第132話 『純愛』
少し時はさかのぼり、最上階――。
厳重に鍵がいくつも施された重い扉の前で、パメラは深呼吸をした。
幸い、鍵は全て開いていた。アルブレヒトの言っていたように、自分を認識して開いたのだろうか。体重を乗せながら押し込むと、ゆっくりと扉は開いた。とつぜんに紙の匂いが広がる。その部屋は、一面に本棚が並んでいる別世界だった。
「うう、緊張する……」
少し、尿意を催してしまった。それらを眺めながら、トイレはどこかな、と探るパメラ。だが道なりに探してもそれらしい場所は見当たらず、ふと無造作に本が積み上げられた机の前に出くわした。
「すごい、絵本がたくさん……。あ、不思議の国のお話も」
マリスと不思議な国。髪長の姫君。裸の女王。白百合姫。そして、おばけのルーシー。どれも、見たことのあるものばかりだ。
「これ、何だろう。見たことないな」
その中央には、開いたままの本があった。可愛らしい絵が途中まで描かれている、未完成の絵本。題名は、「イデアの鏡」。
少し読んでみると、ある少女が鏡に映る自分の中の悪魔をどうにかして消そうと奮闘する物語だという事が分かった。しかし中盤は白紙のページが続く。パラパラと最後までめくると、最後のページにだけ再び絵が描かれていた。その結末は、自分を消す事でやっと悪魔も消す事ができた、というものである。いや、自分の認識の中では消すことができた、といった後味の悪い解釈すらできる。というのも、本の背表紙には未だ悪魔らしきものが描かれているのだ。まるで、この本から飛び去っていくような。
「う、うう」
あまりに救いのない結末に、パメラは少し涙を流した。少女が努力するはずであろう終盤までずいぶんと空白のページが割かれているのに、このラストだけはすでに決まっていて、変えられないのだ。
「なんだか、私と似てる……」
昔の自分を思い出し、そんな言葉がつい、出てくる。
「誰?」
そんなパメラの独り言に、遠くから誰かが反応した。この声の主がアリアなのだろうか。少し低めの、深く落ち着いた声。パメラは慌てて声のした方向を探った。
「あ……」
すると、入り口をカーテンで仕切った暗い部屋を見つけた。その部屋は、まるで閉じこもるように周囲が本棚で囲まれている。どうやら声はここから聞こえてきたようだ。
「こんにちは……」
恐る恐る覗くと、シーツに身をくるんだ半裸の女性がこちらを見ていた。その姿はあまりに母性的で、パメラはどこか母の面影すら感じてしまう。しかし立ち籠めるのは、むせかえるような性の臭い。本能がここにとどまるのは危険だと知らせていた。
「あなたが、アリア?」
女性は黙っていた。だが間違いなくアリアだろう。ここには彼女しかいないはずだ。そして、その姿は記憶の奥底にある始まりの魔女、アリアの成長したであろう姿と合致する。
「いきなりごめんなさい。あの、途中まで書いてある絵本……素敵だね。あなたが描いたの?」
しどろもどろに話しかけるも、自分でも何を言っているんだろうと恥ずかしさがこみ上げた。そんな目を伏せて返事を待っているパメラへと、アリアは音もなく近づいた。
「あなた、聖女ね」
メーデンでもすぐには気づかなかったというのに、なぜ分かったんだろう、とパメラは顔を上げる。すると、目線の先にはあまりにも大きな胸。
「んっ!」
アリアはそのままパメラを抱きしめた。彼女の胸の柔らかさと、その淫靡なにおいにクラクラするばかり。
同時に何かが彼女から伝わる。パメラは瞬時に理解できた。これがアリアの力だと。触れている、ただそれだけで魔力が満たされていくのが分かった。以前、魔力ゲートから注がれたものと同一の、深い愛情が心を満たしたのだ。
「久しぶりね……ずっと、会いたかった」
「あ……あ……」
アリアは驚いたパメラの目を見つめ、笑った。色の無いその瞳は、昔と違って怯えたものではなく、むしろ、こちらを喰らい尽くさんとするほど欲望に満ちている。
「勝手な話だけど、私、あなたの事が好きなの。いえ、愛していると言っていいわ」
「え?」
「あなたは私の光。それは時として残酷なほど眩しい。この暗闇の中で照らされた私は、己の醜さにすら目を背ける事ができないの」
「何を……」
「だから、一緒に堕ちましょう」
パメラは強引にベッドへと引きずり込まれた。長身のディーヴァすらも越える大柄の女性相手に、力で敵うはずもなかった。
「ああっ」
衣服は引きはがされ、パメラはあっという間に下着姿にされる。いつからかサイズが合わなくなり、少し大人な谷間を作るフリルのインナー。それを外された時、パメラはほんのわずか、開放感を覚えた。
「ふふ、可愛いわ」
共に沈み込んだベッドは、生暖かく湿っていた。
「んっ!」
口がふさがれる。アリアの薄い唇は容赦なくパメラを覆った。厚めのロザリーのそれとは、ずいぶんと違う感覚。与え、与えられるものではなく、全てを貪り尽くされるような、悪魔のキス。
息をするのも忘れ、二人は深い時間に溺れた。パメラの心臓はこれ以上ないほど高鳴り、苦しくなり、怖くて怖くて、涙が溢れてくる。
「んっ、ふぐっ……」
「泣かないで……、これは良い事なんだから」
アリアはそのまま、指でなぞりながらパメラの白い肌を弄んだ。
「あ、あっ」
思わず甘い声がでる。それに気をよくしたアリアは、パメラの髪をかき分けては、現れた額にキスをした。そのどこまでも甘いひとときに、心のつぼみが花開くのを愉しむ。それは、いつか一方的にロザリーを求めた自分と重なった。
