第26話 『凱旋』
聖堂。
それは、貧しい人々から吸い上げた財を、惜しげも無く欲望という形で再構成した不可侵領域。ここでは理由無きいかなる暴力も、神に誓って振るってはならない。
しかしその純白の外壁、そして煌びやかなステンドグラスに、赤という色が新たに塗り加えられる。
次から次へと現れる聖堂騎士に門の前で一人立ち向かうのは、反逆の魔女ロザリー。複数に囲まれた彼女だったが、次の瞬間、血しぶきを上げ、流れるような斬撃が彼らを襲う。
「はああっ、ブラッディ・レイン!」
血の雨――。父の剣技を元に、初めて自分で編み出した型である。パワータイプの父にない特性、スピード。これを伸ばす事により、ロザリーはしなやかで柔軟な攻めを可能とした。
「怯むな、かかれーっ!」
一介の兵として、対多数にどう立ち回るか。数で勝るガーディアナを相手取るにあたり、それこそが自身の永遠の課題であった。そのために必要なものはいくつかある。誰にも捉えられない速さ、最後まで戦場に立ち続ける持久力、そして何より重要なものが、先を読む力にて場を制する事。これにかけてはロザリーの右に出る者はいない。本人は勘のようなものだと思っているが、これもれっきとした魔女の異能。
「見えるわ……動きが線になって」
「なんだ、この女……なんだというのだ……」
一度にかかってくる人数自体はせいぜい二、三人程度。実戦すらない辺境に派遣される程度の地方騎士ならば、御す事など容易。結果かすり傷すら負う事もなく、ロザリーはその一団を反撃不能な程度に切り伏せた。
「死にたくなければ、そこをどきなさい!」
「ひいぃ、こいつ、化け物か!」
彼らには教皇による終癒の力は施されていないらしく、命を奪う事はいともたやすかった。だが、彼らにまで罪はないというパメラの言い分も分かる。さらに彼らの原動力は忠誠などではなく、富と引き替えに課せられた強制。ひとたび力の差を見せつけてしまえば、心が折れるのも早い。結局彼らは降伏する形となり、ロザリーは聖堂の中庭へと侵入する事に成功した。
「これだけ派手に暴れれば、兵がサクラコに向かう事はないはず。この隙に上手く潜入できていれば良いけど……」
聖堂の入り口はどこも堅牢に施錠されてはいるが、おそらくサクラコによるものであろう目印のついた扉を一つ発見した。桜の花びら型についた傷。彼女らしい気遣いである。
「なるほど、ここから入れるみたいね……はあっ!」
施錠の外された側面の扉が勢いよく蹴破られると、すかさず中にいた者達の悲鳴が上がった。
「ま、魔女が来たぞ!」
「おお、神よ……!」
「どうか命だけは……」
残った聖職者達は血濡れのロザリーを見るなり、そそくさと正面出口から逃げ出していった。金銀の蓄えられたこの聖堂だけは鎮火しようとした彼らの努力が、そこら中が水浸しとなっている事から窺える。
「どこへでも逃げなさい……真に裁くべきはあなた達ではない」
逃げ去る聖職者には目をくれず、信者の祈りの場である会集席の奥を見ると、中央、聖所に向け祈りを捧げている人物がいた。
手に聖書を持ち祈る、頭を剃り上げた恰幅の良い初老の男性。昼間に見た司祭だ。長い丈のチュニック、アルバの上に、カズラという派手なマントを羽織るその立ち姿は、人を跪かせる程の威厳すらも纏っていた。
「何用だ、魔女よ」
彼は目も開かずにロザリーに向け、言葉を放つ。どうやらすでにこちらの正体などお見通しのようである。ならば、話は早い。
「この地をお前達ガーディアナから解放する。マレフィカの、いや、虐げられた人々の代わりとなって」
凛とした声が聖堂に響く。その声に興味をそそられた司祭は、ゆっくりとこちらを向き、黒々とした目を見開いた。
「ファファファ! 魔女が人の名を騙るか。では貴様はどうやってここまで潜り込んだ。そして、どれだけの血を流した。人々の営みを、どれほどに犯したか! これぞ人の道を外れた、魔女らしいやり口よ!」
「くっ……どの口が……」
「本来ならば貴様達魔女と交わす口は持ち合わせておらんが、今夜は特別だ。これだけ上物の魔女が向こうから飛び込んできたのだからな」
