第22話 『臆病な忍者』
ずっと、後をつけられていた。忍びとしてここまで出来損ないだとは……。
前髪を切りそろえ、長い黒髪を片方で結わえた、小柄な和装の少女が木立を走り抜ける。その顔は凛と整ってはいるが、下がった眉がどこか情けなくもあった。
「はっ、はっ……」
そんな彼女の背後には、死という名の絶望が迫ってきていた。
彼女はその大きな瞳に涙をいっぱいにためながら、その何かをふりほどこうと必死で森を駆ける。しかしその意思に反してか、身につけた薄紅の着物は自らの姿を常に色鮮やかに示し続けていた。
「死にたくない、死にたくないようっ……」
駆け抜ける森の中、背後から何かが放たれた。彼女は乱立する木々を身代わりに、それらをかわす。ドス、という音と共に深々と突き刺さるのは、全面がギラギラとした光沢を見せる手裏剣である。
「ひゃうっ……!」
一つでも当たれば命はない。けれど、一つも本気でこちらを狙わない。それは、どこか狩りそのものを楽しんでいるようにも感じられた。
(なんで私がこんな目に……お師匠様、助けてぇ……)
東方、イヅモという島国の伝統的な武術、忍術を操る少女、琴吹桜子。
彼女は幼いながらイヅモ国大将軍、天現出雲の勅命により、一族を代表してこの大陸まで旅をしてきた。
その任務とは、ガーディアナ教国、もとい、がであな国の諜報。現在、鎖国政策を強いるイヅモ国にて、 “がであな教”なる教えが密かに広まり神徒を増やしているらしく、無視できない程の勢力となりつつあった。
イヅモには独自の神々がおり、それらの信仰が風土に根付いている。時の将軍である天現家は、水を司るといわれるオロチ神の力を操り、度重なる飢饉の続いたこの国を救った。他国の神などを崇めようものなら、それこそオロチが怒り狂い、国中の妖力が通ると言われる龍脈に悪しき影響が生まれ、国家転覆の恐れまで生じるという。
そんな異教を広めるに当たり最も強い影響力を持つと言われるのが、セント・ガーディアナこと“聖がであな”である。イヅモへはいまだ彼女の誘拐の報は届いてはおらず、まずは人目を忍び彼女へと接触せよ、との命令をサクラコは律儀に遂行しているのだ。
ただ、本心は乗り気ではなかった。必要とあればその命を奪う事すらも、その任務には含まれているのだから。
「ぐすっ……、だから、こんな任務、嫌だったのにぃ」
なぜ、こんな事になってしまったのか。それも全て、掟のせいだ。
彼女はまだひよっこではあるが、幕府お抱えの忍びの若頭候補でもある。この任務は、先代直々に与えられた最後の試練、 “琴吹流免許皆伝の儀”を兼ねてのしきたりなのだ。
しかし、この旅はまだ幼い彼女にはいささか荷が重いようであった。
そのお人好しな性格を利用され、旅の中、人に騙される事も一度や二度ではなかった。一度、持ち金をだまし取られ路銀もつきた時、自ら狩りをしようと小動物を射止めようとしたが、長い葛藤の末ついに手を下す事はできず野草のみで生き延びたほどの肝の小さな娘である。
それからもトラブルは続いたものの、持ち前の逃げ足でなんとかくぐり抜けてきた。しかし、彼女の旅にはもう一つ、致命的に厄介な問題が付きまとうのだった。
「それ、捕まえたあ……!」
「ひゃあっ!」
ここは、目的地である“がであな国”から海を隔てた“ろらんど国”。ここから危険の少ない海路を行こうと踏み入れたが、今はあまり人のいない土地であった。つまり、それだけ自分の痕跡が目立つと言う事。そして、そこを嗅ぎつけられた。蛇のような目をした、恐ろしい人物に。
「わざわざこのような土地に入り込むとは酔狂な事だなあ、サクラコよ。そうそう死に急ぐ事もあるまいに」
「お願い、こ、殺さないで……」
ガクガクと膝が震え、何度目かの失禁があった。膀胱で作られるそばから溢れてくる。サクラコのふんどしは洗っても洗っても、いつもほのかに濡れていた。
「忍びは鼻がきく。そこに来て、お前の小便臭さよ。追う方はたまらん」
「うう……ごめんなさい……」
女は、毒薬由来の毒々しい臭いを発している。サクラコも、それにはいち早く気付いていた。言葉を返すならば、そのツンとする臭いこそ一番嗅ぎたくない臭いだと、言える物なら言いたかった。
