第5章 番外編 『忍犬イブの日常』
ある旅の中で産まれた、白く小さな雌の狛犬。
その初めての記憶は、辺り一面、真っ赤な世界。夕日の映える草原の中であった。
犬とはいえ生来の強者たる霊犬は、母の霊力、血肉をその一身に受け、人間のように長い時を母の胎内で過ごし、たった一人で生まれてくる。
だけど、ひとりぼっちだと思った事はない。
雨の日も風の日も、彼女は大きな母の背中にいた。
降りしきる雨の中、大きな体で、自分を雨から守ってくれた母。その時は母乳に夢中で気づかなかったが、母の主人は、そのさらに上へと覆い被さり雨よけになってくれていた。
優しい母と、どこかぶっきらぼうで、いつも厳しい母の主人。そんな二匹と一人の旅も、二月が過ぎた頃、いつか母との二人旅になった。母が言うに主人は、じきに戻ると言っては忽然と姿を消してまったという。
子連れの母を危険に巻き込みたくなかったのか、それとも何か自分達に知られたくない事情があったのかは知らないが、母はその言いつけを守らず必死になって主人を探した。そして、その鼻を頼りに探し続ける事数日、人里近くの桜の樹の下、大怪我を負った彼女を見つけた。
傷の深さとは裏腹に、その顔は穏やかであった。全てを察した母は彼女を背負い、帰るべき故郷を目指した。しばらくして気がついた彼女は、以前とは別人のように優しく、まるで憑きものが落ちたようであった。
そんなある日の事、三人で大きな街を歩いていると、突然、見知らぬ青い髪の少女に抱きしめられた。
「いぬ、だって! かわいいね!」
その日、母と主人は自分を一人残し、旅立っていった。
自分もいつかの母のように、必死でその後を追った。もう、自分の事はいらないの? と何度も思った。でも、そうじゃなかった。母も主人と出会って親と離れたように、自分も添い遂げる事のできる誰かと生きていく事を、その時に教えられた。
そして、ひとりぼっちになった自分に、新しい家族ができた。
サクラコ。母の主人ですら慕う、自分の新しいご主人様。
その子に出会って、自分の産まれてきた意味が分かった気がした。
一番髪の長い子がオサを務める小さな家。ここが、自分の新しいおうち。
名前もまだなかった自分に与えられたのは、威武という勇ましい名前。
イブ、そう呼んだ赤い髪の少女は、いたずらにこちらを見て笑った。
新たな始まりを告げた私の日常は、こうして穏やかに流れていく。
これは、そんな自由都市でのとある一日――。
************
今日もニワトリが街に朝一番を告げる。それを合図に、ぎゅうぎゅうのベッドから一人の少女が抜け出した。サクラコの朝は日の出と共に始まるのだ。
「おはようございます。今日も天気がいいですね!」
「ワン!(おはよー、ごしゅじんさま!)」
起き抜けに交わされる元気な挨拶。イブは誰かが起きると、嬉しいのか必ず一緒に起きてくる。
サクラコは早朝の修行のため、これからかなりの距離を走る。一方、まだ長距離を走れないイブは足手まといになるため、いつもお留守番だ。しかし今日こそはご主人様についていこうと、イブはその周りをくるくるとしつこく回った。
「クゥーン(今日はイブも連れていってくれるよね?)」
「そんなに甘えてもだめです。朝は飛脚の仕事も兼ね、十里くらいは走らないと修行になりません。一緒だと、途中で置いていく事になります」
「ウーッ!(ごしゅじんさまのいけず! 分からず屋!)」
「……うーん、うるさいわね。今何時だと思ってるの……。イブと騒ぐんだったら外でやりな」
「す、すみません! 分かったから、ほら、行こう」
「アンアン!(やったー! ティセお姉ちゃん、ありがとー!)」
ティセは寝不足気味の目をこすり、騒ぐサクラコ達を追い出した。