教会の下位組織が魔女狩りを執拗に行うのには理由がある。本国へと差し出した魔女一体につき、普通に働いては得られない程の莫大な恩賞が与えられるのだ。誰もが血眼になって探すはずである。
つまり、それだけ魔女というものはそう易々と捕まらないと言う事。ロザリーは、すでに捕らえた気でいる司祭へと不敵に笑って見せた。
「残念だけど、あなたの思い通りにはならない。切り札はこちらにあるわ。サクラコ!」
ロザリーの合図と共に、奥の部屋からサクラコに支えられた中年の男性が現れた。やせ細り、子供の頃に見た面影はすでに無いが、ここ一帯の領主、ルドルフ公であろう事はトレードマークのカイゼル髭からも一目で分かった。
「ロザリーさん、領主様の命は無事です! ですが、とても動けるような状態ではありません!」
「そう……でもよくやってくれたわ、サクラコ。さあ、これがあなた達の正体よ。魔女だけでなく、自分達、神徒以外は人にあらずとでも言うつもり?」
「ぐ……司祭オーガスト、ローランドに巣くう悪魔め……。私の事はいい、だが、我が民をどれだけ食い物にすれば気が済むのだ……それだけは断じて許せん!」
恨み言を放つのが精一杯と言った様子で、領主ルドルフは司祭を睨む。それを見てか、司祭は少し驚いた表情を作った。そして、嘲るような乾いた笑いを喉奥から絞り出す。
「フォ、フォフォフォ! それが切り札……だと? 笑わせてくれる。民を豊かにする所か、共になって干し草を食む無能領主が。見よ、それに比べこの砦の豊かな事。これぞ、信仰が可能とした人の世の栄華。そのような老いぼれ、欲しければいくらでもくれてやるわッ!」
司祭は聖書を祭壇へ置くと、何かをぶつぶつと唱えだした。すると、司祭の体は見る見るうちに鋼のような筋肉に覆われていく。それはやがてチュニックの上からでも分かるほど、引き締まった肉によるシルエットを形作った。
「絶対の教えを守るため、我ら司祭に授けられし七つの非蹟。それは偉大なる教皇様の洗霊によって開花したものである。そう、選ばれし司祭である我らは、神の代行者としての力を行使する事ができるのだ。これはその一つ、肉体を極限まで強化する、堅身の非蹟……!」
司祭オーガストは恰幅のいいその体を、さらに一回り巨大化させこちらへと向き直った。
「ふぅー……。さあ、魔女よ、どこからでもかかってくるがいい」
「化け物め……」
ロザリーは吐き捨てるようにつぶやく。それに対し、司祭は嗤った。魔女がいかに美しかろうと、異端は異端。この、聖なる体を持つ自身こそ、神の現し身なのだと。
「さあ、どうした。神の与えし肉体に、おののいておるのか?」
司祭はその身一つであらゆる戦闘をこなす闘僧でもある。刀剣による流血を避け、拳による折檻を信条とするが、結局その相手をする者に待つのは、肉は千切れ、骨が砕け、臓腑すら破裂し、血反吐を吐く結末。しかし素手である事は、相手との痛みを分かち合う悔悛の行為でもあると正当性を主張する。
((くく……まずは四肢を末端から砕き、精根を削ぐか。しかるのち、我が性根を注ぐか))
先程の聖堂騎士とは違い、その感情には一分の乱れもない。それどころか、肚の内に隠したおぞましいまでの攻撃性にロザリーはたじろいだ。
「くっ……」
「来ぬのなら、こちらから征くぞ!」
怪僧は大きく腕を広げロザリーに襲いかかる。力では敵わないと踏んだロザリーは、距離を置くように動いた。足元は鎮火による水が撒かれており、幾分滑りやすい。脚力を利用した戦法はとりづらいだろう。
「だけど、やるしかない……!」
ロザリーは一転、司祭の懐へと潜り斬り込んだ。得意の型、ブラッディ・レインである。あれだけ巨大だと逆に小回りが効かないはずと踏んでの事だったが、彼の鋼の肉体は最初の斬撃を肉の壁で受け止める。小虫の針など避ける必要すらないとばかりに。
「何っ!?」
「こそばゆいわっ!」
逆にロザリーは瞬く間にその豪腕に捕らえられた。異常なまでの怪力で抱きしめられる形となり、身動き一つ取れない。
