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第4章 番外編 『東方二重桜』

 大陸と遠く海を隔てた東方の島国、イヅモ国。


 太陽は、この地より雲を分け天空へと出づる。そんな言い伝えと共に名付けられたこの国は、あらゆる不思議な力が存在する神秘の国でもあった。


 時は新暦十八年。ロザリーの旅が始まる、さらに二年ほど前の事。

 この地における年号を、これまでの「救世(きゅうせい)」改め、「天蛇(てんじゃ)」とした年。後に“天蛇の改革”と呼ばれる未曾有(みぞう)の大改革が、このイヅモ国にて執り行われた。


 全ての発端は、ある一人の稀妃禍(まれひか)の誕生から始まる。その(とき)から、この地を照らす日の本の加護はいずこかへと雲隠れしたかのように影を潜めたという。


 救世主が天より舞い降り、この地を救ったのも遠い昔。それまで十年来平和の続いていたイヅモに、突如として襲いかかる数々の天変地異。人々は度重なる地震や洪水による飢饉(ききん)に苦しみ、これもかつてこの地を荒らした、神獣オロチが復活した事による災いだと嘆く事しかできずにいた。


 そんな折り、国と同じ名を冠した神子(みこ)天現(てんげん)いづもという少女が将軍家より頭角を現す。幼いながらも彼女は陰陽道を操り、あらゆる厄災をその力によって鎮めてみせた。その求心力は凄まじく、瞬く間にこの国の創始者といわれる賢者、ヒミコの再来と崇められるまでに至ったのである。


 しかし、齢七歳にしてイヅモの全実権を握った彼女には、ある秘密があった。

 彼女こそ、かつて救世主によって倒された神獣、オロチの生まれ変わりとされる稀妃禍(まれひか)であり、類い(まれ)なその妖力を利用し、この国を再び支配しようと裏で暗躍していた張本人であった。


 彼女が生まれ落ち、その力に目覚めたであろう時期は厄災の起こりと符合する。あまりに強大な力を持つ「いづも」を恐れた識者の中には、彼女こそが全ての元凶だと噂する者もいたが、ことごとくが失脚、島流しにあった。


 とうとう時の将軍、天現出慶(いづよし)は娘、いづもの操り人形となり、国の中枢を救世主の加護で守られたこれまでの東幻京(とうげんきょう)から、霊脈が集まるイヅモの中心、天現京(てんげんきょう)へと移し、国を鎖国政策により封鎖。その妖力を結界により国中に張り巡らせる事に成功した。


 その結果、国には異界の住人、(あやかし)蔓延(はびこ)り、救世主が統治する以前の、混沌とした状態に逆戻りしたのである。


 そしてその翌年、混乱の中にあるイヅモ国に、もう一つ大きな事件が起きる。大陸より、ガーディアナの巨大な蒸気船が不吉な教えと共に到来したのだ。

 いつからかイヅモ周辺の海には神風という嵐が常に吹き荒れており、普通の船であれば渡航など到底不可能なはずである。人々は“がであな国”の高度な文明に驚き、その純白の船の姿になぞらえ、畏怖をもってそれを白船と呼んだ。


 この地へと派遣されたのは、ガーディアナ第十司徒フランシス゠ペルリ。まるで河童のように頭頂部のはげ上がった老僧である。彼の神通力は、天現いづもの正体を見事に見破った。そして異端を退け人の世を取り戻す教えを、病に倒れるまでの生涯に渡り人々に唱え続けたという。


 かくして、エルガイア大陸を中心に広まる“がであな教”は、この地イヅモにも瞬く間に広まっていった。信者と化した各地の大名は力による天下統一を為さんと反乱を起こし、世はまさに群雄割拠の戦国時代に突入したのであった。






 そして新暦二十年。もとい天蛇三年、一の月。

 幕府の鎮座する天現京のお膝元、シコクは紅の里に、一通の文書が届いた。


 ――忍者集団、紅の陣。頭領、琴吹(ことぶき)(さくら)伝説級(れぜんど) である汝に、近年(ちまた)を騒がせる“がであな国”の密偵、及びに“がであな教”なるものを広める元凶、“聖がであな”の誅殺をここに申しつける――


「これは……ちょっとヤバ(・・)い事になったわね」


 それを手に取った女性は、眉間にシワを寄せてつぶやく。その内容に、文面だけでは読み解けぬ、ただならぬ物を感じたのだ。女性は顔色を変え、(くう)に向かって命じる。


「今すぐ皆を呼べ。幕府からの勅命が出た」

「はっ」


 その声に、天井裏から一つ気配が消えた。

 今回の任務はこれまでとは違い、遠く国外への偵察任務。一度、救世主と共に世界を旅したこの忍、琴吹桜にはうってつけの任務ではあるが、今自分が国内を留守にしては、暴君、天現いづもの暴走を止める者はいなくなってしまうだろう。それでなくとも世はまさに戦国時代。幕府お抱えの忍びとしては多忙を極めるただ中である。


「まったく、魔王退治以来の厄介事が舞い込んできたものね……ほんとチョベリバ(・・・・・)って感じ」


 あまりの無理難題を押しつけられ、つい、昔の口癖が出てしまう。


 サクラが率いる紅の陣は、魔王討伐の褒美として将軍直属の公儀隠密という地位が約束されており、一族はかつて無いほどに安泰の地位を得た。しかし同時に、イヅモにおける本来の最高権力者である朝廷の天子(てんし)により、幕府の不穏な動き見張るという命を授けられてもいる。

 伝説の忍である彼女には、近年のイヅモを取り巻く、闇に蠢く者達の動きが全て見えていたのだ。


「天子様といづも、どちらを取るか。リョウ……私はあなたのようには、なれないみたい」


 自身が、仲間達が、そしてあの人(・・・)が守ったこの世界を、こうして残された身でありながら守れずにいる事。その歯がゆさは、つい愛弟子である姪っ子への修行にぶつけてしまいがちになる。


「てゆーか……あの子さえしっかりしてれば、私も本来の役目に戻れるのだけれどね……」


 姪、琴吹桜子、十四歳。子煩悩な兄の一人娘である。とんでもなく怖がりで、泣き虫で、虫も殺せないような、どうしてこんな場所に生まれてきたのか同情を禁じ得ない女の子。


 その姿はまるで自分の若い頃の生き写し。サクラコという名前も自分にあやかって兄が付けたのだという。けれど、性格は正反対。彼女と同世代の頃にサクラがやっていた事と言えば、異世界から召喚されたという救世主の命を狙うため常に付きまとっては、逆に惚れてしまって魔王退治のお供、という波瀾万丈な人生。

 どれだけ血を流した事だろう。けれど、そんな地獄を見たからこそサクラコにはつい厳しく当たったりもしたのだが、当人は知る由もない。


「忍びの技術は全て叩き込んだ。けれど、あの子は稀妃禍(まれひか)。天現いづもと同じ闇の芽を持つというのであれば、より大事なのはそれを押さえ込む精神力。だけどこれまでの厳しい修行も、あの子の性格を見てると逆効果だったかも。はぁ……そろそろ親離れの時が来たか……」


 可愛い子には旅をさせよ。いや、可愛い子だからこそ、こんな国からは離れた方が良いに決まっている。天現いづもは国中の稀妃禍を集めては、何か良からぬ事をしようとしているのだ。


「さてと、そうと決まれば最後の仕上げね。あの子の担当は、と……」


 ガーディアナという地とマレフィカの因縁を知ってか知らずか、サクラは自分の代わりに、姪のサクラコをその地へと派遣する事を密かに企むのであった。




************




 近年イヅモではオロチ神による妖力が満ちあふれ、町や村々ではこの世ならざる者達である、あやかしによる被害が続出していた。


 彼らは人に危害を加えるものの、子供のいたずらや害獣程度の被害に全てを駆逐する訳にもいかず、おまけに将軍様まで“あやかし憐れみの令”なるものを発布したのではどうする事もできぬと、人々は力を持つ組織などに治安を守る仕事を押しつけていた。


「とーりゃんせ、とーりゃんせ……」


 紺色の地味な装束に身を包み、一人の少女が寒村を歩く。

 下忍よりもさらに下の見習い忍者サクラコは、いつ起こるともしれぬあやかし騒動を未然に防ぐため、今日も今日とて里の “あやかしパトロール”を自主的に行うのであった。


「……こ、こんにちはー、何かお困りの事はありませんかー? 私にできる事であれば、何なりと申しつけ下さーい」


 里中に情けない声が響き渡る。しかし、聞こえてくるのはヒソヒソとした話し声のみ。


「うう、誰も相手にしてくれないよう……」


 サクラコと言えば、この辺でも有名な役立たずで通っている。彼女がこの里の担当になった時には、子供までもが自警団に志願するため殺到する始末であった。そのためここには血気盛んな子供も多く、中でもこの一帯を仕切るガキ大将にはよくいじめられたりもする。