「すうー……。んんー、人生で一番嗅いだ臭いかもしれぬ。もはや恋しさすら覚えるわ」
この、ざんばら髪に毒蛇を思わせる相貌をした女性は、禍忌ザクロ。
彼女はサクラコの属する忍者集団、琴吹流 “紅の陣”に対抗する一派、禍忌流の暗殺部隊、“紅蓮衆”の筆頭若頭である。忍術の腕は、サクラコよりも二回り程上回る。大人と子供。いや、サクラコにとっては熊と赤ん坊、そんな印象ですらある。死を直感したサクラコは、まるで幼子の様に懇願した。
「ザクロさん、お願いです……許して、もう許してぇ……」
「何を許すと言うのだ? お前の不出来をか? それとも、この積年の恨みをか?」
「ああ……」
弱点であり、天敵。出会えばどう生き延びるか、という思考しか生まれない。今まで、死の一歩手前まで痛めつけられた事は何度もあったが、命までは奪われなかった。ある意味、ザクロはサクラコ狩りを楽しんでいるのだ。しかし、今回はどこか違った。
「貴様をここで葬り、ついでに聖女とやらも葬れば、我が禍忌流こそが将軍お抱えの忍びとなる。ついに闇に生きてきた我らが、人の世の表舞台に立つのだ」
「私はただお師匠様の言いつけで……。そんなの、好きなだけお譲りしますから!」
命乞いをするようにサクラコは叫んだ。忍びにとって命とも呼べる任務すら平気で放棄するその性根に、ザクロは肺の奥底から生じた溜息を漏らす。
「ふぅー……幻滅させるな。貴様は琴吹流次期頭首。私は禍忌流次期頭首。何をするにも比較される相手が貴様では、もう我慢ならん!」
終わった。今度は殺される理由が明確にある。ザクロは怒気を強め、自らの着物をめくり上げた。引き締まった上半身が、ぴっちりとした黒い鎖帷子に覆われている。
ああ、アレをされるんだ。とても痛いの。嫌だ。死にたくない。サクラコは絶望する他なかった。
「ふぅん!」
すると、ザクロの上半身はみるみるうちに一回り大きくなった。やや小ぶりな乳房が、せり上がった大胸筋と一体化する。もはや男性の身体だ。ザクロはそのまま、捕えたサクラコを抱きしめる。その鬼のような腕力に抱かれ、サクラコは発狂寸前に取り乱した。
「やだあ、痛いのやだぁ!!」
「痛くはない。ほんの少しの我慢だ」
非情にも、容赦の無い力が徐々に加えられる。サクラコは胃の中の物を全て絞られ、それはザクロの顔へと降りかかった。
「がはっ……!」
「ふふ……」
ザクロはうっとりと、それを舐め取る。さらに、弄ぶように力を加えたり抜いたりした。
「あが、がぎぎ……!」
ぽきぽきと、肋骨から折れていく小さな体。
「黄泉比良坂、良いところ。一度はおいで」
ザクロは気分良く歌い上げた。ひどくしゃがれた音痴な歌である。サクラコにとってそれはまさにお経であった。あとは死を待つのみ。サクラコは全てを諦め、そのうつろな目はそっと天を仰いだ。
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一方、森の中で不審な影を見たロザリー。ただならぬ予感に急いでそれを追いかけると、森の奥では見慣れない服装の女が二人向かい合っていた。
一人は引き締まった体にざんばら頭。女に見えるが、一見、男のようでもある。その長身の体全体から殺気を放ち、見るからに只者ではない。もう一人は小柄で華奢な……年のころ十代半ばくらいの、まるで素人の様なたたずまいを見せる少女。何があったかは知らないが、敵対関係にあることは一目に見て取れる。
「魔女狩りではないみたいね……だけどっ」
事態は深刻らしく、少女はまさに絞め殺されんとしていた。ロザリーは後先も考えずに、女に向かって短剣を投げつける。
「んぐう!」
サクラコへの暴虐を愉しんでいた無防備なザクロの背中に、短剣が突き刺さる。手応えを感じたロザリーは、そのまま二人の前へと躍り出た。
「そこまでよ! その子を離しなさい!」
「何奴っ!? 貴様ぁ、邪魔立てするなら死んでもらうぞ!」
厚い筋肉に押し出され、刺さったはずの短剣がはじき出される。すさまじい殺気、これはよほどの修練を積んできた者にしか纏えないものである。ここは覚悟を決めるしかないと、ロザリーは剣を構えた。
「む、長物か……。貴様も出来るようだな」