「ぐっ……う」
「慰めの抱擁。これで逝ける者は幸せである。罪を贖い、我が神と共に終末を迎えるのだ」
「がはぁッ!」
体からバキバキと異音が鳴る。すでに呼吸も出来ない。防具であるはずの鉄のプレートはガキッという音と共に壊れ、その場へと転がった。
「肉としては上等だが、何を思い上がったか。貴様等魔女など、我々の慈悲によって生かされているだけであるというのに……」
直に触れる豊満な身体を味わうように、司祭は締め付けを繰り返す。あまりに度しがたい暴挙だが、ロザリーは為す術も無く弄ばれた。
「あがっ……、がっ……」
「ロザリーさん!」
その窮地に、慌ててサクラコが駆け寄る。
あれはザクロから受けたものと同じ攻撃。受ける方は地獄の苦しみである。一刻も早く助けなければ命はない。
「たあっ、影縫いっ!」
「ぬっ……体が……」
サクラコは司祭の影へとクナイを投げ、その動きを止める。思わず彼が力を緩めた一瞬をつき、ロザリーは肉の檻から這い出す事に成功した。
「がはっ、あ……ありがとう……サクラコ……」
「私も共に戦います! 今のうちに、呼吸を整えて下さい」
「ほう、何とも奇怪な芸よ」
司祭は影縫いの効力に困惑するが、すぐにそのからくりを見極めた。見えない糸を体に絡め、それを結びつけた刃物を地面へと固定する事で動きを封じるというものであろう。
「ハアァッ!!」
一喝と共に、司祭は絡みついた糸のようなものを筋力でただ引きちぎる。霊糸による結界作りには自信のあったサクラコであるが、それはいともたやすく破られた。
しかし彼と同じように、筋力を主体とする戦闘スタイルを持つザクロでさえ簡単には抜け出せなかった技である。ザクロと決定的に違う点があるならば、その変化はまやかしなどではないという事。戦わずとも、サクラコにはそれだけで実力差が理解ってしまった。
「そんな……」
「イヅモの妖術師か。あの地もいづれ、我がガーディアナのものとなる。異国の女も、さぞ抱き心地がよかろうて」
下卑た視線が少女に向けられる。サクラコは思わず身をすくませた。
全滅という予感。これまでとはまるで次元が違う。ここに来て考えを改める必要に迫られたが、サクラコはそれでも恩人に報いるために立ち上がる。
「やらなきゃ……、私がやらなきゃ……!」
震える体。ただの時間稼ぎでもいい。その間に、この状況を突破する何らかの糸口を掴んでくれれば……。そう考えた時、サクラコの肩に暖かな手が触れる。
「一人ではやらせない。私も一緒よ」
「ロザリーさん……」
サクラコの肩越しに伝わる、これ以上ないほどの安堵感。ロザリーは深く呼吸し、再び剣を握る。この信頼を、裏切りはしないと。
「絆……、私達の武器は、ただそれだけ。サクラコ、私に続いて!」
「はいっ!」
到達者は笑う。美しい蝶が、その羽を無惨に散らす様を思い描きながら。
カテドラルから聞こえてくるのは、激しい戦闘音。
アニエスは血まみれの兵士達が転がるように倒れた門前で、二の足を踏んでいた。この一線を境に、明らかに違う世界が広がっているのだ。
「これが、魔女の世界……」
何の力も持ち合わせていない自分が行ってどうなるものか。だが一度は捨てた命、ただ助けられて終わるんじゃ、あまりにかっこ悪い。アニエスは意を決し聖堂内へと踏み込んだ。
「これは……」
内部はすでに半崩壊し、獣でも暴れたかのような様相を呈していた。そして、中央で巨漢と激しい死闘を繰り広げる二人の少女。一人はサクラコとして、長い黒髪の少女、あれは紛れもなく、あの時自分を救ってくれた少女、ロザリー。
(ああ……やっぱり、あの人だ……)
アニエスはどこか初恋の人と再会したような、そんな夢を見ているような気分に陥る。
しかし現実は違った。咲き乱れる血と肉の華。全てを抉り取るような巨大な拳を振り回す巨漢に対し、素早い動きで撹乱するサクラコと、一瞬の隙を見計らって重い一撃を入れるロザリー。その構図は、まさに強大な世界に立ち向かう小さき魔女そのものであった。
(あれは……アニエスさん!?)