「今日はあの子達、いないのかな……。どうか、いじめられませんように」


 しかし悪い予感が的中し、遠くから子供達の騒がしい声が聞こえてきた。

 何かあったのだろうか。出来れば会いたくないが、持ち前のお人好しがそうさせてはくれない。サクラコはおそるおそる声のする方へと足を運んだ。


「お前ら、あやかしだ! 逃がすんじゃねえぞ!」


 川辺にてガキ大将の威勢の良い声が響く。それを合図に、やんちゃ盛りの少年達が何かを取り囲んでいた。


「囲め囲め!」

「何か言ってみろよ、ばけもの野郎!」

「ははっ、こいつ、あやかしのくせにてんで弱っちいの!」

「ぐえっ、ぐえっ……」


 子供達の隙間から、頭を抱えてうずくまっている緑色の小さな子供の姿が見える。確かにあやかしに見えるが、それぞれ叩いたり蹴ったりやりたい放題。いくら何でもやりすぎだと、たまらず飛び出すサクラコ。


「だ、ダメですっ! いじめは、ダメですぅ!」


 へなへな声の一喝。しかし子供達は一つも動じない。


「あっ、弱虫忍者が来たぞ!」

「またあいつかよ。来んなよ、しょんべんくせー」

「やーい、しょんべんクサ子ー、今日もふんどしが黄ばんでんなー!」

「うひう……」


 これがサクラコの日常。いつもこんな調子でバカにされ、その度にただ震え上がるのだ。そんなサクラコの前に、他より二回りは大きい、育ちの悪そうな少年が立ちはだかる。


「サクラコよお、いじめとは人聞きが悪いなあ。この里を守るはずのお前がだらしないから、俺達が代わりに退治してやってんだぜ。へっぽこはそこで大人しく見てりゃいいんだよ!」

「ううっ」


 確かにこの村は昔からあやかしが出るという言い伝えがあり、いつ被害に遭ってもおかしくはない。いや、現にこうして現れたのである。その正当性を確かめた子供達はむしろ暴走を始め、甲羅を背に丸まったその子をさらに袋だたきにした。


「おらっ、早くくたばれっつてんだろ!」

「ぐえっ、ぐえーっ……」

「あ、あやかしさん……」


 あやかしの子供はじっと耐えながらこちらの方を見つめるも、どうしても勇気が出ずに止めに行くことができないサクラコ。


「うう……ごめんね……ごめんね……」

「忍者のくせにビビってんのかあサクラコ? そうだ、そんなら俺様が一つ度胸をつけてやる。お前がこいつの代わりになるってんなら、助けてやってもいいぜ。どうする?」

「あ、あう……」


 サクラコと同世代の少年達、中でもこのガキ大将は、何かとちょっかいをかけてくる怖い存在だ。村に降りると、必ずと言っていいほどいじめられる。サクラコはこれから起きる事を想像し、またもぶるっと震えた。


「何だこいつ、またおしっこ漏らすんじゃないだろうな? ハハハ!」

「そんなこと……」

「出来ないなら帰れよ。お前が来ると、ろくな事が起きねえんだ。こないだなんか、あの怪力女連れて来ただろ。あれからだ、村にこうして悪い事ばかりが起きるようになったのは! お前は疫病神なんだよ!」


 少年達の言葉に何も言い返す事ができないサクラコ。

 それもそのはず。以前、この村で禍忌(まがき)ザクロに見つかりひとしきり可愛がられた時などは、手も足も出ずに少年達にまでお漏らしを見られてしまう始末であった。それ以来サクラコの威厳は地に落ち、未だ回復できずにいるのだ。


「ごめんなさい……。なので、この間のお詫びに何か出来ることがあればと……」

「お前に何ができるってんだ! お前が太刀打ち出来なかったあの女が里の結界を壊したから、こんな風にあやかしまで出てきやがったんじゃねえか!」

「そんな、やっぱりこの辺の妖気の高まりは、禍忌流が糸を引いていたんですね……」


 幕府に気に入られるためには、チンピラまがいの禍忌流はどんな手段をも用いる。それどころか幕府までもが主導で邪神であるオロチを崇めるようになって、この国は人の心までもおかしくなってしまった。

 そのため、お師匠様率いる紅の陣は本来同門である禍忌流と対立し、人知れず人助けに日夜奮闘している。救世主様が救ったというこの国を、ただ守り続けるために。


(ごめんなさい、お師匠様……。それに比べ私は、駄目な子です)


 こんな事を言うと、必ずゲンコツが飛んでくる。だがその顔は怒っていても、心で泣いている事も知っている。これも、全ては頭首の努めなのだ。

 いつも、そんな師匠の後ろ姿を見てきた。

 だから、こんな時くらい、自分も。サクラコは意を決して少年を見つめた。


「……わかりました。私が、その子の代わりになります。だから、今回は見逃してあげて下さい!」

「言ったな。へん、また漏らしたって知らねえぞ」


 ガキ大将は一人、サクラコの方へと近づいてくる。しかし他の子供達はどこかためらっているようだ。


「おい、さすがに紅の陣に手を出すのはまずいんじゃないのか……?」

「怖い奴は帰れ! 俺様は、腹の虫が治まらないんだ!」


 サクラコは覚悟を決めて目をつむる。その長い睫毛には、うっすらと涙がにじんでいた。


「いいな、俺様はやるからな! やるといったらやるからな!」


 しかし、少年は振り上げた拳をなかなか降ろす事ができなかった。里の少女をかき集めても、これほどの器量良しはいない。震えながらも凛と立つその姿に、少年達はどこか淡い感情を抱かずにはいられなかった。


「くそ……、ちぇっ、分かったよ! こいつは助けてやる。こんなガキいくらやっつけても、気が晴れないからな」

「あ、ありがとうございますっ。この件は、私が責任を持って解決してみせますから!」

「ふん、お前も紅の陣なら、こんくらいでビビってんじゃねえぞ! みんな、こんな奴ほっといて行こうぜ!」


 ふと可愛らしい笑顔を見せるサクラコに、少年達は一様に顔を赤くして帰っていった。とりあえず無事、一難去ったようだ。


「ふう……怖かったあ」

「あの、平気ぎゃ?」

「はうっ」


 声を掛けたのは、一人その場に残っていたあやかしの子供であった。


「助けてくれて、ありがとだぎゃ!」

「いえっ、当然のことをしたまでです! あなた、河童さん……ですよね? どうしてこんな所に一人で……?」

「オラ、ニンゲンにどうしても伝えたい事があったんだぎゃ。そしたら、ちょうど道がつながって、こっちに来られたんだぎゃ」

「そうだったんですね。でも、危ない事はダメですよ。妖力が高まると、あやかしは普段より凶暴になるって、里の人達は殺気立っていますから」


 河童の少年は、信じられないといった顔でサクラコを見つめた。


「優しいんだぎゃ。あやかしの心配なんかしてくれるなんて」

「そんな……私は気弱で、のろまで、どじで……。でも、人に嫌われたくないから、親切な振りをしてるだけで」

「ううん、そんな事ないぎゃ。本当に弱いのはオラだぎゃ。あやかしのくせに、何にもできなかったもん。えへ、えへへ……」


 目も隠れるほど長い前髪から覗く瞳は、どこか悲しげに笑っている。まるで辛い事ばかりの世界を、見ないふりしているかのよう。頭のお皿に甲羅、尻尾に水かきと、姿形こそ違うが、この子は自分に似ている。サクラコは少しだけ彼に親近感を覚えた。


「私、紅の陣のサクラコといいます。あなたのお名前、何て言うんですか? 聞きたいな」

「オラ、太助って言うぎゃ。助けられてばっかのくせに、おかしな名前だぎゃ」

「そんな、素敵な名前です! お父さんも、誰かの助けになってほしいって思って付けたんじゃないかな。子供達にも反撃しようと思えばできたはずなのに、あなたはそれをしなかった。それは、そんな名前に負けない優しい心を持っているからなんだと思います」

「優しい……オラが……?」

「はいっ!」


 同世代の少女の、他愛もない肯定。それを受け照れたようにみるみると色づく頬が、少年の世界を一変させた事を物語る。


「ところでタスケさん、どこか怪我はありませんか?」

「だ、大丈夫ぎゃ! あやかし特製の、秘伝のガマ油。これを塗れば、どんな傷もたちどころに良くなるぎゃ」


 そもそも子供達の暴力など、あやかしにとってはそれこそ屁のカッパである。彼らは頭のお皿だけ大事に守っていればいいのだ。

 それよりも、太助にとって心配なのはサクラコの方であった。こんな小さな体で、あやかしの世界に足を踏み入れようとしているのだから。


「それで、人間に伝えたい事って何ですか? 私で良ければ聞かせて下さい」

「それは……覚悟して聞いて欲しいぎゃ。実は、ニンゲンの世界で一番偉い、天現いづも様という方が、近々あやかしの大戦争を起こそうとしてるって話なんだぎゃ。全国から選りすぐりのあやかしを集めて、自分に逆らうニンゲン達と戦わせようとしてるんだぎゃ」

「そんな事が……。では、太助さん達も人間と戦うんですか?」

「ううん、オラ達河童は、それに選ばれなかったのぎゃ。オラ達はそんなに強いあやかしじゃないし、そもそも、いづも様は河童が嫌いなんだぎゃ。とんでもなく強かった、がであなの宣教師がオラ達と同じようなお皿のついた頭だったかららしいんだども、それにがっかりした河童族の長……オラの父ちゃんなんだけど、それなら自分達でニンゲンを襲って、いづも様に力を示そうって言いだしたんだぎゃ。だから急いで知らせようとしたのに、あの子供達は信じてくれなかったんだぎゃ。それどころか、返り討ちにしてやるって……」

