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第4話 『ガーディアナ』

 神聖ガーディアナ教国。

 それは教義の力にて、この世界の中心たるエルガイア大陸の宗主国と成り得た超大国。

 その歴史は古く、始まりはこの世界が最初の滅亡の危機に瀕したという古代史へとさかのぼる。


 時は今からさかのぼる事約二千年前、人呼んで旧暦元年。

 未だ法も秩序も無い地上に、天の星々より一人の使者が降り立った。

 星の母、エンティア。奪い、(だま)し、殺し合う事しか知らない人類を導くために天の星々が遣わせたとされる、慈愛に溢れる光の()使いである。

 彼女により知恵の果実を与えられた人類は、その知性を大きく発達させ、大いに文明を発展。やがて賢者と呼ばれる者達を生みだす事となる。このエンティアによる統治こそ、全てが管理され、全てが調和された人類史で最も平和な時代であったといわれる。


 やがて、光の御使いの降りた地、エルガイアに十二の国々が生まれた。

 それらを治める十二の賢者達はエンティアの教えの下、賢人機関(けんじんきかん)という世界的な組織を作り上げ、高度なテクノロジーを有する古代文明を築きあげる。


 しかしある時、エンティアは忽然とその姿を消した。

 すると理性を失った繁栄は傲慢を生み、傲慢は支配を生んだ。人類は競うように兵器を開発し、世界は瞬く間に一触即発の状態へと陥る。

 全てを制するのは、より大きな力。賢人機関の長、全能を司る賢者カノンはそれを見せしめるかのように神の雷を放った。こうして賢人戦争と呼ばれる、この星の文明を大きく後退させた争いは起きた。

 彼を動かしたものは、愛か、野心か。地上を我が物としたカノンは、次に天を目指した。だが、遙かな高みを目指す塔は、その建設途中に起きた天変地異によって破壊されてしまう。

 そうして、創造主とでも言うべき意思の怒りによってカノンはついに命を落とし、世界は再び平和を取り戻す事となった。


 その後、賢人戦争に荷担する事なく生き伸びた十二賢者の一人、聖者リュミエールによって、一つの教えが開かれる。

 彼女は力による支配では滅びを迎える事は避けられないとし、愛を説く教えを人々に知らしめ人類復興の礎を築く。それは、彼女の治めた国にちなみ、ガーディアナ教と呼ばれた。


 その根底にあるものは霊魂崇拝。光の御使いエンティアもそうであったように、肉体はいつか形を失う。けれど、その魂が清らかなものであれば、人類は永遠に神の庇護の下、繁栄が約束されるというものである。さらにガーディアナは、星の母エンティアを遣わせた天の星々を新たな神として掲げた。


 そうして、母の星として名付けられた“アトラスティア”に住む人類は、再び緩やかな繁栄の道を歩んでいった。


 それから時は流れ旧暦1914年、アトラスティアは悪魔による侵略の時代を迎える。

 恐ろしい異能を操る悪魔の支配に対し、平和を愛し力を捨てた人々はいとも脆弱(ぜいじゃく)なものだった。

 人ならざる圧倒的な暴力に踏みにじられ、人類はその数をかつての百分の一ほどにまで減らし、またしても絶滅の危機に陥ったのである。


 そんな長い暗黒の時代を経て、現代。

 時の法王リュミエール49世の時代が終わり、新たにガーディアナの上に立ったのは、神の代行者を名乗る現在の教皇、リュミエール゠フラグマイティズ゠クレスト。

 代々、法王の位には聖者リュミエールの血を引く者のみが就くことができ、ガーディアナの全てを取り仕切る資格を持つ。彼はその血をより強く受け継いでいるとし、これまでの歴代法王以上に絶対的な権限を独占した。まず彼は手始めとして、それまでの法王を改め自らを教皇と名乗り、共和制であったガーディアナを絶対君主制へと変えた。