「ええ、あいにくだったわね。私の目の前で、そんな事は許さない」
「……ふっ」
ザクロはサクラコを突き飛ばし、含み笑いを浮かべる。自由になったサクラコは苦しみながら精一杯の声を上げた。
「だめっ……だめです……」
大陸の剣士。その実力は未知数であったが、とてもザクロに勝てるとは思えなかった。絶望の底から助けてくれたこの人を巻き込んではいけないと、絞り出すように少女は叫ぶ。
「逃げて下さいっ……この人はとんでもなく強い! 殺されてしまいます!」
しかしロザリーはそんなボロボロの少女を見て、ますます見過ごせないと感じた。
「そんな訳にいかないでしょう、あっちはやる気よ」
「そうよ、邪魔立てするなサクラコ。此奴の次は、貴様だ。そこで大人しく待っていろ」
ザクロは戦いの合図と、落ちていた短剣を投げ返した。
「そら、返してやる。どうもその剣は飾りのようだからな」
「っ!」
直線的な軌道を描く短剣を難なくかわし、すかさず周囲の状況に気を配る。このように木々が乱立した森では、あの身体で自由には動けないだろう。ロザリーは木立を縫うように動き、むきになって短剣をいくつか放った。
「ふっ、はっ!」
「何かと思えば、大道芸でも始めるつもりか?」
ザクロはそれを全て指で受け止め、不気味な笑みを浮かながら上半身の肥大化を解く。
「ならば、こちらもとっておきの芸を見せねばな」
「何っ……!?」
みるみると細身の体になったザクロは、ロザリーの視界から一瞬で消えてみせた。視力には自信のあるロザリーも、これには面を食らう他はない。
「上です! よけてっ!」
「くっ!」
サクラコの声を受け、ロザリーは脳天へと杭を打つように襲いかかるザクロの攻撃を寸前でかわす事が出来た。それにあわせ剣を横へと一振りしたが、少し掠ったのみ。舌打ちし、再び消えるザクロ。
「これが、東方に伝わるという流派、ニンポー……」
いつか父から聞いた、東方の暗殺術。確かに一瞬でも油断すると命は無いだろう。だが、殺気の向こうに必ず敵はいる。ロザリーは目を閉じ集中した。いくら目で捉えられなくても、こう気配が漏れているようでは筒抜けもいいとこ。もはや異能に頼る必要すらない。
「ひゅう!」
二、三度の攻防。しかしそれらは全て、ザクロのみが手傷を負う結果となる。そのロザリーの確かな技量に、サクラコはただ驚くばかりであった。
「心眼……まさか、あのザクロさんが……負ける?」
その時、気配の先のザクロがしびれを切らし、何かを放った。空気がビリビリと揺らぐ。飛び道具……? もしや、手の内を切らしまたも短剣を投げ返したのか。ロザリーは敵との軸をずらしながら、先程のようにそれをかわす。空気を切り裂く風斬り音が、すぐ耳元で鳴った。
「くくっ、掛かった! 私の勝ちだ!」
技を避けられたはずのザクロは、嬉々として勝ちどきの声をあげる。
「っ!? どういうこと……」
「後ろです!!」
またもサクラコの声が響く。するとロザリーは間髪入れず、背中に熱いものを感じた。
「あ……」
ザクロの投げた錐状の武器は、空中で軌道を変えロザリーの背中へと深々と突き刺さっていた。それは鉄製のプレートでさえ紙くずのように貫き、完全に背中へと食い込んでいる。
「禍忌流、風鳴り。こうもたやすく掛かるとは、他愛もない。全てはこのための布石とも知らず、くくっ」
「が、ぐうっ……!」
ロザリーは致命的な予感を覚えた。それは肺にまで達しているのか、血が流れ込み呼吸すらままならない。その技を知る少女はただ、恐怖に震えていた。
「ああ、ああ……そんな」
「威勢よく出てきたものの、もう終わりか。西洋の剣技など、まるで中身のない遊戯だな。忍びの技は常に必殺。そう……必ず、殺す。さあサクラコ、お前はもっと愉しませてくれよ」
「いや、いやあっ!」
うすれゆくロザリーの意識に、ザクロの罵りの言葉が届く。そして、少女の絶望する叫びも。
(……そう、私の腕は確かに未熟。だが、父さんの剣技を侮辱したこと、それは許せない)
……後悔してもらう。
ロザリーは最後の力で両足に精一杯の力を込めた。大量の血液が胸の奥からせり上がってきたが、かまわず飛んだ。ただ、ザクロにめがけて。