「そう言う事だったんですね……」


 子供ですらこうなら、大人達に報せては火に油を注いでしまうかもしれない。ここはやはり、一人で解決するべきだとサクラコは決意する。


「それよりもサクラコ、これから河童の里に行くの? 今、父ちゃんや大人達はみんな妖気でおかしくなってるだぎゃ。きっと危ないぎゃ」

「でも、私が解決するって約束しましたし……。それに、こんな形で人間とあやかしがいがみ合うなんて、悲しいですから」

「うん……オラも父ちゃん達と人間がケンカするの嫌だ。そうだ、それなら、オラが父ちゃん達を止めてみせるぎゃ!」

「で、でも……それができないから、こちらに来たんですよね?」

「だども、ニンゲンの女の子一人に、こんな危ない事はさせられないぎゃ!」


 これは困った事になった。サクラコは弱気ではあるが腕に覚えが無いわけではない。あのガキ大将すら本当は相手にもならないのだが、男の子には面子というものがある事を知るサクラコである。足手まといだなどとは言えず、渋々とそれを了承した。


「では、よろしくお願いしますタスケさん。それで、河童の里はどちらに?」

「こっちだぎゃ! ついてきて」


 二人が向かったのは、里の外れにある崩壊した鳥居跡。壊れた柱の間には応急処置の注連縄(しめなわ)が張り巡らされており、その先はどこか暗くぼんやりとしている。


「やっぱり……。イヅモ全土の妖力を抑えるために張り巡らされた、八百万(やおよろず)(やしろ)。あの時ザクロさんがそのお社の結界を壊したせいで、人間達の里と河童の里が繋がってしまったんですね」

「うん。あれからおかしな力が里を覆って……みんな変わっちゃったぎゃ。信じてくれないかもしれないけど、本当はやさしい父ちゃんなんだぎゃ」

「大丈夫です。私は、あやかしさんを信じていますよ!」

「サクラコ……!」


 二人は鳥居を抜け、あやかしの世界へと繋がる道を探す。


「でも、道らしいものは見当たりませんね……」

「ここに、最近開いた逢魔時(おうまがとき)にだけ繋がる里への道があるんだぎゃ。それ以外の時は、結界の力が強くてオラも帰る事ができないぎゃ」

「逢魔時というと夕刻……。今はまだ正午過ぎ、道はまだ繋がってないようですね」

「オラがいなくなってしばらく経つし、父ちゃん達も向こうで夕刻を待ってるかも……」

「それじゃ、急がなきゃいけませんね。大丈夫ですよ。こういう時には心強い味方がいます」

「味方? どこにいるの?」


 えへん、とサクラコは自慢げに薄い胸を叩いて見せた。


「では……色白(いろしろ)様、色白様、妖気へと続く道を我が前に示したまえ」


 サクラコが次々と印を結びながら唱えると、その背後から犬のような顔をした人型の幻像(スペクトル)が現れた。


 これこそが彼女の守護霊様。その白さにちなみ、サクラコは「色白様」と呼ぶ。サクラコには生まれついて、何者かが内に宿っているような感覚があった。それは成長するにつれ次第に大きくなり、今では式神のように時折不思議な力を与えてくれるまでになった。


「わあ……これ、お犬様だぎゃ?」

「あやかしさんには色白様が見えるんですね。この方がいつも私を見守ってくれているからでしょうか、あやかしさんの事は怖くないんです。変ですよね、里の子供達の事は怖いくせに」

「ううん……あやかしとだって仲良くなれるんだもの、サクラコならきっとあの子達ともわかり合えるぎゃ」

「そ、そうですよね……。私、みんなに認めて貰えるように頑張ります!」


 サクラコは印を結び、色白様の力で結界を開く。すると、あやかしの里へと続く道が目の前にゆらゆらと映し出された。


「これで結界を解かずに向こう側へと行けます。早くその顔を見せて、お父さんを安心させてあげましょう!」

「うんっ!」


 決意と共に、二人はこの世の境界線を踏み出す。

 しかしその背後に、その一部始終を見ていた一つの影があった。


「……あいつ、もしかして本気で向こうに行く気か? くそっ……バケモノ共は、この俺様がぶちのめす。一人残らずな……」


 その影は手に持ったナタを振るい注連縄を切り裂くと、二人を追ってあやかしの世界へと踏み込んでいくのだった。




************




 あの世に近いとされる、あやかしの世界。

 あやかしとはそもそも、この世界に迷い込んだ人の霊魂のなれの果てとも言われる。河童も一説では産まれてくる事ができなかった水子(みずこ)の化身であり、人恋しさに里に現れる事はあれど、意味も無く人を襲うなどあるはずがないのだ。


(色んな理由があるとはいえ、ここには間引かれてしまった子供達がいるんですよね。身勝手な私達のために、ごめんなさい……)


 薄暗い森を歩く中、火の玉が次々にぽうっと現れては消えていく。サクラコは目をつむり、この世に未練を残す霊へと祈りを捧げた。


「さあ、時間がありません、急ぎましょう!」

「だぎゃ!」


 サクラコは疾風のように森を駆ける。それに得意の四足歩行で必死に食らいつく太助。

 やがて森を抜けた二人の前に、大きな湖が現れた。


「これは大蛇ヶ池(おろちがいけ)といって、この向こうにオラ達の住処があるんだぎゃ」

「太助さんどうしましょう。急ぎたいのは山々なんですが、私、泳ぎは苦手で……」

「サクラコ、オラの背中に乗って。女の子を乗せて運ぶくらい、屁のカッパだぎゃ」

「すみません……。そう言えば、なんだか似たようなおとぎ話がありましたね。もしかして、向かう先は竜宮城とかじゃ……」

「それはもっと遠い所にあるって父ちゃんに聞いたぎゃ。この池はオロチ様の龍脈へと続いていて、上流を辿ると天現様の所へと行けるんだぎゃ」

「へえー、便利ですね。もっとも将軍様と会うご縁なんて、私にはなさそうですけど」


 サクラコは太助の甲羅に乗って湖を進む。すると、簡素な藁造りの小さな家が点々と立つ小島が見えてきた。その入り口には、ご丁寧に“おいでませ! かっぱの里”という立て札が立てられてある。人とあやかしに交流があった時代の名残だろう。


「あっ、つきましたよ! 色白様、みんなが怯えるといけないので、ここからは隠れていてください」


 色白様は心配そうにワンと一つ啼いて姿を消した。警戒心の強い守護霊である、何かを察知しての事かもしれない。サクラコは用心して河童の縄張りへと足を踏み入れた。


「こんにちはー。誰かいらっしゃいますかー?」


 二人は数件の民家を訪れるも、もぬけの殻である。


「うーん、やっぱりお供え物のキュウリを持ってくるべきだったでしょうか」

「さ、サクラコ、あれ!」


 太助が指さす先の広場には、さながら合戦のような出で立ちをした河童達が集まっていた。


「グエッ! 野郎共よく聞け、俺の大事なガキがニンゲンに連れ去られたぎゃ! 命までは取るつもりはなかったが、もう許しちゃおけねえ。これからは人の世は終わり、オロチ様によるあやかしの世が訪れるという。俺達もニンゲン共の支配から今こそ抜け出し、河童の楽園を築こうじゃねえぎゃ! おめえ達、覚悟は良いぎゃ!」


「「おおー! ニンゲン共に天誅をー!」」

「「河童の楽園を築くだぎゃー!」」


 一際体格のいい河童の呼びかけに扇動され、里中の河童達が声を荒げる。まさに危惧していたとおり、太助が戻らない事で深刻な行き違いが生じていたようだ。


「あわわ、やっぱり大事になってる……。父ちゃん、オラは無事だぎゃ!」

「太助!? お前、今まで一体なにしてやがった!」

「オラ、ニンゲン達に決起の事を知らせようと思って。父ちゃん達が暴れたら、ニンゲンなんてひとたまりもないだぎゃ。こんな事、やっぱり良くないぎゃ!」

「何だとう……このバカ息子め、親に恥かかせやがって! 全部ニンゲンどものせいだって、すっかり言いふらしちまったじゃねえか!」


 周りではすでに酒を帯び、気を太くした河童達がひしめき合う。すでに皆、戦に行く気になっているらしく、その勢いは止まることはない。


「「ニンゲン共に天誅をー!!」」

「「ニンゲン共の土地なんか、カッパらっちまうぎゃー!!」」


「しまった、そう言えば景気づけに朝から酒盛りをしたんだったぎゃ。こうなるとこいつらはもう歯止めが利かねえ……! 銘酒キザクラの前には、河童といえど形無しよ……」

「そんな……そうだ、サクラコは? サクラコー!」


 頼みのサクラコはというと、早くもその酔っ払い河童達に囲まれていた。


「あ、あの……そんなに触らないで下さい」

「人の童子(わらし)なんていつぶりだべか、これは珍しいお客さんだぎゃ」

「こったら所、よく見つけられたぎゃ。ウチさ寄ってくけ?」

「かあー、めんこいのう! ほれ、おまんも酒呑んでくぎゃあ!」


 人里近い場所に住むあやかしは人間を怖がらない。むしろ今は敵対しているはずなのだが、やはりその根っこは人の子だった者達である、彼らも人恋しいのだ。早速、未成年にお酒を飲ませようとするタチの悪い河童が絡んできた。