 さらに彼は脅威となる魔族に対抗するため、数々の教義を改変する。


 一つは(うやま)うべき神を天の星々ではなく、自らの記した聖典(カノン)のみとした。

 一つは霊魂崇拝を聖体崇拝とし、生命の掟を絶対とした。

 一つは守護のため力を振るうことを()とし、これを救いとした。

 一つは聖女セント・ガーディアナという神子を擁立(ようりつ)し、力の象徴とした。


 その結果、人類は悪魔の時代を乗り越え、その数を増加させるまでに転じた。こうして、再び人類最盛を迎える今の世の(いしずえ)は出来上がったとされる。




「――と、ここまでがガーディアナと人類の歩んだ長い道のりである。何故、人はかくも苦難の道を歩まねばならぬのか、聖女よ、あなたにはそれが分かるか?」


 大理石と真鍮(しんちゅう)で構成された広大な空間に、一人机に座る少女。彼女は長く、透き通るような青い髪をうねらせ、美しいというよりも可憐な佇まいの面持ちを見せた。少し垂れ気味の大きな目には、少し潤んだ空のように鮮やかな青い瞳が映え、その小さな口元は何かを我慢するようにきゅっと結ばれている。中でも目を引くのは、彼女の纏う聖なる純白のドレス。それは白い肌に合わせぴったりと張り付き、幼さと女性らしさを(あわ)せ持つラインをさらに際立たせていた。


 そしてその視線の先では、白髪を綺麗に後ろへと流し、礼服を幾重にも丁寧に着込んだ清潔感の漂う老人が、整った口髭を触りながら長々と講釈を垂れている。


「聞いておいでですかな、聖女様。何故、人はかくも苦難の道を歩まねばならぬのかと私は問うておるのです」


 聖女と呼ばれた少女は、退屈を噛み殺していた。そして投げかけられた彼の質問の意味を深く考える事はせず、いつものように与えられた定型文で返す。


「……私達は、選ばれた存在だから」

「左様。だからこそ偉大なる神は我々に試練を与え、いつの時代もそれを乗り越える力を与えてきたのです。我々は人として、いかなる脅威にも打ち勝つ力を制御し、育まなければならない。それは永遠の敵対者である悪魔や、人の道を外れし魔女などを断固として根絶やしにせねばならぬという、絶対の教えでもあります」


 断ずるようにそう吐き捨てるのは、ガーディアナ十二の司徒の一人、枢機卿(すうききょう)マルクリウス゠バルトロナイ。いつも片手に聖典を持ち歩く、ガーディアナきっての傑物(けつぶつ)である。


「人の世は人だけのもの。これ以上、異能の化け物共をのさばらせていては、いつも我々を見守って下さっておられる我が神(カノン)に示しがつきませぬ。今こそ、神の示したもうた力の道を人類一丸となって歩む時なのです」


 なんの暖かみもないその言葉に、聖女は胸を刺される思いだった。その魔女すらも退ける力を持つ自分がどうして人の側に立ち力を振るっているのか、分からないからだ。


「私は、ヒトなの……? それとも、異能の化け物なの?」

「何を言われますか! あなたはれっきとした人の子。高潔な身分でこそあるものの、人に相違(そうい)ございません! だからこそ、異端たる魔女を裁く権利を有するのです」


 自分が人であるならば、魔女だってそうだ。聖女はまたしても素朴な疑問を口にした。


「魔女は、人の子ではないの?」

「笑止。あれらは肉体こそ人の形を作ってはいますが、その心に宿す魂が(けが)れているのです。だからこそ我々は魂などという不確かな物を捨て、聖体に流れる血に従う愛の教えを選んだ。愛とは、生命を繋ぐためにある本能。より大事なのは、この地を愛によって生命溢れる豊かな楽園と変える事。そのためにこそ、ガーディアナの法はあるのです」