「なにっ!?」
食らったのが利き腕の肩ではなかった、それだけで十分。大きく振りかぶった一撃が、油断していたザクロの元に届いた。フォースブランディッシュ(力まかせの両断)。父から教わった奇襲用の技である。
「ぐはっ……」
「やらせは、しないと言った」
「ば、馬鹿な……っ!」
それを受けた瞬間、彼女は跡形もなく消え去った。
確かに手ごたえは感じた。おそらく相手も深手を負ったことだろう。これで父の面目は保ったと、ロザリーはそのまま派手に倒れこんだ。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
サクラコが駆け寄る。とりあえず、この子の命は救えたようだ。ロザリーは大丈夫だ、と土気色の表情で精一杯笑顔をつくって見せる。その様子を見たサクラコは、酷く怯えていた。だが同時に、少し怒っているようにも見えた。
「私なんかのために、無理はしないで下さい……! 私なんかのために、どうして……」
「なんかじゃ、ないわ……そんな事、言わないで」
ああ、いつもこうだ。自分みたいな落ちこぼれは、いつも誰かに迷惑をかけてしまう。でもなんで、この人は私なんかを……。
「なんか、じゃ、ないでしょ」
いつものように心に思ってしまった言葉。それを、まるで見透かしたように微笑む女性。サクラコは、どうしようもなくこの女性を失う事が怖くなった。それこそ、自分が死んでしまうよりも。
「だめだ、早く治さないと……このままじゃ……」
「ゴホッ、大丈夫よ……これくらいの怪我なら慣れているわ」
「いいえ、ダメです! ザクロさんは毒術を極めてるんです!」
サクラコは急いで解毒剤を口に含み、かみ砕いてはロザリーに口移しで飲ませた。
「んっ、ん」
ロザリーが飲み込めるように、サクラコは口いっぱいの唾液をロザリーに押し込む。あふれる唾液と血液に溺れそうになるも、なんとか全てを飲ませることができた。
「里に伝わる薬です。これなら……」
「はあ、はあっ……」
しかし一向に様子が変わらない。サクラコは傷口の毒も吸うため、ロザリーの鎧を脱がせる。すると、背中にはすでに紫色の模様が広がっていた。
「ああっ……! この死紋は、普通の解毒剤では……」
懸命に毒を吸い出すも、すでに全身にまで回ってしまっている。サクラコは応急処置として傷の治りを助けるガマの油を塗り込むも、少し諦めたような顔でロザリーに呼びかけた。
「どこのどなたかは存じませんが、身内の方に何かお伝えしておきたいことはありませんか? 私が責任を持ってお届けしますから!」
どうやら本当にまずい状況のようだ。ここはパメラの力にすがるしかないと、ロザリーは言葉を振り絞る。
「近くの村に仲間がいる……そこまで、おねが……い」
薄れ行く意識の中それだけを伝えると、ロザリーはその場で気を失った。
「ああ……」
臆病な少女は、自分の身代わりとなったこの女性を何としても救いたいと思った。命を救われたとあれば、もはや主君も同じ。ここで自らは死んだと考え、後の人生はこの人のために費やすべきであると。
サクラコはあちこちが折れた小さな身体でロザリーを背負い、村を目指した。
「早く、早く村を探さないとっ」
当てもなく森を歩く途中、大きな桜の樹が見えた。自分と同じ名を持つその樹に導かれるかのように、足は自然とそちらへ向かう。
そして辿り着いた桜の樹の下。そこには、食料のたくさん入った袋が置き忘れてあった。さらに、何かの修練でもした後かのように地面が荒れている。これは相当な健脚の成せる所業。だとすると、この人はこちらから来たに違いない。
「もしかして……」
落ちた花びらは、ある一定の方向に散っていた。その先には、村へと続くであろう道が広がる。この桜の樹は、それを自分へと語りかけてくれているのかもしれない。
「絶対に、死なせはしません。あなただけは……絶対に」
サクラコは再び、花びらの指し示す方向を目指し歩き出す。主君たる女性へと、並々ならぬ想いを抱きながら。
―次回予告―
誰にも知られず、ひっそりと幕を閉じた少女の戦いがあった。
影に生きる忍びの、一世一代の晴れ舞台。
命を燃やし、咲かせて見せよ桜吹雪。
第23話「稀妃禍」