彼女の抱き枕であるサクラコにとって、朝は解放の時間でもある。再び眠る彼女は次にパメラに抱きついて眠ろうとするが、すぐに拒否された。しかしいつ見てもロザリーには絶対に抱きつかない。不思議なものである。
「では、行ってきます」
今日は忍犬の修行を兼ねて、サクラコは軽く走る事にした。ただ、まだ幼いイブには用心が必要だ。動物の瞬発力は確かに目を見張るものがあるが、人間の持久力に勝るものなどそうそういない。これは体温の調節機能がもたらす、人と動物の決定的な差であろう。
「辛くなったら、言って下さいね。水を飲んで休憩しましょう」
「ハッ、ハッ(イブ、ごしゅじんさまとなら、ずっと一緒に走れるよ!)」
「無理は禁物です。犬は呼吸が浅いですし、汗もかきません。今日は暖かいので、デュオロンを一周したら終りにしましょう」
「へッ、ヘッ(ごめんなさーい。また、ごしゅじんさまの修行の邪魔をしちゃった……)」
朝の市場は活気にあふれ、様々な商品が並び始める時間でもある。堕龍の取締役となったサクラコの顔はすでにこの街に知れ渡り、皆が皆、彼女に声を掛けては色々なものをくれる。相変わらず街を練り歩く黒胴着も貢ぎ物を献上しようと、商人に無理を言って何かを渡してきた。
「お嬢、最高級骨付き肉ですぜ、これでも食べて、精を付けてくだせい!」
「いえっ、そんな結構です! 欲しい物は、ちゃんとお金を払いますので」
「わうっ!(お肉だあ!)」
イブは急に立ち止まり、ハッハッとよだれを垂らしながら黒胴着にその肉をせがんだ。
「威武、駄目ですよっ!」
「まあいいじゃねえですか、育ち盛りなんだし。ほれほれ、たんとお食べー」
「ハグハグ(おいしーい! ごしゅじんさま、これ、すっごくおいしいよ!)」
イブは人間でも躊躇する肉へと惜しげもなく食らいつく。食費がかかるためいつもはロザリーの料理したイモ料理やクズ肉を食べさせているのだが、彼女はついに高級肉の味を知ってしまったようだ。
「すみません、これ、お代です……」
「いいんですよ……と言いたい所ですが、あれはめったに手に入らないクーロンダックでして……。すいません、お受け取りいたします」
サクラコは肉屋の主人に、ティセから貰ったイブのご飯代を渡す。
一発で黒胴着に懐いたイブは、骨だけになった肉をかじりながらその周囲を走り回った。
「アン、アン!(おじさん、おじさん!)」
「困っちゃうなー、おじさん、これからファレン様の所に行かなきゃいけないんだけど」
「威武、もうっ、帰りますよ!」
黒胴着を見たら肉がもらえる。そんな能天気な思考回路となったイブはしばらくそこを離れようとせず、朝礼に遅れた黒胴着は大目玉を食らったという話は余談だ。
その後、一通り街を走り終え二人は帰宅。イブはたっぷりの水を飲み、ちょうど起きてきたロザリーに大好物のふかしイモをねだる。
「ハフッ、ハフッ(おいもさん、おいもさん!)」
「もう、相変わらず食い意地がすごいんだから、まるで誰かさんみたいね。……だけど何? イブが咥えてきたこの骨。鳥の腿に見えるのだけど」
「えっと……で、ではもう一度走り込みをしてきます! ロザリーさん、威武の事、どうかよろしくおねがいしますっ」
サクラコはその答えをはぐらかし、本来のロードワークへと戻っていった。
「まったく、また買い食いさせたわね。変なもの与えて普通のご飯を食べなくなったらどうするの。私達でさえ、しばらくは節約生活なのに」
「クーンクーン(ロザリーお姉ちゃん、怒らないで。イブが悪いの)」
「ふふ。あなたはいいわね、たくさんの人に愛されて、おまけに家でゆっくりできて。私はこれから、気が重いお仕事よ」
そう言うとロザリーはエプロンを装着し、みんなの分のご飯作りに取りかかった。