「フォフォフォ、どれ、まずは羽を一枚」
「あうっ!」
「サクラコっ!」
善戦も空しく、隙を見せたサクラコはとうとう司祭に足を掴まれ投げ飛ばされた。続けざまに、気をとられたロザリーもその拳を浴びる。
「ぐああっ!」
怪力まかせに放り投げられたサクラコ。このままでは凄まじい勢いで壁へと叩きつけられるだろう。ただ、幸い狙いはこちら側。アニエスは体を張ってそれを受け止めようと躍り出た。
「やらせない!」
結果、見事に二人して転がるように吹き飛ばされるが、何とか壁への衝突は防ぐ事ができた。サクラコは握られた足首の粉砕骨折により立ち上がれず、這うように倒れるアニエスの元へと向かう。
「アニエスさん……なぜここに……」
「へへ……サクラコ、無事?」
何度も死線をくぐったせいか、いざとなるとこの状況も不思議と怖くはない。アニエスは今にも気を失いそうなサクラコへと、力強く微笑んで見せた。
「アニエス、さん……ロザリーさんを連れて……逃げて……」
「ううん、私はもう逃げない。あなたもよく頑張ったね。今は、少しだけお休み」
「あう……」
気力も体力も限界を超えていたサクラコは、そのままアニエスの胸の中で眠るように気絶した。
「ほう……」
司祭はそんなアニエスを見るにつけ、興味を移したかのようにそちらへと歩み寄る。
「修道女か。ここは危ない、私の下へ来なさい」
「あの子は……ま、待てっ……!」
ローランドでの魔女狩り、ロザリーにとって少し苦い想い出の少女との再会。しかしその顔には、いつかの冷淡さは微塵も感じられなかった。むしろ、こちらを見つめるその目は何よりも熱を帯びている。
同時に、ロザリーは司祭の後ろ姿を見ては違和感を覚えた。その体躯が先程より一回り小さくなっているのだ。初めに感じた威圧感もすでになく、次第に渡り合えていった事からも、彼の力は長く持つものではないのだろうと悟る。
その時、司祭からほとばしる思考の一端がロザリーに入り込んだ。
((フォフォ……みずみずしい性気だ。力を失う前に、あの娘をいただくとしよう))
「これは……、奴の思考? それに、記憶……?」
閉鎖された空間で、少女達に淫らな行いを働く司祭の姿が浮かぶ。あろう事か、彼はこれまでも修道女を襲っては、自らの力として蓄えていたのだ。堅身と呼ぶその力も、彼女達、若い肉を食した果てに得たもの。
「く、行かせない……」
ロザリーは立ち上がろうとするも足取りがおぼつかない。殴られた際、したたかに頭を打ったのであろう。
アニエスの中でそれは、いつかの記憶と重なる。誰かを助けようと必死に足掻くロザリーの姿に、すでに魔女に対する全ての疑念は消え去っていた。
「ロザリー……!」
「惑わされるでない、それは恐ろしい魔女よ。さあ、君はこちらへ来るのだ」
張り付いた微笑みで語りかける司祭の先の少女の顔は、どこか決意に充ちていた。
アニエスは、転がった際に散らばったサクラコの暗器、その一つである鋭利な匕首を拾い、すっかりしおれきった司祭へと駆けだす。
「お前が、お前が父さんをーっ!」
「待って! 罠よ!」
ロザリーの叫びも空しく、アニエスの刃は司祭の腹を抉った。
「やった、やった……!」
これで仇を討ったと、毅然と司祭を睨むアニエス。が、司祭の貌は裏腹に歪んだ笑みを浮かべていた。
「……うそ……」
「ほう、お前は確か……思い出したぞ。どこかで見たと思えば、村はずれにいた親子だな。……ではまだ、ここの掟は知らぬようだ。ここでは、すべての労働は祈りへとつながる。そして、すべての奉仕は私へと繋がるのだよ。例外はない、お前にも捧げて貰おうか、その若き操を!」