「おう、オラの酒が飲めねえってのぎゃあ?」

「そ、そんな事は……」


(たしか、初対面の人と仲良くなるには、お酒の席を設けるのが一番だとお師匠様に聞いた事があります。なんでも、ごうこん、という儀式だとか……)


 忍びの修行として、あらゆる毒に慣れてきた身。今さらお酒なんかにひるむ訳にはいかないと、サクラコは果敢に河童達へと飛び込んでいく。


「は、はい、それではいただきます!」

「えっ、サクラコ、それ飲むんだぎゃ!? やめとくぎゃ! あやかしにとってはただのお酒でも、ニンゲンにとってはとっても危ない霊薬なんだぎゃ!」

「郷に入っては郷に従え、です! んく、んく……」


「「あそれ、一気、一気!」」


 銘酒キザクラを一合ほど飲み干したサクラコは、どや顔で空のとっくりを掲げてみせた。


「ふんす!」


「「おおー!」」


「あわわ、サクラコ……って、顔真っ赤だぎゃ、大丈夫!?」

「だいじょーぶです!」

「ほう、あの気錯乱(キザクラ)を一気とはお嬢ちゃん、ニンゲンにしては見所があるぎゃ。もしや太助の(スケ)か? 父ちゃんは気に入ったぞ!」

「そ、そんなんじゃないよっ、サクラコは、向こうでニンゲンにいじめられてたオラを助けてくれたんだぎゃ!」

「……なにぃ?」


 太助の父は目を皿のように丸くしたと思うと、サクラコに向け、礼儀正しくさらに丸い頭頂部の皿を見せながらお辞儀をした。


「ニンゲンに助けられたとは聞き捨てならねえが、ここはひとまず礼を言わせてもらう。ワシは河童の玉三郎、この河童の里を仕切る長だぎゃ。人呼んで玉抜きの玉三郎とは、俺の事よ」

「お礼だなんてそんな。申し遅れましたが私、紅の里の琴吹桜子と申します。今回、玉三郎さんに折り入ってお願いがあってやって来ました。ひっく」


 サクラコは真剣な顔で向き合うも、すっかり赤ら顔となり目の焦点もどこか合っていない。霊薬による錯乱状態の予兆である。


「おっと、もう酔いが回ってるじゃねえか。太助を救い、同じ(さかづき)を交わしたという事はもはや同胞も同然だぎゃ。それでサクラコとやら、お願いとはなんだぎゃ。何でもきいてやらあ」

「では率直に言わせていただくと、人里に降りて人間に戦を仕掛けるのはやめてほしいんです。最近は“がであな教”という御上(おかみ)をも恐れぬ者が、あやかし狩りを行っていると聞きます。このままでは、下手をしたら河童さん達も退治されてしまいかねません! ひっく」


 酒の力を借りて少し気が強くなったサクラコは、巨体の河童にも負けじと強気に出た。だが小さな子供にバカにされたと思い気が立ったのか、玉三郎は声を荒げる。


「何ぃ? 人間なぞにワシらが負けると言うのか! ばかばかしい! いいか、これからは人の世は終わり、いづも様によるあやかしの世が訪れるのだぎゃ。だから我々もそれに乗じて人間共を蹴散らすため、こうして池の底から這い出してきたのよ。だが俺も鬼ではない。お前に免じて、ここは相撲で勝負してやろうではないか。相撲とは本来、すまひ(・・・)と言い、その通り住まいを決めるために行った神聖な行事。古来よりそれに勝った方がその土地を得るしきたりよ、ならば文句はなかろう」

「の、臨む所です! わたひだって、鬼のような修行を耐えてきたんですから!」


 売り言葉に買い言葉。酔ったサクラコはすっかりと乗せられてしまった。


「子供に負けたとあれば人間と争うなど無理なこと。全てを諦めよう。だがお前が負けたら尻子玉を抜かせてもらう。これを抜かれた人間は()抜けになってしまうぞ、いいな?」

「かまいません! 腑抜けとか出来損ないとか、今までだってたくさん言われてきたんでふ!」


 実の所相撲には自信があった。ちびっ子相撲ならば負け無しであるが、今回はまるで体格の違う相手。サクラコは自身の天敵である禍忌ザクロを思い浮かべる。これが彼女なら震える所だが、ただの力自慢だと思えば怖くはない。


「とりゃー!」


 悪酔いしたサクラコは忍び装束を脱ぎ捨て、河童と同じふんどし姿になり構えた。上にはさらしを巻いてあるが、ほとんど素っ裸。エロ河童達は熱狂し、土俵には声援とおひねりが飛び交った。


「何してるのサクラコっ! 説得するはずじゃ……」

「言ってもわからない人にはお仕置きでしゅっ! フンフン!」


 サクラコはすでにのぼせ上がっている。太助は手で顔を隠しながら、その華奢なふんどし姿を目に焼き付ける事しかできない。


「さあ、どこからでもかかってきなひゃい!」

「その意気や良し! ワシが玉抜きの玉三郎と呼ばれる訳を教えてやる。女だからと容赦はせんぞ!」


 テンテテテンテンと小気味よい太鼓が鳴り、どこから出てきたのか行司(ぎょうじ)河童が力士の呼び出しを行う。


「ではこれより、河童相撲初場所を執り行う。ひがーしー、河童の玉三郎ー。にぃーしー、琴吹の桜子ー。両者見合って見合ってー、はっけよーい、のこった!」


「一撃で尻をつかせてやろう!」

「なんの、負けませんっ!」


 体格に差があるのならそれなりの戦い方がある。サクラコは猛然とぶちかましを仕掛ける玉三郎の頭上を飛び越え、背後へと軽やかに回った。


「何っ!?」


 勢いづいた玉三郎の力を利用し、そのまま押し出しにかかるサクラコ。しかし、土俵際まで来て地に根を張られ食い止められた。押せども押せども背中の頑丈な甲羅はビクともしない。おまけになんだかぬるぬるする。


「お、重い……!」

「ガハハ! 身のこなしは認めるが、その軽さがアダとなったな!」

「んぐぐ……」


 力比べではやはり分が悪い。ならば今度は速さで翻弄する作戦に出る。


「では、これならどうです!」

「むむっ、ちょこまかと逃げ回りおって!」


 玉三郎は逃げ回るサクラコを捉える事も出来ずに地団駄を踏んだ。しかし、だんだんとそのスピードは目に見えて衰え始めていく。


「は、はれ……? なんだか目が回って……」

「くっくっく、まんまと引っかかったな。あれだけ呑んで走り回れば、酔いも回るというもの。子供相手に大人げないが、お前を戦士と見込んで俺も本気をだすとしよう!」


 サクラコの力を認めたのか、玉三郎からこれまでにない程の妖気が放たれる。すると、みるみるとその姿は化け物染みたものへと変わっていった。紫色の肌、逆立つ髪、棘の生えた甲羅。そして、信じられない様子でそれを見つめる太助。


「父ちゃん……その姿……」

「ぐふふ、これぞ一族に伝わる秘技、河童魔気(まき)! 何者かがこの辺りの結界を解いてくれたおかげで、偉大なるオロチ様の力がここへも届くようになったのだ……ふしゅううう」

「これはまさか……お師匠様に聞いた、あやかしが凶暴な魔物化するという妖魔変化……。太助さん、こうなっては、もう……」


 サクラコはためらいつつも、ふんどしに忍ばせた暗器に手を掛ける。今は無き救世主の意志を継ぎ、この世の魔を断つ事こそイヅモの忍としての定め。しかし、それを生を受けてより今日まで嫌と言うほど教えられてきたはずが、どうしてもその刃を抜く事ができない。


「うう……こんな事、私には」

「ぐおおおっ、隙ありぃ!」

「危ない、サクラコっ!」


 決意の定まらないサクラコはついにその豪腕に捕らえられ、ふんどしを持ち上げる吊り出しの形をとられた。あまりに非力なサクラコは、なされるがままに土俵際まで追い詰められる。


「ぐふふ、ワシの勝ちのようだな! とりゃあ、河童川流波(せんりゅうは)!」

「ああっ!」


 鬼神の如き怪力で土俵の外に投げつけられたサクラコであったが、不思議と痛みはなかった。それもそのはず、太助が自らの体を滑り込ませ衝撃から守ったのである。


「さ、サクラコ、無事?」

「太助さん、もしかして私を受け止めて……!?」

「これくらい平気だぎゃ。いじめっ子にだって、あんなに大きな父ちゃんにだって立ち向かうサクラコを見てたら、オラも勇気がわいてきたんだ。だから、約束通りここはオラがやるぎゃ。見てて、サクラコ!」

