韻に、会場を後にした。
先程の喧噪が嘘のように、外は慣れ親しんだ静寂が支配している。その寒空で一息ついて初めて、コレットはこの世に名を刻み込んだ実感が涌き上がった。
「ふう、まだ体が熱いわ。わたくし、お父様に恥ずかしくない振る舞いができたかしら」
「ええ、実にご立派でした。それではお医者様を呼んで参りますので、しばしお待ち下され」
「ええ、次わたくしを待たせたらクビだとお伝えなさいな」
馬車に乗り込んだコレットは、その小さな脚を組みながら得意げに言い放つのだった。
その頃、パーティーの舞台裏では、コレットの主治医メンデルと副会長のチャールズによる密会が行われていた。
「素晴らしい! 彼女はまさにマイ・リトル・ラバーだよ。あの傲慢さと裏腹な、肉体の脆弱さ。これから世界が手に入ると信じて疑わぬ、その野心。私の患者として、申し分ない逸材だ」
「それは良かった。君なら気に入ってくれると思っていたよ。法外な契約金を払った甲斐があるというものだ」
やや小児性愛のきらいがある彼の賛美を聞き流しつつ、チャールズは複雑な表情で葉巻を咥える。
「おっと、私の前で煙草はおやめいただきたい」
「そ、そうだったな。悪い」
チャールズは着けたばかりの火をもみ消し、葉巻を再びしまう。対人関係において常に威圧的である彼も、どこか御しがたい雰囲気を纏うメンデルはやや苦手とする所であった。
「ところでチャールズ殿、本当に、彼女を好きにしてもいいと?」
「ああ、あくまで医療行為として、だ。現代の医療ではお手上げとなれば、多少先進的な治療もやむを得んだろう。その際の事故について責任は問わん、と言っている」
「助かる。実を言うと、彼女には少し学術的興味があってね。なにせ私の担当する、初の魔女。願わくばその体を隅々まで調べてみたいのだ」
「いい趣味をしている。まあ、会長には私から上手く言っておこう。しかしあの娘、ここまで上手く上流階級に取り入るとは……。いや、それどころかすでにルビー商会を背負った気でおる」
いつものように眉間にシワを寄せるそんなチャールズの背中を、同じくパーティーから抜け出してきた十代半ばの少女が心配そうに見つめる。彼女はチャールズの一人娘。コレットより数歳年上の彼女は、いつも病弱なコレットを見ては優越感に浸る事を日常としていた。
「お父様、もしかしてコレットは、お父様よりも偉くなってしまうの? 私の方が先に社交界デビューしたのに、みんなあの子ばかり見て、全然扱いが違うの! このままじゃ今までずっと寝てたような子に、わたしの居場所が奪われちゃう。わたし、悔しい。こんなの絶対にイヤ!」
「ああ、お前こそが次の会長令嬢だ。誰が何と言おうとな。ここまで来るのにどれだけの辛酸を舐めたと思っている。あんな小娘に、ワシのこれまでを踏みにじらせはせん!」
その感情剥き出しのやりとりに、メンデルは一人ほくそ笑んだ。
こうも望まれぬ命なら、他の誰でもない、自分こそが救ってやらねばと。
そこへ、舞台裏のドアをノックする音が遠く響いた。防音の効いた部屋だが、チャールズは万が一のため護身用のナイフを手に扉を開く。
「誰だ」
「お取り込み中の所失礼いたします。お嬢様が帰られるとの事で、お医者様に付き添いをお願いしたいのですが……」
「お、お前は世話係の……ごほん、大事な商談を盗み聞きされたかと冷や冷やしたぞ」
「何の事でございましょう? わたくし、耳が少々遠く……」
「いや、こちらの話だ。ではメンデル殿、コレット様の事を、よろしく頼みますぞ」
「もちろん。私に失敗はない」
そう振り向きざまチャールズだけに見せたメンデルの笑顔は、どこまでも底の知れぬものであった。
フェルミニア郊外の、ある小さな森の中。