司祭は腹の傷もいとわず、アニエスを組み伏せた。そして修道服を乱暴にまさぐり、その肢体に指を這わせる。
「フゥーフフフ……! 良き肉ぞ! 生き返るわ!」
「あっ……、いやっ! いやあっ!」
ロザリーは懸命に追いすがるが、もはやどうにもならない。すでに司祭は以前のようにその体を肥大化させつつあったのだ。
「くっ! ブラッディダガー!」
他に打つ手も無く放たれた短剣は、司祭の鋼のような背に弾かれてしまう。
司祭の手は、ついにアニエスの下腹部と至った。すると、そのごつごつとした指から何かが吸われていく感覚が彼女を襲う。
「嫌ぁ! お前なんかに好きにされるくらいなら……殺せ、殺してぇ!」
「いいぞ……溢れるほどの反逆心、それすらも我が血肉となる」
「うあああっ!」
アニエスは司祭の力を受け、叫ぶように果てた。その姿はやつれきり、力強いブラウンの髪も全てが白く染まっていた。
「花の命は短いものだ。哀しいが」
ぐったりと倒れる彼女をぞんざいに投げ捨て、司祭は以前よりも遥かに巨大な体でロザリーを見据える。
「ぐふぅぅぅ……さて、続きといこうか」
「き、貴様ぁ……!」
怒りに奮えど、勝敗は見えている。勝ちの目などは一欠片もない事は明らか。頼みのサクラコも倒れ、ロザリーはこの場を皆を連れどう切り抜けるか、それだけを必死で考えていた。
「殺しはせん。魔女は教皇様に差し出さねばならんからな。しかし、少しくらいなら味見をしてもかまわんだろう。堂々と抱けるのが醜女だけでは、さすがに鬱憤も溜まるというもの……」
舌なめずりしながら、その巨大な足はこちらへと一歩を踏み出す。
((くっ、こうなった以上は……))
ロザリーは仲間のため、自らを犠牲にしてでも時間を稼ぐ腹づもりを決めた。それはおそらく、想像を絶するほど屈辱に満ちた行為であろう。しかし、それ以上に……。
((パメラ……))
脳裏に浮かぶのは、桜の樹の下、共にいると誓い合ったあの子の顔。そんな穢れた体で、あの穢れを知らない体に触れてもいいのだろうかと。すると、だんだんと近づいてくる司祭に対し、気丈な彼女の中にも恐怖という感情が芽生えた。
「いや……」
「ほう、いいな。何が厭なのだ? まさか、聖交の事ではあるまいな」
「いや、いやああっ!」
司祭の顔が狂気をはらんだ。そしてその手は乙女となったロザリーへと容赦なく伸びる。
「花はいつか散るもの。我に全てを捧げよ、反逆の魔女ぉ!」
「光……あれ!」
突如、澄み切った声が聖堂に響く。そして、目の前の巨漢は逆光に包まれた。
「むうっ、何だ、この力の衰弱は……」
「司祭オーガスト、そのような行為、おそらく教皇は許しはしません。ううん、それ以前に、この私がそんな事は赦さない」
やがて光が収まり、驚いた司祭が振り向くと、そこには透き通るような青い髪の、厳しげな瞳を向ける少女がいた。
「な、な……、あなたは……、あなた様は……!」
「パメラ……」
司祭級の上級聖職者であれば、一度は聖女セント・ガーディアナと面を通している。そして、おそらくそれが一生に一度の機会であるために、穴が開くほど、脳が焼き付くほどにその姿を刻みつけるのだ。
庶民の服をまとい、御髪こそ短くなっているものの、その佇まい、その気品、全てはまごう事なき聖女そのもの。
「ガーディアナの実体、全て拝見させていただきました。私は……悲しい。いや、私に悲しむ資格はないのかもしれない。だから、ただ、あなたを裁きます」
