第16章 獣の魔女 100.ルシウス
赤土を蹴り、黒ずくめの男が歩く。傍らに一人の少女を連れて。
全てが重苦しい。ここに来てしばらく経つが、男はいまだにこの空気に慣れずにいた。
「ヴィヴィ、本当にこっちでいいのか?」
「いい」
「ならいいんだが。何もねえ所をひたすら歩くってのは、流石に疲れちまうな」
ヴィヴィと呼ばれた少女は無表情に答えた。ゆっくりと自身の身長より長い白髪をなびかせ、紫色に変色した毛先を地面に垂らしながら歩く。その隙間から覗く肌色はまるで生気が無い。真っ赤な瞳、そしてやつれた体。アバドンの民族柄が刺繍されたすっぽりとしたローブに身を包み、星や月などの形をした装飾品をあちこちにちりばめた、八歳くらいの容姿をした子供である。
数週間はこの娘と旅を共にしている。話しかけても、ろくな返事は戻ってこない。娘がこのくらいの時、自分はどうしていただろう。ああ、そう言えばろくに構ってやっていなかった。ろくでもない親父だ。
ブラッドはまるでふがいない自分に対し、ふと笑った。
「何がおかしい」
「いや、何でもない」
ある記憶が、それと同時に呼び起こされる。
あれは傭兵の仕事に駆け回っていた頃だ。娘ロザリーが八歳を迎えた頃であろうか。仲間からある傭兵の一団の噂を聞き、その日が娘の誕生日である事を思い出したのである。なぜか? それは魔女の傭兵団だというのだ。娘と同年代の少女達による軍だという。
そんなもの、ブラッドにとって唯一相手にしたくないものである。戦う気もおきない。同時に、女子供を戦争に駆り立てる者への憤りも沸き上がった。
「あれは確か、夜明けの旅団……といったか」
「さっきからぶつぶつうるさい」
「ああ、すまん」
二人は黙々と歩いた。一面が赤の景色を。
ここは、魔界。
魔に墜ちた人間以外は立ち入る事の出来ない場所を、無愛想な娘と歩く。
事のはじまりは、アバドンにて再び相対した司徒ジューダスとの死闘。
ブラッドは、その忌まわしき一部始終を思い返していた。
************
死の風の接近、そしてガーディアナの追撃。それを予期したブラッドは、皆が脱出する時間を稼ぐため一人集落の跡地へと残った。
ディーヴァもクライネもすでに死の風の圏内は脱したであろう。あとは暁の戦団の移動が終わるまで、ここで一人持ちこたえれば上出来だ。
精神を研ぎ澄ませ、ブラッドは血にまみれたような獣臭を放つ男を待ち構えた。いよいよ卵が腐ったようなにおいが鼻につき、死の風の毒性を抑えるというクライネに渡された薬を口に放り込む。
「苦いな。俺でこれなら、誰が飲めるんだこんなの……」
クライネは美人でスタイルもいいのだが、子供が薬を飲んだ後の苦い顔を見るのが好きだとか、注射を見て怖がる姿がたまらないとか、どこか頭がおかしい。何度も言い寄られたが男と女の関係にならないで済んだのは、後が怖かったからだ。
「あいつ、飯に何か混ぜるからな。ディーヴァなら、いい嫁さんになると思うが……」
そんな愚痴を吐いた直後、以前も感じた事のある刺すような視線を感じた。
奴だ。かつて仕留め損ね、娘とその友人とを引き裂いた男。そして、最愛の妻を奪った男。
ブラッドの纏う気が変質した。
伝説とまで呼ばれた男の持つ、研ぎ澄まされた気迫。
茂みに潜む複数の男達の吐く息が荒くなるのを感じる。一斉に急襲するつもりなのだろう。
物怖じする兵達に、後方に控える男から発破が掛かった。
「喰うか、喰われるか……。二つに一つだ。奴に斬られるか、俺に斬られるか。選べ」
男達の腹は決まった。前門の虎、後門の狼。退路には死の風。人を捨て、悪鬼となる事より他、この地獄から生き延びる術はない。
その緊張が限界へと達した瞬間、ジューダスは嗤った。
「お前達、喰らうぞォ!!」
静寂を切り裂く鬨の声に、怒濤のような殺意がブラッドに押し寄せる。
「ウォオオオオ!!」
ブラッドは気だるげに笑う。雑兵ごときに喰われる馳走ではない。
「派手に散れ」
爆発が轟く。散乱する、人を為すもの。
彼の手によって死ねる者は幸せである。痛みも、さらには死の自覚すらなく、三途の川へと送られるのだから。
「馬鹿の一つ覚えって奴だな!」
爆風の中から、歯を剥いて笑う獣の凶態。血肉や臓物すら纏い、大剣による重い一撃がブラッドに襲いかかる。