コレットは現在、ルビー商会本部とも近いこの場所に居を構えていた。深く木々を分け入る馬車に同乗するメンデルは、さも不思議そうにその風景を眺めている。彼はすっかりこちらと打ち解けたのか、砕けた口調で話しかけてきた。
「大富豪の令嬢がわざわざ隠れるように森の中に住むとは。もしかすると、人嫌いか?」
「いえ、人は好きよ。けれど、だからこそわたくしはここに居なければならないの」
「そうか。てっきり私と同類かと思ったのだがな……」
メンデルは少し寂しそうな顔を見せる。天才ゆえの孤独。その表情は、いくばくかコレットの同情を誘った。
「けれど、寂しくはありませんわ。森には命があふれている。毎日変わらず花は咲き、鳥はさえずり、たまに動物も顔を見せてくれます。おまけにわたくしにはロバートもいますし」
「はい! この不肖ロバート、たとえおまけと言われようとお側におりますぞ!」
「だからといって、ずっとわたくしの部屋にいるのはおやめなさい。あなたにもわたくしの呪いの影響が出ているじゃないの!」
「ほほ、生きておれば誰もが死に向かうものです。それを一人で抱え込むコレット様は、あまりにお優しいのです」
「ふむ……」
死を抱え込むなど考えた事もなかったメンデルは、あごに手を当て無精髭をさする。
死など、あらかじめ決められていた細胞の崩壊がただ訪れたにすぎず、そこに感情などが入り込む余地はない。もしあるとすれば、魂というものが見せる雑多なノイズか。
「幸い、ここにはお医者様がおられます。もし何かあれば私も診ていただきましょう」
「そうだな。彼の症状は見たところ加齢によるものだ。君が気に病むものではないが、念のため診ておこう」
事を運ぶにあたり、四六時中付いて回るこの執事は目障りだ。さらに何かを勘づいているのか、ちらちらとこちらを伺う素振りを見せる。事によっては、先に始末するべきだろう。
「さて、そろそろ着きますぞ。夜も遅いですが、夕食はどうされますかな」
「いや、すでにあちらでいただいた。今日はもういい」
「ふわあ……わたくしも、今日はとても疲れたわ。久しぶりにぐっすりと眠れそう」
「ふふ、良い夢がみられるといいな……」
そんなまどろみの中、馬車はロンデニオンの洋館に似た造りの屋敷へと到着する。
「ふむ……」
一通り案内された中で、彼はあらゆる点を観察した。まず通された食卓で目に付いたのはアンティークの銀食器。さすがに富豪の娘、毒物に反応する銀でその身を固めている。これでは毒による暗殺は難しいだろう。しかし、そもそもそんな物に頼らずとも、遺体への影響が少ない方法はいくらでもある。
屋敷には他に使用人はおらず、執事と二人きりで暮らしているようだ。コレットは二階奥の部屋に住み、メンデルには執事の待機する執務室の向かいである、一階の応接室が与えられた。
「さて、早速だが執事の君、体のほうを診ておこう。私の部屋に来ていただけるかな」
「かしこまりました。ではコレット様、湯浴みのご用意はできておりますので、診察の間、お先に入られて下さい。終り次第すぐに駆けつけますが……お一人で大丈夫ですかな?」
「バカにしないで。いつもみたいに浴室の外で待たれる方が落ち着かないわ」
コレットは頬をふくらませながら一人、浴室へと向かった。確かにいつもなら彼が着替えを持ち、外から一分毎に何か異常はないかを確認する。仮に返事をしなければ飛んでくるため、落ち着いてゆったりする事もできないのだ。
「まったく、もう社交界デビューもしたのに人前で子供扱いするなんて。後でこっぴどく言い聞かせないと」
しかし、同時に心配なのは彼の体。自分には絶対に見せないが、彼からは何か死神でも取り憑いているような、不穏な気配を感じるのだ。おそらくもうそれほど長くはない。だからこそ今日、自身の晴れ姿を見せる事ができて嬉しくもあった。