「はぁ、はぁ……、しかし、何故あなたのような方が……。私はただ、私はあなたのため信仰を広めていただけに過ぎませぬ! どうか、どうか寛大な処置を……!」
司祭の放つ見苦しい言い訳に、聖女はただ、かぶりを振った。
「そんなこと、私は望んではいません。それに、これは信仰ではなく、ただの侵攻。自身の喜びのために人を侵す。それは人の道からも、ガーディアナの道からも外れた行為」
「なんと……いや、これは幻……そう、そうに違いない。私のかすかに残る罪悪感が見せる、幻なのだあ!」
オーガストは悪夢を振り払うように、最大の力で聖女の幻へと豪腕を振りかざし襲いかかる。
「パメラっ!」
その瞬間、聖堂を再び光が包んだ。そしてそれはパメラの両の手に収縮する。胸の前で交差した手の甲から放たれたのは、二つのまばゆい光の帯。それらは螺旋を描き、司祭の鋼のような肉体をも貫いた。
「ぐはあっ!!」
「聖痕。これを刻まれた者は、その罪の深さによって後の運命が決まります。無垢であるはずの聖職者に対する、隠された罪を暴く力。できれば、使いたくはなかった……」
司祭は倒れ込んだ。そして一瞬で元の、いや、以前より痩せた姿となり、終いには骨のような姿へと変わる。
「ふぁふぁふぁ……、へいひょ、ひゃま……」
「これは色欲の裁き……。行き過ぎた情欲は、自らの生命力で支払わなければなりません。オーガスト、ごめんね……」
彼から立ち上った生気は、パメラを伝いアニエスの元へと還る。
するとアニエスは以前の健康的な肉体へと戻り、髪の艶も生命力をたたえた深いブラウンへと色づいていった。
「う……」
目を覚ましたアニエスが見たもの、それは力を失った司祭と、聖像とうり二つの、紛れもない聖女セント・ガーディアナその人。そうでもなければ、この奇跡の説明がつかない。
「あ、あなた……やっぱり……」
パメラは疑惑の目を向けるアニエスの視線から目をそらすと、傷ついたサクラコの元へと向かい、その体を癒やした。
「サクラコちゃん、しっかりして!」
「う……パメラ、さん……? かたじけないです……私、何もできなくて……」
「ううん。ロザリーを守ってくれて、本当にありがとう」
一方、骨のようになった司祭は、まだかすかに息をしている。ロザリーはその咎を一人で引き受けるべく、彼の側へと立った。
「司祭オーガスト……。あなたは罪を償った。教会の法に従うなら、そうでしょう。だが、ここはローランド。この地に眠る魂達は、皆罪もなく死んでいった。今、その事を詫びなさい。あなたから、正教の僕である、あなたの口から!」
「なにを……いう……。罪に濡れた……魔女ふぜいが……」
「ふっ……」
ロザリーは笑った。そう、生まれながらに罪を背負いしがマレフィカであるならば、何も迷う事などないのだ。自分の望む本当の結末は、赦罪などではないのだから。
「あなたが犯してきた罪、そして、これから犯すはずの罪を私は見過ごせない。それが、何も守れなかった私の、せめてもの償い」
ロザリーは改めて血に濡れた剣を両の手で握りしめる。全てを終わらせるために。
「ロザリー……」
彼の心臓を狙うその手はどこか震えていた。パメラやサクラコの見つめる中で、人をあやめる。偽善者と言われようと、その壁は思いのほか高い。
すると、そんな手に、熱さすら感じる手が添えられた。
「一人ではやらせないよ、ロザリー。私も一緒」
「あなた……」
アニエスである。以前は川の底で冷たくなっていた、そして、ぞんざいに振り払われたはずの手。しかし、今は求めるように強くこの手を握りしめる。