「ぐっ……」
それはすんでの所で受け止められる。剣による力比べは、ブラッドに分があった。一度見せている技をあえて使った理由。それは、この獣を引きずり出すため。
「よう、まだ生きてやがったかクソ野郎」
「何度殺されようと、俺は死なん。最後に笑うのは、この俺だ」
ジューダスはつばぜり合う剣を引き、ブラッドの剣をあえてその肩に受けた。鎖骨は砕かれ、剣は血肉に埋もれる。
「ぐはあっ!」
苦悶の表情のなか、ジューダスの目つきが変わる。あろう事か、彼はさらに自らそれを押し込んだ。そして離すものかと握るうち、だんだんと彼の体は再生を始める。
「これこそが俺の新たな力、抱擁。聖女に触れた事で宿った力だ。不死の力にこの再生力。そう、俺は無敵となったのだ……!」
剣と肉は癒着し、骨までもがっちりと固定して離さない。そこを、生き残ったジューダスの部下が襲いかかる。死の反撃。彼の必勝とする戦術である。
無防備な状態を斬りつけられ、流石に不味いとブラッドは剣を離す。
襲いかかる悪鬼には、その体一つで立ち回った。彼は体術などは特に習得してはいない。だが、その圧倒的な筋量はただのラフファイトですら達人のそれを凌駕した。
ただ、殴る。すると、兵士の顎は砕かれ、その顔面は崩壊した。
ただ、蹴る。すると、鎧は陥没し、内部の胴を圧迫せしめ呼吸を奪う。
ただ、投げる。上空に放り上げられた者は、枯れ木へと突き刺さり、もがき苦しんだ。
剣などなくとも後れを取るどころか、こちらの苦しみが増すばかり。いよいよもって焦った雑兵は、ジューダスの視線もお構いなしに逃げ出した。
「阿呆が……。この状況下、どこに逃げる……」
ジューダスの言葉通り、雑兵達はある程度まで走った後、次々と倒れていった。死の風である。呼吸がままならない喉を必死で抑え、苦しみ抜きながら彼らは死んでいった。
「決着を急がねばならんな」
「ああ、望むところだ」
剣の刺さったままの異形と化したジューダスは、流れ出す血を見ては愉悦した。これこそが、生。降り注ぐ死を横目に、一人生きている。
そして、奴の死をも喰らう。その時、本物の生にたどり着ける。その瞬間のために、俺は生きている。そして、聖女、ゆくゆくは……お前を……。
「…………」
ブラッドは圧倒的に不利な状況に、ある考えを持つ。
ここで、この凶獣と相打つのも悪くはない、と。
ここで生かしておけば、魔女に執着するこの男は、必ずやロザリーの前へと立ちはだかるだろう。ロザリーも少しは成長しただろうが、魔女としての力も持つジューダスには到底勝ち目はない。
何より、悪夢そのものであろうこの男を、再びロザリーに引き合わせる訳にはいかない。父として。
「ケリをつけるか……」
二人はまるで示し合わせたかのように同時に飛び込んだ。
豪腕がジューダスの腹を貫く。それに合わせ、ブラッドの腹へと剣が突き立てられる。腹に穴が開いた両者。血を吹き出しながらも、おかまいなしにその場で殴りつけるブラッド。ジューダスは骨を砕かれながらも、その目は決して死んではいない。
「グオォホッ!」
ブラッドは血を吐いた。
気づけば、高濃度の死の風が辺りを包んでいる。不死だとぬかす化け物に、この拳一つでは決め手に欠ける。このまま力尽きても奴は道連れだ。しかし、何か引っかかるものがある。ここで死んではいけないという、何か未練じみたもの……。
『――ブラッドさん! 絶対に、また笑顔で、戻ってきて下さい!』
ああ、あいつか……。
こんな時だというのに、吹き出してしまいそうになる。
ブラッドはジューダスの一部となった自らの剣を握った。もはや、硬く動かない。ならばと手刀にてそれを叩き折った。
「よお化け物。お別れだ……、二度と、面ぁ見せるんじゃねえぞ……」
「貴様……っ」
腹に大剣が突き刺さったまま、ブラッドは剣を振り上げた。
「サザン……クロス……!」
中ほどで折れた剣は、縦に一閃、そして、そのまま勢いを殺さず横に一薙ぎする剣閃を描いた。
ロザリーにも教えた魔を撃つ剣技、その真なる姿。天高くそびえ立つ光。
「ぐおおおおおっ……!」
ジューダスはその身に十字を刻む。それは、生の痛み。彼は四つの肉塊となり、光と共にその場に崩れ落ちた。
死ぬ……? この俺が、死ぬ、のか……?