コレットは窮屈なドレスを脱ぎ、ひとごこちついた気分で人肌まで温もった湯船につかる。
「ああ、心地良い疲れだわ。これが、生きているという事なのね」
目をつぶると、晩餐会での光景が瞼の裏へと鮮やかに蘇る。そんな白昼夢に浸っていると、コレットはうとうとと眠りかけてしまった。
「ロバート……わたくしは、もう大丈夫ですわ……」
眠ってはいけないと思いつつ、過度に疲労した肉体は眠りを求める。いつもの癖で空返事をしながら、コレットは夢の世界へと旅立つのだった。
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「お目覚めかな、フロイライン」
目が覚めたコレットは、自分の部屋のベッドの上に寝かされていた。周りを見渡しても執事の姿はなく、いるのは声を掛けた主、眼鏡の奥に冷たい目を隠した男だけ。
コレットのベッドへと、黄色い花びらが落ちる。いつも自分に陽の光を見せてくれるデイジーは、花瓶の中ですでに枯れ果てていた。
「わ、わたくしは、どうして……」
「あまりに帰らないため心配し見に行った所、浴室で眠っていたのだ。あと少し発見が遅れていたら、命の危険もあった。すまない、私が執事を呼び止めたばかりに」
「ありがとう……ロバートは?」
「彼は眠っているよ。日頃の疲れが出たのだろう。言いにくい事だが実の所、彼の体はがんに冒されている。その苦痛は相当なものだろう、本来なら絶対安静な所だ」
「そんな……」
少女の顔は蒼白に染まる。普段はあたりまえに存在する彼がいないだけで、こうも不安でしかたないものとは。しかしここでまた彼を頼れば、その分また命を吸い取ってしまう事になる。コレットは不安を飲み込み、メンデルに自身を託す事にした。
「念のため、まずは身体を診せてくれ。ずいぶんと冷えたせいか、心音も弱い。君の、下腹部にあるはずの力、それだけが頼りだ。今、その力の秘密を探りたい」
「え、ええ……」
掛けられていた白のガウンがはだけだ場所に、冷たい聴診器が当てられる。もちろん下には何も着ていない。見知らぬ男に全てを見られたのは、これが初めての事だ。けれど相手は医者。やましい事などあるはずがない。
「……つぼみは、つぼみのまま」
「え?」
「なにも女性にとっては咲く事が、全てではないのだよ。君は、そのままで美しい。むしろ咲いたという自覚が、その認知を歪ませるのだ。無垢だったはずの少女は殺され、股から流れる血と共に傲慢な何かへと生まれ変わる。そして、皆この花のように枯れる。醜く、色を失って」
「何を言っているの? もしかして、あなたがこの花を……?」
ひりついた空気の中、男の口元が歪む。すると何かに怯え弱まる心音とは裏腹に、コレットの下腹部は命の胎動を始めた。
「やはり……魔女のゲベーアムッターは実に興味深い。私はこの目で視たくなったよ。その奥にある、少女自身をね」
「あなた……まさか」
男は拘束具を取り出し、コレットの四肢を縛り始める。次に白衣の下に隠した鋭利なメスの切っ先を、へその下へとあてがった。
「いや、いやっ」
「ふふ、ふひひひ」
「や、やめて……!」
信じる者に裏切られ、動く事もできないコレットはただ悲痛な声を上げる。それと同時、下腹部に押し当てた聴診器から、何者かの声が彼の耳に飛び込んだ。
――シヲ……
「何……?」
――死ヲ……。生ヲ冒涜スル者ニ、完全ナル死ヲ……
「ひいっ!」
聞こえてきたのは、地獄の底から響くような声。男は聴診器を放り投げ、荒い息でコレットへと向き直った。
「はあ、はあっ……魔女の身体はこれまでの医学では説明出来ない事ばかりだ。ますます気に入ったよ。さあコレット、私のものになりたまえ。永遠にね!」