「そんな、駄目ですっ!」


 太助は脱ぎ捨ててあった忍び装束をサクラコに掛け、土俵へと上がった。


「父ちゃん、次はオラが相手だぎゃ!」

「太助、その度胸は認めるが、ニンゲンなどに頼るお前に何が出来るぎゃ。我ら河童も決してあやかしの中では強い存在ではない。人に捨てられ、人里を追われ、これまで泥水を(すす)って生きてきた。だからこそ分かる、力は絶対の掟だと。太助……笑いたければ笑え、俺は、オロチ様の力を借りてでもここから這い上がると決めたのだ……一族の繁栄のためになあ!」


「「おやびーん!」」

「「一生ついていくぎゃあ!」」


 河童達の声援が玉三郎に力を与える。彼の魔気は里全体を包み、次第に太助にも襲いかかった。


「さあ太助よ、お前も河童魔気となるだぎゃ! この黒々とした気に包まれると、いづも様による御呪師(おしゅし)の加護が得られる! さすれば究極の(ことわり)、すなわち究理(きゅうり)へと近づく事ができるぞ!」

「いやだ……、そんなの、本当の強さじゃないぎゃ! 誰かを傷つけるだけの力なら、オラはいらない! そんな力に飲まれるくらいなら、オラはこのままでいい! サクラコが褒めてくれた、オラのままでいたいんだぎゃ!」


 太助による喝破(かっぱ)は、その場にいた者達の心へと深く突き刺さる。彼らはそもそも、権威の力と自己を同一化する事で己の(わい)小さから目をそらしていたに過ぎない。子どもにそれを指摘されるという、その情けなさに気づいたのである。


「太助さん……」


 常に厳しくしつけられ、あるいは人々から常にからかわれてきたサクラコにとって、こんな風に、ただ実直に肯定される事などいつ以来だろうか。そう思うと、胸に何か熱いものが沸き上がるのを感じずにはいられない。深かったはずの酔いも、すでに醒めていた。


「きっとその力でやれる事は、人間を、弱い者をいじめる事だけだぎゃ。そんなの、オラにはできない! やるって言うなら、まず始めにオラを倒してからにするぎゃ!」


 太助の気迫は魔気すらも退ける。玉三郎は魔の力に飲まれてなお実の子に力を振るえずに、その場は膠着(こうちゃく)状態へと陥った。


「ぐぬう……太助、貴様そこまでニンゲンを……」

「ぼっちゃん……」

「なあ、オラ達、もしかすっと間違っていたんでねえか……?」

「んだなあ……」


 人の魂だった頃の純粋な想いを残す太助を前に、玉三郎や河童達の魔気は徐々に薄れていく。人もあやかしも、根っこは同じ。みな、平和を愛し、互いを思い合う生き物。そんな昔の自分達の生き方を、みな懐かしくすら感じていた。


 騒ぎも収まるかと思えたその時、突如として静寂を切り裂く叫び声が上がる。遠くで観戦していた河童達の声だ。


「「うぎゃー!」」

「「ぐえーっ!」」


「あれは……父ちゃん、大変だ!」


 一段高い土俵から見えるのは、舞い上がる緑の血飛沫。玉三郎と太助は慌ててそこから降り、叫び声のする方へと向かう。


「何事だ、てめえら!」

「ハッハアー! こんな所に隠れてやがったかバケモノ共! この俺様が、皆殺しにしてやるぜ!!」

「まさか……!」


 観衆の向こうで、ずぶ濡れの少年がナタを片手に暴れている。聞いただけで身がすくむこの声は、里のガキ大将の声だ。


「「ひいーっ」」

「おまえら、血も緑色なんだな。人間じゃないんだもんな、当然か」


 太助の説得に武装解除していた河童達を、事もあろうか一方的に次々となぎ倒していく少年。サクラコは口を押さえ、先程の酒が胸の奥からこみ上げてくる衝動に耐えた。


「なんて事を……」


 これもまた、生物の頂点に立つに至った人の持つ一面。そう、同じ人間でありながら、無尽蔵に生まれ来るこの悪意。サクラコは力そのものというよりも、その得体の知れなさ、理解の出来なさこそが恐ろしかったのだと理解した。そして、これから起こるどうしても避けられない衝突に、胸がきつく締め付けられるのであった。


「ようサクラコ、無事か? 助けにきてやったぜ」


 戦意喪失した河童達をかき分け、少年は得意げな顔をした。彼にとってこれはあくまで正義の行いであり、サクラコは自分のせいで彼がここへ攻め入る理由を作ってしまった事に後悔する。


「なぜ、来たんです……」

「お前だけじゃ頼りないからさ。けどもう大丈夫だ、ここは俺に任せて逃げな。へへ……惚れんじゃねえぞ?」


 彼の好意にはうすうす感づいてはいた。けれど、自分までがどうして好きになれるだろうか。むしろサクラコは生まれて初めて、同じ人間に対し嫌悪感を抱いてしまった。


 一方、仲間をやられ怒り心頭の玉三郎は、再び捨てかけた魔気をみなぎらせる。


「あのやろう……ぶっ殺してやる!」

「父ちゃん! 待って!」

「なんだあ? お前、俺達にボコられた雑魚河童じゃねえか。せっかく見逃してやったのに、またやられたいらしいな」

「ううっ……」


 思わずたじろぐ太助の前に、逞しく太い腕が割って入る。怒気をみなぎらせた玉三郎だ。


「どいてろ太助。てめえか、俺の大事な息子に手を出したってえ奴は……」

「はん、お前がここのボスだな。ちょうどいい、二度と里に手出しできねえようにシメてやるか」

「……面白い。小僧、尻子玉を抜いても同じ事を言えたら、見逃してやろう」

「しりこ……だま……?」

「相撲に負けたサクラコの代わりだぎゃ。もっとも、ちょいと抜き取るイタズラ程度の予定だったが、てめえの場合は別よ。二度とそのでけえ態度に戻れぬよう、俺が丸ごと食らってやるわ!」

「ごちゃごちゃうるせぇー! お前も血祭りにあげてやるよ!」


 怖い物知らずの少年は無謀にも玉三郎へとナタを振るった。しかしその刃は変質した堅い鱗によって遮られ、傷一つつける事はできない。


「あ、あれ……?」

「小僧、相手を間違えたな」

「だ、だめです! 玉三郎さんっ……!」


 サクラコが止めに入ろうとした一瞬の出来事である。


「ひぎっ」


 その瞬間、少年は尻の中に熱した鉄棒をねじ込まれたような痛みを覚えた。


「秘技、河童尻子奪(しりこだつ)!」

「んぎゃああ!!」


 玉三郎の手に握られていたのは、ドクドクと鼓動を打つ、無数に血管の走った、見たことも無い丸い臓器。それはまさに、少年の生気そのものであった。

 玉三郎は、それをためらいもせずにパクりと貪る。


「もぎゃ、もぎゃ……ほう、なかなかに太い玉をしているぎゃ。なるほど、貴様も他者の気を喰らい生きる物の怪の類いか。稀にこうして地獄から舞い戻った亡者が人の形を形成し、人の世で暴虐の限りを尽くすのだ。かつて天下の大うつけなどと呼ばれ、多くのニンゲンを死に至らしめた男も、その実体は魔界から現れし天魔王であったという。まさに災いの子、俗に言う災子(さいこ)よ」


 痛みにのたうち回る少年は、すでにその悪童らしさを失い、自らの赤く膨れあがった尻を押さえながらただただ悶絶していた。


「俺の尻が、尻があ……!」

「太助、良い機会だぎゃ。あいつを殺し、ニンゲンへの情は捨てろ。まして奴は災子。生かしておいても世を乱すばかり。ならば、せめて苦しまずに逝かせてやれ」

「そんな、オラには出来ないぎゃ……!」

「お前に出来ぬのなら、この俺がやるまでよ」


「「こーろーせー!! こーろーせー!!」」


 仲間を傷つけられ、怒り狂った河童達の声が響く。

 その声に押され、玉三郎は少年の首を掴み腕一つで持ち上げた。そのまま少し力を入れるだけで、少年の首はへし折られてしまうだろう。


「サクラコ、サクラコぉ、助けてえ……。俺が悪かった。悪かったよう……」

「そんな……」

「死にたくない、じにだぐない、許じでぇ!」


 その股間からはじわりと、薄黄色の液体が染み出した。少年の変わり果ててしまった姿にサクラコは恐怖する。しかし、彼を一瞬でも見放した自分がいた事も事実。この結末は、まさに自分の身勝手さが生んだ悲劇であった。


「私は、どうしたら……」


 サクラコは酒の力や太助の鼓舞による気勢も失い、すっかり生来の臆病な自分へと戻ってしまっていた。肝心な時、彼女はいつもこうなる。その必要以上に先回りする頭脳が、あらゆる危険をひとりでに想像してしまい動けなくなるのだ。


 だがここはあやかしの世界。不思議な力が取り巻くこの空間は、彼女の持つ、もう一つの力が最も輝きを放つ場所。


――サクラコ……。


 まばゆいほどの後光がサクラコを差す。その弱気な心に呼応し、内に眠る色白様が呼びかけたのだ。


――サクラコ、サクラコよ……。


(色白、様……?)