「ラクリマ……」
不死の力は眠っている。いや、眠らせている。もう一度、ジューダスに生をもたらすとき、彼女は再び苦痛に嘆くだけの世界が訪れるだろう。
これで……いいのか……。
再生も追いつかず、それを理解すると同時に、ジューダスは物言わぬ骸となった。
「あばよ……」
同時に力尽きたブラッドは、その場に倒れ込む。
魔王からすら生き延びた悪運も、どうやらここまでのようだ。
「ロザリー、……マコト、……すまん」
眠るように目を閉じるブラッド。
彼を死の風が包む。もはや灰色の、目視可能なまでに濃度を増したそれは、二人をまるまると飲み込んだ。
そんな、人であれば一秒とも生きていられない中を、一人の少女が歩いてくる。
それは、死の風そのものであるかのようであった。
死の暴風は、この何者をも寄せ付けない目をした少女から生み出されていたのだ。
そんな目が、ブラッドを見つめ優しくほころぶ。
「ニンゲン……、生きて」
かすかに息があるブラッドに、彼女は口づけをした。
口の中を噛み、その血を分け与える。黒く、濁った血を。
(お前か……? オリビア……)
数年ぶりに触れた、女性の唇。すぐそばで、亡き妻、オリビアが笑いかける。
抱擁。長らく独り身であるブラッドには、耐えがたい愛欲が芽生える。
猛きほとばしりの後、ふと我に返る。そう、これは夢……。妻はもういない。
現実的な自覚が生まれると、それはぼやけ、次第に少女の姿へと変わった。
慌てて目を覚ますと、ブラッドは小さなテントの中にいた。ここは、暁の戦団の拠点であった場所。
「確か、俺は……」
起き上がると、目の前には年端もいかぬ少女が少し驚いた様子でこちらを見つめていた。
「起きたか」
「夢……だよな? 俺は……」
自身が下着しか身につけていない事に気づき、さらに、ある一部が生理現象を起こしていることを知る。死の淵において、生の本能が呼び起こされたのである。
「何やってんだ……全く」
「それが、生きているということ。命を繋ぐ輝き。それは、素敵なこと」
それを眺めしみじみと語る少女に、ブラッドは真っ赤になる。
急いでそれを隠すと、近くに畳んであった服を着た。気づけば腹の傷もなく、体の調子もいい。
「お前が、助けてくれたのか?」
「私はヴィヴィ。生きたいと願う者に、命を与えた。それだけ」
「あ、おっちゃん、起きたカ?」
今度は獣耳の生えた少女がテントを覗いた。クンクンと何かを嗅いで、少し変な顔をする。
「海人みたいなニオイする。イカの……」
「ふっ」
そこで、少女は初めて笑った。
************
改めて思い出しても最悪だが、これが全ての顛末。
死の風の原因、それは魔素。ヴィヴィを取り巻く高濃度の魔素が、風に乗り死を運んでいたのだ。クライネの試験薬を飲んでいなければ自分もジューダスと同じ運命となっていただろう。いや、もともと自分には魔の力が備わっていた事も助かった一因か。
ブラッドは、その昔魔軍にいた事を思い出す。魔王に忠誠を誓った人間には、魔の力を分け与えられた。兄はそのまま魔に取り込まれ、人類に仇なす魔人とまでなってしまった。
それに近い感覚を、あの時味わった気がする。この少女の口づけによって。
そう、彼女は魔族。それも、大いなる存在、魔人。
かろうじて息のあったブラッドは、ヴィヴィの血を飲まされ九死に一生を得る。その後、不思議と近くにいても平気になった。
獣人の少女ムジカは、新しい拠点と古い拠点を往復し、ブラッドの看病をするための便宜をはかってくれたらしい。彼女もまたヴィヴィから血を与えられたらしく、死の風を克服するに至ったという。