サクラコは運動の後に食べる、ご飯とお漬け物中心の質素なおかずにお味噌汁。パメラには子供が大好きな様々な具材を挟んだクラブハウスサンド。一番気を遣う舌の肥えたティセには、アルテミスの魚介を使ったムニエルやパスタなどが手際よく次々に作られていく。ロザリーのモットーとして、食事だけはおろそかにする事はない。どれもサクラコのツテで安く仕入れた食材だが、彼女の手にかかるとそれらは瞬く間に一級品の料理へと変身するのだ。
「ふんふんふーん」
そして自分はその余り物を弁当箱に詰め込み、いつもの姿へと着替え仕事へ行く準備を整える。
「それじゃ、行ってくるわ。パメラとお留守番、よろしくね」
「ワウッ!(行っちゃうの、やだ!)」
「仕方ないでしょ、私が頑張らなきゃ、みんな路頭に迷ってしまうわ」
イブは出かけようとするロザリーの後を付いて回る。誰かが出かける度に大騒ぎだ。
しかし結局引き留める事もかなわず、ロザリーは冒険者ギルドという所へと出かけていった。
「スン、スン(あーあ、行っちゃった……)」
これから、イブにとってちょっとした難所が待ちうけている。少し苦手なパメラが起きてくる時間まで、あと少しなのだ。そしてこの時間は、彼女のかわいがりを止められるものもいない。
「ふあーあ……。うーん、ロザリー? もう出かけちゃった?」
大口を開けたアクビと共に起床したのは、まさにそのパメラである。イブは慌てて寝たふりをした。
「んー、アタシの枕……動かないで」
「ティセと寝るの、あつーい! 抱きついてこないで!」
「むにゃむにゃ、あと五分だけ……」
体温の高い彼女にとっては、他人の肌はひんやりして涼しいのだろう。パメラはしつこく絡みつくティセから離れ、表通りに面する窓を全開にした。
「うーん、気持ちいい。今日も一日、頑張ろー!」
涼しい風を受け、伸びをするパメラ。そこから見える街は、ありのままの人々の暮らしを映す。いつかの窓から見ていた景色よりも、ずっとずっと素敵だ。
「……ん、あれって」
ちょうど外の通路では、オルファでお世話になったおばさんや農家のおじさんなど、ローランド移民組が井戸端会議をしている所が見えた。いけないとは思いながらも、パメラは二階からこっそり聞き耳を立てる。
「……実はこの間、ガーディアナから返ってきた生地が飛ぶように売れてねえ。歓楽街のお店が買い取ってくれたみたいで、本当に助かったわあ」
「そうそう、私も歓楽街で働くと言って聞かなかった娘が、諦めて帰ってきてくれたの。その手に金貨まで持ってね。どうも話によると、ティセちゃんのおかげらしいわ」
「ほう、あの子達にはもう足を向けて寝られないな。ワシらも領主様の支援金のおかげでしばらくは安泰だ。後は、せめて自活できるだけの農地でもあると助かるんだが……こればかりはどうにもならんか」
「そうねぇ、今はサクラコちゃんがここの顔役らしいし、今度相談してみましょうか」
そう言って彼女達は頼りの魔女達が住むこの家を眺めた。それとバッチリ目があったパメラは、ややぎこちない笑顔で挨拶を返す。
「お、おはよー……」
「おお、僧侶様! あれからお通じの方はどうですかな!? 心配で心配で、農家の連中一同、夜も眠れませなんだ」
「え、えっと……その、そっちの方はまだあんまり……」
「あ、それとロザリーちゃん、最近朝も夜も働きっぱなしだけど、体壊したりしてないか心配よ。良かったら見ててあげてね」
「うん、私からも言っておくね。ありがとう、おばさん」
幾分か青白い顔のパメラは、最後に軽く会釈し、そのまま窓を閉めた。
「うう、そう言えば、人と話したのっていつぶりだっけ。私、変じゃなかったかな……?」