「愛って、何?」

「あなたと教皇様との間に芽生えるものでございます。男と女、時が来れば自然と分かる事。それは近々、ご成婚を迎えるあなた様次第でしょう」


 いつも教えてもらえない、愛という言葉。自分には、それが何なのか分からない。

 おそらくいつからか、魔女を裁く中で失ってしまった感情。いや、初めから自分には無いものなのかもしれない。


「聖女様には性に対する教えがまだ足りないように思えますな。子を作る方法はやはり、実践あるのみ。こればかりは教皇様にお任せする他ありますまい」

「それは、聖交……の事?」

「その通りです。あなた様の穢れなき御陰(ほと)へと、教皇様の神聖なる聖根を収めていただく行為を指します。しかし、男性を(とこ)へと導く知識だけでも入れておかねば、いささか不安が残りますな。もし教皇様に失礼があれば、教育を行う私が恥を搔くこととなる。では資料を基に、一からおさらいいたしますぞ」


 洗脳教育でもするかのように、いつもの授業が始まった。いや、本能教育とでも言うべきであろうか。人の人であるべき姿というものを、マルクリウスは延々と喋り続けた。


「マルクリウス。接吻(キス)、というのは?」

「唇と唇を合わせるものでございます。まずはこれにて、互いの気分を高揚させるのです」

「くちびるを……それで、その後は?」

「図に描いてあるとおり、ここからが聖交の手順となります」

「えっと……ここは、おしっこをする所じゃないの?」

「今は来るべき時のため、それ以外が閉じておるのです。子を宿す道は、血の儀礼によって開くのでございます」

「血の、儀礼……」


 そんな中、リンゴンと大聖堂の鐘が鳴る。

 午前の授業を終え、聖女はずっとこらえていたあくびをした。


「ふあーあ」

「これ! なんという大口! 悪しき気がお身体に入られたらどうなさいます!」

「ごめんなさい、この口は接吻と、聖体を作るためにのみあるのでした。メーデン、聖パンを」


 その声に、部屋の外で待機していた侍女が入室する。気の優しそうな、少しふくよかな若い女性である。メイド服に身を包み、伸び放題のダークブラウンの髪が目線を隠している。しかし、その先は常に聖女を見つめていた。

 その手に持つ籠に入れられていたのは、たくさんのパン。本来は、聖職者達が食べる質素な食料である。


「聖女さま、聖餐(せいさん)のお時間でございますね。お望みであれば豪華な料理もお持ちしますが……」

「いいの。私パン大好き。あーん」


 聖女はまたも大口を開けてパンにかじりついた。


「なんと……」


 もはや見てられぬといった体で、マルクリウスは聖典を片手に部屋を出て行った。その後ろ姿に、聖女は少し舌を出して見せる。


「べー」

「あら、はしたないですよ。可愛らしい舌なんか出しては」

「知ってる? 舌は火。災いの元なんだって。だから、舌使いが巧みなマルクリウスが、私は恐ろしいの。私だけじゃない、国民の全てがまるで武器で脅されたみたいに大人しくなる。ねえメーデン、こんな風にみんなを抑えつけているのが、本当に正しい事なのか、私にはわからないの」