「私も魔女になる。あなた達と、同じ。心だけでもね」
「だめ……、あなたはこちらに来てははだめよ……」
「あなたと出会って、私は自分がどれだけ臆病だったか分かった。一度は水底で死を受け入れたけど、それも全部逃げていただけ。でも、私は変わりたい。あなたと一緒に」
「そう……そこまで言うのなら、分かったわ」
その想いが触れた手から伝わる。それは真に断罪を願うもの。本心が怨恨だけであるならば、今度はこちらから払いのけていただろう。二人は頷き合い、司祭を見据えた。
「神に刃向かうか、魔女よ。……ふぉふぉ、いいだろう、先に地獄で待っているぞ」
満足そうに笑う司祭。彼はその懐に隠していた刃物を取り出したかと思うと、迷う事もなく自らの心臓へと突き立てた。
「なっ!」
「ぐふぉ、ぐふぉ、このオーガスト、貴様等などに獲られる安い命では、ない、わ……」
確かに刃は突き入れられた。しかし、他の誰でもない彼自身の手によって。
「……身勝手に逝く事を、どうかお赦し下さい。ガーディアナよ……永遠、なれ……」
そう言い残し、オーガストは息を引き取った。このまま魔女に敗北したとあれば、聖職者の名折れである。しかしこれは、聖女の裁きによる結末。教会の意思として自身が不必要と判断されたのなら、それまでの事。彼は自らの手で、自らの矜持を守り抜いたのだ。
「ガーディアナ……どこまでも、私を、みんなを……」
「ロザリー……。こいつの言うように、あなたが手を穢す事なんてない。……良かったんだよ、これで」
「私は、彼の死を望んだのではないの。ただ、その魂に刻み込みたかった。自らの、犯した罪の重さを……」
やり場の無くなった、剣を握る二人の手。そこに、パメラの慈しむような冷たい手が加わる。過剰なまでに昂ぶった二人の熱は、彼女の手により次第に冷めていった。
「大丈夫。この人にも、罪悪感は確かにあった。きっとその魂は、迷いながらでもいつか正しい道に気づくはず」
「そう……。そうだと良いわね……」
巨星は墜ちた。晴らそうにも晴らせぬ悔恨を残して。
しかしその結末はどうであれ、賽はすでに投げられたのである。
ガーディアナ。遥かにそびえる牙城に、くさびを打ち込むがごとく。
少女達の反逆。それは傲慢な世界に風穴を開ける、魔女が与える鉄槌――。
************
「さあ、いよいよアタシの出番ね! いくわよーっ! 炎魔法、レベル9! ファイア・メテオライト!」
欲望の居城は、ティセによる極大火炎魔法によって徹底的に破壊された。ファイア・ボールの超巨大版とでも言おうか、隕石のようなそれにカテドラルは無惨にも押し潰されたのである。
「この拠点がある限り、おそらく教会の支配は変わらない。せめて、あなたの蓄えた私財と共に安らかに眠りなさい、オーガスト」
敵とはいえ、その余韻にはどこか空しさが襲う。ロザリーとパメラは悼むように目を閉じた。
「何よ辛気くさいわね、せっかくのアタシの晴れ舞台だってのに。まあ、今回はやれる事をやっただけよ。話し合いの通じる相手じゃないからね」
「そうですね……因果応報という言葉もあります。なむなむ」
皆で祈りを捧げた後、パメラは救い出した領主の体を癒やしてあげた。脚の腱を切られ、生きているのもやっとの様子に、改めて皆の憤りが募る。おそらく教徒以上に食事を制限されていたのだろう。彼は差し出された聖パンを何とか飲み込み、魔女達へと感謝を告げた。
「ありがとう……。どうやら皆マレフィカのようだが、君たちへの弾圧を見過ごしていたも同じ私達のために……すまない……」