実はここへ越してきてからというもの、パメラは毎日こうして家に引きこもっていた。あれほど冒険者に憧れ、たくさん仕事をする事に熱意を燃やしていた彼女だったが、冒険者ギルドでの仕事初日、あちこちに貼られていた自分の似顔絵を見て心が折られたのである。それもそのはず、それは行方不明となった聖女捜索依頼のクエストであった。
「私、やっぱり冒険者になんて、なれないのかな。ねえ、イブ子」
パメラは寝たふりをしているイブへと視線を投げた。イブ子というのは彼女だけの呼び名で、どうやら自分の提案した「いぬ子」が惜しく合体させたらしい。
イブはそれも少し嫌で、パメラに対してはちょっとだけ冷たい。
「すぴー、すぴー(イブ、寝てるよー)」
「ホントに寝てる?」
「すぴぴー(寝てる寝てる!)」
「そっかー、寝てるのかー」
一人だけの朝食。ここ最近は、ずっとこうだ。
ロザリーはこうして朝と昼を作ってくれているものの、隣にあるはずの優しく見守ってくれるその笑顔はない。口周りを汚しても誰も拭いてはくれないし、床にこぼしても誰も小言を言ってはくれない。
ティセは「やきん」と言うものに疲れ昼まで起きないし、サクラコも修行を兼ねた配達のお仕事でしばらく帰ってこないのだ。
「何とかサンド、おいしいな……」
ぽつりとつぶやくそんなパメラを見て、イブは寝たふりをやめた。そして、パメラのこぼしたパンの切れ端をペロペロと平らげていく。
「あ、だめなんだよ。落ちてるもの何でも食べちゃ」
食べこぼしを拾おうとするパメラの手に、イブはそのまま頭をすり寄せる。
「クーン(もう、しょうがないな。パメラちゃんは、イブが面倒みてやらなきゃ)」
「イブ子……」
一人なんかじゃなかった。パメラはたまらなくなってフワフワのイブを抱きしめた。そして、思わずその湿った鼻周りにキスをする。
「イブ子、大好き!」
イブは当然びっくりしたが、その唇の周りについたロザリーの料理の味に夢中になり、むしろパメラを押し倒す勢いでペロペロとなめ回す。
「あははっ、んぷっ、くすぐったい!」
「ベロッベロッ(えーい、いつものお返しだー!)」
二人は寂しさを紛らわすようにしばらくじゃれ合った。元気が出たのかやがていつものパメラに戻り、その後はイブが一方的に可愛がられる展開になった事は言うまでもない。
「キャンキャン!(パメラちゃんやっぱり嫌い! ちょっと優しくするとこうなんだから!)」
イブはひとしきり吠えた後、とうとうベッドの下へと隠れてしまった。
「あーあ、嫌われちゃった。それじゃ、私もお仕事しよっかな」
引きこもりのパメラに与えられた仕事は、家でも出来るチラシ作り。パメラは箱に積まれたチラシの束をちゃぶ台へと並べた。これら商店街のお買い得品やちょっとエッチなお店の広告一つ一つを丁寧に折り曲げ、封筒へと入れる。後はそれに宛名を書いて、ギルドへと渡すのだ。ここでは、こんな街の雑務も委託という形でギルドへと投げられる事も多い。ただ仲介料を取られる分、こちらの取り分はごくわずかだ。
それでもパメラにとっては大切なお仕事。彼女は嬉しそうにチラシをまとめていく。
「あ、ここ堕龍さんのお店だ。百花、リニューアルオープン。美しき東方の芸妓達が、贅沢なひとときをお約束します――。ふーん、でも元々は何のお店だったんだろ。ロザリー、詳しく教えてくれなかったけど」
「じー……(それって確か、ママと行った所だ。そう言えばママもどういう所か教えてくれなかったな)」
内職をするパメラをじっと見つめるイブ。すると彼女はさらに一人で喋り続けた。
「ええっ、そんな事するんだ! でも、それだと、子どもができるんじゃ……え、ひにん? ふーん、大変なんだね。え? 女の子同士なら、ひにんはしなくてもいいの? へー、そうなんだー!」
こんな風に、パメラは一人になると誰かと会話を始める。霊犬であるイブにはうっすらと霊的なものが見えるのだが、そこに浮いているのは、パメラによく似た銀色の髪の少女であった。
