第133話 『堕落』
「体を洗いましょう」
しばらくして、体の火照りも冷める頃。アリアはパメラを連れ水場へと向かった。塔の屋上には浄化槽があり、雨を貯めて使う水場が設置されている。
上空を吹き抜ける風が二人を撫でる。そこから見える景色はどこまでも晴れ渡っていた。まるで、新しい世界に訪れたようにすら感じる。
キラキラと輝く水に浸かり、二人は生々しい残り香を洗い流す。もう、裸でも抵抗はなかった。
「そろそろ、許してほしいわ」
水浴びを終え、アリアは純白の布をパメラへと巻き付けた。それは、先程の情事をすべて包み隠す。
「怒っては、ないけど」
「けど?」
「私の気持ち……無視した」
ふふっ、とアリアが笑う。
「そう? 体は、受け入れてくれたじゃない」
「それは……」
どこまでも、素直じゃない子。口ではそう言いながらもずっと見つめてくるパメラに対し、アリアは純白のヴェールにて、もったいぶるように豊満な身体を隠す。
そんなひとときの中、パメラのお腹がなった。すでに日は高く、お昼時である事を意識してしまったのだ。
「う……」
「聖女はお腹の嘘も下手ね。何か食べる? 確か、アルブレヒトがくれたお菓子があったはず」
「お菓子……じゅる」
「ここではね、マレフィカの皆はただ囚われているだけではなくてね、色んな仕事をして過ごしているのよ。初めはそんな権利すらもなかったけど、だんだんと、作り上げていったの。お菓子作りの上手な子もいて、私の体重も増えていくばかり」
アリアは自慢の胸を持ち上げて見せた。そこにばかり栄養が行くタイプであるらしい。何もかもを包み込んでくれた胸。パメラはつい、先程の事を思い返してしまい目を背ける。
「いつかこんな日が来ると思っていたわ。あの子達も何か仕事を身につけておかないと、きっと路頭に迷うでしょう」
「優しいんだ」
「そんな事はないわ。私だけ、引きこもって何もしないのだから。皆の魔力を吸っているとね、その子達の事が分かってくるの。一人として、悪い子はいない。でも、皆は私を恐れているでしょう。力を奪う悪魔として」
少し、唇が震えているのが見えた。どこまでも、貪欲に自分のぬくもりを求めてきた唇。その時、ずっとそこにみとれていた事を意識する。
恐れられ、敬われ、孤立し、強がっていても本当はたまらなく寂しい。やはり、自分達は似ている。
「……ううん、そんな事ない。私にもわかるよ。アリアは優しい人だって。だからここを出よう。みんなが待ってる」
「どうかしらね……」
いかにパメラの願いとはいえ、それだけは承伏しかねた。再び外の景色を眺めながら、アリアはパメラの隣に座り、手を握った。
「もう少し、お話ししましょう。……ねえ、ロザリーって誰かしら」
少し、悪魔的に微笑んで、アリアはパメラの心の向きを探った。
「……私の、大事な人」
「そう……」
好きな人でも、憧れの人でもなく、そう答えたパメラに、なんとなく二人の関係性が見えた気がした。
「そして、私を自由にしてくれた人。だからかな、アリアにも同じような事してるのは」
その人の影響だとはっきりと言われ、アリアは自分の中の嫌らしい部分が疼いた。
「その人とは、キスしたの?」
「う、うん……最初はアリアみたいに、無理矢理……」
「ふふっ、やっぱり小悪魔ね。そうやって堕としたんだ」
パメラの顔がみるみる赤くなる。
「淫果応報……。どう? 同じ事された気分は」
「ずるい……と思った。ロザリーもきっと、今の私みたいな気持ちだったのかも」
「という事は、私にも脈があると思っていいのかしら」
「な、ないってば!」
いたずらに笑うアリア。しかし、その顔はどこか空虚であった。
「……良く分かったわ。でも、私はここにいるつもり。いいえ、ここにいなければならない。でないと、世界に悪魔が解き放たれてしまうの」
「さっきから、悪魔悪魔って、アリアは悪魔じゃないよ!」
愛を知る悪魔などいるだろうか。自分は外の世界に出たくてしょうがなかった。そして外にはたくさんの素晴らしい事が待っていた。それをアリアにも教えてあげたかった。だが、彼女は頑なに受け入れてはくれない。
「悪魔だからあなたにも酷い事をしたの。眩しすぎて、私のいる所まで引きずり込んだ。本当はあなたとここで過ごせたらとても幸せなんでしょうけど、さすがにそれは許されないでしょう」
アリアは微笑んで、パメラを見る。それは、女神のようですらあった。
「だから、私の事は忘れて」
忘れない、忘れるわけがない。