「いやああっ!」
恐怖に叫ぶコレットの腹に、鋭い刃が突き立てられた。その小さな身体に、熱を持った痛みが走る。
「あ、あああっ……!」
「麻酔は無しだ! 君にそんな不純物など必要ない!」
男の興味を誘うようにパクリと開く内部。露出した何者かの声の宿る器は、内側から不思議な光を放っているように見えた。しかしメンデルがそれに触れた途端その胎動は収まり、光も消えていった。
「なにっ……この私を拒むというのか? ええい、どこへ消えた! 魔女の力の根源はどこにある!」
「はっ、はっ……」
「いかん、まだだ、まだ行くな! 私に、その全てを見せてくれ!」
力を失った事で次第に命の鼓動は弱まり、コレットは色を失っていく。やがてその肌は真白に染まり、見開いた瞳の瞳孔は開ききった。少女の指は、何かを求め小さく動く。ベッドへと散らばった、しおれた花びら。どうにかそれに触れた時、ゆっくりとその動きを止めた。
――コレット……愛しているよ
(おとう、さま……)
今際の脳裏が見せたのは、美しく成長し大人になった自分と、その横で幸せそうに微笑む父の姿。
誰よりも光を求め、生と死の狭間で懸命に生きた少女の物語は、ここに短い生涯の幕を閉じた。
「ふ、ふはっ、くははは! 死んだ、死んでしまった! いや、違う、この娘は生まれ変わったのだ。私の糧として、これから救う、多くの生命の糧として!」
気づくと、男は何かを放出していた。彼の真の目的、それは、人間の生そのものを使った自涜である。その対象が儚ければ儚いほど、得られる性的興奮は大きい。
「ふふ、ふひひ、フヒヒヒ!」
メンデルは昂ぶる感情を抑えつつコレットの遺体を縫合し元のドレス姿へと戻すと、優しく寝かしつけるように見開いたその瞳を閉じさせた。
「やはり美しい……。また会おう、愛しのフロイライン」
コレットの瞳が閉じる瞬間、暗闇の中に潜んでいた何者かの目が見開く。その大きく、鮮血のように赤い瞳は、逃げるようにこの場を去って行くメンデルの姿を何の感情もなく見つめていた。
次の日の朝。ようやく家に戻ることができたフランは、コレットの屋敷へと一目散に馬車を走らせた。しかし屋敷は静寂に支配され、執事の出迎えもない。
不安に脚を早め、彼は娘の部屋へと急ぐ。そこで見たものは、無惨にも変わり果てた愛娘の姿であった。フランは医師の姿を探すも、支払われた契約金はあくまでその日、一日分であるとして、次の患者の治療へと消えていた。
死因は心臓麻痺。調査によると極度の疲労から浴槽の中で眠り、医師の懸命な手当てにより息を吹き返したという事であったが、彼女の生命力自体が尽きたのか結局朝まで持たなかったのではという結論に至った。不幸な事に執事のロバートもまた、持病の多臓器不全の苦痛を緩和するためのモルヒネを多量に投与した痕跡があり、すでに事切れていた。
もちろん、検死結果などいくらでも操作できるだろう。この事故には不審な点も多く、激昂したフランにより真実の追究が行われたが、医師は契約書を盾にその責任を逃れ、内部ではチャールズが事件のもみ消しにあたった。残されたのは莫大な富と、その使い道もない天涯孤独のこの身だけ。フランは自暴自棄となり、酒に溺れ身体を壊し、代表取締役会長の座を外れお飾りの名誉職へと追いやられる。そして事実上、副会長のチャールズがルビー商会の全権を手に入れる形となった。
それから少しして、コレットの墓から遺体が消失するという事件が発覚する。
これは彼女を救えなかった事を懺悔しに墓を訪れたメンデルによる発見だが、入念な防腐処理を施した死体があまりに美しかったため、もしくはその身に着ける宝石目当てに、何者かが墓を暴いたのだとする結論となった。しかし後にコレットの遺体を別の少女にすり替えようと考えていたメンデルにとってこれは考えてもいない結末であり、彼はまたも疑惑の目を向けられる事となる。