――サクラコよ、呆けている場合ではないぞ。兵は神速を(たっと)ぶ。お前ならこの一瞬で、あらゆる結末を変える事ができよう。


(……だけど、私に出来る事なんて……)


――酔いはもう醒めたはず。頭を冷やし、よく考えるのだ。ここへと流れる魔気、その元を絶つ事が出来れば、かの河童とて恐れるに足りず。


(はっ、そうです、確か……太助さんが言うには、大蛇ヶ池の上流、そこに魔の根源であるオロチ様がいると……。ですが、私は泳ぐ事が……)


――今しばし、我が力を貸す。百里をも一息で駆ける、神速・絶影。それがお前の力となろう。


「神速の……力……。これで、オロチ様に会うことができれば……」


 闇の中に一筋の光明が差す。サクラコは決意と共に顔を上げた。


「太助さん、少しだけ時間を下さい。今からオロチ様に会って、この魔気を止めるようにお願いしてきます」

「えっ、そんな事が!?  ……ううん、サクラコならできるぎゃ。お犬様、そうだよね!」


 サクラコの背後に浮かぶ犬神は、それに一つ啼いて応えた。


「サクラコ、お犬様、行ってきて! ここは、オラが時間を稼ぐから!」

「かたじけないです! すぐに戻ります!」


 飛ぶように走り出したその脚は、虚空をも駆けぬける。

 サクラコは大蛇ヶ池の水面をひた走り、沈むこともなく水平線の彼方へと消えていった。




************




 天現京。サンイン地方に座する、イヅモ国の中心地。

 その裾野に広がる広大な湖、神蛇(しんじゃ)湖から、どこからともなく一人の少女が現れた。


「ここは……? うそ、都がもう、すぐそこに……」


 大蛇ヶ池は全国に存在し、その全てがここ、神蛇湖へと霊的な力により繋がっている。その湖から都にかけては、すでに全国から訪れたあやかしによる行列が百鬼夜行と言わんばかりにできており、オロチ神、天現いづもへの謁見を今か今かと待ちわびている姿があった。


「天狗に雪女、ぬらりひょん……わあ、とんでもない数です。これがもし、イヅモ各地で暴れたりしたら……」


 時はまさに妖怪大戦争前夜。これはもう、河童だけでの問題ではない。サクラコは慌ててその列を縫うように駆けだす。


「すみません、ちょっとどいて下さいー!」

「……なんじゃ、今のは?」

「さあ、カマイタチでも通り過ぎたんでござんしょ」

「奴らめ、まなーがなっておらぬのう」


 あやかしすらも化かすその神速で、サクラコはオロチの住まうという(やしろ)、イヅモ大蛇(たいじゃ)へと向かうのだった。




「「天現いづも様の、おなーりー!」」


 威勢の良い掛け声に、荘厳な囃子(はやし)が聞こえる。お社内では今、先発隊として派遣されるあやかし達の出陣式が執り行われようとしていた。


「全国津々浦々のあやかし共よ! (わらわ)の下へと遠路はるばるよくぞ参った! お前達がここにいると言う事は、これから起こる戦を知っての事であろう。敵はトクヤマ、ホウショウ、カミスギ、タテの率いる東軍。我らあやかしは西軍として、モリ、ズシマらと天下分け目の大戦(おおいくさ)へと向かう。そこで戦果を上げた一族の長には、怪異(かいい)大将軍としての地位を約束しよう。存分に腕試しをするがよい。しかしまあ揃いもそろって一流のあやかしばかり。妾もイヅモ総大将として、鼻が高いぞよ!」


 あやかしを前に天狗より鼻を高く振る舞うこの少女こそが、オロチ神、天現いづもである。その顔は爬虫類のようにつるりと無駄がなく、やや広めのおでこが何と言っても目に付く。その額からは二つに分けた黒く長い前髪を床まで垂らし、その後ろは見事なまでに髪飾りで八岐(やまた)に結わえている。さらに幾重にも着飾った十二(ひとえ)のような衣装を惜しげも無くぞろびかせながら、彼女は巨大な軍扇(ぐんせん)で自らを仰いだ。


「だが、この戦は全ての始まりにすぎぬ。この国の反乱を鎮めたら、次は大陸。憎き“がであな国”なぞ蹴散らし、いずれは神国、大イヅモ帝国を全世界に築くのだ! 皆の者、そのつもりで心して掛かるがよい!」


「「おおーっ!」」


 あやかし達の熱気と共に舞い上がる風が、舞台後ろの薄い垂れ幕をなびかせる。そこには年の頃十から十八辺りの少女達が正座にて待機していた。全国の様々な民族衣装を身に纏う彼女達こそ、イヅモ国が誇る稀妃禍の(そなえ)、アマテラス。同じく稀妃禍であるいづもが取りそろえた精鋭部隊にして、彼女の側近でもある。


「わわ、とんでもない所に来ちゃった……でも、ここで怖じ気づいてはいられません!」


 どさくさに紛れ式典に紛れ込んだサクラコ。その存在感の薄さと地味な恰好が功を奏し、まだ誰にも気づかれてはいない。

 すると次に舞台上では、あやかしを代表して三毛の着物を纏う猫又の少女が決意表明を始めた。


「えっへん、またたびは……んにゃ、この度はお呼びにあずかり光栄のきわみですにゃ。ウチらあやかし一同は、ここにいづも様への永遠の忠誠と、西軍の勝利をお約束しますにゃ! つきましては、ご褒美のまたたびについてですがにゃ……」

「あのっ、ちょっと待って下さいー!」


 乱入するなら今しかないと、サクラコは(よだれ)まみれの猫又を押しのけ、天現いづもの御前へと躍り出た。


「にゃっ! にゃんなのにゃあ! ウチのすぴーちの途中にゃあ! フシャー!」

「ししし、苦しゅうない。妾は美味そうな、いや、愛らしい女子(おなご)が好きじゃ。ここはその器量に免じて、お前の話を聞こうではないか」

「にゃんと! ふにゃにゃ……」


 いづもは背後の少女達と目配せする。彼女達はサクラコの正体に気付き、試そうとしているのだ。優秀な稀妃禍であれば願ってもない来客。アマテラスへと招き入れる事もやぶさかではない。


「それでは……いづも様、無礼を承知で申し上げます! このようにあやかしをたぶらかし、人と争わせるだなんて事、どうかおやめ下さい! 救世主様がせっかく作って下さった平和を、人の手で壊すなんてあまりにも悲しすぎます!」

「むむっ……妾に意見するか、この小娘!」

「ひっ……」


 辺りに緊張が走る。見ると彼女の髪はうねうねと意思を持ったように動き、その瞳は次第に縦に割れた。妖魔変化の前兆である。サクラコはその場に硬直し、襲いかかる尿意をこらえるばかり。


「ふん、救世主なぞクソ喰らえじゃ。くーせー主じゃ。妾は、奴のいない今の世が大好きじゃ! イヅモは全ていづものもの。もはや妾に逆らえる者はいないし、好き放題好きにするのじゃ!」


 あやかしの生来のいたずら性と幼女特有の無邪気さが噛み合い、いや、噛み合わずか、彼女はかつての天魔王をも思わせる暴君となっていた。しかし、サクラコはその彼女の単純明快さに、むしろ一筋の活路を見いだす。

 何か、この状況を覆す一手は……。思考を巡らせるサクラコは、ふと太助の言葉を思い返した。


『――いづも様は、河童が嫌いなんだぎゃ……』


(はっ……、これは使えるんじゃ……)


 これぞまさに天の助け。一息を入れ、サクラコは座していづもへと向き直る。


「少しは話のできる奴かと期待したが、貴様も道徳一辺倒の坊主共と変わらぬようだな」

「いづも様、どうか、もうしばしお聞き下さい。……今、私の里では河童達が反乱を起こそうとしています」

「なぬ……?」


 いづもの額に描かれた麻呂眉が急につり上がる。よし、とサクラコはさらに続ける。


「彼らはいづも様に気に入られようと、オロチ神の魔気にまで手を染め、戦にまで参加するつもりです。あなたの国で、彼らをこれ以上好きにさせてもいいんですか? 河童ですよ? 河童! 頭のお皿がピカピカ光る、あの河童ですよ!」

「ぐぬぬ、カッパだとぉ! 妾はカッパが嫌いじゃ! 大嫌いじゃ! あのカッパに良く似た、がであなの僧にはずいぶん手を焼いた! 奴らが妾の力を利用しようなど、そんな事は断じて許さーん!」


 ひとしきり喚き散らすと、いづもは神蛇湖に向け放っていた妖力をいきなり遮断した。その影響は凄まじく、これまであやふやだった現世とあやかしの世界の通路までもが稀薄なものとなっていく。


「にゃあー! 消え、消えるにゃあ! せっかく掴んだウチの出世がー!」


 哀れ、その場にいたあやかし達は強制的に元の世界へと戻され、散り散りになってしまった。湖まで続いていたはずの行列も今はもう見えない。


「やった、やりました! これで玉三郎さんの魔気も失われたはず……」

「しまった……! 娘、計ったな……! これでまた戦の準備もふりだしじゃ。どうしてくれようか!」

「ご、ごめんなさい。でも、こうでも言わなきゃ、話を聞いてくれそうになくて……」

「ええい、ご(たく)は無用。ひっとらえろー!」

「ひーん!」


 一斉に捕らえにかかる御家人達。もちろんサクラコは脱兎のごとく逃げ出した。異空間と繋がる湖の境界線もすでに薄まっていたが、色白様の力を信じ一か八かで飛び込む。


――サクラコ、行くぞ!