ローランドの地方領主、ルドルフは何度もロザリー達をねぎらった。ローランドの民は彼女達を魔女とは呼ばず、マレフィカと呼ぶ。その違いは些細なものだが、そこには最低限の敬意が含まれているのだ。
「いえ、ルドルフ様。こちらこそ助け出すのが遅れてしまい、申し訳ありません。私を覚えておいででしょうか、一時期オルファでお世話になっていたロザリーです」
「君は、確かブラッド殿の……そうか……それだけの時が経った、という事だな」
全てを納得したように、ルドルフは目を閉じた。何もかもを失ったローランド戦役後、初めて手にした勝利に、枯れたはずの瞳から涙がこぼれる。
「私からも、ありがとう。ロザリー、そして……」
アニエスは皆までは言わず、パメラに聖像を手渡す。
やはり、アニエスはパメラの正体に気づいていた。魔女として捕らえられた頃は、ずっと怯えていた存在。だが、魔女の実情、教会の実情、全てが教えられたものとは違う以上、聖女についても同じ事がいえるのであろう。
「これ、私? かわいい! じゃ、なくて……わー、これ誰だろう、可愛いなー」
「誰って、あな……」
ロザリーはその続きを指で遮り、そっとアニエスに耳打ちする。
「アニエス、パメラの事はまだみんなに秘密にしているの。ちょっと難しい問題だから……」
「あっ、そうなの。ごめんごめん、はいパメラ、聖パンあげる」
「わーい! んぐんぐ」
「ふふっ、ほんとにこの子は。でも、ありがとう、あの時来てくれて……」
「んー?」
パメラは夢中でもぐもぐしている。あの場面を見た上でとぼけているのか、見られてないのか、どっちなのかは分からないが、そんな優しさもこの子らしい。
「それから、あなたも」
ロザリーは改めてアニエスに手を差し出した。あの日から続く、確かな繋がりへと。
「うん……!」
それを受け、彼女はしっかりと握り返す。ロザリーはここに来て、かつての逆十字での行いに誇りを覚えた。そして、今の自分を形作ってくれたギュスターやキル、部下の皆へと、改めて祈りを捧げた。
(そう、あなた達の魂は、きっと天へと導かれる。だから……いつかまた、向こうで会いましょう)
地獄へは奴らだけで行けばいい。瓦礫と化したカテドラルを見つめ、ロザリーは人々の列へと振り返る。その先には、教会の支配から解放された者達の姿があった。司祭を除き、死者はいない。ロザリーが切り伏せた騎士達もパメラによって救われていた。彼らは一旦捕虜として扱われる事に同意し、人々の列へと加わる。
「ふむ、後は領民の処遇だが……私の一存で決めてよいかね」
「はい。彼らは、そもそもあなたの民ですから」
領主は人々の意思を尊重し、ここへと残る者、共に行く者に分けた後、不当に納めていた物資なども村々に返還する事を速やかに約束させた。
「ではマレフィカの諸君、これから君たちを我が館へと招待したい。ここで捕虜とした者、そしてこの一帯の村々の今後、それらを君達を交え話し合いたいのだ。構わんかね?」
「ええ、それが私達の責任です。こうなった以上、最後までやらせて下さい」
「ふふ、頼もしい返事だ」
砦横に停められていたガーディアナの馬車へと皆が乗り込む頃には、すっかり辺りは暗くなっていた。人々にとっては忌わしい砦を後にし、マレフィカ達は凱旋する。
きっといつか、この長い夜も明ける。その確かな予感と共に。
―次回予告―
魔女の進む道。それは血塗られた争いの道。
ある少女は、もう一つの道を模索する。
誰も傷つかない、そんな世界を夢見て。
第27話「姫百合の騎士」