「あなた、けっこう体臭がきついのね……嫌いじゃないわ」
メーデンにずっと抱きつかれていたせいで、臭いが移ってしまったのだろう。この部屋のフェロモンの様な匂いと合わさり、頭がおかしくなりそうだった。これは、きっと罰だ。何も疑わずに彼女を裁いた自分への。
「ごめん、ごめんなさい……!」
何かを懇願するように謝り続けるパメラに、アリアの求愛は加速した。
「だめ。私は悪魔だから、許してはあげないの」
さらにその長い指は下腹部へと這う。カオスの眠る場所を、愛おしそうに撫でるアリア。
「罰を受けるの。あなたは。私と一緒に」
パメラの体に電流が走った。アリアの指は、ディアナでもパメラでもなく、聖女の心の氷をゆっくりと溶かす。そして永い永い時間をかけて、抑圧された心を花開かせた。
「変なの……何かが、私の中に入ってくるの」
「そう、それでいいの。これは、私の無限魔力。あなたには、全てを受け入れてほしいの」
掌から、溢れるほどの魔力が注がれる。その度に、パメラの心はアリアで満たされた。こんな世界があったなんて。知らない。知りたくない。でも……。
「ふぐぅ……」
「拒まないで。あなたの力も、私の胎内に注ぐの。それがマレフィカの、愛の行為。そしたらとっても気持ちよくなれるのよ……ほら」
「だめぇっ!」
そんなめくるめく悪魔の誘いに、パメラはついに力を放ってしまう。イデアの制御下においてなお発動した浄化の光は、アリアを激しく打った。
「ああ……これは、あの時の光……。私は、やっと……」
アリアは脱力し、パメラの上へと覆い被さった。けれど、気を失うほどではない。ましてやその体に触れていると、更なる力さえ沸き立つようだ。
「どうして……。まだ足りないというの……?」
聖女の光に打たれても、この無限の魔力を涸らす事は出来ないというのだろうか。自分の中の悪魔はむしろ、さらなる生を渇望していた。
「ふあっ、いや……」
強制的な魔力の流入が止み、ふと弛緩した瞬間、パメラの下着を暖かいものが濡らした。
「あああ……」
「これは……ずっと我慢していたの? 悪いことしたわ」
あふれ出すように広がるその温もりを掌に受け、アリアはいたずらに笑った。これは、ガーディアナにおいても神聖とされる雫。一部の儀式には、それを何千倍に希釈したものが使われるのだという。そんな聖水には穢れを祓う力が宿る。ならば……。
「んっ」
「だめっ、飲んじゃだめっ!」
聖なる雫が、悪魔の体内へと流れこんだ。しかし、何も起こらない。つまり、行為によって彼女はすでに堕ちた事を意味する。自身の居る所へと。
「あなた、こういう事、嫌いじゃないでしょう? いえ、本当は誰よりも求めている」
「それは……」
その言葉通り、自分も無防備なロザリーに対して、これと同じような事をした。
おそらくそれがきっかけ。それからというもの、枕で声を殺しながら、時折あの時の事を夢想する。それは、ロザリーと一緒に寝ている時にも行った。まるで、彼女への唯一の不満を解消するかのように。
「どうして、分かるの……?」
「私もだからよ」
「……そう、なんだ」
誰にも言えない恥ずかしい自分をさらけ出されてしまい、次第に心はアリアを受け入れ始める。この人になら、もう隠す必要はないんだ、と。
「そう、私はあなた。鏡の中にいるあなた」
アリアはパメラの心の内へと侵入する。少しずつ少しずつ、粘液のように自由に。
「だから、あなたの望みは良く分かってる。どこまでも、堕ちたいんでしょう?」
「違う……私は……」
「すぐに良くなるわ。私の時のように」
パメラは再び魔力に満たされる。浄化の光を浴びようと、いくら拒んでも、彼女はまとわりついてくる。これが全霊で愛される喜び。
「まって、まだっ……!」
少女は何度も何度も楽園への扉を開かれた。しかし、彼女はそこへ行く事を許さない。私達のいるべき場所は煉獄であると、何度も何度も現実へと引き戻す。
「うー、うぅー!」
パメラの波の高まりとともに、アリアもまた高く昂ぶる。
「一緒に、お願い、一緒に……!」
二人は手を握りあって、全てを共有した。魔力がさらに溢れ、パメラは全身が発火するかのような錯覚を覚えた。二人は、もつれ合いながら再び口づけを交す。
「んっ――!!」
「……っ!!」
その時、二人は今までで一番の高みを経験した。
「あ、あ……」
折り重なるようにして動かなくなった二人は、しばらく放心していた。
「良かったわ。これまでの、何よりも」
アリアはパメラの胸に耳を当て、未だに昂ぶる心臓の鼓動を聞いた。そして、嗚咽と共にその胸は上下する。
「う、ひぐっ……ごめん、ごめんね……ロザリー……」
行為の果て、自分ではなく、違う女の名前を呼ぶ。それは色々なモノを失ってしまった事への涙。そう、純血であるべき聖女の、初めての人をこの悪魔は奪ったのだ。
あなたはまるで昔の私――。
悪魔から無理矢理に少女を奪われ、女となったあの日。しかしその喜びは、灰の日の記憶を塗り替え、逃避させてくれた。
だから、あなたも……。
隣に横たわるのは、大人達に良いようにされてきた、ただのいたいけな少女。
アリアは、そんなパメラの事をどうしようもなく愛おしく感じる。
――純愛。ただ、ひたすらに純度の高い愛がそこにはあった。
―次回予告―
二人の間に芽生えた、確かなぬくもり。
それは、共に背負う新たなる罪。
それだけでいい、だからもうこれ以上は。
第133話「堕落」