「じー……(誰かは知らないけど、パメラちゃんの事よろしくー)」
こうして彼女の面倒を幽霊さんに押しつけている平和なひとときが、実はイブのお気に入りだったりする。
「よーし、今日はこれ全部やるぞー。ちょっとでもお金を稼いで、ロザリーのお仕事を少しでも減らすんだ」
「すぴー(むにゃむにゃ、パメラちゃん、頑張って……)」
まどろみの中にいたイブは、ゆっくりと目を開いた。遊び疲れたのか、いつの間にかお昼寝をしてしまっていたらしい。あれからどのくらい経ったのか、その目線の先にはパメラはおらず、ティセが下着一枚で座っていた。かと思うと、彼女は次々に変なポーズをとり出した。
「んー、あと30秒……」
美容にうるさい彼女が最近ハマっているのは、ピラティスという体幹を鍛える運動。
魔法使いといえどもロザリー達について行ける程には肉体派な彼女は、こういった日々の努力も欠かさない。
腕だけで体を支えるその行為に興味を示したイブは、案の定じゃれ合うためにプルプルと震えるティセへと近づいていった。
「アン、アン(ティセお姉ちゃん、何してるのー?)」
「今こないで! プランクやってるから! あっ、ちょっと、そんなトコ潜り込まないでよ!」
「ペロペロ(お姉ちゃんの体、しょっぱーい)」
「うひっ、そこおへそだって、うひゃひゃ、な、なめないでーっ」
ついに力尽き、カエルのようにつぶれるティセ。その胸の下敷きになったイブは、もがき出そうとしてそのままティセのブラへと潜り込んだ。
「ウーッ!(やだやだ! 苦しい! でもなにこれ、引っかかって取れない!)」
「あっ、私のブラ、ちょっと、動かないでったら!」
その時、ガチャリと玄関のドアが開いた。すると大好きな匂いと共に、安心する二人の声がイブの耳に届く。
「ただいま。ふー、やっと仕事が一つ終わったわ。サクラコも配達のお仕事、お疲れ様」
「はい、今日は色んな街に行ってきました。街の人の声もたくさん聞けたし、これからまた忙しくなりそうです。威武、帰りましたよー、元気にしてましたか?」
「アン!(あっ、みんな帰ってきた!)」
イブはご主人様の帰りに興奮し、胸の隙間から勢いよく発進した。その拍子に、頭に引っかかったままのブラジャーがイブの目を隠してしまう。
「キャンキャン!(何これ、前が見えないーっ、これ取ってー!)」
イブは家中の壁にぶつかりながら駆け回り、家具を次々になぎ倒したがなお止まらない。子どもとは言え忍犬である。それはもう部屋中をひっくり返したように暴れた。賃貸の壁という壁についた傷に、たまらずロザリーが悲鳴をあげる。
「ちょっとイブ、どうしたっていうの!?」
「わ、ティセさん、何で裸なんですかっ」
「こらー、イブ! それ返しなさいよ! 穴が開いたらどうする気!?」
怒るティセの手から逃れようと、イブは何かが置かれたちゃぶ台の上を走り回った。それは、パメラの半日を費やした仕事場。宛名まで綺麗に書かれたその封筒は、もう見る影もない程にグチャグチャである。
「捕まえたっ! ほら、もう大丈夫ですよ。威武、家で暴れたりしたらだめじゃないですか!」
「キューン!(ごしゅじんさま、怖かったよー! えーん!)」
「ちょっとティセ、下着姿でうろつくのはやめなさい! お客さんが来たらどうするの!」
「バカッ、そんな事より……ほら」
ティセは胸を隠しながら、玄関に向け指を差す。そこには家の外にあるトイレから戻ったパメラの姿があった。
「私の……私の、お仕事が……」
長らく便秘と格闘している間に一体何があったのか。床に広がる悲惨な光景を見て、パメラは立ち尽くした。約束の締め切りは今日の営業時間まで。このままではとても間に合いそうにない。
「もう、時間がないのに……。う、うう……」