 彼に言い争いで勝ったことは一度もない。それもそのはず、彼の本来の職はガーディアナをまとめ上げる政治家なのだから。


「舌を使うんだったら、私は歌の方が好きだな。お歌なら、好きなことだって自由に言えるから」

「あう……」


 侍女であるメーデンには枢機卿の悪口など言えるはずもなく、純真な聖女の問いにいつも口ごもるのだ。


「そのようなお話、私の身分ではとても……。ですが、偉い方の言う事はすべて正しいのです。だからメーデンはこうして、あなたさまのお側にいられます。むぎゅー」

「わっ、ちょっと、苦しいってば!」

抱擁(ハグ)は聖体を称え合う素晴らしい行為。さあ、聖女さまもこの胸に飛び込んで来て下さいませ!」

「そんな事言って、くっつきたいだけでしょ。でも……ふわふわしてて、あったかい」


 体ばかりが成長した、暑苦しい侍女である。でも、不思議と心が安らぐ。

 もしかしたら自分は愛を知らないのではなく、みんなの言う愛が、自分の愛と違うだけなのだろうか。強制などではない、こういった無償の愛であるならば理解できるのに。


「ありがとう、メーデン。少しほっとした」

「お安いご用ですよ、聖女さま。寂しい時は、いつでも私がお側におりますから」

「うん……」


 これから、あの人(・・・)に会わなければならない。だから、今だけは心安らかに。


「そろそろいかなくちゃ。聖誕祭の事でリュミエールから話があるらしいの」

「それは、私なんかほっといて早く準備いたしませんと!」


 聖女は自分では何もせず、あれこれと侍女がかいがいしくお世話する。これが彼女の、いつもの日常風景。


「ではお着替えいたしましょうね、ぬぎぬぎですよー」

「ぬぎぬぎ」

「お身体をお拭きいたしますね。ふきふきー」

「ふきふき」

「歯磨きもしましょうねー。ごしごしー」

「ごしごし」

「次はおトイレしましょうねー。はい、しーしー」

「おトイレは一人でできるもんっ!」

「お話の途中でお漏らししても知りませんよぉ」

「そ、そんな事しないよ!」


 実は授業中トイレに行きたいとすら言い出せなかった彼女は、何回かお漏らしをした事があった。その度にマルクリウスからおしめの着用を勧められ、情けない思いをするのだ。


「私だってもう、十五歳なんだから……」

「そうですね。いよいよ聖女さまも十五歳となり、成人を迎えます。そして聖女さまが生まれた地、ウィンストンでの聖誕祭が終われば教皇さまと……。この旅がよい想い出となる事を私もお祈りしています。たくさん、大好きなお歌を歌えるといいですね!」

「ありがとう。でも、成人かあ。私にも愛って何か、分かるといいな……」


 子供から大人へ。彼女を取り巻く世界は、その日をもって明確に変わる。たとえ、それが自分で望んだ事ではないとしても……。






 ガーディアナ中枢、地下深くに存在する教皇の間。そこへ、聖女は一人呼びつけられた。


「ふう……いつ来ても遠いなあ」


 同じ居城に住んでいながら、彼の部屋は聖女の部屋と階層がずいぶん離れている。聖女は天に近い場所に鎮座し、教皇は地の底で暮らす。公に結婚するまでは、周囲にその純血を知らしめる必要があるという事らしい。実際は聖女が簡単に逃げ出せぬよう、天高く幽閉しているに過ぎないのだが。


「結婚か……。私は、どうしたいんだろう」


 つい、つぶやいてしまう。それは、自分を捨て、誰かのものとなる(おきて)。少なくとも自分とっては、決まり事だからという理由しか今は見いだせない。


「そんなに嫌なら、エトが変わってやろうか」


 誰にも言えずにいたそんな声を、偶然思いもよらぬ人物に聞かれてしまった。

 聖女の前を腰に手を当て、仁王立ちで迎える幼い少女。よりによって、と聖女はおそるおそる立ち止まる。


「あっ……えっと……」


 聖女と敵対する女帝、女教皇エトランザ゠マリアロッタ。彼女も司徒の一人である。おでこの目立つ、ウェーブがかかった長い黒髪を二つ結びにしたミステリアスな少女で、ガーディアナでも教皇の次に位の高いと言われるマリア家の息女である。


「本来ならその役目は、我がマリア家のもの。いきなり現れた泥棒猫にやすやすと奪われるこの屈辱、貴様には分からないだろうな!」

「エトランザ……私は……」

「ところで、先日捕らえた魔女の浄化、ご苦労だった。まだ年端(としは)もいかぬ少女達だったようだが、一人は収容所で体を悪くして死んだらしい。だが安心しろ、残りはエトが引き取る事にした。しかし、つくづく化け物だな。教皇様もどうして貴様のような奴を……」

「そんな……」


 エトランザは幼い顔を邪気に満ちた表情に歪ませ、聖女をまくし立てる。彼女はまだ十にも満たない子供だが、教皇を真に愛しているのは自分だけだと言って(はばか)らない。正妻となる聖女への憎しみも相当なものであった。