もし、万が一、あの時の魔女の力によって彼女が生き長らえていたとしたら……。そんな妄想に取り憑かれた彼は、ついに医学界からもその身を消し行方をくらませる事となったのであった。
フランはすでに立ち直れぬほどのショックを受け、自らも死を選ぼうとしていたが、その日の夜、彼の元に娘が身につけていたはずのルビーと、一本の花が手紙を添えて届けられた。
――心配しないで、お父様。わたくしは、いつでもあなたと共にあります。寂しくなった時は、この花を思い出して。……“デイズ・アイ”。いつも健気に咲き、陽の当たる場所へと向かう勇気をくれた、わたくしの花です。
追伸、このルビーはお返ししておきます。もしお身体を崩し経営が難しくなった時は、遠慮せずお金に変えてください。
その手紙を見て、フランは死をとどまる事にした。人は捕まる事を恐れた墓泥棒の仕業だと言うが、これは紛れもなく娘の書いたものである。常に人目を隠れていた彼女だけに、他に誰もが知りようがない情報ばかりなのだ。
「コレット。ああ、コレット……」
あまりに不幸な娘の境遇に対する、神様の思し召しだろう。あの子の事だ。父を心配し、天国からきっとこの手紙を送ってくれたに違いない。フランは重い身体を起こし、窓の外に広がる空の向こうを眺めた。
「……私は生きてみせるよ。お前の分まで。そしていつか、私もそちらへ行こう。その時はもう一度私の子として、側にいておくれ」
残酷な現実に追い詰められ、ただ神に祈りを捧げる。そんな一人の哀れな男を、遥か上空から見つめる者の姿があった。
(ええ、もちろんですわ……お父様)
そのシルエットは死んだはずの少女、コレットに酷似している。
傍らには浮遊する大きな目玉を引き連れ、身の丈以上の大きさの鎌に乗り、黒のドレスをひるがえす、まさに常世から降りた小さき死神。
「どうか悲しまないで。死は生と共にあるもの。わたくしはそれを、死を迎えて知ったのだから」
空に消える独り言。彼女はあの時、死を以て魔女として覚醒した。予期せぬ企てにより時期が早まったが、一度死を迎える事が本来の彼女にとっての運命だったのだと。
それに対し何を思ったのか、まるで思念で会話するように隣の目玉は少女に語りかける。
『死と再生を繰り返し、人は歴史を綴る。魂とは、人が人であるための連続性の証。神が与えし、永遠不朽なるもの』
「あなた、相変わらず難しい事を言うのね。でも、そうね。だからこそ、わたくしは死神となったのだわ。魂を、あるべき流れへと還す。そうする事で、死してなお人はまた巡り会えるのだから」
フランは、月明かりの空の向こうに何かを見たような気がした。それは黒い鳥のように見える。カラスかツバメであろうか。確か、鳥を意味するアヴェスと言う古い言葉には、死者の魂、または天使という意味もある。きっと、あの鳥がこの手紙を運んでくれたのだ。フランは目を細め、その鳥に小さく手を振った。
「……さ、そろそろ行きますわよ、デイズ」
『コレット、僕の名はゲイズだと言ったはずだよ』
「ううん、あなたはデイズ・アイ。お日様になれなかったわたくしを、それでも見つめてくれる、まっすぐな瞳」
『まったく。冥王となろうお方が、現世の記憶をあまり引きずるものではないよ』
「ふふっ、今だけは……ね」
少女はくすりと笑うと、ゲイズを抱きしめ大鎌に跨がる。
向かう先はもう誰も訪れる事のない、いつかの地。
こうして、彼女の孤独と狂気に塗られた戦いは始まった。十年の時を超え、同じ運命を持つ魔女達と巡り会う、遠いその日まで。