ガーディアナに復讐するというムジカには、ロザリー達の下へと向かうようにと最低限の助言をしたのだが、無事たどり着けただろうか。
そして、ヴィヴィにも行かなければならない場所があるという。それは魔界。
助けられた恩もあり、ブラッドはヴィヴィと共に旅を始めたのである。
「魔界なんて久々に来たぜ、もう見たくもなかったんだがな」
「ヴィヴィ、ニンゲンの世界の方が、見たくない」
彼女はとりつく島もない様子で、淡々と歩いた。
「魔王、目覚めた。ブラッド、急ぐ」
「ああ、マコトに何かあったようだな。これじゃあ、リョウに申し訳が立たんぜ……」
ヴィヴィが言うには、魔王の覚醒に呼応して各地に眠る魔人が目覚め始めたという。それは、人間の中でも特に邪悪な者が魔に堕ちた存在。魔王の死後、全てが死んだように眠っていたのだが、それぞれが各々の思惑を秘め動き出したのだ。
「ヴィヴィ、魔人、全て倒す。ニンゲン、キライだけど、ヴィヴィも、モトはニンゲン……」
ヴィヴィは魔王の君臨した闇の時代、アバドンにて生を受けた。
争いが絶えない地域にて、子供というのは最初の犠牲者となる。孤児、口減らし、感染病、食糧難。多くの理由から、奈落のように口を開くアバドンの大穴にその多くは捨てられ、短い生涯を終えた。
アバドンの大穴。そこは、魔素の一際濃い、魔界との壁が希薄な空間である。
一日と生きていられないはずの大穴にて、一人さまよう影。多くの小さな屍を見届けた少女は、人を恨んだ。生きるために子供の死肉も喰らった。彼女はあらゆる毒物、疫病等に耐性を持つ特異体質を持っていた為、死ぬことも出来ず人として生まれた事を呪う。
闇が世界を覆っていた時代は地上と魔の世界との境界が曖昧であり、魔素と共鳴し人間が闇に堕ちるという現象が各地で起きていた。彼女も例外ではなく、人ならざる者へとその身を堕とした。魔人と化したのである。悪魔の名、レヴィアの名を受けて。
ほどなくこの地に厄災が訪れた。大人に強く感染する流行病が猛威をふるい、次々とアバドンには死の土地が広がっていった。ヴィヴィの力である。人々は、彼女を一切触れることが出来ない、触れてはいけない“禁忌姫”と呼び恐れた。
しかし大人のいない土地では子供達は生きることができない。またも死に絶えていく子供達。そして、新しく生まれるはずであった命も絶たれた。
彼女は悲しみ、その力を封じた。二度と使ってはいけない、恨むことも、晴らすこともしてはいけない。もう、ニンゲンにちかづいたらいけない。そして、一人大穴にて眠りにつく。それ以降、死の風は風の流れに乗るだけのゆるやかなものとなる。
時は経ち、魔王は倒れ、魔族は魔界のみで暮らす平和な世界となった。しかし、再び世界は魔に堕ちようとしている。ヴィヴィは、魔人レヴィアとして再び目覚め、魔界を治めるつもりでいた。二度と魔王の時代を繰り返させないために。
そんなヴィヴィに共感したブラッドは、助けて貰った礼を兼ねてしばらく行動を共にする事にした。それがマコトを助ける事にも繋がると信じて。
「それで、最初はどこに行く?」
「近いのは、傀儡王オセロットの城。獣人の魔人」
「ああ、ジャイーラが一番近いのか。そういえば、魔界も人間界と同じ地形だったな」
「魔界はニンゲン界の影。カタチは同じ。でも、普通は繋がる事、ない」
「魔王が繋げやがった時は酷いもんだった。あんなのはもうごめんだ」
「ブラッド、もしかして、いい大人?」
「さあな……」