「ふん、せいぜい聖誕祭では気を付ける事だな。貴様を(うと)ましく思う人間は、ごまんといるのだから」


 彼女はすれ違いざま、意味深な捨て台詞を吐き去って行った。それでも聖女には、どうする事もできなかった。この憎しみを育てたのは自分であると。嫌でも焼き付いた憎悪に満ちた目に突き刺され、幾重もの罪悪感が聖女を襲った。


(私だって、代われるものなら、とっくに……)


 心の中で精一杯の言葉をつぶやくと、聖女は何事もなかったように毅然(きぜん)と歩き出す。


 ようやく辿り着いたのは、どこか何者をも寄せ付けぬ威圧感を放つ教皇の間。

 その重厚な扉を開ける前に、彼女は大きく深呼吸をする。


「ふう……」


 この瞬間ばかりはいつまで経っても慣れない。なぜか、昔から彼に対してだけは全身が蛇に睨まれたかのようにすくむのだ。マルクリウス的に言うと、神に近しい存在であるがゆえ、本能が恐れを抱いているという事なのかもしれない。


「……うんっ」


 意を決しその大きな扉を開くと、煌びやかな部屋の中央の座に悠然(ゆうぜん)と腰を掛ける長髪の男性が、射貫くような銀色の瞳でこちらを見た。

 その男は、同じく銀色の中分けした腰まである長い髪とアルカイック彫刻のような端正な顔立ちを携え、どこか近代の人間に似つかわしくない神秘的な雰囲気を纏っていた。そのクリスタルを施した豪奢(ごうしゃ)な服装から分かるように、その位は聖職者の中でも最上級のものである。


「リュミエール。お待たせしました」

「来たか聖女よ。ふむ、今日も一段と美しい。いや、成人の(よわい)となった途端、生命の輝きを増したようにすら思える」

「はい。この時のために、私は生まれてきたのですから」

「嬉しい事を言う」


 聖女といえども、彼にだけは敬語で話す。もちろん、挨拶の言葉は一字一句、事前に教えられたものだ。彼の機嫌を損ねる事は、聖女といえど許されない。


「どうだ、マルクリウスの教えは。お前には少し、難しいのではないか?」

「いいえ、とても分かりやすく教えて下さいます。ただ、お昼前なので、少しだけお腹がすきます」

「ふふ、構わぬ、よく食べよ。聖体はそうして作られる」


 たわいない世間話の後、リュミエールは聖女の体つきに目をやった。

 うっすらと透けた体のラインがよく見えるドレスは、彼の趣味でもある。いつでもその成長度合いを見て取れるように、半ば強制的に着せているのだ。ただ、女性は無闇に肌を晒すものではないとも教えられた。見つめられていると、恥ずかしさに頬が赤く染まっていく。


「さて、いよいよ明日、我らの婚礼が執り行われる。そこで、お前が本当に成人と成り得たか、見定めねばならない。大々的に行う以上、子も宿せない者を愛したとあれば我が名に泥を塗る事となる」

「リュミエール?」


 言葉の意味はともかく、その真意が分からない聖女は、立ち上がりこちらへ向かうリュミエールの思惑に怯える事しかできない。


「あ……」


 彼の長い指が、ドレスと肌の隙間へと潜り込んだ。胸部のなだらかに盛り上がった肌が強引に押し分けられる。その指は人の物とは思えないほどに冷たかった。


「んっ」

「少しきついか。婚礼の聖衣は、やや大きめに作ってある。普段着にはまた新しいドレスを新調しよう」


 胸の事を言っているのだろう。1センチ毎に成長する聖女に合わせ、教皇は惜しみなくドレスを仕立てる。そしてその運指は少しずつ下へと向かい、薄い布一枚で全てを隔てる少女の領域へと侵入した。