「……実は、アリアには一度助けられた事があるんだ。イルミナの神殿で、魔力ゲートからその力を貰って、お友達を助けることができたの」
「空が光った時の事ね」
「知ってたの?」
「ええ、あまりにも眩しくて、ここが一面その光に包まれて。私は少しだけ、希望をもらったわ。地の底までも照らす光が、この世界にあるのだと」
「じゃあ、私にまた、力を貸してよ! 悪魔なんて、私全然怖くない。魔王だったんだよ? その時の相手は」
「ふふ、ふふふっ」
あまりに突拍子もない話に、アリアは笑い出した。
「いいわね、それ。聖女と魔王。絵本にできそう」
やはりあの絵本を描いたのはアリアだった。パメラはどうしても聞いておきたい事があった。あの描きかけの絵本の事である。
「……イデアの鏡って、なんで最後だけ決まっているの?」
「やっぱり見たのね。それは、変えられないからよ」
「変えようとはしたの?」
「ええ、途中、どうしたら変えられるのか、いくつもページを重ねて。でもね……もう思いつかなくなったの。塔に幽閉された少女のお話はね、いくつもあるの。だいたいが王子様に助けられるけど……」
王子様気分でいたのはアルブレヒトくらいなものだろう。しかし、おそらく彼はもういない。
「お姫様じゃ、だめ……?」
「どういう事?」
パメラは自分にとっては当たり前の結末を、アリアに教えてあげる事にした。
「変えられるよ。あの先は、私が出てくるんだ」
アリアは、初めてその表情を驚きに変化させた。その後、ふっ、と笑って、少しため息をつく。
「面白いわね。でも、絵本にあの内容は描けないわ」
「えっちなのは描かなくていいの!」
ぷんぷんと怒り出したパメラに、アリアはまたおかしくなって笑った。
「一緒につくっていこ。これからのお話は」
暖かい手が、アリアを包んだ。深いため息。アリアは覚悟を決めたように、パメラを見つめた。
「あなたは、何もわかっていない。ずっと昔、あなたの光に撃たれ、私は気づいたの。この光こそ、私を救ってくれる光だと」
「アリア……」
「私はあなたに消されるため、ここにいる。それ以外の結末は無いの。私に先なんてない。世界に私の居場所なんてない。あるのは悪魔の慰み者になる未来だけ。私も、こうなった原因の魔導書を探した。だけどいつまで経っても見つからない。私の中の悪魔を封印しない限り、私はずっとこのまま」
「アリア、違う……」
アリアは、パメラの手を振りほどいてゆっくりと立ち上がる。
「だから、もう一度、私を浄化して。あの天を覆った、無限の光で」
きっと彼女はそれを望んでいるのだと、どこか感じていた。だが、あの力は全てを無に還す力。けれど二人は出会ってしまった。この情を、なかった事になど出来はしない。
「できない。できるわけない……。それに、ここはイデアだよ? ここから出ないと、力は使えないんだよ。だから、出よう。ね……?」
「詭弁ね……。そもそもあなたにそんな事が出来るのなら、こんなに愛してはいなかった……」
「愛してるのなら、言う事を聞いて! 私だって……アリアを……」
愛を語る幼い唇。アリアの表情は一変した。追いすがるパメラを突き放して、ゆらりとそのまま歩き出す。
「優しい子……。やっぱり嘘が下手ね」
「嘘なんかじゃ……」
その言葉に、どこか後ろめたさを感じる。ロザリーへの、そして、アリアへの。だから、遠ざかるアリアを追いかける足には、力が宿らない。
「自由になった私は、きっとあなたをも喰う。だから……こうする」
アリアは迷う事もなく、塔のへりへと立った。吹きすさぶ風。朦朧とするほどの高さ。彼女の長身すら、かすむほどの頂。
「だめ……! そんなこと、だめぇ!!」
パメラは叫ぶ。追い詰めたかった訳じゃない、そんな事、絶対に許さない。
灰の髪が艶やかになびく。そして、どこまでも美しい笑顔で彼女は告げた。
「ありがとう、パメラ。……最後にあなたに会えて良かった。……好きよ」
訪れた空白。そのまま、アリアは空へと身を投げた。
「アリ、ア……」
パメラを静寂が襲う。
あの暖かな肌のぬくもりを思い出すほど、その身は凍えるようであった。
「あ、ああ……ああああ!!」
最後に残ったもの。それは、悪魔へと堕落した心。
愛という名のもとに、少女は二人育んだ残心に身を焦がした。
―次回予告―
混乱の塔の頂上で、偽りの正義と偽りの悪意がぶつかる。
無限の光は全てを包み、裁きの剣は天を貫いた。
善のイデア。それは人の過ちを正す真実の目。
第134話「崩壊」