「はいっ!」


 そして危機一髪、サクラコは再び時空を越え、無事オロチの魔の手から帰還するのであった。




************




 一方その頃、河童の里では未だ予断を許さない状況が続いていた。

 太助の再三の説得により、少年の命運は中断していた親子相撲での決着によって決められる事となったのだ。


「ひがぁしー、河童の太助ー」

「さあ、来るぎゃ!」

「にぃしー、河童魔気玉三郎ー」

「どっせーい!」


 玉三郎の四股により、大地が揺れる。魔気は未だ失われてはいない。サクラコを信じつつも、太助はその迫力に尻の穴をきゅっと閉じた。


「はっけよい、のこったぁ!」

「父ちゃんの分からず屋! オラ達は結局、いづも様に嫌われてるんだ。こんな事をしたらどうなるか、父ちゃんだって分かるはずだぎゃ!」

「きさまぁ、知ったような口を! 尻子玉をどこに捨ててきたか、河童の風上にも置けぬ軟弱者めぇ!」


 先程喰らった少年の悪血(おけつ)と魔気とが結びついた影響か、父の良心はさらに蝕まれ、すでに人格まで変えてしまっていた。

 玉三郎は怒りに我を忘れ、渾身の力で無数の張り手を繰り出す。


「この水掻きによる張り手は吸盤のように吸い付き、一度喰らえば決して逃れられぬ。土俵際の踏ん張りもこれによるものよ。太助、さあ、まいったと言うのだ!」

「ぐえっ……絶対に、言うもんか……!」


 強い者に逆らえばどうなるか、太助は嫌というほど知っている。それでも、自分から負けを認める訳にはいかない。魂まで屈した時、初めて敗北というものは訪れるのだ。


「さすがは俺の子よ……ならば骨は拾ってやる。奥義、河童逆鱗(げきりん)掌ぉー!」

「サクラコ、ごめん……オラ、やっぱり駄目だったぎゃ……」


 涙ぐみ、そう微笑む太助の顔面へと繰り出された渾身の張り手が、凄まじい風を巻き起こす。


「太助さんっ!」


 サクラコがここへと戻った時には、全てが終わってしまっていた。暴風の中、かろうじて見えるのは河童二人の緑色の肌。そして、濡れた鮮血のように飛散する、赤い何か。


「太助さん……? 違う、これは……」


 サクラコはある違和感に気づく。玉三郎の肌は紫ではなく、すでに元の緑に変わっていた。この暴風はとても魔気の失われた河童に起こせるものではない。そして、一面のおびただしい赤色。そう、河童の血は確か、緑色だったはず。


「……まったく、こういう事するならきちんと上に報告しなさい。いつまで経っても、こみゅにけーしょんの出来ない子ね」

「え……?」


 どこからか、呆れたような女性の声が聞こえる。鮮血のような赤は、突然乱入したその女性の羽織りの色であった。忍びの中でも特に忌避される、色鮮やかな装束。それは、忍としての絶対的な自信を示すためのもの。それが無数の分身によって、飛び散った血のように見えたのだ。


「お、お師匠、様……?」


 彼女はサクラコをそのまま大人にしたような顔つきだが、本人とは打って変わりどこまでも落ち着きを持つ。後ろでまとめた黒々しい総髪(そうがみ)が風に揺れ、ほのかに桜の香りを漂わせた。


「ふふ。救世主参上、ってね」


 女性は間一髪で救出した太助を腕に抱き、玉三郎の足下へと無数の飛び道具を放っていた。


「ぐふぅ……動けん……!」

「琴吹流、影縫い。河童、私が良いと言うまで、そこを動くな」


 あの玉三郎をまるで赤子扱い。女性はそのまま、呆気にとられたサクラコを叱責する。


「サクラコ! 人の世にはびこる、魔物と化したあやかしを人知れず退治するのが本来の我々の役目。力無き者を巻き込んでどうするか!」

「お、お師匠様、ごめんなさい! ……でも、どうしてここに?」

「もとより、あやかし出現の報告は里から聞いていた。紅蓮衆の手が伸びた以上、これは上忍である我々の管轄。君、遅れてしまってごめんなさいね。少し怪我してるか。サクラコの馬鹿、帰ったらお仕置きね」

「あ、ありがとう、サクラコにそっくりなお姉さん……。でも、サクラコは悪くないんだぎゃ、これはオラが勝手にやっただけで。どうか叱らないであげて」

「お姉さん、かあ……ふふっ。まあ、考えておくわ」


 女性は厳しい顔から一転、それこそサクラコのように優しい笑顔を作り微笑んでみせると、傷ついた太助を土俵から下ろし玉三郎へと向き直る。


「私の名は琴吹桜。いえ、天現いづも直属の御庭番衆、紅の陣を束ねる一族最強の忍、と言えばあなたにも分かるかしら。さて、かつては魔王の首も獲った私。河童ごとき訳はないけれど、どうする? 親分さん?」

「ぐぬぬ……、お前が、かの“れぜんど”なる忍びか……」


「「親分ー! 頑張れー」」

「「親分、あっし達がついてるだぎゃあ!」」


 河童達の声援が響く。玉三郎はその声に奮い立とうとするも、弱者が故の嗅覚が知らせる。この女は、決して刃向かってはならない存在であると。


「なるほど、背負う物があるから退けないのね。でも所詮(しょせん)は井の中の河童、あなた達はここで野暮ったい甲羅の中にでも引きこもっているのがお似合いよ。戦を起こそうだなんて下手な気を起こさずにね」

「お、おのれ、言わせておけば!」

「影縫いは解いてある。文句があるならかかってきなさい」

「ぐおお!」


 威勢良く突っ込んだはずの玉三郎は、次の瞬間には天を仰いでいた。そして、あれほど溢れていた魔気すらも消滅し、元の姿へと戻っている事にようやく気づく。何が起きたのかも分からず、河童達共々ぽかんと口を開けるばかりであった。


「はい、これが相撲で良かったわね。もしあなたが魔気に取り憑かれたままだったら、手加減はできなかった。わざわざ魔気を解いてあげたサクラコに感謝なさい」

「お師匠様……」

「でも相撲で里を乗っ取ろうなんて、非情になりきれない低級妖怪らしいわね。けれど力に取り憑かれた者の末路は、血で血を洗う修羅の道。その一線を超えたら私も容赦はしない。この土俵から降りるなら、今のうちよ」


 あまりの格の違いを見せつけられた上に罵声まで浴びせられ、玉三郎は手下達の前でオイオイと男泣きを始めた。


「ううっ、俺たちはどこまで行っても雑魚のままなのか……。この力があれば、今度こそ一族の悲願が叶うはずだったものを……」

「弱さを知る事は決して恥ではないわ。少なくとも他者を踏みにじるような事はしないもの。弱いなりにあなた達を守ろうとした、どこかのお人好しみたいにね。……サクラコ、これでいいんでしょ?」


 サクラは唖然とするサクラコに向けて、ウィンクをしてみせた。やはり、この人には敵わない。


「は、はい! 皆さん、これで分かってくれたと思います。人間もあやかしも、本気で争えば互いに傷つくだけなんです。だから私達は手を取り合って、いづも様の脅威に備えるべきです。あの方は、本気で戦を起こそうとしています。そこにあなた達、河童の居場所はありません。会ってきたから分かるんです。もしあなた達が行ったら、きっと()巻きにして食べられてしまいますよ」

「な、なんと、あのいづも様に会ったというのか。そうか、こんな俺達を思ってそんな危険を……。この玉三郎、一生の不覚! 太助、それにサクラコよ、すまぬ!!」


 皿の水をこぼすほど頭を垂れた玉三郎に、オロチの邪気はもう感じられない。サクラは天現家紋所入りの印籠を見せつけ、この場を収める事とした。


「心よりの謝罪、しかと見届けたわ。ここに、人と河童一族との共存を認め、玉三郎、お前のこれまでの悪行を全て紅蓮衆による企てとし不問とする。今後は心を入れ替え、里の者達と仲睦まじく暮らす事。これにて一件落着、でいいかしら?」

「「ははー!」」


 こうして、三千坊玉三郎による河童の乱は歴史に記されることなく終りを告げた。

 そしてサクラコ達一同はすっかり大人しくなった河童達に見送られ、集落を後にするのであった。




************




「お師匠様、あの、今回は何て言って良いか……。助けに来てくれて、ありがとうございます!」


 帰り際、サクラコはサクラへと頭を下げ、今回の不始末を詫びた。こういった失敗はよくある事で、その度に修行のやり直しと称して禅寺へと奉公に出されるのだ。


「勘違いしないで、私はあなたを助けに来たわけではないわ。むしろ、今回は良くやってくれた。紅蓮衆の企みを阻止するばかりか、いづも様の思惑まで潰したみたいじゃない。こんなに妖気が晴れた事なんて、いつ以来かしら」