「……っ!」


 全身が硬直する。それは自らも滅多に触れる事のない、未知の領域。むき出しの自分自身を鷲づかみされるような、捕食者への恐怖に近い感情が彼女を支配する。


「ふっ」


 一方で教皇は表情一つ変えずにその反応を楽しんだ。そして、怯える事しかできない聖女へと命じる。


「まずは、そうだな。この私に、愛を示すがいい」

「え……」


 おそらく血の儀式について正しい理解を得られているか、こちらを試しているのだろう。愛のしずく。聖なる秘め事の際、それは自然に流れ出すという。しかし、こんな状況でそのような事があるはずもなく、その指は何かを促すような動きで布の上を踊るばかり。


「ひ、う……」


 その違和感に耐えきれず、染み出した数滴の何かが教皇の指を濡らした。その事実に気づき、聖女は恐怖と共に全身を震わせる。侍女にも言われたばかりと言うのに、まだしていなかった事を思い出したのだ。


「用を足せと言っているのではない。私に、愛を示せと言っている」

「ご、ごめんなさい……っ」


 少し不満げなため息が漏れ、聖女はそんな絡みつくような時間からようやく解放された。すると手を離した教皇はその光る指先を見つめ、何を思ったか口元へと近づける。


(えっ――?)


「じゅる……ぴちょ……」


 彼の舌が、さっきまで聖女の体内にあった液体の上を貪るように這う。そして、目を閉じて口に含んだそれを舌の上で転がし始めた。にわかには受け入れがたい事だが、おそらく、味を見ているのだろう。


「あ、あの……」

「ふむ……どうにもならんか。初潮ばかりは」


 吐き捨てるようにそう言うと、教皇は想像もつかないほど高価なドレスをそのまま縦に引き裂いた。それにより、デコルテよりみぞおち辺りまでの白い肌が剥き出しとなる。


「あっ……!」

「何も考えるな。こういうものと思えばよい」

「はい……」

「辛いと感じたら言え。私も本意ではない」


 ビリビリと服が破かれる度に、土足で心に踏み入られるような気がした。露わになる聖体を隠す事も出来ずに、聖女はただ立ち尽くす。白い肌を露出し、少しだけ震える聖女はあまりにも美しかった。


「ああ……エン、ティア……」


 教皇は確かにそう言った。それは星の母とされる神の名前。まだ幼いこの体に、彼は何をみているのだろうか。

 聖女の視線に気づき、酔いしれるように眺めていた彼の顔が普段の冷徹なものへと変わる。


「……忘れろ。しかしよく育った。これも聖体を崇拝するガーディアナの加護によるもの」

「胸はまだ、自信がありません」

「ふっ」


 気にするな、と言うように、教皇は長い髪に隠れたそれに触れた。ただそれは、彼の長い指を柔らかく包み込むように沈み込む。


「んっ……」

「男は皆、母なる聖体に逆らえぬ。中でも、白きソーマを注ぐ聖なる(さかずき)にはな」


 リュミエールの指は、ゆっくりとその二つの頂点を結ぶ急所へと移動する。そこは、彼女の身体で唯一ざらついた感触を与える、聖女として似つかわしくない場所でもある。


「まだ、うっすらと傷が見えるな。どういう訳か、この傷は私の力を以てしても癒やせぬ。小癪(こしゃく)にも、まるで意思を持っているかのようだ」

「はい。時々、何かを訴えるように胸が苦しくなります。でもこれは、私の罪。これからも、この子と共に生きて行きます」

「そうか……」


 リュミエールは聖女の胸の中央にある小さな傷をいたずらになぞった。

 その瞬間、聖女の心臓が暴れるほど高鳴った。まるで彼そのものを拒絶するかのように。


――いや……、やめて……! もうわたしに、触らないで……!!