奇妙な二人の旅は続く。世界から魔人が消えるまで――。
************
「う、あ……苦しい……」
動く骸。そう形容するのが正しいだろうか。
アバドンという辺鄙な土地で、屍となっていた男がゆっくりと吸気する。その味は、血なまぐさく、うすら不味い。
「ここは、どこだ……」
空は血のように赤い。赤い霧である。その裂け目から覗くのは漆黒。漆黒の太陽。干からびた大地。時折横切る醜い肉の浮遊物。
男はまるで動かなくなった五体を必死に叱咤するも、我が身ではなくなったかのようにぴくりとも動かない。それもそのはず、四肢が断裂しているのだ。
鬱蒼と茂る深い密林の奥、吹きすさぶ暴風の中、あの瞬間、確かに生を感じていた。
死を恐れなくなってから常にあるのは、ひどく曖昧な生。人が当たり前に執着するであろうそれを、自分は失ってしまった。
肉が裂かれ、血が噴き出す。その度に実感する。俺は生きているのだと。
肉を裂き、骨を砕く。その度に刻む。我が命の尊さを。
いつしかこの血は闘争を求めた。あの声から逃げるように。
「なぜ、目覚めた……」
この命を繋ぐもの。それは心の臓に住まう我が魔女、ラクリマ。最愛の我が子であり、不死のマギアを持つカオス、ベネトナシュでもあるそれは、再びこの屍に力を与える。そして久しく聴くことはなかった、すすり泣くような声。
「泣くな……、お前はもう、救われたはずだろ……」
聖女の、いや、聖なる魔女の力によって、ラクリマは安らかな眠りに就いた。
しかし、父であるジューダスの死に呼応して、再び蘇る。
そう、俺は死んだ。
あの男の手によって。
一度ならず二度までも敗れたのだ。死を運ぶ、黒衣の男に。
永遠の地獄が、また始まる。
「ブラッドォ……!」
瞼に焼き付いたあの男。死の間際まで剣を交えた男に向けて、並々ならぬ憎しみが注がれる。娘の地獄。それは我が身の地獄。
奴に、ありったけの苦しみを味あわせてやる。そして、奴を取り巻く全てを、絶望に染め上げる。この身を捧げてでも……!
そう、奴には娘がいた。それならば……。
人である限り超えられなかった一線。それは魔女への情。
娘達の亡霊が、彼を咎め苛む。
――お父様……お願い……やめて……。
「もう、俺を、自由にしてくれ……ラクリマ」
――お父様……? いや……。
それは、魔の呼び声。
彼女達はもういない。いないのだ。
ならば、苦しむ事はない。
ラクリマの泣き声がやんだ。それは、心の消失。
「フ……フフフ……フハハハハハハハ! 俺は、人を捨てる……、そして、全てを手に入れる!」
男はその身を焦がす復讐の念に、全てを捧げた。娘達への思いでさえも。
深い絶望の滾り、それは、魔人への贄となる。
彼の離別した体は、彼に寄り集まる肉の浮遊物と同化し再び結合する。
鉄の棺であるカオスはその扉を閉じ、より強固に鎖を張り巡らせる。泣き叫ぶ少女の声は、もう一切が外へ届くことはない。
ジューダスは新生した。魔人ルシウスとして。
その体は制御を失い、ぶくぶくと形を変えながら、かつてのヒトとしての形を模索する。
「アガ……ギギギ……グアアアア!」
絶え間ない苦痛が襲いかかる。もう、心の支えであった娘の声も聞こえない。
魔界。魔に魅入られしヒトが、最期に堕ちる場所。
後に最悪の魔人、反逆の使徒ルシウスとなる男の、惨めに藻掻く姿がそこにあった。
―次回予告―
次なる戦いに向け、魔女の同盟は士気を高める。
そんな中現れた謎多き訪問者。
それは、魔女の力、その全てを知る女性。
第101話「グリエルマ」