「怒って、ないんですか……?」

「何、怒られたかったの? むしろ、あのあやかし姫の悔しがる顔が目に浮かぶわ。これでイヅモ国はしばらく平和になるはずよ」


 そう言えば、成り行きとはいえあの天現いづもと渡り合ったのだった。その蛇のようにうねる髪と耳まで裂けた口を思い出しては、ちょっとだけふんどしを濡らすサクラコ。


「うう……今思えば、とんでもない事をしてしまった気がします。いづも様、きっと怒ってますよね?」

「そうね……こうなった以上、あなたは国中のおたずね者よ。そこでだけどサクラコ、あなたにはしばらく、この国から離れる事を命じるわ」

「えっ、いづも様から逃げるためにですか!?」

「いいえ、そのいづも様からの命令よ」


 サクラは懐から取り出した蛇腹状に折られた和紙を広げ、つらつらと読み上げた。


「イヅモに天蛇の門出を迎えし近年、目に余る“がであな教”による狼藉(ろうぜき)、まこと度しがたし。我らイヅモの民が讃えるは、この地の神、すなはちオロチ神をおいて他に無し。よって御庭番、紅衆に命ず。朝敵がであな国を滅ぼすため、謀略を用い、先んじて彼の地を混乱に陥れよ。事によっては全ての元凶、“聖がであな”の誅殺もここに許可する……と、ここにはある。これが今朝方、紅の陣へと届けられたわ」


 サクラコにとっては、まるで雲の上の話。普通なら聞くことも許されない、国と国とのはかりごとである。


「確かに、がであなは問題ですが……それって、お外の国とも戦争が始まるって事ですよね……」

「私達としては、御上の命令を無視するわけにはいかない。けれど、その全てを聞き届けるつもりもない。だからサクラコ、今回は私の代わりにあなたが行きなさい。そして、世界を見てきなさい。どうしても争いを避けたいのなら、そのように暗躍する事もあなたの自由。歴史の裏に忍あり。これまでの太平の世を影で造ってきたのは、常に我ら忍であったという事を忘れないで」

「争いを、終わらせる……、私が……」

「そう。これを、琴吹流、免許皆伝の義とします。無事に帰った時、あなたを正統な私の後継者とするわ」

「免許、皆伝……」


 サクラコはしばらく黙り込み、考え込んだ。見習いの忍にはとても恐れ多い大役である。そのまま答えを出せずに、いよいよ人の世界への鳥居をくぐるという直前、見送りに来ていた太助がそんなサクラコへと語りかけた。


「サクラコ、別れるのは寂しいけど、君ならきっとできるぎゃ。だから、ここの事は心配しないで。サクラコの代わりに、里の事はオラが守ってみせるから。父ちゃんが尻子玉を取っちゃったその子も、ほっとけないしね」 


 太助はサクラの背中で眠る少年を見つめた。彼は今回の騒動の原因でもあり、同時に被害者でもある。恐れるべきものを正しく恐れず力に溺れた者は、きっと彼のようになってしまう。そんな教訓として、人々は彼を見る事だろう。


「太助さん……。うん。私、頑張ってみようと思います。太助さんの見せてくれた勇気に、私も応えなくっちゃって。それに、がであなを止める事が出来れば、イヅモの争いもきっとなくなるはずですから」

「サクラコ、君と出会えて、よかったぎゃあ。オラ、絶対に忘れないぎゃ」

「ええ、私もです。人間とあやかしは仲良くなれます。きっと私達みたいに」


 二人は手を堅く握り合った。新しい世代同士による、平和の誓い。ここから、全ては始まる。いや、始めるのである。


「まったく、知らないうちに大人になっちゃって。さあ、そうと決まれば、はいこれ、あなたの新しい忍び装束。どう? ナウいでしょ?」

「わあ! これ、お師匠様とおそろいの衣装……本当に良いんですか?」

「これを着ると言う事は、あなたの振る舞いが琴吹流の振る舞いとなるという事。これで少しは気が引き締まるでしょ」

「は、はいっ、頑張りますっ!」


 人間の世界が近いのか、ぽー、ぽー、と梟の鳴く声がする。


「サクラコ……」


 逢魔が時。それは人にとって別れの刻。人と共存すると誓ったあやかしも、家へと帰らなければならない時間。


「そうだサクラコ、これを受け取って。きっと、役に立つから」

「これは……ガマの油ですか? でも……」

「いいんだぎゃ。オラはもう、人間にいじめられたりはしないぎゃ」

「……分かりました。大事に使いますね!」


 サクラコはべっこうで造られたその小さな薬入れを、確かな決意と共に受け取った。


「では、太助さん、またいつか!」


 鳥居の下で振り返るサクラコ。人の世の灯りを受け、その顔は紅く色づく。それに見惚れながら、別れの時を惜しむように太助はいつまでも手を振っていた。




 天蛇三年、二の月。

 琴吹桜子、聖がであな征伐の旅へと出征。


「うおおー、さぐらごー! 父さんはいつでも待ってるからなー!」

「よっ、琴吹流次期頭首ー!」

「錦を飾って帰ってこいよー!」


 出島にてそれを見送る紅の陣の仲間達。その中でサクラは一人、厳しい顔で弟子の門出を見届けていた。サクラコが恐れた鬼の目に、うっすらとした涙を浮かべながら。


「サクラコ……どうか無事でね……」





************




 サクラコが旅立って、一月が過ぎた。

 太助は今も、かつてのサクラコのように里の見回りを行っている。

 あれからどういう訳か紅蓮衆の手も伸びることはなく、河童の加護か、この辺り一帯にはオロチの妖気も流れてくる事はなくなった。人と河童はサクラコの望み通り共存し、今では良好な関係を築いている。

 しかし、だからといって、そう簡単に人の世の全てが変わるわけではない。


「やーい、やーい、この尻砕け!」

「くやしかったらかかってこいよー」


 少年達の声。

 彼らに取り囲まれ、うずくまる一つの影。昔の自分が、そこにはいた。


「うぐっ、ひっぐ」


 大きな体をしていながら、まるで抵抗しない一人の少年。いつかのガキ大将である。


「お願い、もう許して、許して!」

「いやだね。河童共は許しても、俺達は許さねえ。奴らに目を付けられたら、俺達まで尻子玉を抜かれちまうんだよ」

「サクラ様がいなけりゃ、今頃俺達は皆殺しにされてたんだ。お前が河童の集落を襲ったせいでな!」


 子どもとは言え、加減のない殴る蹴るは痛いものだ。体よりも何よりも、その心が。


「みんな、やめるぎゃ! オラ達は、そんな事しないぎゃ!」


 太助の登場に、子供達は一瞬怯えた顔を見せた。しかしすぐに取り繕い、太助へと少年を差し出すように一歩後ずさる。


「た、太助、これはさ、違うんだよ」

「うわああん、オレ、怖かったよう! こいつらが、こいつらがいじめるんだよう!」


 少年は一回り小さな太助の影に隠れ、鼻水を垂らしながら喚き散らした。

 これは一体、誰が悪いのだろう。少年達? それとも河童? いや、そもそも子ども達の間にこんな風習を作った彼自身こそが、過去の自分によってその罰を受けているのだとするのならば、少なくとも自業自得と言えるのかもしれない。


「ちっ、またいつものやつか。太助、見逃してくれよ。お前もそいつに散々やられただろ?」

「スカっとするんだよなあ、なんか。良い事してるみたいで」

「そんじゃな、太助。俺達は逆らったりしないからさ。みんな、こんな奴ほっといて行こうぜー」


 彼らは好き放題言っては逃げるように消えていった。かくいう少年達も彼には、過去に散々手を上げられたはずだ。一度、誰かの尊厳を傷つけ、ないがしろにした者は、そんな世界を同時に認めたと言う事。泣こうが喚こうが、手を緩めてくれる人間など存在はしないのだ。


「サクラコ、ごめん……。オラ、ニンゲンっていうのが、今もよくわかんないぎゃ」


 それでも太助は、この少年を守ると誓った。こうして怪我をした少年に河童の秘薬を塗り、家まで送り届け、再び見回りに戻る。来る日も、来る日も。


「……あの、太助、ありがと」


 ただその日、少年は帰り際、お礼を言ってくれた。太助は嬉しかった。これまでは助けられて当たり前だという態度だったのが、段々と心を取り戻しつつあるように思えたのだ。


「うん、大丈夫。何かあったら、またオラを呼ぶといいぎゃ」


 サクラコが戻ってきた時、こんな風景を見せるわけにはいかない。水子である河童が変われたのなら、人も変われるはず。その魂は、生まれた瞬間にはきっと純粋だったはずなのだから。


 一面が夕日に染まる逢魔が時。太助はいつものように、サクラコのいる空の向こうを眺める。すると、遠くから犬の遠吠えが聞こえたような気がした。

 彼女はまたどこかで、自分より大きなものと戦っているのかもしれない。でもきっと大丈夫。彼女をお空から見守る色白様が、今日もあんなに輝いているのだから。


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