パメラの青白い顔から、さらに顔色が消えていく。再びの力の発現に怯え、ティセもサクラコも慌ててロザリーの後ろへと隠れた。
「あ、あはは、アタシは悪くないからね。これは全部イブがやったんだから」
「ティセさん! じゃあどうして威武の顔にあなたの下着がひっついていたんですか?」
「それはその、お腹をペロペロされたから……」
「意味が分かりませんっ!」
パメラは力無く笑うと、箱に入ったチラシをちゃぶ台の上に再び並べ始める。
「もういいよ。始めからもっかいやる……」
「パメラ……」
その後ろ姿からは、もはや魂すらも抜けているように感じられた。日夜ブラックな仕事に追われるロザリーにもその辛さは分かる。生きるため身を削る事は必要でも、魂まで削る事はない。それは、少なくとも労働などの為に捧げていいものではないのだから。
「そうよ、だったらみんなでやりましょう! 私も夜のお仕事はキャンセルして、そっちを手伝うわ!」
「いいわね! 夜勤なんて無しよ無し、アタシも張り切っちゃうんだから!」
「パメラさん、すみません。私も威武の主人として、できる限りの事はさせていただきます」
彼女達が得られる仕事の中では、夜勤が最も割が良い。それを蹴るとなると稼ぎとしては大損だが、今はこうして助け合う事がそれよりも大事な事に思えたのだ。
イブもまたこうなった原因が自分にある事をようやく理解したのか、パメラへとそっと寄り添った。
「クーン……(パメラちゃん、ごめんなさい……。もう何されても嫌がったりしないから……)」
「イブ子……。大丈夫、私は平気。むしろ、ちょっとだけ感謝してるんだ」
パメラはうなだれるイブの頭を控えめに撫でてあげた。そして、みんなの方へと元気よく振り向いてみせる。
「ロザリー、本当はね、毎日こうして一緒にいられたらって……」
そこまで言って、パメラは首を振った。
「ううん、何でもない! さ、お仕事頑張ろっ」
「パメラ……ええ、みんなでやればすぐ終わるわ。そしたら今日は、外で食事でもしましょう」
「やったー! ロザリーも最近は家事に仕事に大変そうだったし、これで少しゆっくりできるね」
「そうですね、それなら威武も連れて行ける百花がおすすめです。最近はイヅモ料理が食べられると評判なんですよ。ちなみに、味の方は私とロザリーさんとで監修させてもらいました」
「おっ、ナイスアイディア! あそこなら多分安くしてくれるし。でもサクラコ、また途中で迷子になんてなんないでよね?」
「な、なりませんっ!」
ちゃぶ台を取り囲み、彼女達は和気あいあいとパメラの仕事に取りかかる。
こんな時間、いつ以来だろうか。少しほどけかけた家族の絆が再び結ばれていくような、そんな暖かなひとときであった。
(……ありがと、イブ)
パメラは今回の立役者となったイブの方を見て、にっこりと笑った。
「スンッ(ひとりぼっちは寂しいもんね。困った時はイブがまた助けてあげる。なんたってパメラちゃんは、一番下の子だからね)」
どうやら彼女の中でも序列があるらしく、一番上をロザリーとして、ご主人様、ティセ、自分、パメラの順と考えている。イブはすっかり自分のミスの事は忘れ、これも上の者の務めだと満足げな眼差しを送った。
(……そうだ、イブは、もうこの子達の家族なんだ)
家族。彼女達を見ていると、イブは遠く離れた母、アラタカへと思いを馳せずにはいられない。
(ママ、それにザクロさん。今頃どうしてるかな……元気だといいな)
イブは窓から見える、遠くの空を眺めた。
そして夕日の差し込む赤の光の中、母に教えられた忠義という誓いを改めて噛みしめる。
(見ててね、イブもママみたいな立派な忍犬になって、ご主人様を助けてみせるから……)
伝説の忍犬、威武忍狗。彼女の幸せな日常は、まだきっと始まったばかりである。