「ううっ!」

「どうした、ディアナ!」

「あ……あ、ああ、あ」


 抱き留めた教皇の呼びかけも空しく、聖女はそのまま気を失った。

 と同時に、聖女の背中から漆黒の天使のような幻が現れる。やがてそれに操られるかのように再び目を覚ました聖女は、まるで感情の無い瞳でリュミエールを見つめた。


「これは、聖女の幻像(スペクトル)!? まさか、力の暴走か……!」


 リュミエールはその死人(しびと)のような目をした聖女から身を離し、自らも瞳の色を灰に変えると、次に起きるであろう何かへと備えた。


「……私は、聖女セント・ガーディアナ。あなたに、浄化の裁きを」


 突然、聖女から目も眩まんばかりの閃光が走る。これこそが魔女を裁く光。この光に撃たれた者は、誰であろうと生命の根源たる全ての力を失うとされる。


「くっ、面倒な……」


 本来攻撃的ではない聖女に、浄化の任務を科すため植え付けた制御不能の無慈悲な人格。今それが強い心の負荷により呼び覚まされたのである。これこそ完全無欠なはずの聖女の唯一の欠点であり、それを押さえ込む事ができるのは世界において教皇ただ一人であった。


「鎮まれ、黒天使(こくてんし)リゲルよ! 我が名はリュミエール。有史において唯一の力を示す存在にして、信仰による奇跡を万民にもたらす神の名である!」


 教皇からもまばゆい光が放たれる。並みの人間などがいたならば、跡形も無く消し飛ぶ程の力場がそこに生まれた。教皇の力と聖女の力は拮抗し、その場で互いに相殺する。やがて力を使い果たした聖女は、その場へと倒れ込んだ。


「大丈夫だ、気を確かに持て」

「はっ、はっ……!」

「古傷が痛み、聖女の力を刺激したのかもしれん。軽はずみな事をした」

「う……うう……」


 リュミエールの腕の中、聖女は息を整える。

 暴走した間の記憶は無いが、気を失う直前、少女の声が聞こえた気がする。それに、リュミエールは自分をだれかの名前で呼んだ。それはうっすらとした記憶の中に眠る、懐かしい名前。

 しかし全ては再び消えていく。そう、自分には名前なんて、初めからないのだから。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 何かを失敗してしまった時、聖女は必ず何度も謝る。悪いのは私です、あなたは何も悪くないのだと。

 気を良くしたリュミエールは、羽織っていた上着を聖女へと掛けた。それは少女の体に比べ大きく、全てを包み隠す。


「リュミエール……私を許して、くださるのですか?」

「少しばかり(はずかし)めを与えたな。私の妻となる者の体だ、全て把握しておく必要があった」


 聖女は理性を取り戻し、ゆっくりといつもの彼女へと戻る。用意された一字一句を違わずに紡ぐ、供物たる器へと。


「私は……私の聖体は、あなただけのものです。たとえ、どのように穢れていようとも」

「何を言う、一つとして問題はない。滞りなく婚礼の儀式を終えた後に、愛を育むとしよう」


 何となく言っている事は分かる。聖交の事だ。

 子を宿すという聖なる行為。何度も、素晴らしい事だと教えられた。けれど、何故だろう、あまりの恐怖に逃げ出したいとすら思っている。

 どうしてこんなにも怖いのか、分からない。無から生まれ、父も母もいないと聞かされた彼女にとって、生というものはあまりにも儀礼的であった。ただ教皇の奥底に隠された何かは、明らかにこちらの一部分を捉えている。攻撃的なまでに、暴力的なまでに。


「着替えが済み次第、ウィンストンへと向かう。彼の地はお前の出生の地、そこでゆっくりと聖体を休めるといい」

「はい」

「……聖女よ、愛している」

「はい……」


 操り人形。物心つく頃から、自分はそうして生きてきた。

 そうしていれば、全てが上手くいく。誰もが喜んでくれる。

 でも、一人、心は壊れていった。


 人々は(おそ)れ、敬い、人でない者達は恐れ、憎悪する。

 自らで考えず、自らの力を、自らのために使う偶像。

 この時代(とき)を知る者達は、後の世で何を思うだろうか。


 私は聖女セント・ガーディアナ。

 この世界において何よりも恐ろしい、聖なる魔女(マレフィセント)……。


―次回予告―

 任務当日、静かにその刃を研ぐロザリー。

 狂乱の宴の中、彼女を待ち受けていたものとは何か。

 運命の歯車は歪な音を立て、ゆっくりと動き出した。


 第5話「聖者の行進」

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